『はい、ただいま留守にしております。発信音の後にメッセージをどうぞ』
男は、何も話すことなく受話器を置いた。
どのみち盗聴されていることは分かっている。
そして、連中には自分がどこにいるかも全て筒抜けなのだろう。
ゼーレ、日本政府、そしてネルフ。
三つの組織から同時に雇われているこの男は、自分の持っている『鍵』こそが自分の命をつなぐただ一つの理由であることを知っている。
いずれも、自分をただ生かしておくような甘い組織ではない。
近いうちに、この中のどれかと正式に手を結ぶ日が来るだろう。
(日本政府はないな)
この国には未来がない。
もっとも、未来を作らないという点では他の二つも変わりはないが。
自分の目的を果たすために最も有効な組織はどこか。
それを考えればおのずと結論は出る。
(限界、か)
自分の命をつなげ、その上で自分の願いを成就させるには、もはや単独行動では不可能な段階に入った。
かくなる上は。
(往人と手を結ぶ、か。一番組みたくない相手だけどな。お互い何をしたいかは分かっている……あとはどう裏をかくか、か)
加持柳也は電話ボックスを出ると、ゆっくりとあぜ道を歩き出した。
第弐拾壱話
ネルフ、誕生
「副司令が拉致……?」
その事実を聞いたとき、秋子は何故諜報部が自分のところへやってきたのかを悟った。
ネルフ、作戦課長室。ここに入ることができるものはそう多くない。彼女の上司と同僚はほぼ制限なく入ることができるが、彼女より下の位にいる者は基本的に入室を制限される。直接の部下である真琴やパイロットたちは大目に見てもらってはいるが。
諜報部は例外である。
彼らはネルフ総司令、碇往人の直接の部下である。現場における権限はないに等しいが、組織内部における監査についてはほぼ無制限に権能を有する。
それはネルフのナンバースリーである作戦課長、葛城秋子といえども例外ではない。
「かつて一緒の職場にいた私が疑われる……当然といえば当然ですね」
「ご理解いただけて、感謝します。作戦課長を疑うのは同じ職場の人間として心苦しいのですが、これも仕事ですので」
秋子はIDカードと拳銃を机の上に置く。
副司令、石橋コウゾウが拉致。それには内部からの手引きがなければ不可能に近い。
そして諜報部を煙に巻くことができる者は、彼女の知るかぎりでは一人しかいない。
加持、柳也。
「彼の消息は?」
「まだつかめていません」
「副司令も?」
「はい」
「そうですか」
しばらくの間、軟禁といったところか。
随分と長い休暇が取れそうだった。
暗闇に浮かぶ一三枚のモノリス。そしてその中央に縛られて椅子に座らされている男。
石橋コウゾウ。
ネルフ副司令でありながら、このような処置をされるとは、彼にとっても計算外の出来事であった。
「久しぶりです、佳乃議長。まったく、手荒な歓迎ですな」
『SEELE:01』のモノリスが赤く光った。
「非礼を詫びる必要はないんだよ〜。君とゆっくり話すためには当然の処置なんだよ〜」
「相変わらずですね、私の都合は関係なしですか」
相変わらず間延びした少女の声。人類補完委員会の議長にして、ゼーレの頭領でもある彼女。
彼女が何を目的とし、往人の目的と何が相容れないのかは、お互いに分かっていることのはずである。
それを見て見ぬふりを今まで続けてこられたのは、使徒、という共通の敵が今まではいたからだ。
だがもし、使徒がいなくなったとしたら──?
そのときは、ゼーレとネルフが人類の未来をかけて争うことになるだろう。
(そう、遠くない未来には違いない)
「議題としている問題が急務なのでね、やむなくの処置だ」
「分かってくれたまえ」
モノリスたちが続けざまに話し掛けてくる。だが、彼らは佳乃の駒にすぎない。
ゼーレ=佳乃、という構図にほぼ間違いはない。
「我々は新たな神を作るつもりはないのだ」
「ご協力お願いしますよ、石橋先生」
(石橋先生、か)
懐かしい呼称だった。
ふと、一八年前を思い返してしまうくらいに。
二〇〇〇年、夏
この頃はまだ、秋、という季節があった。
私は一介の教師にすぎず、当時高校生だった彼女と出会ったのもこの頃のことだった。
彼女はクラスの中に友達がいないようで、いつも一人で変なジュースを飲んでにやにやしている、一風変わった少女だった。
何故彼女はいつも一人でいたのか。
小学校、中学校の先生と連絡を取ってみると、彼女はどうも『癇癪を起こす』性癖があるのだという。
友達と遊んでいると突然泣き出し、誰もいなくなるとおさまる。
それでは、誰とも遊ぶことができない。
いろいろ彼女の力になろうと先生方は努力したようだが、彼女の『病気』は一向に治らなかった。
先生方がなんとかしようとすると、彼女が泣き出してしまうのだから、手のつけようもなかった。
つまり、彼女は人に好意を持たれると、感情が爆発して癇癪を起こしてしまうらしい。
私は彼女の症例に興味を持った。
決して近づかず、一定の距離を保って彼女を観察しようと心に決めていた。
少女の名は、碇観鈴といった。
「碇。お前、一時間目サボっただろう」
夏期講習の二日目、私は彼女に話し掛けてみた。別に話し掛ける程度のことなら彼女は癇癪を起こさない。これは実験済みだった。
「が、がお……」
「ま、いいけどな。あんまりサボってばかりだと、先生方もツノ出すからな、注意しろよ」
「ごめんなさい」
私は高校の免許を三つ持っている、当時にしても特殊な人間だった。
高校地理歴史科、高校公民科、そして高校数学科。
私学ではこのように複数科目を教えることができる教師は貴重だ。私はここで二〇年働きつづけている。
私は彼女に通常授業で数学を教えていた。
夏期講習では世界史を教えていた。
さらに、私は彼女の担任だった。
だから、彼女の家庭環境も含めて、だいたいのことは把握しているつもりだった。
だが、その『癇癪を起こす』ということがどういうことなのかが、私には分からなかった。
実際の現場を見たわけでもない。話に聞く分では、ただ泣き出して止まらなくなるということだけ。
いったい何が原因で、そういう症状が生まれてしまったのか。
彼女の過去にいったい何があったのか。
それを知りたかった。
純粋な知的好奇心といってもよかった。
私にとって、一人の生徒にここまで興味を持つことは今までになかったことだった。
ある日のこと。
街の一角で、つまらなさそうに座っている男を見かけた。
彼の前には犬のような物体が座っていて、男をじっと見つめている。
いや、男の前で動いている人形を見ている。
手品、か?
じっと見つづける。
男はポケットに手を入れたまま、壁に背を預けて、足を広げて座っていた。
黒無地のTシャツが、日を吸収して暑苦しく見えた。
鋭い気迫のこもった目つきが、彼の周りに人を寄せ付けさせていなかった。
人形はただ、てこてこ、と歩いていた。
どういう手品なのだろうかと興味を持った。
しばらく、遠くから眺めている。
だが、彼はぴくりとも動かない。ただ人形だけが動いている。
全くタネが分からない。
やがて、人形は男の目の前くらいまで高く飛び上がり、くるくると三回まわって、ばたり、と地面にうつ伏せに落ちた。
そして、ぴくぴく、と痙攣してから動かなくなった。
「新技、行き倒れ」
見なかったことにしようと思って歩み去ろうとした。が、
「おい、おっさん」
その男が私に声をかけてきた。私は仕方なくそちらを見る。
「俺の芸、見てたんだろう。金払いな」
「……最近の芸人は、客に金を強制するのかね」
「いいから出すもん出しな」
これでは客が集まらないのも仕方のないことだ、と私は思わず苦笑した。
「その前にもう一度見せてほしいのだが、ポケットから手を出してやることはできるのかね」
「できるぜ」
男はポケットから手を出して大きく開いて私の方へ向けた。そのままの体勢で、倒れていた人形が、ひょこり、と起き上がる。
「ふむ……」
何か、糸でつっているのかとも思ったがそうでもないらしい。
「人形を見せてもらってもいいかね」
「どうぞ」
動いていた人形を持ち上げてみる。動力のようなものは何もついていない。もちろん糸のようなものも何もついていない。
「まいったな。全くタネが分からない」
「分かったら面白くないだろう」
「それもそうだ。で、君の芸はこれしかできないのかね」
「……悪かったな、これしかできなくて」
「いやいや、責めているんじゃないよ」
いくらあげれば気がすむだろうか、と私は財布の中身を思い浮かべた。と、そのときのこと。
「往人さーん!」
聞き覚えのある声が遠くから聞こえてきて、私はそちらを振り向く。
「碇……?」
元気よく走ってくるのは、教室では一度も見たことがない、満面の笑みを浮かべた碇観鈴であった。
「あ、石橋先生」
が、私を見たとたんにその表情が陰る。
「なんだ碇、彼と知り合いかね」
「はい、え、えっと、往人さん、国崎往人さんです」
「なるほど、友達かね」
私にとっては核心をついた質問だった。
「はい! 往人さん、すごく面白いんです」
「それはよかった。国崎くん、だったね」
私が彼女の先生だということを知ったのか、彼は居心地悪そうに私を睨みつけていた。
「彼女と仲良くしてやってくれたまえ」
私は財布を取り出して、一枚取り出す。
「これは芸を見せてもらったお礼だ」
正確には、碇という少女の正体に近づいたお礼だった。
福沢諭吉が一人。
さすがに彼も驚いているようだった。
「わっ、いちまんえん」
素直に声を出したのは碇だった。
「……なんのつもりだ?」
「なに、久しぶりに興味あるものを見せてもらった礼だよ。これで少ないということはあるまい?」
私は笑うと、その場を後にした。
今日は面白い経験をさせてもらった。
(……どういういきさつで知り合ったのか、聞いてみたいがな……)
振り返ると、既に二人は仲良く歩み去っていくところだった。
(まあ、機会はいくらでもあるだろう)
今までどおり、自分はつかず離れず、あの少女を見守ることにしよう、と考えていた。
二〇一八年。
モノリスはただただ話しつづけている。
石橋が何を考え、何を言葉にしようとも、それに答えることはないだろう。
これはいわば、洗脳の儀式だ。
石橋をゼーレに引き込み、ネルフに対する尖兵とするつもりなのだ。
「S2機関を自ら搭載し、絶対的存在となったカノンゲリオン初号機」
「それは理論上無限に稼動する半永久機関を手に入れたのと同義だ」
「五分から無限か。突飛な話だ」
「絶対的存在を手にしていいのは神だけだ」
「人はその分を越えてはならん」
「我々に具象化された神は不要なのだよ」
「神を造ってはいかん」
「ましてあの男に神を手渡すわけにはいかんよ」
「碇、往人。信用にたる人物かな〜?」
あまりの愚かさに、石橋は笑った。
(信用?)
石橋はあの男と出会ってから、一度も彼を信用したことなどなかった。
(あの男を信用していたのは、観鈴だけだ)
二〇〇〇年の秋に起こったセカンドインパクト。あのカタストロフィ、南極の氷を溶かし、地球から冬を奪い去った悲劇。
あの事件で世界人口の三分の一、二〇億という人名が失われた。
その後の世界的な争乱の時代で、同じだけの人数が失われた。
碇観鈴、国崎往人とも、その後会うことがなかった。
そして二〇〇一年。この年は地獄だった。そうとしか記述できない年だった。
世代別の人口を見ればはっきりと分かる。二〇〇〇年と二〇〇一年に生まれた子供が極端に少ない。それは、子供を育てられるような時代ではなかったということを意味している。
子供が生まれても捨てられるのがほとんどだった。
私もこの二年間で、すっかり人格が変わってしまった。
大学時代に習っていた医者の真似事をして細々と暮らしていた。
私にできることを、なんとか探したかった。
厭世的だった自分が、こういう時代になってから前向きになるとは、人間とは不思議なものだ。
二〇〇二年。
私は南極の調査隊の一員に選ばれた。
私の学会における知名度など、ないに等しい。一介の高校教師が、時折論文を書いていたからといって、派閥を築けるほどの力を手に入れることなどできない。
それなのに、私には国際規模での指名がかかった。
理由が分からなかった。
推薦者は、不明。
私は何か、大きなうねりのようなものを感じた。
この調査隊に加わってはいけない。
それは、自分を捨てることにつながる。その恐怖。
だが、結局私は調査隊に参加することにした。
私は知りたかったのだ。
二〇〇〇年の夏に、私が結論を見なかった課題の答を探していたのかもしれない。
それは、結論としていえば大当たりだった。
「これが、かつての氷の大陸とはな……見る影もない」
赤く染まった海。
かつて凍りに覆われていたころも生命の息吹をまるで感じることのできない場所であったが、今はそれ以上だった。
ここは、瘴気に満ちている。
人ならざる者が住む場所のようにすら思えた。
「久しぶりだな」
後ろから声をかけられて、私は振り向く。
そこにいた男を見て、私は目を見開いた。
「国崎往人……!?」
彼が、何故ここに。
「失礼、今は名前を変えていまして」
す、と彼は懐から一枚の葉書を出す。
「葉書? 名刺ではないのかね」
名前を変えたということは、自分の名前がそこに書かれているということなのだろう。私は受け取ってその名前を確認する。
「碇……!?」
碇往人。
碇観鈴。
「妻が、先生に会うことがあったら渡してほしいと言うのでもってきた」
「結婚していたのか……だが、彼女はまだ未成年だろう」
「親がいないのでね。承認するべき保護者もいない。お互いの意思だけで成立した」
「そうか……彼女は元気か」
「なんとかな」
「癇癪を起こしたりしていないのか?」
永遠に失われたと思っていた解答を突然目の前に見せつけられて、私は焦っていたようだ。それが男にも伝わった。
「やはり知っていたのか。あのときから、妙なことを言う奴だった」
「では治ったのか」
「いや。いつも近くにいると癇癪を起こすから、適度に離れている。今回もそうだ。しばらく離れて、お互いの気持ちを冷ます。そうすることで俺たちは付き合っていける」
「そうか……」
「それに付け加えるなら、あれは病気じゃない。何かもっと別のものだ」
「別のもの……?」
「俺はあいつを普通の体にしてやるために、この調査隊に加わっているんだよ」
男は、随分と前向きな男だったようだ。
悪人のような目つきをしていながら、心の奥では優しさを秘めた青年。そのように私には見えた。
彼のバックについている『ゼーレ』という組織が表舞台に出てきたのは、ちょうどその頃のことだ。
巧みに情報操作を行い、セカンドインパクトを巨大隕石の仕業とすることができたのはその組織の功績ということだろう。
だが、私は知っていた。南極の調査で、故、惣流・晴子・ツェッペリン女史の『光の巨人』の研究、あれがセカンドインパクトを生み出していたということを。
そして、その研究を進めていた組織がゼーレだということも。
二〇〇三年。
私は再会を果たした。
彼女はあのときと変わらない、寂しげな笑顔を私に見せた。
きっと、彼女の本当の笑顔は、往人にしか見せないのだろう。
「……先生、お久しぶりです」
「ああ、碇か。元気そうだな」
会話はそっけないものだったが、それで充分だった。
私は彼女にかける言葉をもたなかった。私がやろうとしていることは、彼の夫を貶めることだったのだから。
「何故巨人の存在を隠す。君たちゲヒルンとゼーレは、セカンドインパクトが起こることを、知っていたのではないのか?」
私は単刀直入に切り込んだ。往人はただ笑っているだけだった。私は鞄の中から、巨人に関して集めてきた資料を取り出して、彼の目の前の机に並べる。
「こんなものが処分されずに残っていたとはな、意外だ」
「君の資産、いろいろと調べさせてもらった。子供の養育に金がかかるだろうが、個人で持つには多すぎないかね」
「さすがだな、高校の免許を三つも取ったのは伊達じゃないらしい」
「セカンドインパクトの裏に潜む、君たちゼーレと死海文書を公開させてもらう。君たちがやっていることは、神の摂理に反している。犯罪などというものではない。ましてや革命でもない。これは──」
「原罪……とでもいおうか。聖書風にはな」
往人は立ち上がった。
「公開したいのなら好きにすればいい。だが、その前に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「ああ。真実の一部をな」
彼によって連れていかれたのは、第三新東京市として遷都計画のある土地だった。その地下へ私は連れていかれた。
「随分もぐるんだな」
「不安か?」
「当たり前だろう。もう戻れないかもしれないと覚悟を決めているよ」
「それは重畳」
やがて、視界が開ける。
窓の外に、巨大な空間が広がっていた。
「これは……南極の地下にあったあの大空洞と同じものか!」
「八九%は埋まっているがな、データはほぼ一致している」
「まさか君たちは、セカンドインパクトをもう一度起こすつもりかね」
「それは自分の目で確認すればいい。これを見せたいわけではないからな」
モノレールがたどりついた場所は、一つの研究所であった。その地下深くに私はまた連れていかれる。
頑丈そうな扉が開かれ、その向こうから一人の女性が出迎えた。
「石橋先生、お久しぶりです」
「……赤木。お前もか」
赤木聖。私の教え子で、私たちが住んでいた街でたった一人の医者であった。
「ええ、ここは目指すべき生体コンピュータの基礎理論を模索するベストのところですから。MAGIと名づけるつもりです」
「MAGI。東方より来たりし三賢者か。見せたいものとは、これのことか?」
「いいえ、この奥にあるものです」
聖は立ち上がって奥の扉を示した。そして往人が先を行く。
(この奥に、碇の組織ゲヒルンの秘密が……)
私は二人の後をゆっくりとついていく。
そして、禁断の扉が開かれた。
「これは──!」
オレンジ色の頭部と、そこからのびる脊髄、背骨、そして両手だけが巨大な透明のケースの中に保存されていた。
「まさか、あの巨人の……」
「あの物体を我々ゲヒルンでは『アダム』と呼んでいます。ですがこれは違います。オリジナルのものではありません」
「では」
「そうです。アダムより人が造りしもの、カノンです」
「カノン」
私はその禍禍しい物体を凝視した。あの巨人から造られたもの。セカンドインパクトを引き起こしたものから作られた新たなもの。
「我々のアダム再生計画、通称E計画の雛型たるカノン零号機だよ」
往人の声が重く響いた。
「神のプロトタイプか」
「石橋、俺と一緒に、人類の新たな歴史を作らないか」
私は、答えるための言葉を何ももたなかった。
NEON GENESIS KANONGELION
EPISODE:21 Johann Pachelbel
二〇〇三年。
私は海の見える丘に、観鈴と共にいた。
私の記憶の少女はもっと幼かった。それが今ではすっかり母親の顔立ちをしている。
今でもまだ、癇癪が起きるらしい。だが子供と一緒だと大丈夫らしい。
まだまだ、彼女には秘密が多い。
「では、碇は──いや、彼はお前の体を元に戻すために、人類の進化を考えているということか」
大きな罪を犯してまで。
神の摂理に反してまで。
「愛情の深い男だな」
「観鈴ちんもびっくり。往人さん、そんな人じゃなかったから」
「いいだろう、協力しよう。人類のためなどという大層なものではなく、碇、お前の体を元に戻すためというのであれば」
「先生」
「私も、君の笑顔が見たいのでね──おっと、こんなところで泣かないでくれよ。これ以上話すことができなくなる」
「ありがとう」
「なに、教え子を守るのは教師の務めだ。もっとも、こんなことになるとはあの頃は夢にも思わなかったが」
「ゼーレの考えている人類補完計画は、止めなければならないから」
「うむ……既に当初の『補完計画』は大幅に歪みが生じている。これ以上の変化は望ましくないだろう。下手をすると誰も救われない。問題は、彼の考えだな。彼はお前を助けるためなら他の誰をも犠牲にしてかまわないと考えているだろう」
「が、がお……」
それをなんとか押し留める役割を果たす人間が必要だ。
彼の思考と行動に枷をかけて、次のカタストロフィを可能な限り小さく押さえるためには。
「カノンにお前の人格を移植するという話だな」
「うん。観鈴ちん、巨大ロボット」
「無事を祈るよ。お前が無事でなければ、私たちが活動している意味がなくなってしまう」
「うん」
だが、イレギュラーな事件は彼女をこの世から消滅させた。
二〇〇四年。
人格移植OSは正常に作動していたはずだった。だが、彼女の肉体はLCLに溶け、生命のスープと化した。
サルベージ計画がすぐに行われたが、失敗。
観鈴の魂だけがカノン初号機に残る形となり、肉体は未来永劫失われる結果となった。
そして、碇往人が失踪した。
ゲヒルンはパニックに陥った。当然だ、責任者がいないのだ。
私と聖の二人で実質的にゲヒルンを動かしながら、ようやく往人が帰ってきたのは一週間後のことだった。
「この一週間、どこへ行っていた」
だが、往人は答えない。
「傷心もいい。だが、もうお前一人の体ではないということを自覚してくれ」
「分かっている、石橋」
そして男は静かな瞳で言った。
「今日から新しい計画を遂行する。佳乃議長には既に提唱済みだ」
私は、目を丸くした。
この男がやろうとしていることが予測できたからだ。
「まさか、あれを!」
「そうだ。かつて誰もが成しえなかった神への道、人類補完計画だよ」
「……碇、まさかお前は、佳乃議長の考えに追従するというのか」
「愚問だ。俺たちは常に、観鈴に普通の暮らしをさせてやること、それだけを考えてきたはずだ。そのための計画だ」
私はさすがに躊躇いを隠し切れなかった。
それは、一歩間違えば、人類を単一種として融合させる佳乃議長の思惑が実現することになるかもしれないからだ。
だが、賭に出なければ、観鈴を助けることはできない。
カノン初号機の中にある観鈴の魂を具現化させる。
そのために。
人類に、危険な綱渡りをさせることになる。
「──いいだろう」
だが、結局私は承諾した。
……私も、つまるところ、観鈴のことが好きだったのだ。
二〇一二年。
『姉さん、MAGIの基礎理論、完成おめでとう。
だからというわけではないですけど、こちらもニュースがあります。
私もゲヒルンに内定しました。開発二課に配属される予定です。
いくら人不足とはいえ、まだ一一歳の子供が国際機関で働くとは、おかしなものですね。
私より二つ年上の人が二人、作戦課に見習いとしてやってくるという話も聞きます。
同年代の人が誰もいないから少し寂しい気もしていましたが、話相手になってくれるといいなと思っています。』
赤木美汐はゲヒルンに入った直後から、その優秀さをいかんなく発揮していた。
対使徒用汎用人型決戦兵器カノンゲリオンのオプションパーツに関して、次々と新案を発表。
後にカノンの標準装備となるプログレッシブ・ナイフを完成。高振動粒子の刃が接触する物質を分子レベルで分離、切断させることができる。これによって美汐の非凡さが証明された。
続けざまに、劣化ウラン弾を用いたカノン専用パレットガン、カノンとのシンクロ率を上げるプラグスーツなどを開発。彼女は一年で現在のカノンの標準形を作り上げたのだ。
「誰だ!」
夜中、発令所に向かっていた美汐は警備兵に呼び止められてため息をついた。
「開発二課、赤木美汐です。発令所へ行く途中なんですが──迷路ですね、ここは」
警備兵はIDカードを受け取ると、機械で照合を行う。
「はい、確認しました。発令所なら今、司令とお姉さんがいるはずですよ」
ここの人たちは私に優しい。
まだ一一歳ということで、みんな遠慮しているのだろう。
もちろん、開発のスペシャリストであるということも関係しているのだろうが。
私は道順を教えてもらって、発令所へと向かう。
明日、ようやく最初の発令所が完成する。
構造については私もいろいろと口出しをしている。早く完成した姿を見たい。
その想いが、こんな深夜に私を発令所へ向かわせていた。
そこで、見てはならないものを見てしまった。
司令と、姉。
重なり合う体。
喘ぎ声。
私は、全身から力が抜けていくのを感じていた。
悪寒と震えが同時にきた。
私はその場に座り込んで、二人の行為が終わるまで、目を離すことも耳を塞ぐこともできずにじっと佇んでいた。
二〇一三年。
S.C.MAGI.SYSTEM完成。
「MAGIカスパー、MAGIバルタザール、MAGIメルキオール……MAGIは、女としての私、医者・科学者としての私、姉としての私、その三つがせめぎ合っているんだ」
「三つの姉さんか。後は電源を入れるだけですね」
「美汐もありがとう。ここのとこ、ずっとMAGI開発の手伝いをさせてしまったからな」
「姉さん、私も開発二課の人間なんですからね」
「そうだったな」
「今日は先に帰ります。佐祐理さんと舞さんと、三人で食事をする約束なので」
「相変わらず仲がいいな。よし、今度私が料理をつくってやろう。家に呼びなさい」
「……本当に帰ってこられるんですか? MAGIの稼動が始まったら、しばらくは点検で忙しいと思いますけど」
「大切な妹のためだ。一日くらい無理してでも休暇を取るさ」
姉は私の頭を軽く撫でた。
研究と開発でほとんど一緒にいることはできないが、姉の愛情はいつも感じていた。
一日たりとも、手紙が届かなかったことはない。常に自分の近況を知らせてくれている。
たった一つ、情愛に関することだけを除いて。
「それじゃあ」
「ああ」
だが、姉とはそれが最後になった。
第一発令所で姉が自殺をしたと知ったのは翌日のこと。
佳乃を議長とする人類補完委員会は調査組織であるゲヒルンを即日解体し、全計画の遂行組織として『特務機関ネルフ』を結成した。そして私たちは籍をそのままネルフへと移した。
ただ一人、MAGIシステム開発の功労者、私の姉、赤木聖を除いて。
私はMAGIの責任者として異例の抜擢を受けた。姉の傍で常に働いていて、MAGIに関して誰よりも詳しいのは、私の他に誰もいなかったからだ。
でも、私は心細かった。今までは姉の言うとおりになんでもこなしていればそれでよかった。でもこれからは、自分が命令を下していかなければならない。
私は仲の良かった佐祐理さんと舞さんを技術開発部へ転向させ、私の直接の部下として働いてくれるように願い出た。
二人は快く承諾してくれた。
二人がいなければ、私は心細さに耐え切れなかったかもしれない。
私の地位は、技術開発部部長代理。
『代理』という文字が取れるまでには、さらに一年の月日を要した。
もっとも、この歳でこんな地位にいること事態、異常だとは分かっていた。
姉が自殺した理由は、結局のところ分かってはいない。
私は結果だけを知らされて、あとは日々の忙しさのために姉のことを考えることもできなかった。
気がつけば数年の月日が流れていた。
新しく作戦部部長として葛城秋子さんを招聘、同時に作戦部の日向真琴もオペレーターの一員となり、発令所のメンバーがだいたい固まったのが、今から一年半ほど前。
流されるまま、目の前の問題だけを片付けてきた日々だった。
当然、男の人と話をする機会もなかった。
──彼に、会うまでは。
再び、二〇一八年。
扉が開く。
光が差し込んでくる。
「ご無沙汰です」
「君か」
石橋の目の前に現れた男、それは柳也だった。
「外の見張りにはしばらく眠ってもらいました」
「この行動は君の命取りになるぞ」
「彼女を助けるためですよ。自分のためにね。それに、アダムのサンプルを往人司令に横流ししたのがバレそうでね。いっそのことネルフに完全に味方した方が自分の身を守れそうなんですよ」
柳也は懐から拳銃を取り出す。そして、石橋の後頭部に銃口をあてた。
「……往人は私を切り捨てることにしたか」
「たとえ観鈴の味方であるとしても、あなたは基本的に往人の絶対的な信頼を得ることはできないんですよ。あなたがあなたである限り」
「分かってはいたがな。それで、君はこの後どうするつもりだ。往人の下では君の願いはかなえられまい」
「それは、もうあなたが考える必要のないことですよ」
「確かにそうだ。では、一思いにやってくれ」
「了解」
「ご協力、ありがとうございました」
半日後、秋子は軟禁を解かれた。これほど早く解決するとはさすがに思っていなかった。
「副司令は?」
「残念ながら」
亡くなった?
秋子は目を細める。
「柳也さんは?」
「そのことで、総司令からお話があるそうです。至急、発令所へ向かってください」
秋子は拳銃とIDカードを受け取って頷いた。
発令所には秋子、美汐、オペレーターズ、そして三人のパイロットが集まっていた。ネルフでもっとも権能を有する八人である。
そして、ゆっくりと往人が発令所へ入ってきた。
「もう知っていると思うが、副司令が亡くなった。よって臨時の副司令代理に、この男をつける」
往人の後ろに立っていたのは柳也であった。
「と、いうわけだ。みんな、これからよろしくな」
祐一は顔をしかめながら、慎重に佐祐理を見つめた。
彼女は俯いて、体を震わせていた。
(……柳也め、これも、お前の目的のために必要なことだというのか?)
亡くなった女性を取り戻すという、共通の願いのために、この二人が協力体勢をとることにしたということか。
(だが──俺の目的を邪魔するようなら、今度こそ死んでもらうぜ、柳也……)
祐一の瞳の中に、昏い炎が灯っていた。