暗闇の中、一人の女性が立たされている。それ以外はただの闇。そこに、音声だけが響く。
『我々は、初号機パイロットを呼び出したはずだな、葛城三佐』
「はい」
 こんな時でも、秋子は笑顔だ。
『何故、君がここにいるのかね』
「初号機パイロットは精神的に不安定なため、ここに来るべきではないと私が判断しました」 『君の判断は必要ない……そう通達してあったはずだが』
「パイロットをこれ以上精神的に追い詰めると、後々の障害になるかもしれません』
『まあ、それはかまわないんだよ〜』
 老人たちの声に混じって聞こえる、明るい少女の声。
 その声に、秋子もさすがに驚きを隠せなかったようだ。
(……少女……?)
『聞きたいことは一つ。使徒のことなんだよ〜』
「はい」
『使徒は、初号機を取り込もうとした、精神的な接触を試みているように思われるんだよ〜』
「それは、返答しかねます」
『納得のいく説明が必要なんだよ〜』
「使徒に心があるのか、使徒が人間の心を理解できるのか、まだわかっていませんから」
『むむうぅ〜』
 素直に返答に詰まる佳乃。
(この少女が本当にゼーレの長?)
 さすがの秋子も信じることができなかったらしい。
『じゃあ、今後使徒が精神的に接触してくることだって考えられるよ〜』
「今のところ、使徒同士が接触していることは確認できていません」
『むうううぅ〜』
 やられっぱなしな佳乃。
『でも、今後はどうなるかわからないんだよ〜』
「今後といいますと?」
『キミが知る必要はないんだよ〜』
 全く意味不明な佳乃。おそらく本人も何を言っているのか理解できていないのだろう。
(……この子が長老では、ゼーレもたいへんですわね)
 秋子は苦笑した。










 第拾七話

 四人目の適格者












 第三新東京市中央病院。
 ここは市の中でも最も設備が整っている総合病院である。もちろんネルフの直轄化にあり、大元をたどっていけばその最終的管轄者は赤木美汐博士にいきあたることになる。もっとも、博士本人がここへ来ることなどありはしないが。
 ここには『E事件』、すなわち第三使徒の襲来以後、一連の使徒戦で怪我を負った者を集中的に治療することになっている。
 セカンドインパクト後、医療保険は一時停止していた。国の再建のためそれどころではないというのが政府の建前である。もっともその混乱期にどれだけの裏金が流出したのかは定かではない。
 その保険制度が再び施行されたのは二〇一〇年になってからのことである。再施行の当初は保険加入者のみ治療額の五割を国が負担することになっていたが、今では被扶養者にも保険が適用されることになり、国民の負担割合も三割にまで戻っていた。
 もっとも治療費が一定額に達したところでそれ以上の費用が控除されるという制度はまだ戻っていなかったため、長期入院となるとその治療費はあまりに増大となる。
 ただ、この中央病院に限っては市民の負担はたったの一割であった。この夏の臨時会によって、第三新東京市で使徒襲来によって負傷したと思われる市民については負担を一割とする特別措置法が制定されたためである。ただし、それはこの中央病院に通う、もしくは入院することが前提とされ、その上厳しい審査が行われるためその適用を受ける者は少ない。
 その数少ない人物の一人に、北川という姓を持つ少女がいた。
 まだ小学二年生であるその少女は、第三使徒の襲来時に建物の下敷きとなり、脊髄を損傷。二度と自分では立ち上がることのできない体となってしまった。
 どんな治療をしても、どれだけリハビリをしても、決して元には戻らないという。
「……ねえ、三〇三号室のお兄さん、今日も来てるわよ」
 受け付けで来客名簿を見ていたナースの一人が呟く。答えたのは後ろで雑務を行っているもう一人のナースだ。
「偉いわね。週に二回、同じ曜日に必ずきちんと顔を出して」
「今時いないわよね、こういう子」
「でも、かわいそうよね。もう立つこと、できないんでしょ?」
「こういう時代ですもの、同じ境遇の子は少なくないわ」
「そうかもしれないけど……」
「私たちが同情してもしかたのないことよ。もう、どうにもならないんだから」
「……『下』でも治療できないんですか?」
「……それは、分からないわ」





「起立、礼、着席」
 今日も第三新東京市第壱高校二年A組の一日が始まる。
 SHRの時間になっても登校してこなかったのは、あゆ一人。それ以外は疎開した者を除けば全員がきちんと出席していた。
 この間の第一二使徒のおかげで家を失ったものは少なくない。直径六四〇メートル、面積にして約三二万平方メートル。それだけの土地が虚数空間にのみこまれたのだ。幸い避難が早かったために人命は一つも失われずに済んだが、第三新東京市の治安は少しずつ悪くなっている。
 次の使徒が現れた時に、都市としての機能が残るかどうかは分からない。ここにいるクラスメートもいつ疎開しなければならなくなるか、分かったものではない。
「どうしたんだろうね、あゆちゃん」
 名雪が心配そうに見つめる。
「さあな」
「この間から調子悪いみたいだったし」
「そういえばそうだな」
「ねえ、今日、行ってみない?」
「どこへ」
「あゆちゃんの家」
 と、その時である。
「北川」
 担任が北川の名前を呼んだ。
「帰りに綾波の家にプリントを届けてやってくれ」
「はい、分かりました」
 今日から北川は週番である。それならちょうどいい、一緒に行くことにすればいい。
「そうだな。北川と一緒に行ってみることにしようか」
「うん」
 何はともあれ、この時はまだこの第壱高校も平和であった。
 ……その平和が長く続くだろうというのは、幻想にすぎない期待であっただろうが。





「消滅? 確かに第二支部が消滅したんだな?」
 石橋の声が本部発令所に響く。
「原因は?」
「未だ分からず、ですね。手がかりはこの静止衛星からの映像だけ。詳しいことは全く分かっていません」
 美汐が『play』のボタンを押すと、表示モニターに静止衛星からの映像が流れた。
『テンセコンド、ナイン、エイト、セヴン、シックス、ファイヴ、フォー、スリー、トゥー、ワン、コンタクト』
 第二支部の中心地から赤い光が漏れる。そして、五秒後に画面が砂嵐となった。
「ひどいですね」
 何が起こったのかを問う必要はなかった。全ては失われたのだ。問題は、何故、だ。
「カノン四号機ならびに半径八九キロメートルの関連研究施設は全て消滅しました」
「数千の人命を道連れに、ですね」
「タイムスケジュールから推測して、ドイツで修復したS2機関の導入のテストをしていたと思われます」
「予想される原因は材質の強度不足から、設計段階のミスまで、三二七六八通りあります」
 オペレーターズの報告を聞いて、秋子がさらに付け加える。
「妨害工作の可能性もありますね」
 その言葉に敏感に反応したのは真琴と、美汐だ。
「でも爆発ではなく消滅、なんでしょ? つまり、消えたと」
「多分、ディラックの海に取り込まれたんでしょうね。この間の初号機のように」
 結局、この事件が解明されることはないだろうというのが、美汐の意見だった。
「じゃあ、直したS2機関も?」
「全部、失われてしまいましたね」
「残念ですね」
「この事件直後、アメリカ政府はカノン参号機の本部引渡しを承認しました」
 佐祐理の報告に、顔色が変わる秋子。
「危ない橋は渡りたくない、というわけですか」
「仕方がありませんね。ですがこちらとしてもカノンが手元にあった方がいいことには変わりませんから」
 美汐の言うことも確かにもっともであった。
 そもそもネルフ本部で参号機、四号機の開発を行うはずだったのが、アメリカが強行姿勢をとったために開発権を奪われたのだ。
 今さらになって引き渡しとは、たしかに虫のいい話ではある。だが、もとはといえば参号機が本部にあった方がいいというのはこちらの意向であったのだ。
「たしか、もう参号機は完成していたはずですよね」
「はい。松代で起動実験を行います」
「パイロットはどうするんですか?」
 参号機ならば、弐号機との互換性がある。名雪を連れていくこともできる。もしくは完成したダミーシステムを使う方法もある。
「……それは、これから決めます」
 美汐の表情は重たかった。





 結局、あゆの家に行くのはいつものメンバーとなった。
「たかだかプリント届けに行くのに、四人も必要なのか?」
「だから、お見舞いだって行ってるでしょ」
 北川は文句を言いながらも嬉しそうだ。一方の香里は名雪に無理やり付き合わされたという不満があるらしく、ご機嫌ななめだった。
「そういえば、あゆの家に行くのは初めてだな」
「そうだね。突然行って迷惑じゃなかったかな」
「たしか、一人暮らしだって言ってたな」
「そうなの?」
「確認してるわけじゃないけどな。あゆはそんなことを言ってたぜ」
「ふうん」
 あゆの家は意外に遠く、街外れにあるようだった。
 ネルフ本部からはそれほど遠くはないが、学校からはかなりの遠距離だ。地下鉄を使った後、バスに乗らなければならない。この第三新東京市でバスを使わなければいけないようなところはそれほど多くない。
「こんなところに、本当に家なんてあるのか?」
 市内でもこれほど閑散としているところがあるのかというような場所であった。ネルフ本部の裏手。人通りがもっとも少ない場所である。
(まるで、隠れて住んでいるみたいだな)
 こんなところに住まなければならないような理由があるのだろうか。
 それこそ、秋子と一緒に暮らしていた方がずっとよかっただろうに。
「ちょっと、家なんてないわよ」
 香里が言う。
「どういうことだ?」
 地図を見ながらやってきた場所。
 そこは、空き地だった。
「どういうことだよ」
「俺に聞くな。聞かれたって分かるわけないだろ」
「同じパイロットだろ。何か聞いてないのか?」
「一人暮らしだってことしか聞いてない」
 やれやれ、と祐一は携帯電話を取り出した。
 あゆの電話番号が入っているわけではない。あゆは携帯も持っていなければ自宅に電話回線を引いてもいないと言っていた。
(なんて不便な奴なんだ)
 結局祐一が連絡を取ったのは秋子であった。
『もしもし、祐一さんですか?』
「ええ、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
『なんでしょう』
「あゆの家なんですけど、住所のところまで来たら空き地だったんです。何かこのことについて知ってることはありませんか」
『あゆちゃんの家に、行ったんですか』
「だから空き地だったんですって」
 秋子の声が微妙に震えたのは分かっていた。だが、あえてそれには気付かない振りをした。
『あゆちゃんの家は、随分前に火事でなくなっているんです』
「どう見ても、この場所がそうだとは思えませんけど。ごく普通の空き地ですから」
『はい。ですから、その住所は嘘なんです』
「なんで、そんなことを?」
『あゆちゃんの住んでいる場所を、知られたくないからです』
 祐一は顔をしかめた。
「どうしてですか?」
『パイロット保護のためです。祐一さんと名雪は私の監視下ですから特別問題はありませんけど、あゆちゃんは一人暮らしですから、何があるか分かりませんから』
 嘘だ。
 直感的に感じた。秋子が嘘をついている。
 何のためかは分からない。ただ、あゆの家には誰も近づけさせてはならない理由があるのだ。
「じゃあちょっとあゆに用があるんですけど、あゆの家を教えていただくわけにはいきませんか?」
『それはできません』
 やっぱりな、と祐一は得心する。
「分かりました。それじゃ、今あゆがどこにいるか分かりますか?」
 少しの間。
『ちょっと待っていてください。五分したらかけなおしますから』
「分かりました」
 ぷつり、と回線が切れた。
「おい、どうなったんだ?」
 北川が尋ねてくる。
「どうやら、あゆの家は別にあるらしい」
「そんなことは分かってる」
「残念ながら場所は教えてくれなかったよ。だから直接会えるよう、探してもらっている」
 そう。
 秋子は嘘をついている。その理由が、今のやり取りだ。
 自分は『あゆがどこにいるか分かるか』と聞いたのだ。学校を休んだのだから、普通に考えれば家にいるに決まっている。だが、秋子は居場所を探し始めた。つまり、家にいないことは明らかだということだ。さらに言うなれば、
(あゆが住んでいる場所っていうものが、ないのかもしれないな)
 ネルフ本部に仮の住まいがあるといったところだろうか。
 TRRRR,TRRRR,
『祐一さん?』
「ええ、どうでしたか」
『今、ネルフ本部に来ているみたいです。来れば会えると思いますよ』
 秋子も無茶を言う。ネルフ本部といってもあまりに広い。あゆと無事に会えるかどうかは難しいところだ。
「分かりました。とりあえず行ってみます」
『はい』
 回線が切れる。
「どうやら、今日はネルフ本部に行っているみたいだ」
「ネルフにか。じゃ、俺たちは入れないよな」
「そうなるな」
「祐一、これ渡しておいてくれよ」
 鞄から取り出したプリントの束を祐一は受け取る。
「仕方がないな」
「どうする? 会いにいくのか?」
「そうだな。どのみちテストもあるし。本部に行ってみるよ」
「あ、私も〜」
「じゃ、俺たちは帰るわ。行こうぜ、香里」
「ええ。それじゃあね、二人とも」
 二人が立ち去って、祐一は名雪と目を合わせた。
「不自然だな」
「そうだね」
「いくらパイロット保護だからって、わざわざ嘘の住所を学校側に伝えておく必要はないだろ」
「お母さん、そう言ったの?」
「言った。それどころかあゆの住所は教えられないとさ」
「不自然だね」
「ああ」
 二人はネルフの裏口へと向かった。こちらの出入り口は地下鉄駅に面していないため、滅多に使うものはいない。したがって出入り口も正面口と比べて半分の大きさもない。
「考えてみれば、おかしな構造だよな」
「ネルフ?」
「ああ。こっち側に住宅地が広がっててもいいようなもんだけどな。まあもともとネルフの方が第三新東京市の僻地に立地するしかなかったんだろうけど」
 だがネルフが人の集まるところならば、その周囲もまた賑わうものではないだろうか。裏側だけ閑散としているのはおかしい。
(あるいは、何かを隠しているのかもな……)





「美汐さん、あれ、見ましたか」
「ええ。正直驚きましたね」
 秋子は美汐の部屋を訪れていた。自分の手元にある一通の報告書が届いた直後のことであった。
「美汐さんもご存知ないことだったんですか?」
「それを私は秋子さんに尋ね返したいです。本当に?」
 どうやら、二人とも本気らしい。
「フォースチルドレン。まさかこんな時に見つかるとは思いませんでした。それも──」
「祐一さんの友人。偶然でしょうか」
 北川トウジ。
 はっきりと、その名前がディスプレイに表示されていた。
「推測はできます」
 美汐は顔をしかめながら言うが、秋子もその推測の正体が見えていたようだ。
「おそらく、第四使徒戦」
「ええ。あの時初号機の中に混じったノイズがそれほど大きなものでなかったとしたら」
「マルドゥック機関の目についた、ということですか」
「第壱高校の二年A組はもともとパイロット候補者を集めて保護しているところです。その意味では誰が選ばれても問題はありません。ただ、北川さんが特別目についたというのであれば、第四使徒戦が何らかの鍵になっていると思われます」
 秋子は微笑をたたえながら美汐に尋ねる。
「では、松代での実験は北川さんを?」
「その予定です。参号機専属パイロットの誕生ですね」
「そうですか」
 秋子はディスプレイに直接手で触れた。
「名雪や祐一さんは、何と思うでしょうか」
「分かりません。いつ伝えるつもりですか?」
「今日にでも。こういうことは早い方がいいですから」
「本人への通達は明日行われますけど」
「こういうことには覚悟が必要ですから」
 ふう、と二人は息をついた。
「一つ言い忘れていましたけど、今日のシンクロテストは中止です。第二支部の問題でこちらまで仕事が増えてますから」
「大丈夫です。あゆちゃんに会いに二人とも本部に来るみたいですから」





「あゆ」
 だが、偶然とは恐ろしいもので、二人は首尾よくあゆを捕まえることができた。
 先日設けられた売店の鯛焼き売り場だった。
「祐一くん?」
 あゆはびっくりしている。確かにまだテスト時間には早い。驚くのも無理はない。だが、あゆの驚きはもう少し違ったらしい。
「どうしたの、今日はテスト中止だよ」
「なに?」
 名雪と目を合わせる。名雪もふるふると首を振った。
「どういうことだ?」
「うぐぅ〜。ボクに聞かれても分からないよ〜」
「そりゃそうだ。秋子さんに直接聞かなきゃだめだな」
「行ってみる?」
「ああ、だがその前に」
 ばふっ、と祐一はあゆの頭の上にプリントの束を置いた。
「ふえっ?」
「今日の学校のプリント。お前も元気ならサボらないできちんと学校に来い」
「学校は休みたい時に休んでいいんだよ」
「そんなわけあるか」
 拳骨で頭を殴る。うぐぅ〜、と非難の声があがった。
 その時である。
「祐一さん」
 秋子の声がした。
「秋子さん、ちょうどよかった。聞きたいことがあるんですよ」
「今日のテストのことですか?」
 困ったポーズで尋ね返す秋子。先手を打たれ、祐一は「はい、そうです」と答えるしかなかった。
「祐一さん。名雪、あゆちゃん。お話があります」
 柔らかな微笑であった。
「ちょっと、小会議室まで来てください」
 ただならぬ事態が起こっているということが、三人には分かった。










NEON GENESIS KANONGELION

EPISODE:17   Fourth Children










「話というのは、今日のテスト中止に関係することですか?」
 祐一が尋ねる。だが、秋子は首を振った。
「違います。その話はまた別の機会にしましょう。それよりも大事なことです」
 カノンよりも大事なこと?
 さっぱり話が読めない。戦うことを至上と考えている祐一にとっては『大事なこと』の正体がまるでつかめない。
「単刀直入に言います」
「お願いします」
「北川トウジさんが、フォースチルドレンとして選出されました」
 一瞬、動きが固まる三人。
(北川が、フォース?)
 その異常とも思える人事に、しかし祐一が疑問に思ったのは別のことであった。
(何故、今になって?)
 もともと、北川はこの第三新東京市に住んでいた。それなのに何故今になってチルドレン選出という事態となったのか。
(──そうか、あの第四使徒戦)
 一度、北川はカノンに乗ったことがある。そのときのデータをクリーニングする際に、チルドレンとしての素質があることに気付いた、ということか。
 だが、もう一つの『何故、今』の理由が分からない。
(何故、今『この時期』にチルドレンを選抜しなければならなかったんだ?)
 第四使徒戦からここまで、かなりの時間があった。データのクリーニングなど一週間もあれば、遅くとも一ヶ月もあれば十分に終わるはずだ。
 それなのに、何故この時期まで遅れたのか──いや、違う。
 何故、この時期に選抜しなければならなかったのか。何か理由があるというのか。
「そのこと、本人は?」
「明日、正式に通知が行われます」
「なるほど」
 ふと、初めて北川と会ったときのことを思い出す。
『命に別状はねえ。だが、二度と歩けない体になったんだ。お前の、お前のせいで!』
 屋上で、突然殴りかかられた相手。それが北川だった。今となっては、いい笑い話だ。
(乗るだろうな、あいつなら)
 それは漠然とした予感にすぎなかったが、祐一の中では確信めいたものがあった。
 無力な自分。守ることができなかった自分。
 そして、力を求める自分。
 北川はおそらく、七年前の自分とほとんど同じ心境に陥っているに違いない。
「お母さん」
「なに、名雪」
「どうして、北川くんなの?」
 秋子は困ったポーズで首をかしげる。
「私も、分からないのよ」
「うそ」
「本当よ。ただ一つ言えることは、あなたがたが通っている第壱高校二年A組は、パイロット候補者を集めて保護しているということ。だから、二年A組の生徒なら、誰がパイロットとして選ばれてもおかしくはない、ということ」
「じゃあ、香里も?」
「それはもう、ないだろ」
 口を挟んだのは祐一。
「どうして?」
「少なくとも、チルドレンの選抜機関にとっては北川と香里は特別だった。なにしろ、民間人でたった二人だけ、カノンに乗ったことがあるんだからな」
「……」
 名雪もその話は聞いていた、がさすがに自分がいなかった頃の話だ。実感として受け止めることはできないだろう。
「祐一さんの言うとおりです。でも、それで全て正しいというわけでもないんです」
「と、言うと?」
「チルドレン選抜機関──マルドゥック機関は、実在しないんです」
 祐一は目を細めた。
 それはもしかしなくとも、かなり機密度の高い話なのではないだろうか。
「そんな話を、俺たちにしてもいいんですか?」
「あまりよくないですね。ですから、ここだけの話にしておいてください」
「分かりました。では、チルドレンを選抜しているのはいったい何者なんですか? あ、いえ、いいです。想像つきますから」
 ネルフ総司令、碇往人。
 おそらくはあいつが、今回の人事の決定を行ったに違いない。
「最後に、一つだけ」
「はい」
「何故、今、なんです?」
 秋子は言葉に窮した。祐一の質問の意味をはかりかねた、というわけではないようだった。
 それは、答えられないようなものだったのだろうか。
「実は、参号機が日本へ来るんです」
「参号機? アメリカで開発中だった、あの?」
 祐一も話には聞いている。本部で引き取りを要請していたのだが、アメリカ側が強引に保有権を行使したとか。では、アメリカは参号機を手放すことに同意したのか?
「何故」
「少し、長い話になるんですけど」
 秋子はそう前置きしてから説明を始めた。
 アメリカ第二支部とカノン四号機の消滅。そして、それに関連したアメリカ側の動きについて。
「それで、アメリカは危険物を日本に押し付けたというわけですか」
「そうなりますね」
「その参号機のパイロットに、北川が選ばれた」
「そういうことです」
 祐一は鋭く舌打ちした。
(往人め、それが理由というわけか)
 戦力の補強と補充。効率的に行うためには、パイロットとカノンを手元に置くことが一番だ。
(まさか、第二支部の消滅にも絡んでるんじゃないだろうな、往人)
 それは、つまり。
 数千の人命を、第三新東京市のための犠牲としたということと同義だ。
(あいつなら、やりかねない)
 あいつは、何かに憑かれている。目的のためには手段を選んではいられないだろう。
「話は、以上ですか?」
「はい」
「分かりました。それじゃ、一足先に帰ってます」
「はい」
「ちょ、ちょっと待って、祐一」
 話についてこられていない名雪が祐一の服の袖をつかむ。
「どうした?」
「祐一は、それでいいの?」
 すがるような、うったえかけるような瞳。
 名雪の言いたいことは分からなくもない。
『友人を戦場へ連れてくることを容認できるの?』
 直訳すると、そういうことだろう。
「決めるのは、北川の奴だ。だが……」
 ちらり、と秋子を見る。
「もし、北川の妹を人質にとるような真似をしてパイロットにしようっていうんなら、許せるもんじゃないけどな。自分の意思で乗るなら俺がとやかく言うことじゃない。名雪は自分でパイロットになることを選んだんじゃないのか?」
「う、うん。そうだけど」
「だったら、北川も自分で決めればいい。それにあいつは、パイロットがどれだけ辛いかということを目の当たりにしている。それでもやるというんだったら、俺に止めることなんかできないさ」
 名雪は言葉に詰まった。
 おそらく、祐一の言っていることは正しい。正論だ。だが、正論が全て間違っていないのかというと、そうではないはずだ。
 友人として、北川のことが心配ではないのだろうか。
「心配じゃないの?」
「心配?」
 祐一は苦笑した。
「既に二人分の子守りをしている最中だからな。もう一人増えたってたいした差はないだろうさ」
 くすっ、と秋子が笑う。
「うぐぅ」
「ひどいよ、祐一」
「どのみち、実践配備は先になるはずだ。俺は少々特殊だったみたいだが、本当ならお前らみたいに数ヶ月は訓練を積んでからだろう。だったら、しばらくは安全だということだ」
「うん……」
「というわけで、帰って夕食にするぞ」
「あ、うん」
「あゆはどうする?」
「あ、ボク、まだネルフに残ってるから」
「そうか」
 そういえば、何故あゆはネルフ本部にいたのだろう。
 学校を休んでまで。
 そして、あゆの家が隠されているという事実。
(問題は、一つだけじゃない)
 祐一はきょとんと自分を見つめてくるあゆを見返して、小さく微笑む。
(北川のことも、すぐに受け入れられるようになるだろうさ)





 翌日。
 名雪は学校を休んだ。
「名雪、どうしたの?」
 当然のように香里が尋ねてくる。祐一は肩を竦めて「イチゴサンデーの食いすぎで腹でも壊したんだろ」と他人事のように答える。
「なにか、不機嫌そうね」
「そう見えるか?」
「ええ。祐一くん、意外と顔に出るから」
「出てるのか?」
「注意深く見ないと分からないけどね」
「香里は注意深く俺のことを見てくれてるのか。感激だな」
 香里はにっこりと笑った。
「名雪がいても同じことが言えるかしら?」
「どういう意味だ?」
「言葉通りよ」
「あのなあ。何か、勘違いしてないか?」
「さあ。あ、それより、今日帰りよっていい? 名雪のお見舞いに」
「好きに──あ、いや」
 祐一は言葉を渋った。
 名雪が休んだ理由など、だいたい察しがついている。具合が悪いなどというのは嘘に決まっている。間違いなく、昨日の北川のことが原因だ。そして、この二年A組というクラスの特殊性が。
 今はクラスメートには会いたくないだろう。そっとしておいた方がいい。
「今日は残念だが遠慮してくれ」
「どうして?」
「ネルフの関係でな。ちょっと家に上げるわけにいかないんだ」
 嘘をついた。
 だが、こういう時に『ネルフ』の名をあげると相手も「仕方がない」となるので、これはこれで便利だった。何故なら、そもそも祐一たちのような存在自体が機密指定されているのだから。
「ふうん」
「なんだよ、その意味ありげな頷きは」
「……私って、意外と二人から信頼されてないんだなって思って、ちょっと寂しかっただけ」
 そう言って自分の席へと戻る香里を見て、祐一はため息をついた。
(香里には、言っておくべきだろうか?)
 間違いなくそうした方がいいに決まっている。どのみち、いつかは分かることだ。
 だがそれは、北川が正式な通知を受けてからでもかまわないだろう、と祐一は判断した。それも今日のことだから、それほど先ではないのだが。
 何より、まだ北川がその通知を受けるかどうか、決まっているわけではない。先走って香里にあれこれ言うわけにもいかなかった。
 そう考え事をしていると、香里と入れ替わりに北川が近づいてきた。
「どうしたんだ?」
「何が」
「いや、名雪、来てないから」
「どいつもこいつも、俺は名雪の保護者じゃないぞ」
「自覚はあるんだろ?」
「多分に、な」
 名雪とあゆの保護者役をかってでているだけに、先ほどの祐一の台詞は全くといっていいほど説得力がなかった。
「北川」
「ん、どうした?」
「放課後、話がある」
 通知は、昼休みに行われる。
 話は、それからでいいだろう。
「な、なんか真剣だな」
「真剣なんだ」
「恋の話か?」
「お前と香里の話だったらしてやっても──もがもがっ」
 北川が大慌てで祐一の口を塞ぐ。
「お前なっ、それをここで言うか、普通」
「先にからかったのはお前の方だろうが。これは正当防衛だ」
「悪意に満ちた正当防衛があるか」
「とにかく、放課後だ。何があっても残ってろよ」
「あ、ああ」
 祐一が本当に真剣だということが北川にも伝わったのか、思わず素直に頷く。
「何の話なんだ?」
「放課後には分かってるよ」
 祐一は吐き捨てるように答えた。





 そして、放課後。
 誰もいない体育館。ここしばらく続いている使徒戦のおかげで疎開する生徒も多く、ほとんどの部活が活動休止となっているため、この体育館が部活で使われることがこのところなくなっている。
 祐一は一人、器具庫からバスケットボールを持ってくると、ダン、と一回床についた。
 スリーポイントラインの外側から、ゴールに向かってかまえる。
 膝が曲がり、足が床から離れる。肘をのばし、手首を返し──ボールが、ぱすっ、と音を立ててゴールに導かれる。
 ──まだ、それほどなまってはいないようだった。
 ふう、と一息ついていると、扉の方から手を叩く音が聞こえてきた。
 北川だった。
「うまいんだな」
「前の学校ではバスケ部だからな」
「お前がか?」
「他にもサッカー部、バドミントン部、テニス部をかけもちしてた」
「天は二物を与えずってのは、嘘だな」
「かもな」
 苦笑する二人。
 だが、お互いの目は笑ってはいない。
「……知ってたのか?」
 何を、とは言わない。それだけで二人の間では何のことを意味しているのかは分かっていたからだ。
「昨日、秋子さんからな」
「そうか」
 祐一は転々とするボールを拾い上げて北川にパスする。北川も同じ場所に立ってシュートを放った。
 がん。
 リングに弾かれ、ボールはあらぬ方向へと飛んでいった。
「お前みたいにうまくはいかないな」
「一朝一夕でシュートが入るようになるんだったら、バスケができないやつなんていないさ」
「そう、だな」
 そこで、会話が途切れた。
 祐一も珍しく自分が何を話せばいいのか分からず、言葉を探していた。そう、まずは──確認しなければならないことがある。だが、どう尋ねればよいのだろう。
(何を躊躇してるんだ、俺は……)
 いつものように、かまわずに普通に聞けばいいだけのことなのに。
「北川」
「ん?」
「乗る、のか?」
 北川は笑った。
 声を立てず。
 哀しげに。
「ああ」
「そうか」
「俺がカノンに乗れば、妹の治療を優先的にしてくれるっていう条件でな」
「それは、ネルフが?」
「いや、俺から頼んだ。でも、向こうも俺がそう言うのを分かってたのか、二つ返事でオーケーしたよ」
 意外に冷静だな、と祐一も落ち着きをようやく取り戻していた。
 もっと怖がるかと思っていた。
 あゆが包帯だらけになったり、自分がプラグで絶叫したり、とても楽しいことをしているようには見えなかったはずだ。
 それなのに。
 どうして、こんなにも落ち着いていられるのだろう。
「なあ、祐一」
「ん?」
「カノンって、いったい何なんだ?」
 祐一は首をかしげる。
「どういう意味だ?」
「いや、何で俺なんかが。そう思ってな」
「それを言うなら、俺も名雪もあゆも同じだろ」
「そうだったんだよな」
 北川は、ふうー、と長く息を吐き出した。
「今だから言うけどな、俺、お前らのこと、ずっと特別だって思ってたんだ。何か特別な環境にいるとか、特別な訓練とか受けてる、自分たちとは違う人間なんだってな」
「まあ、特別な環境に置かれてるし、特別な訓練も受けてるけどな」
「ああ。だから俺とは別なんだって思ってた。お前ら3人はもともとカノンに乗るためにずっとそういう特別な施設とかで育ったんじゃないか、とかな」
「おいおい」
「ああ。違うってのが分かったよ。まさか俺が乗ることになるなんて、思わなかったからな」
「そんなのは俺だって同じだ」
「ああ。でも正直、怖いぜ」
「……」
 北川が自分の手をじっと見つめる。
「お前の戦い、見てるからな」
「いっつも怪我してるわけでもないぜ。楽に勝てるときだってある」
「でも死なない保証はない、だろ? それなのに、どうしてお前は、そんなに平気でいられるんだろうな」
「それは」
 死ぬ覚悟ができているから。
 生きることに執着していないから。
 そんなことを言ったら、北川はどうなるのだろう。
「つまんねえこと言っちまったな」
「いや。でもそれは、きっと名雪もあゆも同じ気持ちだと思う。でも、みんなそれぞれにカノンに乗る理由があるからな」
「カノンに乗る理由か。俺の場合はやっぱり、妹のため、なのかな」
「香里のため、でもいいんじゃないのか?」
 北川は困ったように笑う。
「お前はどうなんだ?」
「俺?」
「ああ。祐一、お前の意見を聞いておきたい」
 祐一は目を閉じた。
 自分がカノンに乗る理由。それは、それほどたいした問題ではない。
 自分は戦士だから戦場から逃げるわけにはいかない。
 それだけだ。
「プライドだよ」
「プライド?」
「自分はカノンに乗る資格がある。それなのにあゆや名雪にばかり戦わせて自分が逃げるわけにはいかないだろう?」
 北川は納得したように頷いた。
「なるほどな」
「カノンに乗ることであまり深く考えることなんかないと思うぜ。破格の給料はもらえるし、ときどきイタイこともあるけど、それさえ我慢すればな」
「そうだな」
「そんなことより、聞いておきたいことがあるんだ」
「ああ」
「香里には、何て言うんだ?」
 北川は、あ、と間抜けな声をあげた。
「……何て言えばいいと思う?」
「お前が言えよ。お前が乗るって決めたんだから、香里にも自分の口から言え」
「そうじゃなくて」
「そんなアドバイスができるか。自分で考えろ」
「祐一〜」
「気色悪い声を出すなっ」
 二人は顔を見合わせると、ようやく心のつかえが取れたかのように笑った。









次回予告



 アメリカから、起動実験のためカノン参号機が松代に届く。
 人々は明日の惨劇も知らず、最後の日常を謳歌していた。
 その日、全ての光景は子供たちの悲劇へと収束する。
 なれあいが偽造していた穏やかな時は去り、ついに最凶のシステムが動き出す。

 次回、戦闘、狂気、死

 さて、この次もサービスサービス♪



第拾八話

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