『とりあえずはじめまして。俺はサードチルドレン、碇祐一』
『うにゅ……? 祐一……?』
『ああ。名雪、でいいんだろ?』
『うん──はじめまして、祐一』
違う。はじめてじゃない。
『大丈夫?』
『……うーん、うちまで運べるかな……』
『んしょ、んしょ』
倒れていた少年。
長い道のりを、背負って、家まで連れて帰った。
少年の目は虚ろで、私のことなどまるで見えていなかった。
分かっている。
でも、私は。
『ねえ、名前は?』
無言。
『ねえ、いくつ?』
無言。
『ねえ、どうして倒れてたの?』
無言。
『ねえ?』
無言。
『ねえ?』
無言。
『ねえ?』
無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。無言。
ここに私がいるから。
あなたを守ってあげるから。
『だから、私を見て!』
「名雪さん、聞こえますか」
美汐の声が聞こえる。
答えたくない。
耳障りな音。
何も、何も聞きたくない。
自分の殻に閉じこもっていたい。
「シンクロ率が八、低下しています。いつものとおりにやってください」
「やってるよー」
だが、その声はいつもより落ち着きのないものだった。
第弐拾弐話
守るべきもの
「名雪さんのシンクロ率、下がる一方ですね」
佐祐理が戸惑ったように呟く。
シンクロ率、四六.三%。今まで七〇%台を安定して残していた名雪にしては信じられない数値であった。
「この余裕のないときに、困りましたね」
美汐がグラフを見ながら言う。ハーモニクス、シンクロ率、共に名雪が日本に来てからこれほど悪い数値を出したことはなかった。
「やはりあゆさんの零号機を優先しましょう。今は二台同時に修理できるほどの余裕がありません」
「初号機はやはり、使えませんか」
「無理ですね。監査部が凍結を決定してしまっては、技術部も作戦部も何も口出しできません」
「監査部の部長は……」
「副司令代理が今は兼任しています」
「柳也……」
佐祐理が呟くと、二人はしばし沈黙する。
あの男がしたこと、佐祐理の妹を殺したということは美汐も知っている。
美汐は姉を亡くしてから、佐祐理と舞を自分の部下として招いた。
孤独に耐えられそうになかったから。
だがそれは、佐祐理にしても同じことだったのかもしれない。
孤独と不安に怯えている美汐を傍で見守ることが、自分のすべきことだったとでも言うかのように、二つ返事で佐祐理は承諾した。
……柳也の話を聞いたのは、それから一年後のこと……。
「初号機を使うことができないというのは、やはりこの間の事件が原因で……」
「きっかけ、かもしれないですけどね」
佐祐理の疑問に美汐が慎重に答えた。
日向真琴は、第三新東京市の中にある少し広めの公園にやってきていた。
怪しげなロングコートと、怪しげなサングラス。
もし、自分の行動を探られたくないと考えているのだとしたら、よほど浅はかであろう。
「真琴、なんなの、その格好は」
少し遅れて秋子がやってきてベンチに腰かける。
「なにって、変装よ。あまり目立たない方がいいって秋子さんが言うから」
「すごく目立ってるわよ、真琴」
「あうーっ」
どうやら自分の浅はかさに気づいたらしく、しぶしぶとサングラスを外す。
「それで、どうだったの?」
「うん、やっぱり秋子さんの言うとおりだった。はい、これ」
真琴は一二インチディスクを渡す。
「ありがとう」
「第二次整備計画の一部始終が入ってるから」
「凍結していたはずの第二次整備計画が今になってから再開される。それも非公式に……裏がない方がおかしいですわね」
「うん。拾参号機までの建造に着手されてるって」
「伍号機から拾参号機までが……なるほど」
九体のカノンシリーズ。それを手元に置くつもりなのだ。
佳乃議長をはじめとする、ゼーレのお歴々は。
駅。
名雪は二人と反対方向のホームに立っている。
人ごみにまぎれて、祐一とあゆが仲良さそうに話しているのが見える。
それを、名雪はぼんやりと見つめていた。
(この間まで、初号機に取り込まれてたのに)
(一番心配してたのは私なのに)
(もう、思い出してるはずなのに)
(やっぱり、あゆちゃんじゃないとダメなの?)
電車が入ってきて、二人の姿が消えた。
(……いや。いや、いや、いや、いやだよ、祐一……)
(寂しいよ、辛いよ、苦しいよ)
『だから、私を見て』
「ただいま戻りました」
夜遅くになってから秋子は家に着いた。
「おかえりなさい、秋子さん」
つまらなさそうに祐一は出迎える。別に秋子と会うのが嫌なわけではなく、彼はいつもこの調子なのだ。
もっとも、その傾向はサルベージ後、ますます顕著になってはいたが。
「名雪は?」
「まだ帰ってません。香里のところに行ってるそうです」
「そう」
秋子が少し心配げに表情を曇らせる。
「ちょうど晩ご飯、できたところですけど食べますか」
「そうですね、いただきます」
祐一お得意の『男の料理』であった。
野菜と肉をぶつ切りにして、まとめて鍋に放り込む。
味付けにこだわりを発揮しているので、料理としてはかなり上手な部類に入るあたりが祐一らしいというべきか。
「名雪の調子、ずいぶん悪いみたいですね」
シンクロ率が五〇%をきったという話は祐一も聞いていた。
「ええ」
「原因は、俺ですか」
肉を噛みながら祐一は話す。
「多分そうでしょうね」
「初号機も使えない、名雪も使えないじゃ、秋子さんも大変でしょう」
「そうですわね」
「話があるんですけど、いいですか」
「なんでしょうか」
「教えてほしいんです。秋子さんの知っていることを。できるかぎり」
秋子は箸を止めた。
祐一はじっと自分を見つめている。
本気の目だった。
「何を知りたいんですか?」
「全てです、全て。正直何が分かっていて何が分かっていないのか、自分でも混乱しているんですよ。だから整理してほしいんです」
「私も、何もかも知っているわけではありませんけど」
「でも、俺よりは知っているはずです。観鈴を生き返らせたい往人と、同じように生き返らせたい人がいる柳也。二人が手を組んだことにいったい何の意味があるんですか? 手を組むことで、往人と柳也はそれぞれどういう立場に置かれたんですか? そしてゼーレはどういう対処を行おうとしているんですか?」
「難しい質問です」
秋子は久しぶりの『困ったポーズ』を見せた。
「最初からいきましょう。往人はいったい、何をするつもりなんですか?」
「観鈴さんを生き返らせること。今祐一さんがおっしゃったとおりです」
「聞き方が悪かったですね。『どうやって』それを実現させるつもりなんですか?」
秋子は口篭もる。
「話を整理しましょうか。ゼーレの人類補完計画と往人の『蘇生計画』とでもしておきましょうか。どちらが先かとなると話は簡単だ。ゼーレの計画、人類を単一種にする計画が先だった」
「違います」
秋子は即答した。
「違う?」
「はい。人類補完計画は二段階あったんです。祐一さんの言う人類を単一種とすることを目的とした補完計画は、観鈴さんのサルベージと同時にスタートしたんです」
「同時に……」
「二〇〇四年のことです。それ以前の補完計画は、現在とは全く別の計画だったそうです」
「別の……?」
「そうです。人類進化計画……神化計画、といってもいいかもしれません」
「神化」
「セカンドインパクトの際に拾った神様を使って、人類を人工的に進化させる。それがゼーレの最初の計画だったと聞いています。その最初にして最後の実験が、二〇〇四年に行われました」
「──まさか、観鈴は」
「はい。観鈴さんはその被験者でした」
「何故、そんな馬鹿な真似を」
「私も詳しいことは知りません。往人さんなら知っているかもしれませんね」
祐一は顔をしかめた。
「でもその実験は失敗しました」
「進化──神化は不可能だと悟ったわけですね、ゲヒルンは」
「はい。しかも観鈴さんを失いました。そのときから、往人さんは観鈴さんを取り戻すために、現在の人類補完計画をスタートさせたそうです」
「分からないのはそこだ。人類を単一種とする、その過程で観鈴を取り戻すことができるというが、いったいどういうことですか?」
「観鈴さんの魂は、まだ生きているんです」
祐一は言葉を失う。
「観鈴さんの人格を移植、その際にイレギュラーが生じて、観鈴さんの肉体は初号機の血肉として取り込まれた──この間の祐一さんのように」
「でも俺の肉体はなかったが、俺の精神は思考を続けていた……観鈴もあのときの俺と同じ状態だというわけか」
「はい。サルベージ計画が行われたそうですが、失敗したそうです。肉体は永遠に戻らず、魂と呼ばれるものが初号機の中に溶け込みました。
「いうなれば、初号機は観鈴そのもの……」
「そうです。そしてその魂に人の形をあてはめて蘇えらせることが往人さんの目的です」
「繰り返しますけど」
祐一は水を含んだ。二人とも、喉が渇ききっていた。
「分からないのは『そこ』なんですよ。人類補完計画と観鈴の再生。いったいどういうつながりがあるんですか?」
祐一はどうやら、言葉を濁すことを許さないらしい。何がなんでも、そこだけは説明してもらおうという意気込みがあった。
秋子はため息をついて、諦めることにした。
「人類を補完するためにゼーレが何をしようとしているか。まずはそこから説明しないといけないですね……といっても、私も詳しく知っているわけではないのですが」
「秋子さんでも?」
「補完計画はトップシークレットですから。知り合いに頼んだのですけど、概要しかつかむことができませんでした」
「それでかまいません」
「結論から言ってしまうと、この間の祐一さんのような状況に、人類全てがなるということです」
祐一は眉をひそめた。
「ええと……?」
「生命のスープを作り出し、その中に全ての人間の魂を溶け込ませる。そのスープを『ヨリシロ』が取り込むことによって単一種として完成する……そうです」
「……今イチ、イメージが湧きませんね」
「私もよくわかりません。私が分かっているのはその方法として二つ、考えられているということです」
「はあ」
「一つは先に生命のスープを作り出すこと。これにはロンギヌスの槍を使わなければなりません」
「ロンギヌスの槍……」
「もう一つは初号機をヨリシロとして、全ての人間の魂を直接取り込むこと」
「初号機をヨリシロに……じゃあ、人類はカノン初号機として単一種になるということですか?」
「そうみたいですね」
「悪趣味ですね」
「全く同感です」
緊張が少しだけ解ける。止まっていた箸が再び動き出した。
「ロンギヌスの槍を使って生命のスープを作ることができれば、初号機をヨリシロとする必要はないそうです。要するに、そのスープを与える別のヨリシロがあればいい、ということになりますね」
「それには何が使われるんですか?」
少しの間。
二人ともお茶を一口含んでから、会話は再開された。
「ネルフ、ジオフロントの地下……ターミナルドグマに、ヨリシロとなるものがあるんです」
「それは?」
「最初の人間、アダム」
祐一の目が細まる。
「アダム? 聖書のアダムとイヴの、アダム?」
「祐一さんは神話に詳しいですか?」
「多少は。神様が最初にアダムを作って、アダムの肋骨からイヴを作ったとか」
「そのアダムがネルフの地下にあるんです。使徒は、そのアダムを目指してくるんですよ」
「アダムを……何故」
「使徒とアダムが接触すると、サードインパクトが起こるといわれています」
「へえ、初耳ですね」
「アダムの力は、人間にははかりしれません」
「アダムというのは、人間なんですか?」
「人間であり、神。人類は二〇〇〇年の夏に、南極で、あのアダムを拾ったんです」
「アダムにちょっかいをかけたせいで、セカンドインパクトが起こった……ということですか?」
秋子はしばらく黙り込んだ。
「……ここから先は、私も確証がありません。そのつもりで聞いてください」
「ええ。参考意見とさせていただきます」
「南極の地下に、第三新東京市と同じように、天然の大空洞があるのはご存知ですか?」
「なんだか怪しげな科学雑誌で読んだことがあるような気はしますよ。現実に存在するんですか?」
「あります。私はあの二〇〇〇年の夏──もう秋口ですか、あそこにいたんです」
「ええ、前に聞きました」
「私は全ての秘密を解くために、今まで戦ってきたつもりです。でも、真実は遠いですね……あの光の巨人、あの正体はまだつかめていないのですが、あれがきっと、アダムだったのではないかと思います」
「光の巨人……」
「あの光の巨人がどこへ消えたのか、私はずっと考えていました。南極の地下に封印されたのではないかと思っていましたが、そうではなかったようです。あの日、セカンドインパクトの際に光の巨人は連れ去られたのです」
「連れ去られたって……巨人を、ですか?」
「はい。幼体にまで、還元させられて」
「……」
「そして、還元した際のエネルギーがセカンドインパクトを引き起こした。私の友人、晴子はアダムを覚醒しようとしていたのではなく、アダムを幼体へ戻そうとしていたのです」
「何のために?」
「アダムの力を研究するために。幼体となったアダムの体液を人間に注入することで、人工的にチルドレンを作るといったことが、世界各地で行われました」
「……佐祐理さんの孤児院で、ですか」
「ご存知だったのですね。柳也さんから?」
「ええ、まあ。そのことは美汐すら知らないみたいですが」
「美汐さんが知っているのは、カノンのことだけですから」
「なるほど、そういう裏事情があったってわけか……」
祐一は腕を組んで、背もたれによりかかる。
「私が知っていることは、だいたいこれくらいです」
「まだ聞きたいことは山ほどありますよ」
「先に、私の方から質問させてください」
秋子はにっこりと笑った。反撃開始だ。
「名雪のこと、思い出したんですね?」
祐一の顔はまるで変化がなかった。が、変化がない=動揺を隠している、ということが秋子には分かった。
「どうしてそう思うんですか?」
「祐一さんが、名雪のことを避けているからです」
「避けてなんか」
「避けてます。目に見えて分かります」
「だとしても、どうして名雪との約束を思い出したっていうことになるんですか」
「普段滅多なことでは自分の態度を変えない祐一さんが、明らかに名雪を避けている……それは現実の問題じゃなくて、過去が原因だから。違いますか?」
「違いません」
素直に祐一は白旗を上げた。
「名雪と何を約束したのか、聞き出そうとしてるんですか?」
「私は名雪の『母親』ですから」
嬉しそうに言う。
「名雪が悩んでいるのなら、力になってあげたいんです」
「でも、まだ全部は思い出せていないんですよ」
祐一は正直に告白した。
「初号機の中で、後一歩で全てを思い出せるはずだった。それなのに、何者かに邪魔をされたんですよ。だから、まだ全部は思い出せていないんです」
「邪魔……」
「もしかしたら、初号機か、往人あたりに。往人は俺をカノン初号機に乗せたくないみたいですからね」
「でも名雪との約束は思い出していただけたんですね?」
「……」
「無理に聞きはしません。でも、名雪を助けてあげていただけないでしょうか」
「善処します。でも、確約はできないですよ。俺も今は、自分のことで手一杯ですから」
「それでけっこうです」
祐一は席を立った。
「お休みですか?」
「ええ。ちょっとまだ疲れが残ってましてね。再生した肉体となじみが悪いみたいです」
冗談にしては随分悪質だったということに、祐一はきっと気づいていなかっただろう。
少なくとも名雪が聞いたら、また蒼白になることは間違いない。
(……本当に、不器用な人ですね)
秋子は茶を飲み干すと、後片付けをするために立ち上がった。
「ねえ名雪、家に帰らないの?」
香里の家で、名雪は横になっていた。
今は帰りたくなかった。
祐一の顔を見たくなかった。
「あんなに会いたかったのに、今は会いたくないの?」
「うん」
「私は祐一くんに会いたいけどな」
だが現在、祐一は一般人との面会を完全に禁止されている。家には戻っているが、その家には秋子と名雪以外の人間が入ることを極端に制限されている。
「私も、会いたい」
「それなら……」
「会いたいけど、会えないの」
祐一が記憶を取り戻したことは、名雪にも分かっていた。
それなのに、祐一は自分のことを避けている。
その理由が何故なのか、名雪には分かっていた。
「……約束、守ってくれないもん……」
翌日。シンクロテスト。
今日は久しぶりに祐一もテストに参加した。LCL濃度はかなり軽い段階から入ったが、すぐに祐一が『圧縮濃度を上げてくれ』といったので、すぐに通常値まで戻した。
祐一のシンクロ率は九〇.三%。
ほぼ完全にカノンとシンクロができているという状態だ。
一方、あゆも調子を上げてきていた。シンクロ率七八.〇%。あゆは調子を落とすことがない。確実に数値を上げている。ある意味では安心してテストができる。
だが、名雪はそうもいかなかった。
シンクロ率、三七.二%。
「名雪さんのシンクロ率、落ちる一方ですね」
「深層意識で、カノンに乗ることを拒否しているんです。間違いなくここ最近の一連の使徒戦で敗れ続けていることが原因ですね」
「痛い思いをしたくないから……」
「そうではありません」
美汐はディスプレイに映し出される名雪の表情を見つめながら言う。
「勝てないことからくる無力感のようなものです。自分の存在意義を見失いつつあるんです。重症ですね」
秋子は苦しげに顔を歪ませる。
シンクロ率が、また下がった。
エレベーターの扉が、開く。
名雪は、動揺を隠すことに何とか成功した。
そこには一人、あゆが乗っていた。
意を決して、名雪は乗り込む。
すぐに、くるりと背を向けて扉を閉めた。
がくん、と動き出す。
無言。
最近、何度か衝突を見せている二人だったが、ここ最近はそれが顕著になっている。
いや、衝突するわけではない。名雪の方が一方的にあゆを避けているという感じだ。
理由は──誰もが分かっていた。
そして誰にもどうすることができなかった。
二人が、そしてその間にいる人物が解決しなければならない問題だった。
エレベーターはただ上昇を続けている。
後ろにいるあゆに対して、名雪は何も言わなかった。
前にいる名雪に向かって、あゆは何も言わなかった。
気まずい沈黙が、一畳程度の空間を支配する。
少し前なら、いろいろと話もしていた。
本当に、ここ最近のことだ。
ちょうど祐一が、取り込まれる前後から──
「心を開かないと、カノンは動いてくれないよ」
突然、後ろから声がかかって名雪の体が跳ね上がる。
「……心を閉ざしているの、私が?」
「名雪さんも、わかってるんだよね」
「……」
くるり、と振り返る。あゆの顔が、驚愕で見開かれた。
名雪は、怒っていた。
その表情が、明らかに変化していた。
「あゆちゃんに、何がわかるの」
「え、えっと」
「祐一のこと、ずっと独り占めしてるくせに、そんなこと言わないでよっ!」
パシィッ!
「……ぇ……」
叩かれたあゆが、何が起きたのか分からずに呆然となる。
そして名雪もまた、あゆの顔と自分の手を交互に見返す。
だが、すぐにまたきっとあゆの顔を睨みつけた。
もう、引っ込みがつかなかったというのが名雪の精神状況だったのかもしれない。
「私よりちょっと早く祐一に会ってたってだけで……」
エレベーターの扉が開いて、名雪は後ろに逃げる。
「私から祐一を取らないでよっ!」
呆然と、名雪を見つめるあゆの視線が痛かった。
その瞳に、断罪されているような気がしていた。
あゆが何も答えられないうちに、扉は閉まった。
「祐一を取らないでよ……」
がくり、とその場に膝をついた。
「私を見てよ、祐一、祐一、祐一……」
『名雪。七年前の約束は、なかったことにしてくれ』
取り込まれる前の、祐一の台詞。
あれからだ。
名雪の調子が一気に下降線を示すようになったのは。
「いやだよ、私を見てよ、祐一……」
だが、答えるものはどこにもなく。
学校は、ますます人数を減らしていた。
疎開につぐ疎開で、今年度の始まりから比べても半減してしまっていた。
そして、香里の友人たちもまた、誰もいなくなってしまっていた。
中学からの友人である北川は、帰らぬ人となってしまった。
親友となった名雪は、自分の家に寝泊りしているものの、昼間はネルフに出ずっぱりだ。
そして、恋愛感情を最近になって抱き始めた彼は──
「……何やってるんだろ、私」
香里は、誰もいない教室の、一つの机にそっと触りながらそんなことを呟いた。
返ってきてくれたはずなのに、まだ会うことさえできないでいる。
会いたいのに。
会いたいのに。
『香里』
『……』
『ネルフに戻る』
『そう』
『だが、約束する。必ず戻ってくる』
『……』
『お前の知らないところで、死んだりはしない』
『待ってるわ』
『ああ、待っててくれ』
「ほんと、何やってるんだろ、私……」
待つしか、自分にできることはないのだろうか。
自分にも何かできることはないのだろうか。
苦しんでいる親友を助けることはできないのだろうか。
自分と同じ気持ちを抱いている彼を救うことはできないのだろうか。
「……なんて、無力なのかしら」
香里はため息をついた。
カノン弐号機が再就役したのは、零号機の再就役より十日遅れてからのこととなった。
理由は分かっている。自分のシンクロ率が落ちていることだ。
以前のようにカノンを動かすことができなくなっている。
それは自分の中に迷いがあるからだ。
祐一に守られてばかりいること──戦士としての自分への疑問。
祐一に見られることがないこと──人間としての自分への疑問。
どちらも理解ができていた。
理解できていながら克服できない分、症状は悪いというべきだろう。
「どうしようか」
ケイジで待機中の弐号機に名雪は話し掛けた。
(私もう、戦えないかもしれない)
ますます落ちていくシンクロ率。
あゆとも、祐一とも顔を合わせることができず、孤立していく自分。
周囲からの期待と失望。
全てが名雪にとって悪い方向へと向かっているようだった。
「祐一が悪いんだよ」
その場にちょこんと座り込んで、名雪は呟く。
「祐一が約束忘れたりするから……」
『余計なことを……』
『何故邪魔をした……』
『どうして俺を殺さなかった!』
『なんで見捨てなかった!』
『生きていても、何も、何も俺にはないのに──!』
「何もないなんて、悲しすぎるよ……」
「生きていれば、きっといいことがあるよ……」
「それなのに……」
どうして今の自分は、こんなにもくじけてしまっているのだろう?
自分が祐一に言ったはずなのに。
『そんなことないよ』
だから、今度会ったときは一緒に、いいことの見せ合いっこしよう。
でも、今の自分には何もいいことが残っていない。
せっかく祐一と再会できたのに。
『いいこと』は全部、なくなってしまった。
「私こそ……約束、守れないよ……」
ウウウウウウウウウウウウウ〜。
はっ、と顔を上げる。
緊急警報。
「使徒……?」
まさに、それは二ヶ月ぶりの使徒襲来の警報であった。
後編
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