『秋子さん。
 愛しの、サイレント・ウィザード。
 あなたはきっと、僕を殺すつもりなんでしょう。
 それはかまいません。
 そうなる日がいつか来るだろうと思っていましたから。
 だから、あなたに僕の全てを返します。
 願わくば。
 往人の暴走を、あなたが止めてあげてください。
 おそらくあなたでなければ、かなわないでしょう。
 僕には無理だ。
 そして柳也にも。
 ここに、僕が調べたかぎりのことがあります。
 あとは、お任せします』

 秋子は、聞き終わった小型カセットを二つに折った。
 さらにその中から、超小型のマイクロチップが現れる。
「……ここまですることはないでしょうに」
 秋子は苦笑した。
 おかげで、情報を突き止めるまでに時間がかかってしまった。
「敬介さん……あなたの命、ありがたくいただきます」
 ディスプレイに、これまで以上の情報が一気に流れ出す。
 人類補完計画。
 そして、翼人補完計画の全容が。
「……まだ……」
 秋子はキーボードを叩く。
 全てのことが知りたい。
 自分の罪を贖うために。
 自分の罪を裁くために。
 往人はいったい何をしようとしているのか。
 ゼーレが企んでいるのはいったい何なのか。
 そして自分はどうするべきなのか。
「私は……」
 懐から、一枚の紙片を取り出す。
 それをさっと眺め見て、くしゃり、と握りつぶした。
 何度、この文字列を眺めたことだろうか。
 だが、それも今日で終わりにする。
 もうこれ以上、自分に嘘をつく必要はなかったから。





 何かが狂っている。
 ほしいものがある。知りたいことがある。
 そしてそのために、自分は他の全てを犠牲にしようとしているのだろうか。
「名雪、今日も帰らないつもりか」
 秋子は連日、深夜まで帰ってこない。徹夜で働きづめになることもしばしばある。
 そして名雪は、あの戦いからずっとこの家に帰ってくることはなかった。
 NERVにも来ない。
 学校に行っているわけでもない。
 家にも帰ってこない。
(香里のところだろうな)
 それしか思い当たらないが、現在この家から外に電話をかけることはできない。
 ネルフに行く以外の外出も許されていない。
(往人め。俺を監視しておこうったって、そう簡単にはいかねえからな)
 冷めていく晩飯の前で、祐一はたった一人でじっと座っていた。





「ほら、いつまでそこでいじけてるのよ」
 香里は優しく声をかける。
 だが、声をかけられた方は相変わらず生気のない表情で、ぼうっと虚空を見つめている。
 香里の声も届いていないかのようだ。
「名雪」
「……」
 うずくまり、何も食べず、何も飲まず、何も話さず、身動き一つせず。
 このままでは名雪の体がもたないことがはっきりと分かっていた。
(なんとか、祐一くんと連絡がつけばいいんだけど)
 何度電話をかけても、水瀬家には通じなくなっている。
 第一五使徒との戦いは、香里も全てを見ていた。
 可視光線に弐号機がつつまれ、そして崩壊した一部始終を見ていた。
(私は、見なければいけない)
 友人が戦いにのぞむ。その全てを自分は見届ける義務がある。
(もう二度と、私の知らないところで誰も死なせない)
 名雪は無事に帰ってきた。
 だが、心はとうてい無事とはいえなかった。
(なにやってるのよ、祐一くん)
 香里の心は焦燥で満たされていた。
(早く助けに来なさいよ)
 自分では助けられないということが、香里には分かっていた。










第弐拾参話

 翼












 漆黒の部屋。時すら流れることのないような部屋に、一人の男と一三枚のモノリスが鎮座している。
「ロンギヌスの槍、回収はわれらの手では不可能だよ」
「何故使用した」
「カノンシリーズ、まだ予定にはそろっていないのだぞ」
 モノリスはかわるがわる男に向かって攻撃的な言葉を放つ。だが男──往人は両手を机の腕で組み、怯みもせずに答えた。
「使徒殲滅を優先させました。やむをえない事象です」
「やむをえない、か。言い訳にはもっと説得力をもたせたまえ」
「最近の君の行動には目にあまるものがあるな」
 と、その時。往人の机の中にある非常電話が鳴った。往人は表情も変えずにそれを手にする。
「柳也、審議中だぞ」
『第一六使徒接近中』
「……分かった」
 都合のよすぎる展開だ。往人は心の中だけで苦笑した。
「使徒が現在接近中です。続きはまた後ほど」
「そのとき、君の席が残っていればな」
 往人の姿が消えて、モノリスだけがその部屋に残った。
「……往人さん、ゼーレを裏切る気ですね」
 少女の声が、最後に響いた。





「はい、あと一五分でそちらにつきます。零号機を三二番から地上に射出、弐号機はバックアップにまわしてください。初号機は碇司令の指示に。私の権限では凍結解除できませんから。それでは」
 携帯電話を切ると、秋子は改めてハザードを切って再出発した。
「使徒を肉眼で確認、ですか」
 秋子の視線の先には、光のアリクイが鎮座していた。

『第一六使徒アリクイエル、戦闘区域にて侵攻停止』
『零号機、発進。迎撃位置へ』
「弐号機、現在位置で待機中です」
「いや、出撃だ」
 往人が重々しい声で命令する。
「ですが」
「かまわん。囮くらいには役に立つ」
 一瞬、声を失うオペレーターズ。
 だが、最終的には逆らうことができるはずもない相手に、頷くだけであった。

 弐号機の拘束が解かれていく。
 それに乗っているのは無論、名雪。
「私、また乗ってる」
 なんだか、自分の頭と体が分離して、別々のことをしているような感覚だった。
「乗る必要なんて、もうないのに」
 祐一を守れない。
 祐一の傍にいることもできない。
 それなのにどうして、自分の体はカノンの中にあるのだろう。
『弐号機、出現位置決定次第、発進せよ』
「……私が出ても、足手まといになるだけなのに」
 名雪の目は、未だ光が戻ってきていなかった。
「どうでもいいよ、もう」

「目標は大涌谷にて停止。以後、動きはありません」
「目標のA.T.フィールドは依然健在」
 と、そこへ秋子がのんびりと到着する。どんな状況でもこの落ち着きようは見習いたいものだが、せめてこういうときくらいは走ってきてもらいたい。
「何をなさっていたんですか」
「いろいろと。状況はどうなっていますか」
 美汐の質問を軽く流し、秋子は舞に尋ねる。
「膠着状態が続いています」
「パターン、青からオレンジに、周期的に変化しています」
 さらに真琴の報告に、秋子は困ったポーズを見せる。
「どういうことでしょう?」
「MAGIは解答不能を提示しています」
 佐祐理が答えると、秋子はますます困ったように首をかしげる。
「光状である以上、あの形態が固定形態でないのは確かですね」
 今はアリクイの形をしているが、それが今後も同じであるという保証はない。
「先に手は出せませんね。あゆちゃん、しばらく様子を見ていてください」
 だが、反論はそのあゆから来た。
『ううん、くる』
 アリクイの右手が上がった。
 そして、それが一気に伸びる。
「あゆちゃん、応戦して!」
「駄目です、間に合いません!」
 使徒の右腕は展開中のA.T.フィールドをあっさりと貫き、さらに零号機の腹部に侵入した。
『うぐぅっ!』
 顔を激痛で歪ませながら、あゆは左手でその右腕を握り締め、右手のライフルを直接使徒に押し付けて連射した。が、甲高い音が跳ね返るだけで、なんの効果も見られなかった。
 そして、浸食が始まった。
 腹部と左手の接触部分から、植物の葉脈のように筋が広がっていく。それはプラグ内のあゆにまで及んでいた。
『……うぐぅ』
 力なく呟くあゆ。
 操縦桿を握り締める左手と、そして腹部のあたりからぼこぼこと葉脈が膨れ上がっていく。
「目標、零号機と物理的接触」
 舞の報告に、秋子は顔をしかめる。
「零号機のA.T.フィールドは?」
「展開中。しかし、使徒に浸食されていきます!」
 佐祐理が声を大にして答える。
「使徒が積極的に一次的接触を試みようとしている……」
 美汐が画面を見ながら言う。
 その画面の先では、使徒の圧力におされて零号機が山際に追い込まれ、背をつけて使徒を押さえ込もうとしていた。が、プラグ内のあゆの体中に、既に葉脈が及んでいた。もはや首筋まで達していた。
「危険です! 零号機の生体部品が侵されていきます!」
「弐号機発進。零号機の援護をさせてください」
「目標、さらに零号機を浸食!」
「危険ですね、既に五%以上が生体融合されています」
 だが、打開策はない。秋子の打った、弐号機発進という手だけが望みだ。
「名雪、あと三〇〇接近したら、パレットガンを目標後部に向けて一斉射出。いいですね」
 ビルから弐号機が現れ、すぐ隣のビルからパレットガンが出てくる。
「弐号機、リフトオフ!」
 が、秋子の言葉にも弐号機はぴくりとも動かない。
「……名雪?」
 悲鳴は、佐祐理から上がった。
「駄目です! 弐号機のシンクロ率が二桁を切っています!」
「名雪!」
『……動かない、動かないよ……』
 ようやく、嗚咽が発令所に聞こえてきた。
「このままでは餌食にされます。すぐに戻してください」
「はい」
 こうして弐号機はまた地下に収納されていった。
 が、それは零号機を助ける術がなくなったということと同義であった。
『うっ、ぐうっ、ぐっ』
 使徒に機体を浸食されていく。それは決して苦痛だけではない。
 快楽ですらあった。
 自分の心と体を侵されていく苦痛と同時に、使徒と心と体を一つに重ねていく快楽。
 気が狂いそうだった。
 少し前のあゆであれば、狂っていたのかもしれない。
『ゆ……いちくん……』





「誰?」
 あゆは自分の頭の中に語りかけてくる誰かの意識を感じた。
「カノンの中のボク……違う、誰かの意識を感じる」
 葉脈に侵されていくあゆの前に、一人の少女の姿が現れた。
「君は……」
 その少女の正体が、あゆには分かっていた。
「もう一人のボク」
 美凪。
 祐一の中にいる、もう一人の自分。
『私と一つになりませんか?』
「ううん、ボクはボク。君じゃない」
『そうですか……残念です。でも、もう遅いです』
 ぼこぼこっ、と葉脈がついに顔に及んでいた。
『私の心をわけてあげます。この気持ち、あなたにもわけてあげます。痛いでしょう。ほら、心が痛いでしょう』
「痛い……違う。寂しい。寂しいんでしょ」
『寂しい? 分かりません』
「一人でいるのが嫌なんでしょ。ボクたちはたくさんいるのに。それを寂しいというの」
『それは、あなたの心。悲しみに満ち満ちているあなたの心です』
「ボクが……寂しい?」
『祐一さんの心があなたにないことが寂しくて寂しくて仕方がないんです』
「だって、ボクは祐一くんの中にいるボクじゃない」
『だから、私と一つになりましょう』
「それだけは、嫌」





 ぽたり、とプラグ内部に雫が落ちた。
 ここは、LCLの中のはずなのに。
「これは、涙……」
 そして、零号機の背に輝く熾色の六枚の翼。
「ボクの、罪の証……」
 生命の実を手にした罪の証。
 感情が満ち満ちたときに現れる、欲望の証。

「往人、まずいぞ。あれが零号機に現れたとなると……」
「ああ。ゼーレが黙ってはいまい」
 柳也の言葉に往人は重々しく頷いた。
「現時刻をもって初号機の凍結を解除する。ただちに出撃せよ」
「司令」
 秋子が驚いて振り返る。
「出撃だ」
「──はい」
 ただちに、出撃命令がなされた。

『A.T.フィールド全開。あゆちゃんの救出、急いで』
「了解!」
 戦いだ。
 戦いだ。
 ついに、俺は戻ってきた。
 自分が本来いるべき場所に。
 そして、大切なものと共にいられる場所に。
「祐一くん!」
 その、瞬間。
 アリクイエルの左腕が伸びて、初号機に襲い掛かった。
「やられるかよっ」
 不意をつかれたが、なんとか跳んで回避する。だが、同時に射出されていたパレットガンは粉々に破壊されてしまった。
「のやろおっ!」
 なおも接近するアリクイエルに、祐一はプログナイフを構えて左手でアリクイエルを握った。
「くらえっ!」
 プログナイフをその先端に斬りつける。
『うぐぅっ!』
 その左腕から、悲鳴がもれた。
(あ、ゆ?)
 それは間違いなくあゆの声。
 だが、間違いなく使徒のものに違いなかった。
(あゆと融合しているということか。ちっ、まずいな)
 ぼこぼこ、と祐一の左腕から葉脈が広がる。震えるほどの悪寒と快楽が祐一に襲いかかる。
「悪いな、使徒」
 握ったプログナイフに力がこもる。
「俺は美凪じゃねえとイケないんだよっ!」
 ばっさりと、左腕の先端を切り落とす。その光が粒子となり、消えた。
 が、残った本体はさらに伸びて再び初号機と接触する。
「イタチゴッコかよ!」
 今度は腹部に来た。左腕の葉脈はなくなっていたが、今度は腹部から広がっていく。
「どうすりゃいいんだよ、ちくしょうめ」
 祐一はプログナイフで斬りつけるも、今度はA.T.フィールドによって阻まれる。
 徐々に、初号機が浸食されていった。
「これは、ボクの心」
 零号機の中で、呼吸の乱れたあゆが戦況を見守る。
「祐一くんと一緒になりたい」
 既に生体融合している使徒の行動は、自分の願望によって制御される。
 ──それならば。
「ダメ」
 初号機だけは。
 祐一くんだけは。
 自分が、絶対に守る。


『指きりげんまん、嘘ついたらはりせんぼん飲ます。指切った』


「A.T.フィールド、一気に反転します!」
 佐祐理の悲鳴と同時に、初号機に接触していたアリクイエルが引き戻されていく。
「使徒を押さえ込むつもり!?」
 アリクイエルの本体ごと、光の粒子が全て初号機の体内に取り込まれていく。そのコアが、異常なまでに大きく膨らんでいた。
「フィールド限界。これ以上はコアが維持できません」
「あゆちゃん、機体を捨てて逃げてください!」
 あゆは首を振った。
「ダメ。ボクがいなくなったら、A.T.フィールドが消えてしまう。だから、ダメ」
 あゆが、自爆プログラムのレバーを引いた。
「あゆちゃん……死ぬ気?」
「コアが潰れます! 臨界突破!」
 肥大化したコアが、みるみる小さくなっていく。
 そして、零号機の翼が、ゆっくりと羽ばたいた。
「祐一くん……」





 暗い家。
 二人だけの聖夜。





(ボクは、後悔しない)
 あゆは目を閉じた。
(今度こそ、祐一くんを守ることができるから……)





 爆発。
 使徒もろとも、零号機の機体が大破する。
 それだけではない。その周りにあった都市──第三新東京市ごと、全てが灰燼と帰された。
 これが、終結だというのだろうか。
 自分たちが住む街と、そして一人の少女の犠牲がなければ、人類は生き延びることができないのか。
「あゆーっ!!!!!」
 初号機からの叫びがこだまする。
 だが、答える者はもう、どこにもいない。
「目標、消失……」
 舞がゆっくりと、沈黙した発令所に向けて発した。
「現時刻を持って、作戦を終了します。第一種警戒体制へ移行」
 静かな、秋子の声。
 それが、悲しみに満ち満ちていることは誰の目にも明らかなことであった。
「了解、状況イエローへ速やかに移行」
 震える手で、真琴がボードを叩いた。
「零号機は?」
「エントリープラグの射出は確認されていません……」
 呆然とした様子で、佐祐理が答えた。
「生存者の救出、急いでください」
「もしいれば、の話ですね」
 美汐の声に、秋子がぎりっと歯をくいしばった。










NEON GENESIS KANONGELION

EPISODE:23   AYU.3










 巨大なクレーターとなった第三新東京市跡に、水が流れ込んでいる。
 もはや、街の面影はどこにも残っていない。
「……とんでもないことよね」
 山の上から、じっとその戦いを見つづけていた香里は、日が沈んでもそこに佇んでいた。
 帰る場所を失った少女には、どこにも行く場所がなかった。
 妹は、知らない間にいなくなってしまった。
 北川は、知らない間に死んでしまっていた。
 名雪は、いつしか心を病んでしまっていた。
 祐一には、今まだ会うことができずにいる。
「私に、何ができるんだろう……」
 失われた人たちのために。
 心が壊れた友人のために。
 そして、誰よりも大好きな人のために。
「……私も、戦う。戦いたい」
 香里は、第三新東京市跡を見ながらそう呟いた。





 その、第三新東京市跡。
 零号機の残骸の傍に、科学部処理班のメンバーが集まっている。
 人数はそう多くない。
 そしてその筆頭にいるのは、美汐。
「赤木博士……」
 作業スーツに身を固めた男が話し掛けてくる。
「このことは極秘とします。プラグは回収、関係部品は処分してください」
「了解。急げ!」
 正直、これが現実なのかと目を疑いたくなる。
 だが、自分はまぎれもなく現実の場所に立っている。
(……ですが、これで)
 また一つ、真実がわれわれの手に近づいてきたということだろう。





 再び、一三枚のモノリスが暗黒の空間に浮き上がった。
「ついに、第一六の使徒までを倒した」
「これでゼーレの死海文書に記述されている使徒はあと一つ」
「約束の時は近い。その道のりは長く、犠牲も大きかったが」
「さよう、ロンギヌスの槍に続きカノン零号機の損失」
「碇の解任には充分すぎる理由だな」
「石橋が殺された意味の分からぬ男でもあるまいに」
「新たな人柱が必要ですな。碇に対する」
 モノリスたちの意見は一致している。
 ネルフ=碇往人は完全にゼーレの手から離れようとしている。
「そして、事実を知る者が必要なんだよ〜」
 のんびりとした声が、その場を締めくくった。





「祐一さん?」
 秋子はノックしてから、祐一の部屋の扉を開ける──瞬間、後ろに飛びのいた。直後、秋子がいた場所をナイフの光が一閃した。
「さすが秋子さん、国連軍の『サイレント・ウィザード』の異名は伊達じゃないですね」
 祐一だった。
 サバイバルナイフを手にして、その刃を薄く開かれた瞳で見つめている。
「どういうつもりですか?」
「いえ、試してみたかっただけです。柳也ですらかなわないという秋子さんの腕前を。ああ、大丈夫ですよ。これ、オモチャですから」
 祐一がその刃先を押すと、刃は柄の中に引っ込んだ。
「……」
「いろいろと聞きたいことがあります、秋子さん」
「どうぞ」
「あゆのことです」
「はい」
「あゆはいったい何者ですか」
「と、いいますと」
「あいつのことははっきりいって謎だらけだ。最初から確かにおかしかった。どうしてカノンに乗っているのかということから不自然だったし、住んでいる場所が分からないことだって、全てが不自然だ。それに、あの翼」
「……」
「あゆが人工的に作られたチルドレンだということは知ってます。その結果、あゆはいったい『何』になってしまっていたんですか?」
「私に分かっていることはそう多くありません」
「秋子さ──」
「だから、協力しませんか」
 祐一は目を見張った。
「協力?」
「そうです。あゆちゃんの、そして全てのKEYはあの、ターミナルドグマにあると考えています」
「ターミナルドグマ……」
(そうだ、使徒は最初から、第三新東京市を、ターミナルドグマを目指してきていたんだったな)
 そこに、秘密がある。
 それならば。
「その話、乗りましょう」
「では、今すぐにでも」
「了解。ところで、名雪はどうしてますか?」
 秋子はようやく、苦しそうな表情に変わった。
「……もう、誰の言葉も聞こうとしていません」
「そうですか」
「祐一さん」
「善処はします。でも、今はまだ早いんです」
 祐一もまた、苦しそうに答えた。
「俺もまだ、自分が『何』を忘れてしまったのか、思い出せていませんから」





 おかしい。
 美汐は改めて、あたりを見回す。
 本部に戻ってきてから、やけに自分の周りに人が少ない気がする。
 それだけではない。本来、影ながら護衛、及び監視を行っている諜報部の人間が、どこにもいない。
 何故?
 まずい、これは──まさか。
(……狙われている?)
 だが、気がついたときには遅かった。
 前後に、複数の人影。諜報部ではない。
(軍隊……戦略自衛隊? 何故このようなところまで)
 殺されるのか、と思ったがそうではなく、自分を誘拐するつもりのようだ。
 逃げられない。
 どこにも逃げ道はない。
 抵抗するための道具もない。
 いや、抵抗すれば間違いなく殺される。
(助けて……)
 男たちは駆け足で自分に近づいてくる。
(助けて、祐一さん!)
 ──が、
 現れた救世主は彼女の思い描いた人物ではなかった。
 ダンッ! ダンッ! ダンッ! ダンッ!
 銃声が、四つ。
 美汐の腕や体にかけられていた手が全て力なく、その体は廊下に崩れ落ちていた。
「大丈夫ですか」
 綺麗な、透き通るようなソプラノ。
「あなた、は」
「早く、こっちへ」
 見たことのない女性だった。が、自分の命を守るためにはこの女性の言うとおりに動いた方がいいということは理解できた。
「あなたはいったい」
「しっ。早くこの中へ」
 通路の途中にある壁を軽くたたくと、そこが突然開いた。
「この中って……」
「早く」
 美汐は迷っている暇はないと感じ、覚悟を決めてその中へ入った。すぐあとに女性が続いて、その壁を閉める。
「ここは?」
「今、明かりをつけます」
 すぐに、蛍光灯がともる。中は普通の部屋だった。それほど大きくはないが。
「こんな部屋があったとは知りませんでした」
「碇司令でも知らないくらいですからね。柳也さんが見つけた場所です。ああ、祐一さんは知っているかもしれませんが」
「あなたは」
「私は裏葉。柳也様から、あなたが危険だと聞いたので助けにまいりました」
「何故?」
「誘拐されたかったのですか?」
「いえ。ですが、助けてもらう理由が分かりません」
「私たちの、崇高な目的のためです」
 美汐は目を細める。
「私たちのために、美汐さんには無事でいてほしかったのです」
「よく分かりませんが」
「とにかく、往人司令には気をつけてください。あの人はもう、手段を選ばないところまできています。あなたをゼーレに売ろうとしたことも、その一つです」
「ゼーレに売る?」
「カノンとあゆさんの真実を知る者として、ゼーレに美汐さんを差し出そうとしたんです」
 美汐の表情が明らかにかわった。
 あの男は。
 私の姉だけではあきたらず、私までも殺そうとしていたということか。
「……許さない……」
「気持ちは分かりますけど、とにかくここから動かないでください。ここにいる限りは絶対安全です。ここの存在を知っている人はいませんから」
「裏葉さん」
「はい」
「あなたがたの目的はなんですか?」
「一人の少女の解放です。私にとっても、柳也様にとっても大切な人です」
「柳也さんが往人司令のところにいる理由はなんですか」
「答えられません。柳也様も私も、自分のためにだけ動いていますから」
 裏葉は、奥の部屋を指さす。
「向こうに非常食もあります。しばらくここを動かないでください」
「いつまでですか」
「そうですね、第一七使徒が倒されるまでは」
「第一七使徒……」
「そんなに長くはならないと思います。それでは」
 裏葉は入ってきた場所から出ていってしまった。
「……ふう」
 大きく息をつく。
 突然の展開だ。
 いったいこれから、どうするべきなのか。
(姉さん……)
 姉は、往人に利用されるだけされて、殺された。
 自分も危うく、そうなるところだった。
(……許せない)
 美汐は、ゆっくりと扉に手をかける。
(あの男だけは、許せない)





「柳也」
 総司令室。ここにいるのは、碇往人総司令と、加持柳也の二人だけだ。
「なんだ、往人」
「美汐を助けたのはお前か」
「だとしたらどうするんだ?」
 二人の間で沈黙が流れる。
 往人は、サングラスを直した。
「……次は許さん」
「覚えておきましょう。で、ゼーレにはどう対処するんだ」
「今さら確執を隠すことはできん。佳乃が行動を起こすより早くこちらが動くだけだ」
「じゃあ、ついにか」
「ああ。観鈴を取り戻す。そして、お前の想い人もな、柳也」
 柳也は肩をすくめた。





 セントラルドグマのキーを解除するため、美汐はIDカードを取り出す。
 ロックが解除され、その先に足を踏み出そうとした、そのとき。
「美汐ちゃん」
 背中に、銃がつきつけられていた。
「……ちゃん、はやめてください」
 背に立っていたのは秋子だった。
 国連海軍の『サイレント・ウィザード』の異名は伊達ではないということだ。
「ごめんなさい。この先に、案内してくださいますか?」
「かまいませんが、祐一さんも一緒ですか?」
 秋子の後ろから、やれやれ、とぼやきながら祐一が顔を出した。
「頼む、美汐」
「かまいませんよ。ですが、覚悟をお願いします。この先にあることは誰にとっても、辛く、哀しい現実しかありませんから」
「ああ。それを目にするために来ているからな」
 このさきはリニアエレベーターとなっている。そこから数分降りたところにあるのが『第三人工進化研究所』だ。
 そこは病室のような、研究所のような部屋。ベッドが一つと、怪しげな装置がたくさん置いてあった。だが、今はどうやら稼動していないようだった。
「ここは……?」
 祐一が尋ねる。
「ここが、あゆさんの部屋です」
 祐一と秋子が驚いて美汐を見る──祐一は、秋子がこの部屋の存在を知らなかったことに、二度驚いた。
「ここで彼女は第二の生を受けた。ここはまさに、今のあゆさんの誕生の場所なんです」
「……言っている意味が理解できない」
「私も、その現場に立ち合ったわけではありません。ただ、あゆさんはずっとここで人工的に成長させられてきた。石橋副指令の手によって」
「副指令の? だが、あゆはそんなこと、一言も言ったことはないぞ」
「記憶が操作されているんです。あゆさんには、日が沈んでから──この部屋に関する記憶は全て消去されているんです」
「……美汐はそれを知っていたのか?」
「ダミープラグの関係で、概要は知っていました。そして、この先にあるものも、話だけは聞いています」
「やめさせろ……ってのは無理だな。権限が違いすぎる」
「そういうことです」
「美汐ちゃん、この先も見せていただけるんでしょう?」
「ええ、もちろん」
 そして、次の部屋に入っていく。そこにあったのは、カノン。零号機の頭部と酷似したものと、その頭部から伸びる背骨。それだけが巨大なケースの中に保管されていた。
「カノンゲリオン……これはいったい?」
「最初に作られたものです。失敗作ですね。祐一さんのお母さん、観鈴さんがいなくなった場所でもあります」
「観鈴が? じゃあ、観鈴は例の実験のとき、これに乗っていたということか」
「そういうことです。そして失われた。魂だけをエントリープラグに残して」
「あゆとは、いったいどういう関係があるんだ?」
「それは……この先です」
 さらに、奥へと進む。その先に何があるのか。
 祐一は、覚悟を決めて美汐の後をついていった。そしてさらにその後ろに秋子が続いた。
 その先は、暗く、何も見えない空間だった。
「今……灯りをつけます」
 赤色灯がともる。そこにあったのは──
「……あゆ?」
 円筒形のガラスケースの中にLCLが満たされ、その中に一人の少女がいた。
「何故あゆちゃんがここに?」
「エントリープラグを発見した時は、ほんの小さな細胞片にすぎませんでした。あゆさんは死なないんです。コアとなる細胞片……これは消滅しないんです」
「アダムの体液……」
「そうです。アダムを注入されたあゆさんは、もう死ぬことがない。だから……」
 美汐は言葉を一度、切った。





「7年前の冬の日にも、死ぬことはなかった」





 祐一の目が見開かれた。
 七年前の冬。
 それは、自分が、全てを失ったとき。
「今、なんて……」
「あの日、あゆさんは殺されたんです。祐一さんの目の前で。男たちに倒され、塞がれ、壊され、犯され、殺されたのは、あゆさんなんです」
「何を……言っている?」
 祐一の頭は混乱していた。
 あの日、自分の目の前で殺されたのは、美凪。
 あの壊れた瞳が、今も目に残っている……。





 見上げれば、空。
 薄暗く、雲がかかった、濁った空。
 俺は少女の傍に座って、ただ空を見つめている。
 その空の向こうにあいつがいる。
 あの雲の向こうにあいつがいる。
 そこへ、行きたい。
 俺は両手を伸ばす。
『お前しかいないのに……』
 俺は、少女の名を呼ぶ。
『あゆ』





「あゆ?」
「あゆ?」
「何故、あゆ、なんだ?」
「俺が愛していたのは、俺がずっと想いつづけていたのは、美凪……」

(……いいえ……私は、美凪ではありません……)

 美凪だ!
 俺が愛していたのは、ずっと、ただ一人……。

『私のことも忘れるくらい、あゆちゃんのことでいっぱいだったの!?』

 あゆ?
 何故、あゆなんだ……。
 俺の心は、ずっと美凪でいっぱいだったのに……。

『祐一さん……』
『美凪か。また会えたな』
『はい……でも、もう、これが最後です』
『最後?』
『はい。もう会うことはないと思います』
『どうしてだ?』
『祐一さんが、記憶と取り戻しつつありますから』
『記憶を取り戻すと、どうなるんだ?』
『……それは秘密です』
『おいおい』
『祐一さん、私は……』
『美凪』
『あなたに会えて、よかった……そして、祐一さんに会ったたくさんの人が、同じように思っています。そのことを忘れないでください』
『……でも、俺は』
『すぐに、また、会えますから』

 お前は、何を言いたかったんだ?
 お前は、全て分かっていたのか?
 じゃあ、お前はどこにいたんだ?
 俺の記憶はいったいどうなっているんだ!?


『祐一さんの記憶は、全てネルフによって操作されていたんです』


 操作?
 それは、どういう意味だ?


『祐一さんは精神の均衡を完全に失っていました。だから、あゆさんの記憶を取り上げ、あいまいな美凪という架空の人物の記憶を植えつけることによって、精神の安定をはかったんです』


 じゃあ、この記憶は?
 美凪と一緒に過ごした何年もの記憶は?
 自分がずっと信じてきた、美凪との思い出は?






『全て、作り物です』






「うあああああああああああっ!!!!!」
「祐一さんっ!」
 祐一は頭を抱えて崩れ落ちる。秋子がそれを守るように抱きしめた。
「……まだ早かったようですね、真実を知るには」
「美汐ちゃん」
「あゆさんはこの通り、もう完全に治療されています。もういつでも、ここから出してかまわない状態なんです」
 美汐はゆったりとした動作で、脇にある装置のボタンを押した。
 LCLがごぽごぽと排水され、ケースの入口が開く。
「うぐぅ……」
 あゆが意識を取り戻し、いつもの台詞を吐く。
「大丈夫ですか、あゆさん」
「……うぐぅ」
 そして、その背に輝く翼。
 生まれたままの姿のあゆに、白く輝く翼はまさに天使を思わせた──その顔が苦痛に歪んでさえいなければ。
「まだ、神経接続が完全ではなかったかもしれませんね。でも、大丈夫です。数分すれば痛みは消えるはずですから」
「美汐ちゃん……」
「秋子さん、あゆさんをお願いします」
 だが、完全に自我を失ってしまった祐一を放っておくこともできない。
 秋子は動けずに、ただ美汐の行動を見守るしかできなかった。
「私は姉の復讐を果たすことを、ずっと考えていました。あゆさんを殺すことがその復讐になるかと思いましたが、あゆさんに罪があるわけじゃない。だから、別の方法をとることにしました」
「別の……」
「往人司令の想い人、観鈴さんの復活を阻止することです」
 美汐はガラスケースに手を触れた。
「これは、再生装置なんです。たとえ死ぬことがないあゆさんといえども、この装置がなければ回復には一〇〇年かかるところだったんですよ、MAGIの計算ですけどね。そして、観鈴さんが再生するときは、この装置がなければ不可能なんです」
「これを破壊するというのですか?」
「そうです。これを二度と作ることができないように、そのコアの部分を腐食させるんです」
 美汐は脇の装置にあるキーボードを叩いた。

 DELETE

 ガラスケースの表面に、無数の亀裂が一斉に走った。
「……もちろん、ケース自体はいくらでも作り直すことができます。でも、観鈴さんが再生するためには、他のどのケースでも無理なんです。このケースでなければ。何故なら……」
 ガラスが大きな音をたてて破裂した。その一片が、美汐の左頬をかすめていく。
「これは、観鈴さんの魂が溶け込んでいたケース……すなわち、二〇〇四年のあの日、観鈴さんが乗り込んでいたケースに他ならないからです」
「じゃあ、観鈴さんは……」
「これでもう二度と、この世界に返ってくることは不可能になりました」
 美汐は自虐的に笑った。
「……これでよかったですか、姉さん……」
 そして美汐はゆっくりと祐一に近づく。
 秋子は、その姿があまりにも虚ろすぎて、声をかけることすらできなかった。
「祐一さん……あなたさえ、あなたさえいなければ、もう少し早くこうすることもできていたのに……」
 その祐一は、まだ呆然としている。
 美汐はその祐一にそっと口づけた。
「さようなら。もう、会うこともないでしょう」









次回予告




 彼が追い求めていた少女は幻に過ぎなかった。
 心のヨリシロを失った祐一に、夕暮れの中、新たな少女が微笑む。
 彼の孤独を包み込むような笑顔に溶け込む祐一。
 だが、彼らには過酷な運命が仕組まれていた。

 次回、最後のシ者




第弐拾四話

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