ガラスの破片がいっぱいに散らばって、私はその中を血まみれの足で歩いている。回りには何もなくて、ただいっぱいに地平線が広がっている。この広い世界に私はたった一人。どこまでもただ傷だらけの大地が広がるだけ。私はただ歩きつづける。ガラスは私の血にまみれて、光を受けてきらきらと輝いている。きらきらと。その輝きに私の体も赤く照らし出されている。そして、私の体がどこかへたどりつくことはない。痛みだけが体中に侵食していく。私の心を蝕んでいく。私の体と心はもう治ることがないところまで、堕ちてしまった。全ては取り返しのつかないところまできてしまった。それなのに私は救いを願っている。でも救う人はいない。この広い世界に、私以外には誰もいない。たった一人、傍にいてほしい人はこの世界の中に入ってくることはない。

「ゆういち……」





「秋子さん、三〇三号室からの定時連絡。相変わらず昏睡状態が続いているみたい」
「そうですか」
 真琴からの報告を受け、秋子は後ろを振り返る。
 司令の席には、今は誰もいない。
(シンクロ率、〇%……もう名雪がカノンに乗ることは、ないでしょうね)
 ほっとしているのか、それとも哀しいのか。
『……この子、頼むわ。秋子、この子、頼むわ……』
(ええ、わかっています、晴子……)
 このままでいいはずがない。
 そのために、今できることをするしかない。





 東京第三新東京市は完全に崩壊した。カノン零号機の自爆、そして第一六使徒の誘爆。そのエネルギーは核爆発のそれに匹敵した。要塞都市とうたわれた場所は、完全にその姿を失っていた。
 巨大な爆発跡は、今では湖と化している。その湖岸に一人の青年がたたずんでいた。濁った瞳で、ただその湖を見つめている。その背がひどく心細げに見えた。夕陽を受け、青年は涙すら流しているかのように哀しげな表情を見せている。
(……全て、なくなってしまった、か)
 そう、全てはなくなってしまった。
 自分は何故ここに来ていたのか。
 最初は、愛しい女性の墓参りをするためだけに来た。
 それがいつの間にか、自分の周りにいる人たちを守るようになった。
 そのどちらもが、なくなってしまった。

 愛しい女性は、実在しない人物だった。今もこの頭の中に残っている記憶は、全てネルフによって植え付けられたもの。理解はしていても、この思い出がある以上、納得ができない。だが、それは現実だ。
『……お米券……進呈……ぱちぱちぱち……』
 その声も、髪も、綺麗な指も、全てが脳裏に残っているというのに。その全てがまやかしなのだという。
『つまり、それだけ記憶っていうのは不確かなものだっていうことよ』
 この感情まで、ニセモノだったということか。
 狂おしいほど求めた女性。
 それが、美凪ではなく、他の女性だった。
 突然そんなことを言われて、納得できるはずがない。
 今もまだ、自分の心の中には美凪への愛情が渦巻いているのだから。
『あなたに会えて、よかった……そして、祐一さんに会ったたくさんの人が、同じように思っています。そのことを忘れないでください』
 他の人なんかどうだっていい。
 ただ美凪だけが傍にいてくれれば、それで満たされていたのに。
 何故、お前だけがこの地上に存在しない──?

 そして、自分が守りつづけてきたものもなくなってしまった。
 名雪にはもう会うことができない。今さら、どんな顔をして会えばいいというのだろう。
 名雪は全てを知っていた。
 七年前に自分が失ったものが美凪ではなくあゆだったことを、名雪は知っていた。知っていて、知らないふりをしていた。
『私のことも忘れるくらい、あゆちゃんのことでいっぱいだったの!?』
 一度だけ、名雪が意味不明なことを叫んだことがあった。
 名雪は、知っていたのだ。
(それなのに、今さら会えるか)
 七年前に失った少女が今も目の前にいることを理解して、それを名雪に伝えてどうなるというのか。
 余計に苦しめるだけだ。
 それなら、会わない方がいい。
 そして、あゆ。
 あゆにも、もう会うことができない。
 今さらあのときの少女があゆだったと分かったところで、今も自分の中では架空の少女への愛情があふれている。
 あゆがどれだけ自分を求めたとしても、自分はそれにこたえることはできない。
(俺が愛しているのは、架空の少女……)
 ヘドが出る。
 現実に納得ができない自分に。
 何も守ることができない自分に。

(俺はいったい、何をしたいんだ……)
 全ての結論は出た。
 自分が追い求めていた少女はどこにもいなかった。
 そして、あの日。
 あゆをなくし、名雪と出会い、そしてまた一人に戻った。
(もう、ここにいる意味もないな)
 そして、行く場所もなくなってしまった。
(なんだか、変な感じだ)
 疲れた、とでも言おうか。
 心が空虚になった。今まで報われない想いだけで満たされていた自分の胸から、全てが抜けて落ちてなくなってしまった。
 もともと目的もなくこの場所にとどまっているだけだった。だが、ここにいれば、初号機に乗れば美凪に会える、それだけを信じてここにいた。
 だが、もう美凪に会うことはおろか、その面影を追うことすらできなくなってしまった。
 たまらなく、俺は自分自身を壊したくなる。
 体中をナイフで切り刻んで、大量の鮮血を撒き散らすことができれば、どれほどの快感が得られるだろう。
 自分の手が、喉もとに伸びる。
 その手に、ぐ、と力がこもった。

 ♪ ♪ ♪

 と、その時、どこからか鼻歌が聞こえてきた。
 祐一は、左右を見回す。
(……誰だ?)
 そこに、一人の少女が佇んでいた。
 祐一と同じように湖を見つめ、チェック模様のストールを羽織い、手にカップのバニラアイスを持っている。
「あ〜い〜す〜を〜た〜べ〜よ〜う、あ〜い〜す〜を〜た〜べよ〜♪ お〜ぉな〜か〜い〜っぱ〜い、あ〜い〜す〜を〜た〜べよ〜♪」
 祐一の顔がひきつる。
「ちょ〜こ〜ちっぷ〜、ま〜っちゃに、す〜とろべ〜り〜、ば〜に〜ら、おぉ〜〜な〜か〜い〜っぱ〜い、あ〜い〜す〜を〜た〜べよ〜♪」
 ……どうリアクションしてよいものか。
 祐一はしばらくその少女をただ黙ってじっと見ていた。
「アイスはいいですね。アイスは心とお腹を充たしてくれます。リリンの生み出した食文化の極みです。そうは思いませんか、碇祐一さん」
 にぎりこぶしで主張してきた。
「……一つだけ言っていいか」
「はい」
「もう最終話。出てくるの遅すぎ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
 笑顔がひきつっている。どうやらかなり怒っているようだった。
「で、お前は」
「あ、申し遅れました。私は、渚シヲリといいます」
「くだらないところで原作に従うなっ」
「もちろん冗談です。渚、栞です」
 渚、栞。
「つまり、お前が今度新しく来るっていう」
「はい。しくまれた子供、フィフスチルドレンです。祐一さんと同じです」
「フィフスチルドレン……」
 色白のその姿からは、どことなく弱々しい印象を受けた。
 そして、顔いっぱいに浮かべた笑顔に、心ごと包まれるような温かさを覚えた。
「あ、私のことは栞でいいですよ」
「じゃあ俺のことも遠慮なくお兄ちゃんと呼んでくれていいぞ」
「原作に忠実なのは祐一さんの方じゃないですかっ」
「当然、冗談だ」

『いつも自分が仲良くしているメンバー、全員がこの家に集まっている。
 これで全員。
 そのはずなのに。
 誰か、足りないような気がする。』

(ああ、そうか……)
 祐一は唐突に思い返していた。
 何かが足りないような気がしていた。ずっと、ずっと、ずっとだ。
「お前だったのか」
「はい?」
「いや、なんでもない」
 祐一は言葉につまった。
 何故だろう。
 この少女を前にしていると、昔を思い出す。
(ここに来たばかりの……いや、そうじゃない。もっと、ずっと昔だ。そう、七年前の……)
 あのころの幸せな感覚が、蘇ってくる。
(美凪に似ている……いや、そうじゃない)
 ただ、この少女の後ろに美凪の影が見える。
 何故?
「祐一さん?」
 きょとんとして、栞が尋ねてくる。その声で祐一は我に返った。
「いや。ところで栞、こんなところで何をしているんだ?」
「アイスを食べていました」
「はあ?」
 祐一は顔をしかめる。
「ですから、アイスを食べてました」
「言われて思ったんだが、どこで買ってきたんだそのアイス」
 店などどこも開いていないはずだが。だいたい、消滅した町のいったいどこに店があるというのか。
「それは秘密です」
「うあ、めちゃくちゃ気になる」
「アイス、好きですから」
 それは答えになってない──
(……今の言い方、美凪に似てるよな……)
 自分は何を考えているのだろう。
 架空の少女の面影を、目の前の現実の少女に着せているのだろうか。
(俺は……)





 本部へと降下するカートレイン。青いルノーのボディの中に二人の人物がいた。
「それで、彼女の素性はわかったの?」
「ぜんぜん。まっしろ。過去の経歴は完全に抹消されてた」
 秋子と真琴。無論、運転席に秋子、助手席に真琴だ。
「……委員会が直接ネルフに送ってきたチルドレン。裏がないはずはないですね」
「マルドゥックの方でもフィフスの件は非公式になってるわね」
 人類補完委員会。その実体はゼーレ。
 人類補完計画。全ての人類を単一種として進化させることを目的とする組織。
(もう、ロンギヌスの槍はない)
 月軌道を今も彷徨うロンギヌスの槍を持ち帰ることは現在の科学力では不可能。
 だとすれば、ゼーレの考える人類補完の方法はただ一つ。
 初号機をヨリシロとして、全ての人類を一つとする。
(本当に、悪趣味な考え方ですね。ですが……)
 それだけがゼーレの目的ではない。だが、それはゼーレの中でもトップシークレット。
 おそらくその全容を完全に把握しているのはただ一人、委員会議長、佳乃。
「それからもう一つ」
「何?」
「美汐のことなんだけど、司令も場所が把握できてないみたい」
「往人総司令も?」
「うん、ゼーレに捕まったっていうわけでもないみたいだし、完全に行方不明」
「美汐ちゃんが……」
「あ、そろそろ着くわね」
 カートレインが少しずつ減速を始めた。
「で、今日のところはどうするの?」
「とりあえず様子を見ましょう。フィフスチルドレンの力、見せてもらいます」





 いつものように、三つのエントリープラグが並んでいる。
 だが、ディスプレイに映る顔は、いつもと若干異なる。
 SUBJECT00:FIRST.C
 SUBJECT01:THIRD.C
 SUBJECT02:FIFTH.C
 渚、栞。
「このデータに間違いはないのか」
 柳也が驚いたように言う。
「全ての計測システムは正常に作動しています」
 舞が静かに答える。
「MAGIによるデータ誤差、認められません」
 佐祐理もまた、感情を押し殺した声で答える。
「まさかコアの変換もなしに弐号機とシンクロするとはな」
 それも、シンクロ率八二.四%。あゆよりも高い。
 さすがに委員会が直接送り込んできた子供だけのことはある。
 そして、この子供は。
(あゆと同じ、か……)
 柳也は秋子と視線を交わす。考えていることは同じようだった。
「よし、圧縮濃度をあと〇コンマ三、下げてみてくれ」
「了解。圧縮濃度、危険域に入ります」
 だが、シンクロ率、ハーモニクス、共に全く変動はなかった。
「驚きですね」
 さすがに秋子も目を見張った。
「でも、信じられません。いえ、システム上、ありえません!」
 佐祐理が悲鳴をあげる。秋子は彼女の傍に近づくと、ぽん、と肩を叩いた。
「でも事実なんです。事実をまず受け止めてから原因を探っていきましょう」
「は、はい」
 秋子の指示で佐祐理があわただしくキーボードをたたいていく。
(でも、佐祐理さんでは何もわからないでしょうね)
 この少女自体にプロテクトがかかっているような状態では手の出しようもない。
(せめて、美汐ちゃんがいてくれたら)
 だが、その美汐もあのとき以来完全に姿を消してしまった。
 今、どこで、どうしているのか。全く分からない状態だ。
『ちゃん、と呼ぶのはやめてください』
 ふと、いつも言われていることを思い出して苦笑する。真琴がそれを見て顔にハテナを浮かべた。





 試験後、あゆは一人、エスカレーターに乗っていた。
 長く続くくだりのエスカレーター。
 再生してから、祐一と話す機会もなく、無機的に毎日を過ごしている。
(名雪さん……大丈夫かな)
 状況は、あゆも知っている。
 人知れず、病魔は確実に名雪の精神を蝕み、崩壊へと追い込んだ。
(あんなことになって……もう祐一くんに会うことなんてできないよ)
 避けているのは、あゆもまた同じであった。
 自分の秘密が知られた。
 ずっと隠していたのに。知られたくなくて、祐一の傍にいないようにしていたのに。
(もう、会ってなんてくれないよね)
 自分が七年前の少女でなくてもよかった。
 ただ祐一の傍にいて、祐一を守ることができるならそれで充分だった。
 それなのに。
(……ボク、ボク……!)
 ゆっくりと、エスカレーターは降りていく。
 その先に、一人の少女がいる。
 あゆの視界に彼女が入ってきた。
「こんにちは」
 少女はにっこりとあゆに微笑む。
「えと、あ、うん。こんにちは」
 エスカレーターから降りて、二人の少女はまっすぐに向き合う。
(渚、栞ちゃん)
 自分より一つ年下の少女。
「あゆさん、ですよね」
「うん。栞ちゃん、だね」
「はい。私たちは、同じですね」
 あゆの顔色が変わる。
『私たちは同じ』
 その言葉が意味することは一つしかない。
「君が、あの……!」
「はい。もう一人の仕組まれた子供。アダムの体液を注入され、人外の存在となった者です」
「……」
 あゆは周囲を確認する。
 ──間違いない。
「A.T.フィールド……」
「はい。私たちの話を他の誰にも聞かれたくありませんでしたから、ちょっと壁を作ってみました」
 この少女はA.T.フィールドを操ることができる。
 カノンに乗ることもなく、自らの力で。
 それこそ、アダムの体液を埋め込まれた証。
(ボクと、同じ……)
 栞が、ふと視線を逸らした。
 何だろう、と思ってあゆもそちらに目がいく。が、何もない。
「すみません。ちょっと、急用ができてしまいました」
 栞が言う。
「あ、うん」
「引き止めてしまって申し訳ありませんでした」
「ううん」
 そう言って、栞は歩み去る。
 それをただあゆは見送った。
(……栞ちゃん)





「往人、例のフィフスとあゆが接触したそうだ」
 司令室。電話で連絡を受け取った柳也が報告を伝える。
「なるほどな」
 往人は背もたれに体をあずけ、天井を見つめた。
「いいのか?」
「いいも悪いもない。ゼーレが仕掛けてきたなら受けてたつまでのことだ」
「だが、次にあゆを失ったときは、簡単に再生することはできないぜ」
「その可能性はない。同じ体液からなる者同士。傷つけあうことなどできんよ」
「だが、万一ということもある」
「問題ない」
 往人はまったくかけあわなかった。
「……往人、何を隠している?」
 柳也は机に手を置き、往人に近づく。
「お前の願いを成就するためには、あゆが絶対必要なはずだ」
「お前にとっても、な。あゆが大事なら首輪つけて鎖でつないでおくんだな」
 往人は立ち上がり、ポケットに手を入れて部屋を出ていった。
 一人残された柳也は、がくがくと震え出した。
(まさか)
 うかつだった。
 あらゆる可能性を考えていたつもりだったが、完全に騙されていた。
(翼人を補完する別の方法をお前は持っているということか、往人──?)





 栞は、ゆっくりと歩いていく。
 そして、あるところまでやってくるとぴたりと足を止めた。
「ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ」
 右手脇の陰になっている通路に向かって呼びかける。
「……そう、知らなかったわ」
 小さく答が返ってくる。
「会いたい人がいたものだから。でもまさか、あなたに会えるなんて思わなかった」
 物陰から、ゆっくりと人影が現れ出る。
「……久しぶりね、栞」
「はい。お久しぶりです、お姉ちゃん」
 香里だった。
「生きてたのね、やっぱり」
「はい」
「私は信じなかった。栞が死んだと聞かされても……きっと、どこかで生きている。そう思っていた」
「ご心配おかけしました」
「栞……」
 香里はゆっくりと栞に近づく。そして、その肩を両手で包んだ。
「……いったい、今までどこに」
「世界中を転々としていました。どうしてもやらなければならないことがあったので」
「それは、栞の意思なの?」
「半分はそうです」
 沈黙が訪れる。
 感動の再会──という感じではない。
 姉は確かに妹に会えたことを喜んでいるようだったが、それ以外の感情が混ざっていることも事実だった。
 そして妹は数年ぶりに姉に会ったというのにいつもと変わらず平然としている。
「……私や家族を放って、いったい何をするっていうのよ」
「お姉ちゃん」
「私がどれだけ心配したか、分かっているの?」
「ごめんなさい」
 そうして、ようやく香里は栞を抱きしめる。
 だが、その手には力がこもっていなかった。
「悲しまないで、お姉ちゃん」
 栞が離れて、微笑む。
「私がいなくなっても、お姉ちゃんは幸せになれるから」
「栞」
「私がお姉ちゃんを幸せにしてみせるから」





 セカンドインパクト。
 ゼーレ、そしてゲヒルン。
 マルドゥック機関と『孤児院』。
 ネルフ、そしてカノンゲリオン。
 ロンギヌスの槍。
 人類補完計画。
 ──翼人。
(……往人さんの望みは、失われた観鈴さんの再生)
(そして、ゼーレの望みは人類の補完──違いますね。もっと別の、何かがある)
(ロンギヌスの槍はもうない──カノンゲリオン初号機を使った人類補完計画)
(人類全てを生命のスープに戻す……でもそんなことは、往人さんもゼーレも望んでいるわけではない、はず)
(そして、あの少女……)
(ゼーレが直接ネルフに送り込んできた以上、彼女はゼーレの先兵であると思って間違いないでしょうね)
(美汐ちゃんなら、彼女のことも何か知っているのかも……でも、どこにいるのかは分からない)
(このネルフ本部から出てはいないはず。この本部内に、美汐ちゃんが十日間以上隠れていられる場所がある、ということ)
(……やっぱり、非常手段に出るしかないようですね)
 秋子は机の引出しから拳銃を取りだす。
 サイレント・ウィザードの力を見せるときが、どうやら来ているようであった。





 祐一は黙ってそのときを待っている。
 扉の前でじっと佇み、その扉が開かれるのを待っている。
(なんだか、初恋でもしてるみたいだな)
 苦笑する。が、悪い気分ではない。
 自分が逃げ出しているということも分かっている。だが、今は誰かにすがりたい。
 少し休めば、また元の自分に戻ることができる──はず。
 だから、今だけは。
 音がして、扉が開く。
 その向こうから、ずっと待っていた少女が現れた。
「あ、祐一さん。私を待っていてくれたんですか?」
 栞がストールをなびかせながら近づいてくる。
「ああ、待っていたんだ」
「冗談でも嬉しいです」
「冗談なんかじゃないさ」
 そう、冗談などではない。自分は栞を待っていた。
 全てを失い、全てから逃げ出した自分。そんな自分に微笑みかけてくれた一人の少女。
 それを愛しく思わないはずがなかった。
「祐一さんは帰らないんですか?」
「別に、帰らなきゃならない理由もないさ」
「帰る家、ホームがあるっていうことは幸せにつながることですよ?」
「帰ったところで誰かいるわけじゃないし、別に家に何かを求めてるわけじゃない」
 自虐的に言うと、栞はにっこりと笑った。
「行ってみたいです」
「行く? どこへ」
「祐一さんの家」
「何故?」
「祐一さんとお話をしたかったから、ではいけませんか?」
 人差し指を口にあてておねだりする栞。
 もちろん、祐一に否と答えるだけの精神的余裕はなかった。
 今は、栞とだけ一緒にいたかったのだから。
「それじゃ、帰るか」
「はいっ」
「どこかでアイスクリームを買って帰ろう」
「もちろん祐一さんのおごりですよね」
「いいぜ。いくらでも買ってやる。さいわいネルフからたんまり給料はもらっている」
「では」
 満面の笑みを浮かべる栞。祐一はまだこのとき、この少女の胃袋の大きさを理解していなかった。

 そして祐一の両手にはアイスクリームがいっぱいに詰まった袋を1つずつ持たされることになったのだ。
「栞……本当に全部食べるんだろうな」
「今日一日じゃさすがに無理ですよ」
「おいコラ」
「明日の朝までには全部食べます」
 それもそれでどうかと思うが──それより今の台詞は聞き捨てならない。
「明日の朝?」
「はい。お泊りしていっても、いいですよね?」
 もちろんそれはかまわないのだが。どうせ秋子も帰ってくることはないし、名雪も家にはいない。困ることは何もない。
「まあ、別にかまわないけど」
「嬉しいです」
 だがそれは、何かを期待してもいいということなのだろうか。
 今いち理解に苦しむ。
(期待──?)
 おかしなものだ。
 いったい、何を期待するというのだろう。
(今まで、女に興味なんてなかったのに……)
 美凪だけを追い求め、それ以外の女性と決して深く付き合おうとはしなかった。どんな女性にでも声をかけ、気さくな面を見せかけてはいるが、誰かと愛し合うつもりはまるでなかった。
 それなのに。
(美凪が実在しないことが分かったからなのか?)
 栞がにっこりと微笑んだ。
(それとも、まさか栞に惹かれている、とでも?)





 柳也は司令室から出ると地上へ向かった。
 やることは多い。だが、もはや日本政府やゼーレとの折衝が必要な段階ではなくなってしまったため、少しずつ仕事量も減ってきている。
 前副司令の石橋という男は、雑務が随分と得意だったようだ。
(神奈……)
 もうすぐ。
 もうすぐ、願いがかなう。
 翼人補完計画の要──この『鍵』を使って、地上にただ一つの魂を取り戻す。
 チン、と音が鳴ってエレベーターが止まり、ドアが開く。まだ地上にはほど遠い。
 扉の向こうにいた女性は、大きく目を見開いた。が、意を決したように乗り込んでくる。
 無言のまま扉は閉まり、上昇を再開した。
(そういや、この件も未解決のままだったな)
 彼女は自分に背を向けて何も話そうとはしない。
 伊吹、佐祐理。
(真実を知らせないことが彼女のためだと思っていたが……)
 真実を知らないということ自体がある意味では不幸なことなのかもしれない、と最近思う柳也であった。
 なにしろ、自分も分からないことだらけの中心にいるのだ。いつも少しでも多くの情報を手に入れようともがき、足掻いている。
「なぜ……」
 そんなことを考えていると、佐祐理の方から話しかけてきた。
「なぜ、あなたはみちるを……」
 その肩が震えている。
 絶対に許すことのできない相手に対し、少しでも多くの真実を知ろうと努力している。
(……大切な者を失ったとき、人がどう行動するかにはいくつかのパターンがあるというが)
 自分や往人などは、諦めず、もがき、足掻く者だった。
 だが、祐一や佐祐理などは、諦め、絶望し、心を崩壊させた者だった。
「そんなに、知りたいのか?」
 柳也はからかうような口調で言う。
「何があろうと、俺がみちるを殺した。お前にはそれで充分じゃないのか」
「充分なんか……!」
 佐祐理は扉に手をあて、がりっ、と爪をたてた。
「あなたが無意味に人を殺すようなことはしない。それは分かっています。じゃあいったい何故、あの子が殺されなければならなかったのか。それを知りたいと思うのがそんなに不自然ですか!?」
「……いや、自然だよ」
 結局、人は知らないままでは生きられない。
 どんな真実も、暴かれないものはない。
 ──だが、全ての真実を知る必要はない。彼女にとっての真実。それだけを伝えてやればいい。
(人には、すがりたい嘘というものがある。それもまた事実だ)
 柳也は壁に背を預けた。そして腕を組む。
「……俺はみちるを殺してなんかいない。みちるを殺したのは別の奴だ」
「──」
 佐祐理が振り向く。
 意外にも、その顔には何の表情も浮かんではいなかった。
「では、誰が」
「ゼーレ」
「ゼーレ……人類補完を企む組織」
「その通りだ。ゼーレは人工的にチルドレンを作り出そうとした。その実験材料として、たくさんの孤児を使った。あの孤児院で少しずつ孤児がいなくなっていたのはそれが原因だ」
「なぜみちるが選ばれたのですか? なぜ私ではなく」
 意外なほど、佐祐理は冷静だ。
 もしかしたら、そのことは薄々感づいていたのかもしれない。
 自分の態度、舞の態度──勘の鋭い祐一には気づかれていた。佐祐理も感情を廃し、客観的に見つめなおしたとき、何かがおかしいことに気づいたのかもしれない。
「孤児院の長……つまり舞の父親だな。彼はゼーレの一員だ。誰を使って実験を行うかは彼が全てを決めていた。俺も全知全能というわけじゃないさ」
 そう、全ての真実を知る必要などないのだ。
 誰しも、真実を知ることで痛みを覚える必要はないのだから。
 エレベーターが止まる。
 そして、佐祐理が後ずさりして、エレベーターから出た。
(そうとも)
 再び扉がしまって、エレベーターは上昇を続けた。
(……みちるを実験材料として使うように願い出たのが舞だったなんて、知る必要はないんだ)
 柳也はようやく地上に出る。
 一つ伸びをして、目の前の惨状に目を向ける。
(ハデにやったもんだな)
 零号機の自爆、そして第一六使徒の消滅。
 第三新東京市は完全に都市としての機能を失っていた。
 ネルフ職員には別の官舎が与えられ、それ以外の一般市民は別の都市へと疎開していった。
(ま、それもあと少しの辛抱だ)
 もうすぐ『文書』にかかれている最後の使徒が現れる。
 それを倒せば、補完が始まる。
 ゼーレの人類補完計画。
 そして、往人の翼人補完計画。
(……どちらも、成功させるわけにはいかない)
 柳也もまた、自分の願いがある。
 そのためには、どちらの計画も成功させるわけにはいかなかった。
 ポケットから煙草を取り出し、ライターに火をつける。
 最初の一服を宙に向かって大きく吐き出した。
 その、瞬間だった。
 自分の首筋に、冷たいナイフが押し当てられているのに気づいたのは。
(な……)
 柳也の動きが固まる。
 まさか、この自分がここまで接近を許すとは──こんなことは、生まれてからこのかた一度しかない。
(まさか)
 その、一度の相手が今後ろにいるということか。
「秋子さん……ですね」
「よくお分かりになりましたね」
 姿は見えないが、声は明るい。
 だがこの人は、その声で、微笑みながら、いとも簡単に人を殺すことができる。
 躊躇いというものがない。
 自分の目的のためには誰でも殺す。
 表面の笑顔は作り物で、彼女の心の中は冷たく、何の動きもない。
 そのことを、自分は知っている。
「サイレント・ウィザード……地中海戦争のときも、あなたは一人でこうして、敵将の船を静めた。たった一人で、たった一晩で……一人ずつ、相手の背後に回っては首を落としていった。夜が明けたとき、船の中に決定権限を持つ者は一人もいなくなっていた」
「懐かしいお話です」
「あのとき、三カ国連合のスパイをしていた俺の命だけは助けてくれましたね。本当にあのときほど命が惜しいと思ったことはありませんでした。あのときも、こうしてあなたはいつの間にか俺の後ろにいて、ナイフを首にあてていた」
「今でも、命は惜しいですか?」
「ええ。あのとき以上に」
「では、一つお答えしてほしいことがあるんです」
「うかがいましょう」
「美汐ちゃんの、居場所を」
「……何故、俺が知っていると?」
「往人総司令を欺けるとしたら、あなたしかいませんから」
 たったそれだけの理由で、自分にナイフをつきつけているということか。
 だが、ここで知らないと言い張ったら間違いなく自分は殺される。
 この人は、そういうところは徹底している。
「……B地区六−十二、C通路の途中に隠し部屋があります」
「入り方は?」
「注意深く見ていけば秋子さんなら場所はわかると思いますよ。あとはその壁を強く押してくれれば扉は開きます」
「分かりました」
 す、とナイフが引かれる。ふう、と大きく息を吐いた。
 そして振り返ると、既に秋子はどこにもいなかった。
(サイレント・ウィザード……やはりあの人にだけはかなわないな)
 いつのまにか、指に挟んでいた煙草は全て燃えつきていた。





 再開されたスーパーで食糧を買い、家に戻ってくる。
 爆心地から離れていたおかげで、葛城家の辺りはそれほど被害を受けているわけではなかったが、第三新東京市に見切りをつけて出ていくものも多かった。
(さびれてきたな、このあたりも……)
 祐一は玄関の鍵をあけて、栞を中に入れる。
「おじゃまします」
 丁寧に一礼して、栞は中に入ってきた。
「キッチンをお借りします。すぐ、ご飯作りますね」
 食材をもって、栞はキッチンへと向かう。
(手料理か……そういや最近、ずっと自分で作ってたっけな)
 秋子が忙しく、名雪も戻らないという状態では自分で作る以外に食事をする方法がない。
(なんだか……)
 祐一は、自分がこうした温もりを求めていたのだということに気づいていた。
 どんなに認めたくなくとも、それが偽らざる自分の本心だということが分かっていた。
(……美凪……)
 本当に求めていたものは、架空の少女。
 だが、その少女と同じように自分の隣にいてくれる女性。
(俺は)
 祐一は、自分が誰かに縋りたいという気持ちに嘘がつけなくなっていた。
(栞がほしい……)
 エプロンをつけ、料理を始めている栞。
「栞」
「はい?──あ」
 その後ろに回って、祐一は栞を抱きしめていた。
「ゆ、祐一さん……」
「しばらく、このままで」
「──はい」





 モノリスたちはなおも話し合う。
 既にネルフの離反は決定的となった。そして、ゼーレがネルフを許すことはないということも。
「ネルフ、そもそもわれらゼーレの実行機関として結成されし組織」
「われらのシナリオを実施するために用意されたもの」
「だが、今は一個人の占有機関となりはてている」
「さよう。われらの手に取り戻さなければならん」
「約束の日の前に」
「ネルフとカノンシリーズを、本来の姿にしておかなければならん」
 そして、SEELE:01のモノリスが最後に発言した。
「往人さん。ゼーレへの背任、その責任を取ってもらうんだよ〜」





 一方、ネルフ本部。第七ケイジ。
 拘束された初号機の前に、往人が一人立っている。他には誰もいない。巨大な頭部を見上げながら、さきほどからずっと独り言を呟きつづけている。
「俺たちに与えられた時間はもう残り少ない。だが俺たちの願いを妨げるロンギヌスの槍は既にない……」
 ロンギヌスの槍は月軌道へと移行した。もはやあれを持ち帰ることは不可能だ。
 ゼーレより先に槍を手にし、そしてその使用を不可能にいたらしめた。
 完璧だ。
 全ては、計画どおり。
「まもなく最後の使徒が現れるはずだ。それを消せば願いがかなう」
 カノンゲリオン初号機は何も応えない。光を失った瞳で、ただ往人を見つめるだけだ。
「もうすぐだぜ、観鈴」





 同じく、第三人口進化研究所内部。
 あゆは全ての実験を終えて、誰もいない、薬品の匂いのするこの部屋のベッドで横になっていた。
 誰もいない。
(……栞ちゃん……)
 自分と同じ、アダムの体液を埋め込まれながらも発狂することなく生き続けることができた少女。
 この世界にたった二人。自分と、栞だけ。
(いったい、何をするつもりなんだろう……)
 あゆはうつぶせになって、目を伏せる。
(そして、ボクは何をしたいんだろう……)
 何のために生きるのか。
 誰のために生きるのか。
(祐一くん)
 自分が求めているものはたった一つ。
 でもそれを求めることだけは許されない。
 人ならざる者となってしまった自分には。





 食後のアイスを食べおえ、二人は風呂に入っていた。
 一緒に、だ。
『お風呂、沸かしてありますけど』
 そう言った栞に、祐一が冗談半分で答える。
『じゃあ、一緒に入るか』
 それを栞は拒まなかった。
 そして、こうして二人で入っている。
 葛城家の風呂はけっこう広い。二人といわず、三、四人が入っても十分な広さがある。
 無駄に広い。というと確かにそのとおりかもしれない。
「湯加減はいかがですか……?」
「ああ、ちょうどいい」
 お互い、しっかりと体を洗ってからこうして湯船につかっている。
 すぐ横に、栞がいる。
(……こんなキャラクターじゃなかったよな、俺)
 ぼうっとする頭で、風呂場の天井を見上げる。
 先ほどから、二人の会話はほとんど進展していない。お互い、緊張していたのだ。
 長い時間が流れていた。
 と。
 風呂場の電気が、突然消えた。
「……停電、ですか?」
「ああ、最近多いんだ。町がこんな状態だから仕方ないんだが」
 小高い窓から月明かりだけが差し込んでくる。
 祐一は、隣にいる栞を見つめた。
 暗闇の中、その瞳だけが綺麗に輝いていた。
「しおり……」
 そっと手を伸ばす。
「あ、ゆういち、さん……」
 しっとりと濡れた髪に手を回し、ゆっくりと近づいていく。
「ん……」
 お互いの唇が、体が、熱を持っていた。
(美凪をなくしてから、誰も求めることはなかった)
 祐一は、舌をからめあいながら、そんなことを思っていた。
(でも今は、栞がほしい……)
 栞の背に腕を回す。栞もまた、それに応えた。
 しっかりと抱き合い、そして、重なりあう。
 小ぶりな胸が、祐一の胸にあたる。
「……今、小さな胸だって思いましたね」
「思ってないぞ。小ぶりだと思っただけだ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
 そして、栞から口づけを求めてきた。
「……でも、好きです」
「俺もだ」
 そのまま。
 祐一は、栞の中に入っていく。
「ん、ああっ」
 栞の爪が祐一の背に食い込む。
「栞……」
 祐一は、小さな少女の体をしっかりと抱きしめた。
「ずっと、俺の傍にいてくれ……」
「はい……」
 目を閉じ、二人は激しくお互いを貪りあった。





 他人を知らなければ裏切られることも、たがいに傷つけあうこともない。
 でも寂しさを忘れることもない。
 人間は寂しさを永久になくすことはできない。
 人はひとりだから。
 ただ、忘れることができるから人は生きていける。

 常に人間は心に痛みを感じている。
 心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる。

 でも、その痛みを和らげるものも存在する。
 人の温もり。
 それを知ってさえいれば、生きることも辛くはなくなる。
 温もりを与え合い、人は生きていくことに立ち向かう。





「愛している、栞──……」










 第弐拾四話

最後のシ者














後編

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