二〇〇〇年 南極大陸





「惣流博士の提唱したスーパーソレノイド理論ですか」
「あれは、あまりに突飛すぎるよ」
「まだ仮設の段階にすぎん代物だ」
「しかし、あの巨人の動力はS2理論以外では説明できません」
「図らずとも、既に実証ずみですよ、あれは」
「現実に存在していたのだから、認めるほかあるまい」
「データの検証が全て終われば、そうするよ」
「ロンギヌスの槍は?」
「先週、死海からこっちに陸揚げされたままです」
「地下に送る前に処理は必要だろ。大丈夫か?」
「提供者との接触実験は来月一三日の予定だ。調整は間に合うよ」
「今日の実験は、例のフィールドの自我境界信号だったかな?」
「はい」

 実験室の中で飛び交う意味不明の言語。そして、その中核に位置する二人の人物。
 黒いTシャツを着た青年と、その青年よりもはるかに幼げに見える少女。
 二人とも、深刻そうな表情だ。
「現実のセカンドインパクトに虚構のセカンドインパクトを重ねるわけか。アダムを幼体にまで戻す。それは口実というわけだな」
「でもそれを望んだのは往人さんなんだよ〜」
 少女はにっこりと笑う」
「科学者って自分の考えを信じすぎるものだからね〜」
「独善的か?」
「思い込みが激しすぎるんだよ〜。現実を的確に把握できてないんだよ」
「そういう人種が真実を求めている。皮肉なもんだぜ」
「求めているのは、自分たちの気持ちよさだけなんだよ」
 少女は自分の左手にまかれた黄色いバンダナに触れた。
「碇さんたちは今度の一一日にこちらを発つそうです」
「喫煙コーナーをもっと近くに設置してほしいな」
「全施設禁煙の話もあったそうです。あるだけマシですよ」
「そうなったらここにはいないさ。煙草なくして仕事はできんよ」
「寒くてメシもまずいですからね、この地の果ては」
「今日もAランチか」
「いいかげん大阪の寿司が食いたい、ですか」
「違う、九州ラーメンだよ」
「どうも日本は小さくて、どこも同じに見えちゃいますわ」
「そりゃ君の国が広すぎるんだよ」

 変化はそのとき訪れた。
 基地全体に、警報が鳴り響いたのだ。

『非常事態、非常事態。総員、防御服着用。第二層以下の作業員は、至急セントラルドグマ上部へ避難してください』

「何が起こった」
「わかりません。実験中に、突然アレが」
「表面の発光を止めろ! 予定限界値を越えている!」
「アダムにダイブした遺伝子は、既に物理的融合を果たしています」
「A.T.フィールドが、全て解放されていきます!」
「槍だ、槍を引き戻せ!」
「だめだ、磁場が保てない!」
「沈んでいくぞ!」
「わずかでもいい、被害を最小限に食い止めろ!」
「構成原子のクウォーク単位での分解だ、急げ!」
「ガフの扉が開くと同時に、熱滅却処理を開始!」
「すごい……歩き始めた」
「地上からも歩行を確認」
「コンマ一秒でいい、奴自身にアンチA.T.フィールドに干渉可能なエネルギーを絞り出させるんだ!」
「すでに変換システムがリセットされています!」
「カウントダウン、進行中!」
「S2機関と起爆装置がリンクされています。解除不能!」
「翼を広げている、地上に出るぞ!」

 にび色にかすむ記憶。
 ぼやける視界と、それでもはっきりと覚えている声。
『頼むわ……』
 最後まで離れない、声。
 あの日。
 セカンドインパクトが起こったあの日。
 私は南極にいた。
 事件が起こったまさにその場所にいた。
 何が起こったのかなどは分からなかった。
 でも、何が起こったのかは分かった。
 滅びるのだ。
 全てが。
『……この子、頼むわ。秋子、この子、頼むわ……』
 最後までそれだけを告げる声。
 今まで生きてきて、いろいろなことを経験し、覚え、忘れ、その繰り返しの中で、一番はっきりと覚えている記憶。
 耳にこびりついて離れない声。
 自分にはないもの。
 彼女にはあるもの。
 その差を感じさせられた時。
 失うこの子が悲しかったのか。
 失われる彼女が悲しかったのか。
 何も残らぬ自分が悲しかったのか。
 もう今では何も分からない。
 分かるのはたった一つ。
 彼女が死ぬ。
 それだけ。
『……頼むわ……』
 涙。
 そう、彼女は涙を流していた。全てを諦めて、自分の子をも諦めて。
 自分の子の命だけは、助けたくて。
『ほんま、頼むわ……』
 色のない顔。
 震える声。
 血まみれの手。
 こんな状況で、静かに眠る赤子。
『はい……』
 私は赤子を受け取った。
 絶対に許せない相手の子供を受け取った。
『お預かりいたします』
 彼女は赤子を手渡した。
 絶対に渡したくない相手に子供を受け渡した。
『……おおきにな……』
 彼女は、笑った。
『ほんま、おおきにな……』
 最後の力を振り絞って、血まみれの手で赤子の頬を撫でると、彼女は力尽きた。
 後に残されたのは自分と、静かな、本当に静かな赤子。
 私の友人の子供。
 私が絶対に許せない女の子供。
『……名前……』
 子供の胸に刺繍されてはっきりと書いてある、名前。
 それを、むしりとった。
 そして、赤い海に投げ捨てた。
『……私の、子供……』





その、四年後──


彼女は、ナイフを握り締めていた





 機関室で最後の一人の首を落とした彼女は、ナイフについた血をぺろりと舐めた。
 血に囲まれていると、自分が生きていることを感じる。
 あの、全てが消滅して以来。
 自分は、血と死に囲まれていなければ生きていけなくなってしまった。
「もう一人……」
 この船内をうろつく男に、警告を与えなければならない。
 この一晩で、殺さなければならない連中は全て始末した。
 だが、それで全ての任務が完了したというわけではない。
 彼女は行動を開始した。
 音もなく動き、そして標的に近づいていく。
 男はまだ気がついていない。
 注意深く周りを見ているのに、自分の姿だけは映っていない。
 彼女の顔に、微笑みが浮かぶ。
 そして、ゆっくりと彼の背後に回り、その首筋にナイフをあてた。
「なっ……」
「お久しぶりですね。こんなところで就職活動ですか?」
 男は硬直して動くことができずにいる。
 そして、彼女はナイフをゆっくりと引いた。
「く……」
「もし、私の邪魔をするようなら亡くなっていただきます」
「邪魔をするつもりはありませんよ。それに自分は、命がおしい」
「それを証明するものはありません」
「どうすれば信じていただけますか」
「三カ国連合のスパイをやめて、UN軍に入って私に情報をいただけるなら」
「……自分の命の保障はありますか?」
「今ここで死ぬのとどちらがいいですか?」
 男は、諦めることにしたらしい。
 ポケットから一枚のディスクを取り出し、肩越しに手渡す。
「ありがとうございます」
「UN軍への転向の件、間違いないでしょうね」
「ええ、必ず上官に伝えておきます。私には切り札がありますから」
 かわりに彼女は、小さな瓶を手渡した。
「一度、試してみてください」
 そして、彼女の気配が消えてなくなった。





その、一三年後──


彼は空を眺めていた





 この空には翼を持った少女がいる。
 俺はその少女を助けるためだけに生きてきた。
 たった一人の相棒とは、もう何年も会っていない。
(神奈……)
 だが、そのかわりに現れたのは別の少女だった。
「こんばんは、柳也さん」
 ドイツ支部からネルフ本部へと移動中の二人は、秋子という共通の話題もあったせいか、非常に仲良くなっていた。
 セカンドチルドレン、惣流・名雪・ラングレー。
「もうすぐ日本だな。秋子さんに会うのももうすぐだ」
「うん。楽しみだよ」
「サードチルドレンは男の子だっていう話だしな。ネルフ総司令の息子だとさ。エリートだな」
「碇、祐一」
「うん、知っているのか?」
「ちょっとだけだけどね〜」
「じゃあ久しぶりの再会か。向こうも覚えてるといいな」
「本当だよ〜」





その、七年前──


彼女は、彼と出会った





「大丈夫?」
「……もう駄目かもしれない」
「話せるんなら、大丈夫だよ」
「……別に、どうでもいい」
「ほら、立って」
「……放っておいてくれ」
「駄目だよ、最近ここらへん、ちあんが悪いってお母さんが言ってたもん」
「死んだほうがましだ」
 虚ろな瞳。
 目の前にある私の顔さえ、映っていない。
「うーん、うちまで運べるかな」
「かまわないでくれ……放っておいてくれ」
「そういうわけにはいかないよ」
 私は男の子を背負う。
 すごく重くて。
 辛くて。
 大変だったけど。
 でも、がんばった。
 死なせたくなかった。
 元気になって、一緒に遊びたかった。
 誰もいない家は、私には広すぎた。
 誰か傍にいてほしかった。
 ……誰かの傍にいたかった。





その、七年後──


彼は、彼女と再会した





 祐一は適当に駅を出て、夏の日差しを浴びる。今日は随分と熱い。まだ春だというのに。今年は猛暑になるかもしれない。
「寒いのもいやだが、暑いのもいやだ」
 冬のアイスクリームと、夏の鍋焼きうどん。どちらが地獄だろうかなどと考え──不毛なことだと気付いてやめた。
 ふと、虫の声が聞こえた。
「そういや、生態系が戻ってきてるとかなんとか」
 インターネットで見た記事を思い出す。こう見えても新聞の一面に載るような記事には一通り目を通している。もっとも、そのほとんどは見出しだけなのだが。
 虫の声のした方に目を向ける。そちらにも長い道路が、延々と伸びていた。
 その、歩道。
「……?」
 人がいた。
 自分と同じくらいの年の、少女、のように見えた。





その、半年後──


彼女は、自分と同じ存在に出会った





 あゆの視界に彼女が入ってきた。
「こんにちは」
 少女はにっこりとあゆに微笑む。
「えと、あ、うん。こんにちは」
 エスカレーターから降りて、二人の少女はまっすぐに向き合う。
(渚、栞ちゃん)
 自分より一つ年下の少女。
「あゆさん、ですよね」
「うん。栞ちゃん、だね」
「はい。私たちは、同じですね」
 あゆの顔色が変わる。
『私たちは同じ』
 その言葉が意味することは一つしかない。
「君が、あの……!」
「はい。もう一人の仕組まれた子供。アダムの体液を注入され、人外の存在となった者です」
「……」
 あゆは周囲を確認する。
 ──間違いない。
「A.T.フィールド……」
「はい。私たちの話を他の誰にも聞かれたくありませんでしたから、ちょっと壁を作ってみました」
 この少女はA.T.フィールドを操ることができる。
 カノンに乗ることもなく、自らの力で。
 それこそ、アダムの体液を埋め込まれた証。
(ボクと、同じ……)
 栞が、ふと視線を逸らした。
 何だろう、と思ってあゆもそちらに目がいく。が、何もない。
「すみません。ちょっと、急用ができてしまいました」
 栞が言う。
「あ、うん」
「引き止めてしまって申し訳ありませんでした」
「ううん」
 そう言って、栞は歩み去る。
 それをただあゆは見送った。
(……栞ちゃん)





その、翌日──


彼女は、最後の別れをかわした





 壁が崩れ落ち、その向こうからカノン弐号機が倒れてくる。
 そして、ゆっくりと、両手を垂らした初号機が姿を現す。
 それを、栞は静かに見つめた。微笑みながら。
「栞……」
 初号機の右手が伸びる。その手の中に栞の体がすっぽりとおさまり、頭だけが握られた手の中から飛び出していた。
「ありがとうございます、祐一さん。弐号機は、祐一さんに止めておいてもらいたかったんです。そうしなければ彼女と一緒に生きつづけたかもしれませんでしたから」
「栞……何故だ」
 何を尋ねているのかは、祐一にも分からない。
 何故自分に接触したのか。
 何故自分と心を通わせたのか。
「私が生き続けることが、私の運命でしたから。結果、人が滅びたとしても」
 違う、そんなことを聞きたいんじゃない。
 自分が聞きたいことは、そんなことじゃない。
「でも、このまま死ぬこともできます。生と死は等価値なんです、私にとっては。自らの死。それが唯一の、絶対的自由なんです」
「何を……お前が何を言っているのか、俺には分からない」
 聞きたいことはそんなことじゃない。
 話したいことはそんなことじゃない。
 たった一つ。
「遺言です」
 祐一の体が完全に硬直した。
 ユ・イ・ゴ・ン。
 その言葉が、頭の中で何度も繰り返し流れた。
 栞が、死ぬ?
 何故?
 遺言?
 何だ……何を、栞は言っているんだ?
「さあ、私を消してください。そうしなければ、祐一さんたちが消えることになります。滅びの時をのがれ、未来を与えられる生命体は、ひとつしか選ばれないんです」
 幸せそうに、栞は微笑む。
「そして、祐一さんは死すべき存在ではありません」
 栞が、かすかに顔を上げる。
 その視線の先に、自分を見守ってくれる人がいる。
 気づいていた。
 必ず、来てくれると。
(お姉ちゃん)
 そこにいたのは、香里だった。
 今度こそ、自分が消えるときには傍にいてくれる。そう信じていた。
 だから、もう消えることは何も怖くない。
「祐一さんには、未来が必要です」
「……」
「ありがとうございます。祐一さんに会うことができて、嬉しかったです」
 レバーを握る祐一の手が震えていた。
 違う、そんなことを聞きたいんじゃない。
 俺は、俺が聞きたいことはただ一つ。
 何故お前が、俺の傍にきたのかということ。
 何のために近づき、何のために俺の心をずたずたにしたのかということ。
 お前は、俺のことをどう思っていた──?





その一八ヶ月前──


長野県、第二新東京市(旧松本市)

第三高校講堂内

弦楽四重奏 練習開始二二分前



チェロ──第四弦



調弦


Johann Sebastian BACH

Suiten fur Violoncello solo Nr.1

G−dur,BWV.1007

1.Vorspier











KANONGELION

DEATH










作者:静夜

イメージ音楽MALICE MIZER
Gackt
Pierrot
Janne Da Arc
Sads
drug store
Λucifer

制作:『悪意と悲劇の館』










『主電源接続』
『全回路動力伝達』
『起動開始』
(何が始まるんだかな……)
『絶対境界線まで、残り1.0』
『0.5』
『0.3』
『0.2』
『0.1』
『カノンゲリオン初号機、起動!』
 何かが、動いた。
 祐一はそれを感じた。




TEST TYPE

KANON−01

テストタイプ初号機




「シンクロ率──うそっ」
 佐祐理は信じられず、声をあげた。
「佐祐理さん、報告をお願いします」
「は、はい……シンクロ率、四一.三%、です……誤差は、〇.三%以内です」
「初めての起動で四〇%を超えたというのか……」
 佐祐理の報告に、舞が答える。
「事実よ、受け止めなさい」
 それに注意を与えたのは、美汐である。正直、自分でも一瞬呼吸を忘れるほど驚いていた。
「……祐一さん」
 秋子がいつになく険しい顔で、大スクリーンを見つめる。
 そして、告げた。
「初号機、発進!」




非常事態




 光線は初号機の頭部を貫く。そして初号機は吹き飛ばされて、後ろのビルに激突した。
「頭部破損! 損害不明!」
「制御神経が次々と断線していきます!」
「シンクログラフ反転!」
「パルス、逆流!」
「パイロットの生死、不明!」




流血




 秋子は美汐を目を合わせる。
「作戦を中止します。パイロットの保護を最優先にしてください。プラグ、強制射出をお願いします」
「だめです、完全に制御、不能です……」




沈黙




 佐祐理の言葉が、重たく響く。その時はじめて、秋子の表情が曇った。
「……そんな……」
 スクリーンに、壁を背にして完全に沈黙した初号機と、そこへ近づいていく第三使徒クゼエルの姿だけが映っていた。




EMERGENCY




「初号機……再起動!」
 佐祐理の声が響くと同時に、初号機が立ち上がった。
「そんな、バカな。シンクログラフはマイナスのままなのに……動けるはずありません」
 美汐が自分の目を疑っている。
「まさか、暴走!?」
 秋子は、スクリーンに映し出される初号機の様子を、ただじっと見つめている。




BSOLUTE ERROR FIELD




「あれは、A.Tフィールド」
「やはり、使徒も使えたのね」
 舞と佐祐理が八角形の壁について確認する。
「……あれでは、攻撃はおろか近づくことも──」
 そう美汐が言いかけたときである。
「──さ、左腕復元!」
 真琴の悲鳴のような声が響く。
「すごい」
「まさか、一瞬にして!?」
 スクリーンを凝視する。そこには、確かに人の腕とおぼしき左腕が生えてきていた。
 そして、その壁を破ろうと両手を中央からこじいれていく。
「初号機もA.Tフィールドを展開、位相空間を中和しています」
「違うわ、侵食しているんです」




制御不能




「ウオオオオオオオオオッ」
 何をしようとしているのかは、見ている者には明らかだった。
 両腕を組んで振り上げ、力いっぱい光球めがけて打ち下ろす。
 ひたすら、その繰り返しであった。
 クゼエルは抵抗しなかった。いや、できなかった。もはや、生命活動は停止しかかっていたのだ。
 わずか、数撃で。
 そして、最後に右腕を振り下ろした時、亀裂が走った。
 クゼエルの顔が、ひしゃげた。
 今までにないほどの閃光があたりを支配する。
 そして、爆発した。
 光の十字架が、使徒の上に発現した。




虐殺




「あれが、カノンの、本当の姿……」




KANON−01

汎用ヒト型決戦兵器

人造人間

カノンゲリオン

テストタイプ

初号機









「おはようございます!」
「どわっ」
 突然アップで現れた女性に驚いて家の中へ戻ってしまう。
「おはようございます、秋子さん」
「おはよう、佐祐理ちゃん、舞ちゃん」
「……おはよう」
 扉の向こうにはオペレーターの二人、佐祐理と舞が立っていた。
「……どうしたの、こんな朝から」
「あれ? 秋子さんから聞いてないんですか?」
 いったい何を、と聞こうとしたがそれより先に佐祐理がそのまま答えた。
「今日一日、祐一さんのお供をするよう申し付かったんですー。ね、舞」
 こくり、と頷く。
「……は?」
 さっぱり分からない。
「今日、祐一さんはお休みをもらってお出かけなさるんですよね」
「……それについてくるって?」
「はい」
 なるほど、と納得した。
 つまりは監視役ということだ。
「……ご迷惑ですか?」
 突然佐祐理さんが悲しそうな顔をする──と同時に舞が恐ろしい形相で睨んできた。
(やれやれ、できれば一人で行きたいんだがな……)
 とはいえ、断ることはできないだろう。佐祐理が無理についてくるということはないだろうが、その代わりに諜報部が影で尾行するに違いない。
 いや、既にされているというべきか。
「どうしても、一人で行きたいところがあるんです」
 佐祐理が泣きそうな顔になった。
「だから、途中で二時間くらい一人にさせてくれるなら、一緒でもかまいません」
 その顔がぱっと輝いた。
「じゃあ、いいんですね!?」
「素敵な女性の誘いを断ることはできないですよ」
「ありがとうございます」
 佐祐理はぺこりと頭を下げた。



 孤児院で間引きが行われていたという事実。
 それを知った時、だが佐祐理は少しの衝撃も受けなかった。
 なぜなら既に、精神が破綻していたから。
『……みちるの死が、佐祐理にショックを与えたんです』
 その殺害現場。
 舞と、みちると、三人の秘密の遊び場。
 そこが、血に染まった。
 一人の男の仕業で。
『その時のこと、どうしても思い出すことができないんです』
『思い出せない?』
『みちるの死があまりにショックだったのか、部分的に記憶を失っているんです』
 覚えているのは、遊び場まで一人駆けていったこと。
 そして、その場所で血まみれで立っていた男、柳也のことだけだ。
『あの男がみちるを殺したのだと、後で舞に聞きました』
 そっと、佐祐理は柱に触れた。
 そこには、『 伊吹 みちる 之 墓 』と刻まれていた。
『同じ姓なんですね』
『あの子が、それを望んだんです』
 何が起こったのかも理解することができず、ただ放心していた。
 ずっと舞が佐祐理のことを抱きしめていた。

『大丈夫だから』

 ただ、その言葉を繰り返して。
『舞は十日間も、ずっとそうしてくれていたんです』
『……』
『佐祐理がようやくここに戻ってきたとき、佐祐理は舞のために一生を捧げようと思ったんです』
 それは決してオーバーな表現ではない。佐祐理は舞に命を救われたのだと信じきっているのだ。確かに舞が佐祐理の心を救ったのは間違いのないことであるし、その意味では命を救ったといっても過言ではない。
『今、あの男がこのネルフ本部にいます』
『ええ』
『絶対に佐祐理は、あの男を許しません』
 強い口調だった。
 誰にも止めることのできない意思がそこにはあった。
『佐祐理さん』
『はい』
『佐祐理さんは俺にどうしてほしいんですか? 協力してほしいんですか? それとも復讐するのを止めてほしいんですか?』
 聡明な佐祐理のことだ。
 祐一が尋ねることで佐祐理の心を落ち着かせようとしていることなど、すぐに気付いたであろう。
『両方です』
『つまり、心の支えになればいいわけですね?』
『はい』
 難しい要求だった。
 この女性を見捨てることよりも、はるかに。
『いいでしょう。自分で役に立てるのなら』
『ありがとうございます』
(ま、悪くないよな)
 佐祐理は、天使のような笑顔を見せた。
(この笑顔が見られるんなら)



(……みちるを実験材料として使うように願い出たのが舞だったなんて、知る必要はないんだ)



「祐一さんっ」
 自分を呼ぶ声。振り返ると同時に飛び込んでくる、少女の身体。
「佐祐理……さん……?」
「よかった……よかった、もう、会えないんじゃないかと……っ」
 どうやら、自分が墓参りをしたあと、そのまま第三新東京市を出ていったのではないかと不安になっていたようだ。
(信用されてないな……いや、されているのか?)
 約束の時間をこれほどオーバーして、なおこの場所に留まって待っていてくれたというのは、自分を信じてくれていたからに他ならないだろう。
「申し訳ありません。ちょっと、旧友に会って時間をオーバーしてしまいました。約束の時間には戻れませんでしたけど、よければこれから佐祐理さんのお弁当を食べさせてはもらえませんか?」
 激しく首を振る佐祐理。それを見ると、祐一も思う。
 戻ってきてよかった、と。
 少なからずこういう人がいるから、この世界もまだ捨てたものではない。





同、第三高校講堂内

弦楽四重奏 練習開始一〇分三〇秒前




「おはよう、碇くん」
「ああ」
「今日、何やるんだっけ」
「パッヘルベルのカノン」
「いいわね、チェロは」
「何故?」
「和音のアルペジオだけなんだもの」


ヴァイオリン──第二弦


調弦



Johann Sebastian BACH

Partita III fur Violino solo

E−dur,BWV.1006

3.Gavotte in Rondo






「名雪?」
 部屋の中はとりたてて何もなかった。まあ、ドイツから日本に移動する間だけしか使わないのだから当然のことといえばそうなのだろう。
「ほら、名雪、起きなさい」
「うーん、もうちょっと……」
(まるっきり子供だな……)
 ベッドに横になっている少女を見つめる。
 深い海の色をした髪が、祐一の目に飛び込んできた。
「……名雪……?」
 ふと、その名前を口にする。
 違和感と呼べるものが、全くといっていいほどになかった。
「うにゅ……?」
 その声に反応したのか、名雪がゆっくりと目を開ける。
「……お母さん」
「おはよう、名雪」
「……おはよう……」
 あふ、とあくびをする名雪。
(……こんなトロそうなのが、セカンドチルドレン……?)
 祐一は明らかに顔がひきつっていた。



他人を知らなければ裏切られることも、たがいに傷つけあうこともない。
でも寂しさを忘れることもない。
人間は寂しさを永久になくすことはできない。
人はひとりだから。
ただ、忘れることができるから人は生きていける。

常に人間は心に痛みを感じている。
心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる。



 一方で食堂を出た名雪は、ぽつりと呟いた。
「なんだ、覚えてないのか」
 柳也が後ろで、声を忍ばせて笑っていた。



「へえ……弐号機は赤いんだな」
 艦橋で巨大なシートを被せて固定されているカノンゲリオン弐号機は、初号機や零号機とはまた違った迫力があった。
 赤い機体。
 四つの瞳。
「弐号機は通常の三倍のスピードが出せるんだよ」
「嘘つけい」
 名雪の頭にチョップを入れる。
「痛い」
「嘘をついた罰だ」
「うー」
 だいたい、赤ければ三倍という短絡的な思考が許せなかった。
 嫌いではないが。
「弐号機は初の実戦タイプとして開発されたんだよ」
「そうらしいな」
「うー、ちょっとは感動してよ」
「それを使いこなすのはパイロットの腕次第だからな。機体の自慢をしたところで始まらない」
 さすがに初号機で三体の使途を葬った経験が言わせる台詞であった。
「私も早く使徒と戦いたいよ」




敵襲




「全弾命中──だめです、全く効果がありません!」
 艦長は部下の報告を聞いて、なるほど、と頷いた。
「秋子さんの言う通りですな。通常兵器はまるで役にたたん」
「A.Tフィールドの内部、ゼロ距離まで近づいて魚雷を打ち込めばなんとかなると思うのですけど、その前に撃沈させられる可能性の方が高いと思いますから」
「でしょうな。それで、弐号機を発進させる、と?」
「はい。子供たちはもう、きっと準備万端ですわ。予備電源を供給するよう、命令をお願いします」
「うむ」
 艦長が頷いて命令を出した、まさにその瞬間であった。
 旗艦が、ぐらり、と揺らめく。
「何事だ!」
「艦長、アレです!」
 ブリッジのカメラからの映像がテレビに映る。
「あれが、カノン弐号機」




PRODUCTION MODEL

KANON−02


飛翔




「名雪、護衛船に予備電源を出してもらっているから、すぐに供給してもらって」
『了解だよ』
 すると、弐号機はシーツを羽織ったまま空高く跳躍した。
「すごい」
 香里がその光景に見とれた。途中でシーツを投げ捨てて船から船へ飛び移る様は、伝説の牛若丸を思い起こさせる。




プロダクションモデル

弐号機




「名雪、くるぞ」
「うん、分かってるよ」
 カノン弐号機はプログナイフをかまえて水しぶきを上げて急速接近する使徒を待つ。
 そして、使徒が水面から飛び跳ねた。
「うわああああっ」
 祐一があまりのみじめさに涙を流しそうになった。
 自分に飛び掛ってきているのは使徒とはいえども、超巨大鯛焼きでしかないのだ。
 その鯛焼きの攻撃を受けるとは一生の恥辱。そして──

 ザッパアアアアアアアッ!

 鯛焼きに食われて波間に消えるなど、末代までの恥であった。




水中戦闘




『開け!』

 弐号機の四つの瞳が光、両腕が伸びる。
 そして、開いた使徒の口の中に無人の戦艦二隻が勢いよく突入する。
 何十本という魚雷が、使徒体内に向かって、放たれ、そして、

 爆ぜた。

 大量の海水が宙に舞い上がり、さらにその情報で光の十字架が現れる。使徒消滅の光だ。
 そして、弐号機が空から護衛船へと着艦した。
「やったっ!」
 北川の声が響き、香里がにっこりと微笑む。
「なんとか、勝ちましたね」
 秋子もほっと胸をなでおろしていた。




殲滅




The Kingdom of this world
『好きなんでしょ?』
「ひうっ!」
 弐号機がのけぞり、激しく痙攣した。
is become.
『寂しいんでしょ?』
「いやぁっ!」
 弐号機が頭を押さえて、うずくまる。
The Kingdom of our load,
『自分のものにしたいんでしょ?』
「やめてぇっ!」
 弐号機の首から上が奇妙に曲がっていく。
and of His Chirst, and of His Chirst!
『誰にも渡したくないんでしょ?』
「いやああああああっ!」
 弐号機の四つの目が、苦しそうに歪んだ。
and He shall reign for ever and ever.
「私の心まで覗かないで、これ以上私の心を犯さないでっ!」
「名雪っ!」
 秋子が蒼白な顔で画面を見つめる。
and He shall reign for ever and ever.
「心理グラフ、限界っ!」
「精神回路がズタズタに寸断されています。これ以上の過負荷は危険すぎます」
 美汐が秋子に注意をうながす。もちろん、秋子もこれ以上名雪を苦しめるつもりなどなかった。
and He shall reign for ever and ever.
「名雪、戻って!」
「いやよっ」
and He shall reign for ever and ever.
「命令よ、名雪、撤退しなさいっ!」
「いやっ! 今戻るくらいなら、ここで死んだ方がましだもんっ!!!!」




自我崩壊




 シンクロ率、三七.二%。
「名雪さんのシンクロ率、落ちる一方ですね」
「深層意識で、カノンに乗ることを拒否しているんです。間違いなくここ最近の一連の使徒戦で敗れ続けていることが原因ですね」
「痛い思いをしたくないから……」
「そうではありません」
 美汐はディスプレイに映し出される名雪の表情を見つめながら言う。
「勝てないことからくる無力感のようなものです。自分の存在意義を見失いつつあるんです。重症ですね」
 秋子は苦しげに顔を歪ませる。
 シンクロ率が、また下がった。




分離不安




 エレベーターの扉が、開く。
 名雪は、動揺を隠すことに何とか成功した。
 そこには一人、あゆが乗っていた。
 意を決して、名雪は乗り込む。
 すぐに、くるりと背を向けて扉を閉めた。
 がくん、と動き出す。
 無言。
 最近、何度か衝突を見せている二人だったが、ここ最近はそれが顕著になっている。
 いや、衝突するわけではない。名雪の方が一方的にあゆを避けているという感じだ。
 理由は──誰もが分かっていた。
 そして誰にもどうすることができなかった。
 二人が、そしてその間にいる人物が解決しなければならない問題だった。
 エレベーターはただ上昇を続けている。
 後ろにいるあゆに対して、名雪は何も言わなかった。
 前にいる名雪に向かって、あゆは何も言わなかった。
 気まずい沈黙が、一畳程度の空間を支配する。
 少し前なら、いろいろと話もしていた。
 本当に、ここ最近のことだ。
 ちょうど祐一が、取り込まれる前後から──
「心を開かないと、カノンは動いてくれないよ」
 突然、後ろから声がかかって名雪の体が跳ね上がる。
「……心を閉ざしているの、私が?」
「名雪さんも、わかってるんだよね」
「……」
 くるり、と振り返る。あゆの顔が、驚愕で見開かれた。
 名雪は、怒っていた。
 その表情が、明らかに変化していた。
「あゆちゃんに、何がわかるの」
「え、えっと」
「祐一のこと、ずっと独り占めしてるくせに、そんなこと言わないでよっ!」

 パシィッ!

「……ぇ……」
 叩かれたあゆが、何が起きたのか分からずに呆然となる。
 そして名雪もまた、あゆの顔と自分の手を交互に見返す。
 だが、すぐにまたきっとあゆの顔を睨みつけた。
 もう、引っ込みがつかなかったというのが名雪の精神状況だったのかもしれない。
「私よりちょっと早く祐一に会ってたってだけで……」
 エレベーターの扉が開いて、名雪は後ろに逃げる。
「私から祐一を取らないでよっ!」
 呆然と、名雪を見つめるあゆの視線が痛かった。
 その瞳に、断罪されているような気がしていた。
 あゆが何も答えられないうちに、扉は閉まった。
「祐一を取らないでよ……」
 がくり、とその場に膝をついた。
「私を見てよ、祐一、祐一、祐一……」





同じく、第三高校講堂内




「おはよう」




ヴィオラ──第三弦

演奏練習開始五分四三秒前


調弦






 転校、四日目。
 昼は学校、夜はネルフの日々が続いていた。だがそれは祐一にとって別に苦しいと感じるようなものではなかった。
 退屈では、あったが。
 ネルフほどの美少女が学校に多くなかったことは、軽い失望を覚えたものの重大な問題ではなかった。問題は、他にあった。
「……なんだ、この学校だったのか……」
 綾波、あゆ。
 まだ包帯は取れていなかったが。

「あゆは学校で浮いてるって聞いたけど、どういうことなんだ?」

「それで、何の話なのかな?」
 あゆは楽しそうに屋上の柵に手をかけて遠くの街並みを眺めている。
「何のっていうわけじゃないけどな。いろいろと聞いてみたいことがあったんだよ」
「ボクに?」
「お前にさ」
 うーん、と首をひねる。
「心当たりは何もないけど」
「そうだろうな」
「だいたい、会ったのだって今日が初めてだよね」
「一度、会ってるよ」
「え、いつ?」
「あの日、使徒が襲来した日にさ」
「ふうん、そうだったんだ」
 どうやら、全く覚えていないらしい。確かに激痛に耐えるだけで全く周りは見えていないようであったが。
「お前──どうしてカノンに乗るんだ?」
「どうして?」
「ああ」
 何よりも聞きたかったのが、このことだった。
 何故、カノンに乗るのか。
 あれだけの怪我をして──それはまだ今も治っていなくて、右目がふさがっていて。それでも、何かにとり憑かれたかのようにカノンを求めた少女。
「そんなこと言われても、ボク分からないよ」
「自分のことだろうが」
「うぐぅ」
「誤魔化すな」
「誤魔化してなんかないよ」
 あゆは真剣な瞳で答える。
「乗っている理由を見つけるために乗っている……そんなところじゃないかな」
「あゆ」
「何?」
「それはお前の台詞じゃないから却下」
「やっぱり」
 がっくりと肩を落とすあゆ。
「祐一くんはそういうところ、厳しいと思ったんだ」
「それで、結局のところはどうしてなんだ? 俺には言えないことか?」
「言えないっていうわけじゃないんだよ……」
 また、景色を眺める。
 それにつられて、祐一もその街並みを眺めた。
「……絆だから、かな」
「絆?」
「うん──ボクには、カノン以外何もないから」
 祐一は目を細めた。
「何も?」
「うん。ボク、カノンに乗っているから、秋子さんにも会えた。住人さんにも会えた。佐祐理さん、舞さん、真琴さん、美汐さん、みんなに会えた」
「学校は?」
「……ボク、学校じゃ浮いてるから」
 あはは、と寂しげに笑う。
「……家は?」
「ボク、一人暮らし」
「親は?」
「いないよ。七年前にいなくなったんだ」
 七年前。
 その数字が、自分の中に大きな影を落とした。
「……そうか」
「うん。だから、今の──カノンパイロットっていう立場は、すごく嬉しいんだ。ボクがカノンに乗ると秋子さんが喜んでくれるから」
「秋子さんは──お前の母親の代わりか?」
「そんなんじゃっ!」
 挑発するような言葉に、敏感に反応する。
「……そう、かも……」
 だが、意外に素直だった。自分でもそう思っているところがあるのだろう。
「だったら、どうして秋子さんのところに行かなかったんだ?」
「──え?」
「秋子さんのことだ。お前を引き取るとか言い出したんじゃないのか?」
「うん……そういうことも、あったよ」
 だが、それは何だか言いづらそうであった。
「……何か、あったのか?」
「そうじゃないんだけど……断ったんだ」
「だから、何故」
「秋子さん、優しすぎるから」
 その瞳に涙がにじむ。
「ボクのことなんかで、手をわずらわせちゃダメなんだ」
「本人は迷惑だなんて思ってないと思うぞ」
「分かってるよ。でも……」
 そこに甘えてはいけない。一人でいなければならない。無理に自分にそう言い聞かせているかのように祐一には見えた。
(ふむ……)
 これ以上は踏み込んではいけないと祐一は判断した。
 誰にでも、心にしまっておきたいものがある。あゆはそれをぎりぎりのところまで教えてくれた。
 これ以上聞くことは失礼だ。それにもう、自分が聞きたかったことは十分に聞くことができた。
 それでよしとしよう。
「ねえ」
 逆に、あゆが尋ねてきた。
「祐一くんは、どうしてカノンに乗ってるの?」
「俺?」
「うん」
「さあ、どうしてかな」
「誤魔化さないでよ。ボクだって話したんだから」
「そうだな──暇だったから、かな」
「うぐぅ」
「冗談だよ。本当のところは……」
 ふと、頭の中に小さな女の子の姿がよぎる。
「……方便、だな」
「ほうべん?」
「ああ。他にやりたいことがあって、そのためにはちょっとカノンに乗ってなきゃならないんだ」
「ふうん」
 苦しい言い訳だった。
 本来なら、自分の用事など一日ですむ。学校を抜け出して、さっさとすませてしまえばいい。そしてカノンパイロットをやめて、この街を出ていく。
 それでよかったはずだ。
 それなのに、どうしてまだ自分はそれを実行できないでいるのだろう。
「やりたいことって?」
「そうだな、世界征服とか」
「……」
「引くな、冗談だ」
「うぐぅ〜、祐一くんの冗談は笑えないよ〜」

「綾波さんの呪いじゃないのか、って」

「十七時三〇分、碇、綾波両パイロットは第七ケイジに集合」
 ほう、と祐一は食べながら思う。あゆを呼んだということは、零号機で出撃するということだ。
 初陣か。
「十八時〇〇分、カノンゲリオン初号機および零号機起動。同〇五分、発進。同三〇分、二子山仮説基地到着。以降は別命あるまで待機」
 待機。すぐに攻撃するというわけではないということだ。いったい何をするつもりなのだろうか。
「明朝日付変更と同時に作戦行動開始」
「りょうかひ」
 口いっぱいに頬張っていたので、きちんと答えられなかった。その姿を見てあゆがぷっと吹き出す。
「間抜けだよ、そのかっこう」
「んなこた分かってる。それより、お前こそいいのか?」
「何が?」
「初陣だな、緊張するだろ」
 あゆは顔をしかめた。
「……そうなんだよ」
「もしかして、それで俺が戦うことを気にしているのか?」
 どうして大怪我をしたのに戦えるのか。戦う気力がなくならないのか。
 怖くはないのか。
「それも、あるけど……」
「怖いんだったらやめてもいいぜ。俺一人でどうにかするさ」
 祐一は横に置かれていたプラグスーツを手にとった。
「でも……」
「俺は戦うことしかできないからな」
 あゆに向かって、優しく声をかける。
「お前には、戦う以外の生き方だってできるだろう?」
「……でも」
「ま、最終的に決めるのはお前だから、何も言わないけど──」
 ぴらぴら、とプラグスーツをゆすって見せる。あゆは何を意図した行動かわからず、首をかしげている。
「これに着替えるんだけど。それとも、俺のヌードが見たい?」
「けっこうだよっ!」
 慌てて立ち上がり、部屋の外へと走り去っていった。
 本当に、叩くと面白い少女だ。
「……やれやれ、だな」
 戦うことしかできない。
 幼少の頃の体験が、自分をそういう自分に成長させた。
 いや、堕落させた。
 だからもう、戻れない。
 天使にはなれない。
「……堕天使、か……」
 祐一は自嘲した。




起動




「コンタクト、停止! 六番までの回路、開いて!」
「ダメです! 信号が届きません!」
「零号機、制御不能!」
「実験中止。電源を落とせ」
「はい!」
「零号機、予備電源に切り変わりました」
「完全停止まで、残り三五秒!」
「司令、危険です。下がってください」
「問題ない」
「ですが──」
「オートエジェクション、作動!」
「──いかん!」
「あゆちゃん!」
「ワイヤーケージ! 特殊ベークライト、急いで!」




PROTOTYPE

KANON−00




 その初号機の前に、巨大な盾を持ったカノン零号機が立ちふさがった。

 ヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァ!

『盾がもたない!』
『時間は!』
『ダメです、まだあと一〇秒!』
『祐一さん、修正は──』
「終わってます、それよりエネルギーの収束、早く。このままじゃ──」
 盾が少しずつ外側から溶けはじめ、そして──
「あゆっ!」
『く、あああああああああっ!』
 あゆの悲鳴が、初号機と仮説基地に響く。
「まだかっ!」
『二秒前!』
『一!』
『発射っ!』

 ズドオオオオオオオオオオッ!

 今度こそ、
 今度こそ、陽電子砲は一直線にイチゴサンデルへ向かって進み、そして、

 ドグワオオオオオオオオオッ!

『陽電子砲、命中!』
 器の部分が完全に貫かれていた。ゆっくりと器が倒れていく。
『敵、ポッキードリル、第二二装甲版で停止!』
『目標、完全に沈黙しました』
『零号機パイロットは?』
『命に別状はありません!』
 ようやく、安堵の息が全員から出る。だが、一人だけ、
「あゆっ!」
 祐一は初号機のエントリー・プラグから飛び出して、完全に溶けて倒れた零号機へと駆け寄っていた。そして完全に露出している零号機のエントリー・プラグのハッチに手をかける。
「くううううっ」
 熱せられた非常ハンドルを回す。その手から煙が出た。だが、かまわずに強引に扉をこじあける。
「あゆっ!」
 エントリー・プラグに飛び込む。どこか壊れていたのか、既にLCLは半分も残っていなかった。
「……祐一、くん……」
「あゆ──無事か」
「うん……祐一くんも、大丈夫……だった?」
「ああ。お前のおかげだ」
「使徒、は……」
「倒した。お前のおかげだ」
 祐一は近づくと、肩を貸してあゆを起こした。
「……ボク、祐一くんのこと、守れたよね」
「ああ、助かった。お前、助けてもらってばかりじゃない。みんなを助けてるんだよ」
「うん──ありがとう、祐一くん」
「礼を言うのはこっちの方だ」
 何とかエントリー・プラグからあゆを連れ出す。すぐに救急班が来るはずだ。
「また、会えたね」
 あゆはにっこりと笑った。
「ああ、そうだな」
 と、振り返った祐一の目が見開かれた。
(ま、さか……)
 そこに、信じられないものを見た。
 あゆの後ろで輝く、二枚の羽。
(翼、だ……)

『ボク、零号機でいきます』
その命令をきいていたあゆが、初号機のプラグ内部から応答する。
(もう、祐一くんに守ってもらうわけにはいかないから)

「A.T.フィールド、全開」
 あゆはN2爆弾を持って、全力で使徒に駆け寄る。
「自爆する気!?」
 美汐が叫ぶ。秋子も目を細めた。
「零号機のシンクロカット!」
「駄目です、受け付けません!」
「そんな」
 それは、あゆの方がロックしてシンクロカットできないようにしている、ということだ。
 自分が死ぬことを、受け入れているのだ。
「あゆちゃん!」
 秋子が叫ぶ。
 だが、あゆは止まらなかった。
(ボク、祐一くんにいつも助けてもらってたから)
 八角形のA.T.フィールドに零号機の右手が阻まれるが、それでも強引にN2爆弾をねじ込んでいく。
(今度はボクが守らないと)
 ポテトエルのコア、鼻先に向かって右手が伸びる。
(ボクが、祐一くんを守る)
 N2爆弾と、コアが接する。
(たとえ死んでも)
 辺りが白く輝く。










さ よ う な ら










「往人、まだ早いんじゃないか」
「委員会はカノンシリーズの量産に着手した。チャンスだ、柳也」
「しかし」
「時計の針はもとには戻らない。だが自らの手で進めることはできる」
「佳乃議長が黙ってないぜ」
「ゼーレが動く前に全てをすませねばならん。今弐号機を失うのは得策ではない」
「かといって、ロンギヌスの槍をゼーレの許可なく使うのは面倒だぞ」
「理由は存在すればいい。それ以上の意味はない」
「理由? お前がほしいのは、口実だろ?」

『ううん、くる』
 アリクイの右手が上がった。
 そして、それが一気に伸びる。
「あゆちゃん、応戦して!」
「駄目です、間に合いません!」
 使徒の右腕は展開中のA.T.フィールドをあっさりと貫き、さらに零号機の腹部に侵入した。
『うぐぅっ!』
 顔を激痛で歪ませながら、あゆは左手でその右腕を握り締め、右手のライフルを直接使徒に押し付けて連射した。が、甲高い音が跳ね返るだけで、なんの効果も見られなかった。
 そして、浸食が始まった。
 腹部と左手の接触部分から、植物の葉脈のように筋が広がっていく。それはプラグ内のあゆにまで及んでいた。
『……うぐぅ』
 力なく呟くあゆ。
 操縦桿を握り締める左手と、そして腹部のあたりからぼこぼこと葉脈が膨れ上がっていく。
「目標、零号機と物理的接触」
 舞の報告に、秋子は顔をしかめる。
「零号機のA.T.フィールドは?」
「展開中。しかし、使徒に浸食されていきます!」
 佐祐理が声を大にして答える。
「使徒が積極的に一次的接触を試みようとしている……」
 美汐が画面を見ながら言う。
 その画面の先では、使徒の圧力におされて零号機が山際に追い込まれ、背をつけて使徒を押さえ込もうとしていた。が、プラグ内のあゆの体中に、既に葉脈が及んでいた。もはや首筋まで達していた。
「危険です! 零号機の生体部品が侵されていきます!」
「弐号機発進。零号機の援護をさせてください」
「目標、さらに零号機を浸食!」
「危険ですね、既に五%以上が生体融合されています」



綾波あゆ。一六歳。
マルドゥックの報告書によって選ばれた最初の被験者。
ファーストチルドレン。
カノンゲリオン零号機専属操縦者。
過去の経歴は白紙。
全て抹消済み。




「誰?」
 あゆは自分の頭の中に語りかけてくる誰かの意識を感じた。
「カノンの中のボク……違う、誰かの意識を感じる」
 葉脈に侵されていくあゆの前に、一人の少女の姿が現れた。
「君は……」
 その少女の正体が、あゆには分かっていた。
「もう一人のボク」
 美凪。
 祐一の中にいる、もう一人の自分。
『私と一つになりませんか?』
「ううん、ボクはボク。君じゃない」
『そうですか……残念です。でも、もう遅いです』
 ぼこぼこっ、と葉脈がついに顔に及んでいた。
『私の心をわけてあげます。この気持ち、あなたにもわけてあげます。痛いでしょう。ほら、心が痛いでしょう』
「痛い……違う。寂しい。寂しいんでしょ」
『寂しい? 分かりません』
「一人でいるのが嫌なんでしょ。ボクたちはたくさんいるのに。それを寂しいというの」
『それは、あなたの心。悲しみに満ち満ちているあなたの心です』
「ボクが……寂しい?」
『祐一さんの心があなたにないことが寂しくて寂しくて仕方がないんです』
「だって、ボクは祐一くんの中にいるボクじゃない」
『だから、私と一つになりましょう』
「それだけは、嫌」

 ぽたり、とプラグ内部に雫が落ちた。
 ここは、LCLの中のはずなのに。
「これは、涙……」
 そして、零号機の背に輝く熾色の六枚の翼。
「ボクの、罪の証……」
 生命の実を手にした罪の証。
 感情が満ち満ちたときに現れる、欲望の証。

「これは、ボクの心」
 零号機の中で、呼吸の乱れたあゆが戦況を見守る。
「祐一くんと一緒になりたい」
 既に生体融合している使徒の行動は、自分の願望によって制御される。
 ──それならば。
「ダメ」
 初号機だけは。
 祐一くんだけは。
 自分が、絶対に守る。

『指きりげんまん、嘘ついたらはりせんぼん飲ます。指切った』

「A.T.フィールド、一気に反転します!」
 佐祐理の悲鳴と同時に、初号機に接触していたアリクイエルが引き戻されていく。
「使徒を押さえ込むつもり!?」
 アリクイエルの本体ごと、光の粒子が全て初号機の体内に取り込まれていく。そのコアが、異常なまでに大きく膨らんでいた。
「フィールド限界。これ以上はコアが維持できません」
「あゆちゃん、機体を捨てて逃げてください!」
 あゆは首を振った。
「ダメ。ボクがいなくなったら、A.T.フィールドが消えてしまう。だから、ダメ」
 あゆが、自爆プログラムのレバーを引いた。
「あゆちゃん……死ぬ気?」
「コアが潰れます! 臨界突破!」
 肥大化したコアが、みるみる小さくなっていく。
 そして、零号機の翼が、ゆっくりと羽ばたいた。
「祐一くん……」

(ボクは、後悔しない)
 あゆは目を閉じた。
(今度こそ、祐一くんを守ることができるから……)

 爆発。
 使徒もろとも、零号機の機体が大破する。
 それだけではない。その周りにあった都市──第三新東京市ごと、全てが灰燼と帰された。
 これが、終結だというのだろうか。
 自分たちが住む街と、そして一人の少女の犠牲がなければ、人類は生き延びることができないのか。
「あゆーっ!!!!!」





その一四年前──





 私は海の見える丘に、観鈴と共にいた。
 私の記憶の少女はもっと幼かった。それが今ではすっかり母親の顔立ちをしている。
 今でもまだ、癇癪が起きるらしい。だが子供と一緒だと大丈夫らしい。
 まだまだ、彼女には秘密が多い。
「では、碇は──いや、彼はお前の体を元に戻すために、人類の進化を考えているということか」
 大きな罪を犯してまで。
 神の摂理に反してまで。
「愛情の深い男だな」
「観鈴ちんもびっくり。往人さん、そんな人じゃなかったから」
「いいだろう、協力しよう。人類のためなどという大層なものではなく、碇、お前の体を元に戻すためというのであれば」
「先生」
「私も、君の笑顔が見たいのでね──おっと、こんなところで泣かないでくれよ。これ以上話すことができなくなる」
「ありがとう」
「なに、教え子を守るのは教師の務めだ。もっとも、こんなことになるとはあの頃は夢にも思わなかったが」
「ゼーレの考えている人類補完計画は、止めなければならないから」
「うむ……既に当初の『補完計画』は大幅に歪みが生じている。これ以上の変化は望ましくないだろう。下手をすると誰も救われない。問題は、彼の考えだな。彼はお前を助けるためなら他の誰をも犠牲にしてかまわないと考えているだろう」
「が、がお……」
 それをなんとか押し留める役割を果たす人間が必要だ。
 彼の思考と行動に枷をかけて、次のカタストロフィを可能な限り小さく押さえるためには。
「カノンにお前の人格を移植するという話だな」
「うん。観鈴ちん、巨大ロボット」
「無事を祈るよ。お前が無事でなければ、私たちが活動している意味がなくなってしまう」
「うん」





その八年後──





『姉さん、MAGIの基礎理論、完成おめでとう。
 だからというわけではないですけど、こちらもニュースがあります。
 私もゲヒルンに内定しました。開発二課に配属される予定です。
 いくら人不足とはいえ、まだ一一歳の子供が国際機関で働くとは、おかしなものですね。
 私より二つ年上の人が二人、作戦課に見習いとしてやってくるという話も聞きます。
 同年代の人が誰もいないから少し寂しい気もしていましたが、話相手になってくれるといいなと思っています。』

「誰だ!」
 夜中、発令所に向かっていた美汐は警備兵に呼び止められてため息をついた。
「開発二課、赤木美汐です。発令所へ行く途中なんですが──迷路ですね、ここは」
 警備兵はIDカードを受け取ると、機械で照合を行う。
「はい、確認しました。発令所なら今、司令とお姉さんがいるはずですよ」
 ここの人たちは私に優しい。
 まだ一一歳ということで、みんな遠慮しているのだろう。
 もちろん、開発のスペシャリストであるということも関係しているのだろうが。
 私は道順を教えてもらって、発令所へと向かう。
 明日、ようやく最初の発令所が完成する。
 構造については私もいろいろと口出しをしている。早く完成した姿を見たい。
 その想いが、こんな深夜に私を発令所へ向かわせていた。
 そこで、見てはならないものを見てしまった。
 司令と、姉。
 重なり合う体。
 喘ぎ声。
 私は、全身から力が抜けていくのを感じていた。
 悪寒と震えが同時にきた。
 私はその場に座り込んで、二人の行為が終わるまで、目を離すことも耳を塞ぐこともできずにじっと佇んでいた。





 初号機はポテトに馬乗りになると、右腕でポテトエルの左前足を引きちぎった。
「カノン、再起動……」
 佐祐理が信じられないように呟く。だがその状況は見ている者にとっては明らかなことであった。
 初号機はおもむろに、引きちぎった使徒の前足を、自らの左腕につなぐ。ぼこぼこっ、と接合面の細胞が活性化し、人間型の腕へと変化する。
「……すごい」
 秋子がそう呟いたのが、唯一であった。
 さらに驚くべき報告は、佐祐理がもたらしていた。
「まさか……信じられません! 初号機のシンクロ値、四〇〇%を超えています!」
 四〇〇%!
 全ての事象が、もはや誰にも理解のできない境地に到達していた。その中で美汐だけが、まじまじと初号機を見つめて呟く。
「目覚めた、というの。あの人が……」
 秋子が素早く視線を走らせるが──それよりも先に初号機と使徒との間に変化が生じていた。
 一度初号機の束縛から逃れたポテトエルが、距離を保ってA.T.フィールドを展開する。だが初号機は腕を一振りするだけで、その八角形の壁をたやすく斬り裂いた。
 その余波で、ポテトエルの体にダメージを与え、大地に血の雨を降らせる。
 初号機は、背中を丸めて腰を落とし、獣のように四足で移動を始めた。
「暴走している……」
 舞の呟きに答えるものは誰もいない。
 初号機は倒れたポテトエルに近づくと一度、おおおお、と唸り声を上げた。
『ぴ、ぴこぴこ〜っ』
 使徒の断末魔の声が響く。
 初号機は大きく口を開き、そして──使徒にかぶりついた。
 ごきゅ、という音が響いてその場にいた者たちに悪寒を走らせた。
「使徒を、食べてる」
 ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ。
 その音は、第三新東京市中に響き渡っていた。
 余りのことに、真琴が気を失い、佐祐理ががたがたと震え出す。
「S2機関を、取り込んでいるんですね」
 美汐だけが、青ざめながらも冷静に状況を見極めていた。
 ポテトエルは、完全に動かなくなった。
 初号機が食事する音だけがしばらく続いていた。

「祐一くん……」
 香里が丘の上から、その様子を冷めた瞳でじっと見詰めていた。

 しばらくして、初号機が満足したのか、立ち上がって再び、おおおお、と吼えた、
 すると、肩や腕、背中、足などの装甲版が、次々と壊れていく。
 何が起こったのか、秋子ですら目を見開いてその様をただ見つめていた。
「拘束具が……」
「拘束具?」
「そうです。あれは装甲版ではなく、カノンの力を封じ込めるための拘束具。その呪縛が、カノン自身の力で解き放たれていく……」

 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。

「私たちにはもう、カノンを止めることはできない……」





 赤色灯がともる。そこにあったのは──
「……あゆ?」
 円筒形のガラスケースの中にLCLが満たされ、その中に一人の少女がいた。
「何故あゆちゃんがここに?」
「エントリープラグを発見した時は、ほんの小さな細胞片にすぎませんでした。あゆさんは死なないんです。コアとなる細胞片……これは消滅しないんです」
「アダムの体液……」
「そうです。アダムを注入されたあゆさんは、もう死ぬことがない。だから……」
 美汐は言葉を一度、切った。

「7年前の冬の日にも、死ぬことはなかった」

 祐一の目が見開かれた。
 7年前の冬。
 それは、自分が、全てを失ったとき。
「今、なんて……」
「あの日、あゆさんは殺されたんです。祐一さんの目の前で。男たちに倒され、塞がれ、壊され、犯され、殺されたのは、あゆさんなんです」
「何を……言っている?」
 祐一の頭は混乱していた。
 あの日、自分の目の前で殺されたのは、美凪。
 あの壊れた瞳が、今も目に残っている……。

 見上げれば、空。
 薄暗く、雲がかかった、濁った空。
 俺は少女の傍に座って、ただ空を見つめている。
 その空の向こうにあいつがいる。
 あの雲の向こうにあいつがいる。
 そこへ、行きたい。
 俺は両手を伸ばす。
『お前しかいないのに……』
 俺は、少女の名を呼ぶ。
『あゆ』

「あゆ?」
「あゆ?」
「何故、あゆ、なんだ?」
「俺が愛していたのは、俺がずっと想いつづけていたのは、美凪……」

(……いいえ……私は、美凪ではありません……)

 美凪だ!
 俺が愛していたのは、ずっと、ただ一人……。

『私のことも忘れるくらい、あゆちゃんのことでいっぱいだったの!?』

 あゆ?
 何故、あゆなんだ……。
 俺の心は、ずっと美凪でいっぱいだったのに……。

『祐一さん……』
『美凪か。また会えたな』
『はい……でも、もう、これが最後です』
『最後?』
『はい。もう会うことはないと思います』
『どうしてだ?』
『祐一さんが、記憶と取り戻しつつありますから』
『記憶を取り戻すと、どうなるんだ?』
『……それは秘密です』
『おいおい』
『祐一さん、私は……』
『美凪』
『あなたに会えて、よかった……そして、祐一さんに会ったたくさんの人が、同じように思っています。そのことを忘れないでください』
『……でも、俺は』
『すぐに、また、会えますから』

 お前は、何を言いたかったんだ?
 お前は、全て分かっていたのか?
 じゃあ、お前はどこにいたんだ?
 俺の記憶はいったいどうなっているんだ!?

『祐一さんの記憶は、全てネルフによって操作されていたんです』

 操作?
 それは、どういう意味だ?

『祐一さんは精神の均衡を完全に失っていました。だから、あゆさんの記憶を取り上げ、あいまいな美凪という架空の人物の記憶を植えつけることによって、精神の安定をはかったんです』

 じゃあ、この記憶は?
 美凪と一緒に過ごした何年もの記憶は?
 自分がずっと信じてきた、美凪との思い出は?

『全て、作り物です』

「うあああああああああああっ!!!!!」






同じく、第三高校講堂内



「おそい〜」
「申し訳ありません」



演奏練習開始時間

定刻──


ヴァイオリン──第一弦





「では、いきましょうか」
「ああ」



弦楽四重奏


JOHANN PACHELBEL


KANON

D−dur






 バタンッ。

 扉が開いた。その大きな音に、祐一とあゆが振り返る。
 見たことがない男と、祐一のクラスの委員長である洞木香里とがそこにいた。
 逢引か?
 いや、そうではなさそうだ。男の表情があまりにも険しかったからだ。
「転校生だな?」
 男が、言う。
「誰が?」
「お前以外にいるかよっ!」
「そういうお前こそ誰だ? 俺は見たことないぞ」
「黙れ!」
 男はぐっと拳を握り締めると、祐一めがけて突進してきた。
「おいおい」
 いったいこれは何の冗談かと思ったが、そういうわけではないようだ。とりあえず体を捌いて男のパンチをよけ、間をあける。
「北川くん」
 あゆが反応していた。知り合いか? もしかして、自分があゆと仲良くしていることを怒っているのか?
 まさかあゆの恋人!?
「……なわけないか」
 あゆのぽけっとした表情と、小さな胸を見て言う。
「うぐぅ〜、なにかひどいことを言われた気がするよ〜」
「気のせいだ」
 では、この男──北川とかいったか。何で自分につっかかってくるのだろう。
「どういうつもりだ?」
 北川は親の仇でも見るかのように祐一を睨む。
「お前──あのロボットのパイロットだろう」
「ロボット?」
 カノンのことを言っているのはすぐに分かった。
「あゆ、お前喋ったな」
「言ってないよ」
「じゃあどうしてこの男が知ってるんだよ」
「ボクは知らないよ」
「ネタは上がってるんだぞ、さっさと吐け!」
「うぐぅ〜」
 どうやら刑事ネタはあゆに通じなかったらしい。
「パイロット、なんだな?」
 確認してくる北川。
「違うと言ったらどうするつもりだ?」
「今の会話から明らかだろうが!」
「まあ、確かに」
「許さねえ!」
 再び突進してくる北川。やれやれ、と内心辟易しながらその拳をかわして懐に飛び込む。
 軽く、膝を上げた。
「ごふっ」
 北川の腹部にめりこむ。すぐに足を引っ込めて北川から離れると、その体がゆっくりと崩れ落ちた。
「……んのやろうっ……」
「北川くん、大丈夫?」
 あわてた香里が、北川に駆け寄る。
「ちょっと、祐一くんやりすぎだよ!」
 自分が弱いものいじめをしているように見えたらしく、あゆが非難の声をあげる。
「まてい、襲われたのは俺の方だぞ。正当防衛じゃないか」
「やりすぎだって言ってるんだよ!」
「どこがだ? 俺はこの男に怪我なんかさせてないぞ?」
 正当防衛──法律上では、防衛の意思をもって、緊急の場合に、過剰になりすぎない程度に反撃することを言う。
「うんちくなんかどうでもいいんだよっ!」
「落ち着け、あゆ」
「ボクは落ち着いてるよ!」
「いいから聞けっての。だいたい、どうして俺が喧嘩をふっかけられなきゃならないのか、それを問い正す方が先だろ」
 そうしないと、この男は何度でも殴りかかってきかねない。
「というわけだ。お前、俺に恨みでもあるのか」
 北川に向かって言う。委員長に上半身を助け起こされた北川は祐一を睨み上げている。
「お前のせいで──」
「俺のせいで?」
「お前のせいで、俺の妹が……」
 妹?
「妹が、どうした?」
「瓦礫の下敷きになったんだよ! お前の下手糞な運転のせいでな!」
 なるほど、と納得した。だがそれを非難されるいわれはないはずなのだが。
「無事なのか?」
「命に別状はねえ。だが、二度と歩けない体になったんだ。お前の、お前のせいで!」
「なんだ、よかったじゃないか」
 事もなげに祐一は吐き捨てた。
 あゆも、香里も、一瞬祐一が何を言ったのか分からないといった様子であった。
「……なん、だと……?」
「よかったじゃないか、と言った」
「てめえ、ふざけてんのか」
「まさか。妹は生きてるんだろうが、死ぬよりはるかにましだ」
「ふざけんな!」
「ふざけてないっての。歩けなくなろうが薬物中毒になろうが、どんな状態になったって人間生きてりゃなんとかなる。死なないかぎりはな。死んだら終わりだが、生きてれば幸せにもなれる」
「……」
 どうやら、本気で怒ったらしい。
 北川は立ち上がるとこれ以上ない形相で睨みつけてきた。
「許さねえ……」
「聞きあきたよ、その台詞は」
 北川は五歩の距離を一気に詰めて、渾身の一撃を放った。
 祐一は、立ったままぴくりとも動かず、そのパンチを左の頬にくらう。
「な」
 殴った北川の方が驚いていた。今までまったく当たらなかったパンチが当たった。祐一は避けようともしなかった。
 しかも、全力で殴ったはずなのに祐一はそれを完全に顔で受け止めていた。揺らぎもしなかった。
「歯、くいしばっとけよ」
 そして、祐一の腰が落ちた。
 左足を引き、右足を踏み出す。
 全体重が乗った祐一の右アッパーが、北川の顎を直撃した。
 その体が、少なくとも一メートルは舞い上がったのを、その場にいたあゆと香里は見た。
 そして、落下する。
「北川くん!」
 さすがに顔色を変えて、香里が北川に近づく。
「軽い脳震盪を起こしているはずだが、すぐに起きるさ」
 冷たい視線で、北川を見下ろす。
「……碇くん……」
「祐一、でいいぜ。それから、一発はサービスだ」
 左頬をなでながら言う。
「どうして、ここまで──」
「勘違いするなよ、殴りかかられたのは俺の方だ。もっとも、その男も殴る相手を間違えていると俺は思うけどな」

 そして、放課後。
 誰もいない体育館。ここしばらく続いている使徒戦のおかげで疎開する生徒も多く、ほとんどの部活が活動休止となっているため、この体育館が部活で使われることがこのところなくなっている。
 祐一は一人、器具庫からバスケットボールを持ってくると、ダン、と一回床についた。
 スリーポイントラインの外側から、ゴールに向かってかまえる。
 膝が曲がり、足が床から離れる。肘をのばし、手首を返し──ボールが、ぱすっ、と音を立ててゴールに導かれる。
 ──まだ、それほどなまってはいないようだった。
 ふう、と一息ついていると、扉の方から手を叩く音が聞こえてきた。
 北川だった。
「うまいんだな」
「前の学校ではバスケ部だからな」
「お前がか?」
「他にもサッカー部、バドミントン部、テニス部をかけもちしてた」
「天は二物を与えずってのは、嘘だな」
「かもな」
 苦笑する二人。
 だが、お互いの目は笑ってはいない。
「……知ってたのか?」
 何を、とは言わない。それだけで二人の間では何のことを意味しているのかは分かっていたからだ。
「昨日、秋子さんからな」
「そうか」
 祐一は転々とするボールを拾い上げて北川にパスする。北川も同じ場所に立ってシュートを放った。
 がん。
 リングに弾かれ、ボールはあらぬ方向へと飛んでいった。
「お前みたいにうまくはいかないな」
「一朝一夕でシュートが入るようになるんだったら、バスケができないやつなんていないさ」
「そう、だな」
 そこで、会話が途切れた。
 祐一も珍しく自分が何を話せばいいのか分からず、言葉を探していた。そう、まずは──確認しなければならないことがある。だが、どう尋ねればよいのだろう。
(何を躊躇してるんだ、俺は……)
 いつものように、かまわずに普通に聞けばいいだけのことなのに。
「北川」
「ん?」
「乗る、のか?」
 北川は笑った。
 声を立てず。
 哀しげに。
「ああ」
「そうか」
「俺がカノンに乗れば、妹の治療を優先的にしてくれるっていう条件でな」
「それは、ネルフが?」
「いや、俺から頼んだ。でも、向こうも俺がそう言うのを分かってたのか、二つ返事でオーケーしたよ」
 意外に冷静だな、と祐一も落ち着きをようやく取り戻していた。
 もっと怖がるかと思っていた。
 あゆが包帯だらけになったり、自分がプラグで絶叫したり、とても楽しいことをしているようには見えなかったはずだ。
 それなのに。
 どうして、こんなにも落ち着いていられるのだろう。
「なあ、祐一」
「ん?」
「カノンって、いったい何なんだ?」
 祐一は首をかしげる。
「どういう意味だ?」
「いや、何で俺なんかが。そう思ってな」
「それを言うなら、俺も名雪もあゆも同じだろ」
「そうだったんだよな」
 北川は、ふうー、と長く息を吐き出した。
「今だから言うけどな、俺、お前らのこと、ずっと特別だって思ってたんだ。何か特別な環境にいるとか、特別な訓練とか受けてる、自分たちとは違う人間なんだってな」
「まあ、特別な環境に置かれてるし、特別な訓練も受けてるけどな」
「ああ。だから俺とは別なんだって思ってた。お前ら3人はもともとカノンに乗るためにずっとそういう特別な施設とかで育ったんじゃないか、とかな」
「おいおい」
「ああ。違うってのが分かったよ。まさか俺が乗ることになるなんて、思わなかったからな」
「そんなのは俺だって同じだ」
「ああ。でも正直、怖いぜ」
「……」
 北川が自分の手をじっと見つめる。
「お前の戦い、見てるからな」
「いっつも怪我してるわけでもないぜ。楽に勝てるときだってある」
「でも死なない保証はない、だろ? それなのに、どうしてお前は、そんなに平気でいられるんだろうな」
「それは」
 死ぬ覚悟ができているから。
 生きることに執着していないから。
 そんなことを言ったら、北川はどうなるのだろう。
「つまんねえこと言っちまったな」
「いや。でもそれは、きっと名雪もあゆも同じ気持ちだと思う。でも、みんなそれぞれにカノンに乗る理由があるからな」
「カノンに乗る理由か。俺の場合はやっぱり、妹のため、なのかな」
「香里のため、でもいいんじゃないのか?」
 北川は困ったように笑う。
「お前はどうなんだ?」
「俺?」
「ああ。祐一、お前の意見を聞いておきたい」
 祐一は目を閉じた。
 自分がカノンに乗る理由。それは、それほどたいした問題ではない。
 自分は戦士だから戦場から逃げるわけにはいかない。
 それだけだ。
「プライドだよ」
「プライド?」
「自分はカノンに乗る資格がある。それなのにあゆや名雪にばかり戦わせて自分が逃げるわけにはいかないだろう?」
 北川は納得したように頷いた。
「なるほどな」
「カノンに乗ることであまり深く考えることなんかないと思うぜ。破格の給料はもらえるし、ときどきイタイこともあるけど、それさえ我慢すればな」
「そうだな」
「そんなことより、聞いておきたいことがあるんだ」
「ああ」
「香里には、何て言うんだ?」
 北川は、あ、と間抜けな声をあげた。
「……何て言えばいいと思う?」
「お前が言えよ。お前が乗るって決めたんだから、香里にも自分の口から言え」
「そうじゃなくて」
「そんなアドバイスができるか。自分で考えろ」
「祐一〜」
「気色悪い声を出すなっ」
 二人は顔を見合わせると、ようやく心のつかえが取れたかのように笑った。




PRODUCTION MODEL

KANON−03




 地上から見る空は暗くとも、雲の上から見る空は青くまぶしい。もっともその場合、地上を見ることは雲によってさえぎられ、かなわないが。
 このような重大なモノを運ぶには、むしろこうして雲がかっている日の方が都合よい。何事にも、万一ということがある。
 巨大な人型を吊り下げた戦闘機。
 その中から、一つの無線が発せられる。それはごくありふれた内容のもので、この後何事もなければ、記録する必要もないと思われるものであった。
『エクタ六四よりネオパン四〇〇。前方航路上に積乱雲を確認』
 米国ネルフ第一支部より日本へ向けて出発した、カノン参号機の輸送機であった。
『ネオパン四〇〇確認。積乱雲の気圧状態は問題なし。航路変更せず、到着時刻を遵守せよ』
『エクタ六四了解』
 よく繰り返される内容。別段変化に富むものではない。エクタ六四と呼ばれた全翼機は指示どおり、その積乱雲の中へと突入していく。
 かすかに、漆黒のボディが揺れた。




プロダクションモデル

3号機


制御不能




『目標! 主モニターに表示!』
 佐祐理からの指示が届き、パイロットたちはそちらに目を向ける。
「なっ!」
『これ!』
『……うぐぅ』
 山の向こうから現れた影は、カノン参号機。黒のボディが前傾姿勢をとって、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
「使徒に、取り込まれた、か?」
『祐一』
「こいつはまいったな。佐祐理さん、北川の奴、どうなってます?」
『待ってください』
 すぐに反応したのは舞の方だった。
『パイロットの呼吸、心音は共に確認。だが、プラグ射出も活動停止信号も受け付けない』
「てことは」
 モニターに移る禍禍しい機体を見つめて呟く。
「実力で救出するしかないってわけか」
『その必要はない』
 割り込んで入ってきた声は往人のものであった。
『現時点をもってカノン参号機を破棄。目標を第壱参使徒カノエルと識別する』




寄生




「パイロットの脳波、乱れています!」
「いかん、シンクロ率の高さがかえって仇になっている。シンクロ率を六〇%までダウンしろ」
「待て」
 石橋の命令を、往人が遮った。
「祐一」
 マイクに向かって話し掛ける。
『……んだよっ』
「何故戦わない。お前の力なら使徒は倒せるはずだ」
『ぅるせえっ! ここは俺の戦場だっ! 黙って、見て、やがれっ……』
「お前が死ぬぞ」
『死ぬかよ……っ!』
 だが、初号機には既に戦う力は残っていないようであった。モニターに表示される祐一の顔が、明らかに青ざめている。
「初号機のシンクロを全面カットしろ」
「全面、ですか?」
「そうだ。回路をダミーシステムに切り替えろ。急げ」
 佐祐理が明らかに拒否反応を示した。
「ダミーシステムは問題が多く、美汐さんの了解もないままでは──」
「早くしろ。祐一が死ぬぞ」
 だが、その声に佐祐理は負けた。そして「了解」と答え、回路を切り替える。
「回路をダミーシステムに切り替えます」

 がくん、と喉にかかる負担がなくなった。がはっ、と大きく咳き込む。
(何だ?)
 祐一は苦しみながらもすぐに状況を判断しようと周りを見る。非常灯にきりかわって、プラグ内部が赤く染まっている。
 このあたりは生き残るために必要な術を手に入れている戦士に他ならなかった。
 だが、彼は既に戦場にはいなかった。
 ディスプレイに『OPERATION DUMMY SYSTEM AYU』の字が流れる。そして、座席後部にあるディスクが高速回転を始めた。
「……何をした?」
 目の前には、使徒の姿。
 だが、その攻撃がまさに映像としか自分の目には映らなかった。
「何をした、往人!」

「それで、いったい何の話?」
 いつもの喫茶店に入ると、香里はケーキセットを、祐一はいつものようにコーヒーを頼んだ。
「ああ。北川のことでな」
「北川くん?」
「単刀直入に言う。実はあいつがフォースチルドレンに選抜された」
 祐一が言うと、香里はフォークを手にとり、一切れケーキを頬張る。よく租借し、お茶を含む。ふう、と一息ついた。
「ほんと、直球ね」
「他に言い方がない」
「どうしてそうなったとか、いろいろ言うことはあるでしょ」
「俺だって理由は知らねえよ。二日前に突然決まったんだ」
「ふうん。祐一くんが昨日変だったのはそれか」
「ああ。黙ってて悪かったな」
「名雪が休んだのもそのせい?」
「ああ。顔を合わせるのが辛かったらしい」
「危険なの?」
「今のところはそうじゃない。しばらくはテスト三昧だろうし、実戦に配備されるかどうかはそのテストの結果次第だ。例えば今日明日使徒が現れても北川が投入される見込みはゼロに近い」
「それなのに、名雪は顔を合わせたくなかったっていうの?」
「結果として危険には違いないからな。それに北川の場合は別の事情もある」
「別の──ああ、妹の」
「ああ。妹をきちんと見てくれるならパイロットになると条件を出したらしい。ネルフもそれを見越してたんだろうな。やり方がえげつない連中だ」
「いいの? 上層部を批判しても」
「俺がいなきゃ誰がカノンを操縦するんだ? それに誰も聞いてやしないさ」
「それはそうだけど」
 香里の声には若干諦めに近い意図が込められていた。
「それで、どうして私にそれを?」
「あれ、説明の必要があったのか、それは」
「ま、たしかに北川くんとは友達だけど、別にそれ以上っていうわけじゃないわよ」
「へえ」
「……本当よ」
 少し、香里の表情に陰りが生まれる。
 からかい気味だった祐一がそれを見て、まずかったかと少し反省する。
「北川くんが私のことをどう思っているかは分かっているつもり。でも、私は同じ気持ちにはなれないのよ」
「哀れだな、北川」
「大切な友達には違いないわ。中学校のころから、ずっとね。北川くんは私に必要以上にせまらなかった。だから友達の関係を続けてくることができたわ。これからもそれは変えないつもり」
「北川も少なくともカノンのことは、大切な友達として自分の口から伝えたかったみたいだぜ」
「じゃあ、どうして」
「多分、その先も言いたくなるから、じゃないのか」
 香里が沈黙する。
 微妙な関係だな、と祐一は思った。おそらく香里は北川に好意をもっているのだろう。だがそれは決して恋愛感情に発展するようなものではない。
 このままの友達という関係。香里が北川に求めているのはそれだ。
 だが北川は異なる。それ以上を欲している。だが香里はそれを求めていない。だから香里に合わせている。
(辛いだろうな、あいつ)
 報われないと分かっているだけに──いや、いつかは報われるのかもしれないと信じているのだろう。
「もう一度聞くけど、危険はないの?」
「お前だって俺の戦い見てるだろ。危険だよ。命だっていつ落とすか分からない。でも今はまだ大丈夫だ。実戦に投入されるには時間がある。あゆだって七ヶ月、名雪だって三ヶ月かかってるんだから」
「祐一くんは?」
 痛いところをつかれた、と祐一は一瞬口ごもる。
「俺の場合はあらかじめカノンがいつでも出撃できる状態にあったのと、俺以外にパイロットがいなかったという理由から、ネルフ到着初日に出撃したけどな。今はもうありえない。パイロットは三人揃っているし、何より北川のカノンは新しくできたばっかりの奴だから、何度もテストを繰り返さないことにはそもそも実戦に出せない」
「人は嘘をつくときほど多弁になるって知ってる?」
 祐一は苦笑した。
 自分でも、もしかしたら北川がすぐにも危険な目にあう可能性があることを否定したがっていることに気づいたのだ。
「パイロットが三人とも負傷しないかぎりは、北川の出番は当分ないさ」
「一応、信じておくわ」
「助かるぜ。それからこの話、できればオフレコでな。あまり広めるわけにもいかないから」
「分かってるわよ。あなたが転校してきてからそのことは凄く気をつけてるから安心して」
 祐一は足を組んで、コーヒーを含んだ。かちん、と音がしてカップが置かれる。
「……だが、何事も絶対という言葉はない。もしものときのことは覚悟しておいてくれ」
「そんなに、危険なことをするの?」
 祐一の頭をかすめたのは、四号機消滅の件であった。
 だがあれはS2機関に関係のあることだと聞いている。今回はただの起動実験、何もないはずだ。
「万が一、だ。気にしないで待っていればいい」
「そんなことを言われて気にならないと思う?」
「思わないな。それなら祈っててくれ」
「祈る?」
「ああ」
「祐一くんって、キリスト教だったの?」
「まさか。神が人を助けてくれることがあるかよ。それは祈る相手が間違ってる」
「じゃあ誰に祈ればいいのよ」
「俺だ」
 あっけらかんと、祐一は答えた。
「俺が名雪やあゆと同じように、北川のことも守ってやるさ」
 香里もさすがに笑った。
「なるほどね。それは祈りがいがありそう」
「どういう意味だよ」
「言葉どおりよ」

 祐一の意思とは無関係に、初号機の両腕が動いて使徒の両腕をつかむ。
 ぼぎっ、と音が聞こえた気がした。
 そして、初号機がさらにカノエルの喉を逆に捕らえる。そして宙に吊り上げた。カノエルが両腕、両足をばたつかせる。だが、地につかないでただひたすら喘ぐ。
 一分もしないで、カノエルの力は尽きた。完全に活動を停止していた。

「これが、ダミーシステムの力」
 佐祐理がうめくように言う。
「システム正常、さらにゲイン上がります」
 舞が続けて言った。

 初号機はカノエルを二度、大きく空中で回転させると山の方に向かって大きく放り投げた。
 自らも跳躍し、空中でカノエルの頭部を殴りつける。
 勢いよく、カノエルは大地に落ちた。
 初号機はその上に馬乗りになる。そして、両手でカノエルの顔をつかんだ。
 ぎちぎちっ、という音が聞こえるやいなや、カノエルの頭部があっというまに握りつぶされ、大量の血液が飛散する。
 大地に、ビルに、木々に、大量の血液が降り注ぐ。
 流れ出る血液が、無人のトラックを押し流していく。
 さらに初号機は攻撃を続ける。既に対抗する力を失ったカノエルに対し、両腕で何度も何度も攻撃し、胸部装甲版の隙間に手をかけ、べりべり、と音をたてて引き剥がす。

「オオオオオオオオオオオオ」

 初号機から、咆哮があふれた。



「お待たせ」
 最後に北川が戻ってくる。こちらは祐一が貸したカジュアルのズボンと無地の白いシャツ。今度は祐一らしい、地味な服だった。しかも北川が着ると一層地味に見えてしまう。
「遅かったな」
「本命は最後って相場は決まってるだろ?」
「遅れてきた罰だ。秋子さん特製の謎ジャム入りジュースを飲ませてやろう」
「すみませんでした勘弁してください(滝汗)」



『てめえ往人! 勝手に何しやがる!』
 祐一の怒号が第一発令所に響く。だが、それに答える者はない。
『やめろ! 往人! お前に俺の戦いを邪魔させねえっ!』
 インダクションレバーを何度も何度も上下させるが、既に回路を切り替えられている以上、カノンが命令をきくはずもない。
 鮮血が、信号機からだらだらと流れ落ちている。
 夕焼けよりも赤く、大地が血で染まっている。
 流れる川の色が、真紅に染まっている。
『とまれ! とまりやがれ、このポンコツ!』
 戦いを。
 自分の神聖な戦いを。
 冒涜することは、絶対に許さない。
『とまれえええええええええっ!』
 だが、初号機はとうとうそれ──エントリープラグを引きずりだして、力強く握り締めた。
『やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!』
 目の前で、無惨にプラグが潰される。

『きたがわあああああああっ!』

 時間が、止まった。
 祐一の最後の絶叫と共に、第一発令所の全員が言葉を失い、ただ、握りつぶされたエントリープラグの残骸だけを見ていた。
 目の前で行われた惨劇に、祐一は言葉の全てを失い、ただ体を震わせた。
 そして、全ての破壊活動を終えた初号機もまた、完全に活動を停止していた。

「か、カノン参号機……いえ、目標は完全に沈黙しました」





 ある日のこと。
 街の一角で、つまらなさそうに座っている男を見かけた。
 彼の前には犬のような物体が座っていて、男をじっと見つめている。
 いや、男の前で動いている人形を見ている。
 手品、か?
 じっと見つづける。
 男はポケットに手を入れたまま、壁に背を預けて、足を広げて座っていた。
 黒無地のTシャツが、日を吸収して暑苦しく見えた。
 鋭い気迫のこもった目つきが、彼の周りに人を寄せ付けさせていなかった。
 人形はただ、てこてこ、と歩いていた。
 どういう手品なのだろうかと興味を持った。
 しばらく、遠くから眺めている。
 だが、彼はぴくりとも動かない。ただ人形だけが動いている。
 全くタネが分からない。
 やがて、人形は男の目の前くらいまで高く飛び上がり、くるくると三回まわって、ばたり、と地面にうつ伏せに落ちた。
 そして、ぴくぴく、と痙攣してから動かなくなった。
「新技、行き倒れ」
 一瞬、見なかったことにしようと思って歩み去ろうとした。が、
「おい、おっさん」
 その男が私に声をかけてきた。私は仕方なくそちらを見る。
「俺の芸、見てたんだろう。金払いな」
「……最近の芸人は、客に金を強制するのかね」
「いいから出すもん出しな」
 これでは客が集まらないのも仕方のないことだ、と私は思わず苦笑した。
「その前にもう一度見せてほしいのだが、ポケットから手を出してやることはできるのかね」
「できるぜ」
 男はポケットから手を出して大きく開いて私の方へ向けた。そのままの体勢で、倒れていた人形が、ひょこり、と起き上がる。
「ふむ……」
 何か、糸でつっているのかとも思ったがそうでもないらしい。
「人形を見せてもらってもいいかね」
「どうぞ」
 動いていた人形を持ち上げてみる。動力のようなものは何もついていない。もちろん糸のようなものも何もついていない。
「まいったな。全くタネが分からない」
「分かったら面白くないだろう」
「それもそうだ。で、君の芸はこれしかできないのかね」
「……悪かったな、これしかできなくて」
「いやいや、責めているんじゃないよ」
 いくらあげれば気がすむだろうか、と私は財布の中身を思い浮かべた。と、そのときのこと。
「往人さーん!」
 聞き覚えのある声が遠くから聞こえてきて、私はそちらを振り向く。
「碇……?」
 元気よく走ってくるのは、教室では一度も見たことがない、満面の笑みを浮かべた碇観鈴であった。
「あ、石橋先生」
 が、私を見たとたんにその表情が陰る。
「なんだ碇、彼と知り合いかね」
「はい、え、えっと、往人さん、国崎往人さんです」
「なるほど、友達かね」
 私にとっては核心をついた質問だった。
「はい! 往人さん、すごく面白いんです」
「それはよかった。国崎くん、だったね」
 私が彼女の先生だということを知ったのか、彼は居心地悪そうに私を睨みつけていた。
「彼女と仲良くしてやってくれたまえ」
 私は財布を取り出して、一枚取り出す。
「これは芸を見せてもらったお礼だ」
 正確には、碇という少女の正体に近づいたお礼だった。
 福沢諭吉が一人。
 さすがに彼も驚いているようだった。
「わっ、いちまんえん」
 素直に声を出したのは碇だった。
「……なんのつもりだ?」
「なに、久しぶりに興味あるものを見せてもらった礼だよ。これで少ないということはあるまい?」
 私は笑うと、その場を後にした。
 今日は面白い経験をさせてもらった。
(……どういういきさつで知り合ったのか、聞いてみたいがな……)
 振り返ると、既に二人は仲良く歩み去っていくところだった。
(まあ、機会はいくらでもあるだろう)
 今までどおり、自分はつかず離れず、あの少女を見守ることにしよう、と考えていた。



 扉が開く。
 光が差し込んでくる。
「ご無沙汰です」
「君か」
 石橋の目の前に現れた男、それは柳也だった。
「外の見張りにはしばらく眠ってもらいました」
「この行動は君の命取りになるぞ」
「彼女を助けるためですよ。自分のためにね。それに、アダムのサンプルを往人司令に横流ししたのがバレそうでね。いっそのことネルフに完全に味方した方が自分の身を守れそうなんですよ」
 柳也は懐から拳銃を取り出す。そして、石橋の後頭部に銃口をあてた。
「……往人は私を切り捨てることにしたか」
「たとえ観鈴の味方であるとしても、あなたは基本的に往人の絶対的な信頼を得ることはできないんですよ。あなたがあなたである限り」
「分かってはいたがな。それで、君はこの後どうするつもりだ。往人の下では君の願いはかなえられまい」
「それは、もうあなたが考える必要のないことですよ」
「確かにそうだ。では、一思いにやってくれ」
「了解」



『とりあえずはじめまして。俺はサードチルドレン、碇祐一』
『うにゅ……? 祐一……?』
『ああ。名雪、でいいんだろ?』
『うん──はじめまして、祐一』

 違う。はじめてじゃない。
 もっとずっと昔に、私たちは出会った。
 七年前。
 もっと北の、冬には少しだけ涼しくなる場所で。
 出会った、いや違う。
 会ってなんか、いなかった。
 だって祐一は、私のことなんか見てなかったから。
 少し前になくした女の子のことしか頭になかったから。
 だから、私は祐一のことを知っているけど、祐一は私のことを知らない。

『とりあえずはじめまして』

 違う!
 私は祐一に会っていた。
 会ってたんだよ、祐一……。

『大丈夫?』
「……もう駄目かもしれない」
『話せるんなら、大丈夫だよ』
「……別に、どうでもいい」
『ほら、立って』
「……放っておいてくれ」
『駄目だよ、最近ここらへん、ちあんが悪いってお母さんが言ってたもん』
「死んだほうがましだ」
 虚ろな瞳。
 目の前にある私の顔さえ、映っていない。
『うーん、うちまで運べるかな』
「かまわないでくれ……放っておいてくれ」
『そういうわけにはいかないよ』
 私は男の子を背負う。
 すごく重くて。
 辛くて。
 大変だったけど。
 でも、がんばった。
 死なせたくなかった。
 元気になって、一緒に遊びたかった。
 誰もいない家は、私には広すぎた。
 誰か傍にいてほしかった。
 ……誰かの傍にいたかった。

「誰でもいいの?」

 違う!
 最初は、そうだったかもしれない。でも、今は祐一じゃなきゃ嫌なの!

「傍にいてくれれば、誰でもよかったんでしょ?」

 違う!
 最初は、そうだったかもしれない。でも、今は祐一じゃなきゃ嫌なの!

「遊んでくれれば、誰でもよかったんでしょ?」

 違う!
 最初は、そうだったかもしれない。でも、今は祐一じゃなきゃ嫌なの!

「寂しさを忘れたかったから、祐一を利用しただけなんでしょ?」

 違う!
 私は、私は祐一を利用してなんか──

「ほら、答えられない」

 やめて!
 私は、私は祐一に傍にいてほしいだけなんだから!
 それのどこが悪いの!
 好きな人の傍にいたいと思うことの、どこが悪いの!

「どうせ、見てもらえないのに?」

 言わないで!
 見てもらえなくても、私は祐一の傍にいるんだから!

『私から祐一を取らないでよっ!』

 やめて! そんなこと思い出させないで!

「今まで一度でも祐一から見てもらったことあるの?」

 そんなこと考えさせないで!

「ほら、また逃げてる」

 いやあああああああああああああっ!



 駅。
 名雪は二人と反対方向のホームに立っている。
 人ごみにまぎれて、祐一とあゆが仲良さそうに話しているのが見える。
 それを、名雪はぼんやりと見つめていた。
(この間まで、初号機に取り込まれてたのに)
(一番心配してたのは私なのに)
(もう、思い出してるはずなのに)
(やっぱり、あゆちゃんじゃないとダメなの?)
 電車が入ってきて、二人の姿が消えた。
(……いや。いや、いや、いや、いやだよ、祐一……)
(寂しいよ、辛いよ、苦しいよ)

 そんなこと思い出させないでよっ!

「名雪」

 ゆう……いち?

「七年前の約束は、なかったことにしてくれ」

 どうして?

「俺には、あゆがいるから」

 祐一の腕の中で、微笑んでいる少女──

「なんであゆちゃんがそこにいるのよっ!」

 両手が伸びる。
 あゆの首が絞まる。

「あう、うぐっ、な、なゆき、さん……」

「あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか」

 コロシテヤル。
 コロシテヤル。
 コロシテヤル。
 コロシテヤル。
 コロシテヤル。

 がくり、とあゆの首が落ちる。
 全身の力がぬけていく。

「あ、あ、ああ……」

 あゆの体が崩れていく。
 祐一が、自分を蔑むように見つめている。

「そんな目で見ないで、祐一っ!」

 殺したかったんだろ?

「違うっ!」

 あゆが憎かったんだろ?

「違うっ!」

 隠すことないだろ。
 人間、みんな汚いんだから。
 お前も、穢れてるんだから。

「いやあああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!」



「名雪」
 祐一は、プラグスーツを着込んだままの名雪に声をかけた。
 ビルの屋上。
 他には誰の姿もない。
 小さな少女が一人、力なく座っている。
 声をかけるべきだったのだろうか。
 きっとそうなのだろう。
 だが、この後なんと言えばいいのか分からなかった。
 自分は、名雪を避けていた。
 そのことが名雪の調子を落としていたはずだ。
 そんな自分が、何を言うことがあるのだろう。
「ゆう、いち」
「よかったな、無事で」
「無事?」
 名雪は、立ち上がった。
 そして振り返り、祐一を睨みつける。
「無事に見える?」
「……」
「無事に見えるなら、祐一、見る目、ないよ」
「名雪……」
「約束、守ってくれない祐一なんて、嫌い」
「名雪」
「嫌い、嫌い、嫌い、みんな大嫌いっ!」
「名雪」
「祐一なんて、大っ嫌いっ!」

 パシィッ!

「……名雪?」
『そんなことない。生きていれば、きっといいことがあるよ』
「分からない……いいことはもう、全部なくしたと思う」
『きっといいことがあるよ。だから、今度会ったときは一緒に、いいことの見せ合いっこしよう』
「いいこと……見つかったのかな、俺は」
『見つかるよ、きっと』
「見つからなかったよ、名雪」
『大丈夫だよ』
「約束したのにな」
『ふぁいとっ、だよ』
「いいこと、お前に見せる約束したのにな……ごめんな、何も、見つけられなくて」

『だから、私を見て!』

「うっ、うっ、うぐっ、ううっ……」
 名雪は、ただ泣いていた。
 弐号機の中で。
 一人で。
 寂しく。
 孤独に。
 誰にも、その心を見られることなく。
 使徒に、その心を穢されてしまった。
「汚された……私の心が汚された。どうしよう、汚されちゃった、私の心が汚されちゃったよぉ、祐一……」

 ガラスの破片がいっぱいに散らばって、私はその中を血まみれの足で歩いている。回りには何もなくて、ただいっぱいに地平線が広がっている。この広い世界に私はたった一人。どこまでもただ傷だらけの大地が広がるだけ。私はただ歩きつづける。ガラスは私の血にまみれて、光を受けてきらきらと輝いている。きらきらと。その輝きに私の体も赤く照らし出されている。そして、私の体がどこかへたどりつくことはない。痛みだけが体中に侵食していく。私の心を蝕んでいく。私の体と心はもう治ることがないところまで、堕ちてしまった。全ては取り返しのつかないところまできてしまった。それなのに私は救いを願っている。でも救う人はいない。この広い世界に、私以外には誰もいない。たった一人、傍にいてほしい人はこの世界の中に入ってくることはない。

「ゆういち……」





(俺はいったい、何をしたいんだ……)
 全ての結論は出た。
 自分が追い求めていた少女はどこにもいなかった。
 そして、あの日。
 あゆをなくし、名雪と出会い、そしてまた一人に戻った。
(もう、ここにいる意味もないな)
 そして、行く場所もなくなってしまった。
(なんだか、変な感じだ)
 疲れた、とでも言おうか。
 心が空虚になった。今まで報われない想いだけで満たされていた自分の胸から、全てが抜けて落ちてなくなってしまった。
 もともと目的もなくこの場所にとどまっているだけだった。だが、ここにいれば、初号機に乗れば美凪に会える、それだけを信じてここにいた。
 だが、もう美凪に会うことはおろか、その面影を追うことすらできなくなってしまった。
 たまらなく、俺は自分自身を壊したくなる。
 体中をナイフで切り刻んで、大量の鮮血を撒き散らすことができれば、どれほどの快感が得られるだろう。
 自分の手が、喉もとに伸びる。
 その手に、ぐ、と力がこもった。

 ♪ ♪ ♪

 と、その時、どこからか鼻歌が聞こえてきた。
 祐一は、左右を見回す。
(……誰だ?)
 そこに、一人の少女が佇んでいた。
 祐一と同じように湖を見つめ、チェック模様のストールを羽織い、手にカップのバニラアイスを持っている。
「あ〜い〜す〜を〜た〜べ〜よ〜う、あ〜い〜す〜を〜た〜べよ〜♪ お〜ぉな〜か〜い〜っぱ〜い、あ〜い〜す〜を〜た〜べよ〜♪」
 祐一の顔がひきつる。
「ちょ〜こ〜ちっぷ〜、ま〜っちゃに、す〜とろべ〜り〜、ば〜に〜ら、おぉ〜〜な〜か〜い〜っぱ〜い、あ〜い〜す〜を〜た〜べよ〜♪」
 ……どうリアクションしてよいものか。
 祐一はしばらくその少女をただ黙ってじっと見ていた。
「アイスはいいですね。アイスは心とお腹を充たしてくれます。リリンの生み出した食文化の極みです。そうは思いませんか、碇祐一さん」
 にぎりこぶしで主張してきた。
「……一つだけ言っていいか」
「はい」
「もう最終話。出てくるの遅すぎ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
 笑顔がひきつっている。どうやらかなり怒っているようだった。
「で、お前は」
「あ、申し遅れました。私は、渚シヲリといいます」
「くだらないところで原作に従うなっ」
「もちろん冗談です。渚、栞です」
 渚、栞。
「つまり、お前が今度新しく来るっていう」
「はい。しくまれた子供、フィフスチルドレンです。祐一さんと同じです」
「フィフスチルドレン……」
 色白のその姿からは、どことなく弱々しい印象を受けた。
 そして、顔いっぱいに浮かべた笑顔に、心ごと包まれるような温かさを覚えた。
「あ、私のことは栞でいいですよ」
「じゃあ俺のことも遠慮なくお兄ちゃんと呼んでくれていいぞ」
「原作に忠実なのは祐一さんの方じゃないですかっ」
「当然、冗談だ」



 栞はケイジに来て、カノン弐号機の前に佇んでいた。
 ふう、と一息つき、そして告げる。
「さあ行きますよ、おいでアダムの分身。そしてリリンの下僕」
 栞はそう言って目を閉じ、顔を上げる。
 そして──その背に、翼が生まれた。
 純白の二対、四枚の翼。
 そして、何もない空間へ向かって一歩、歩み出る。だが、彼女の体は落ちずに、宙に浮いたままだ。
 彼女の体が、ゆっくりと降下を始める。そして、それを追いかけるかのように弐号機が彼女を追いかけていく。
 そして、歌声が響いた。


O Freunde, nicht diese Tone,(おお友よ、これらの音でなくて、)
sondern lasst uns angenehmere(もっと快いものに声をあわせよう、)
anstimmen, und freudenvollere.(もっと喜ばしいものに。)




「カノン弐号機、起動!」
 警報が響くと同時に、真琴が発令所全体に向かって叫ぶ。
「そんな、まさか」
 秋子が驚いて目を見開く。
「名雪は?」
「三〇三病室、確認済みです」
 問いには舞が答えた。そしてディスプレイの端に三〇三号室で虚ろな目をしてベッドに横たわる名雪の姿が映る。
「では、いったい誰が」
「無人です、弐号機にエントリープラグは挿入されていません」
 佐祐理が答えた。ディスプレイには“UNMANNED”の表示が出る。
(誰もいない……フィフスの少女ではない、ということでしょうか)
 秋子が頭の中でこの状況を整理する。だが、続けて次の報告が入った。
「セントラルドグマにA.T.フィールドの発生を確認!」
 真琴の声だ。
「弐号機?」
「違う、パターン青。間違いないわ、第拾七使徒、シオリスよ!」
「なんですって!?」


Freude, schoner Gotterfunken(歓喜よ、歓喜よ、歓喜よ、美しい神の閃光、)
Tochter aus Elysium(楽園からの娘よ!)
Wir betreten feuertrunken,(われらは熱情にあふれて、)
Himmlische, dein Heiligtum.(天国に、汝の王国に踏み入ろう!)
Deine Zauber binden wieder,(汝の魅力は世の態により)
Was die Mode streng geteilt;(厳しく引き離されたものを再び結びつける。)
Alle Menschen werden Bruder,(全ての人々は兄弟となる、)
Wo dein sanfter Flugel weilt.(汝のやさしい翼のとどまるところで。)


「使徒。あの少女が……」
 秋子が呟く。だが、事態はどんどん進行していく。
『目標は第四層を通過。なおも降下中』
「駄目です、リニアの電源は切れません」
 舞の応答に、すぐ次の報告が入る。
『目標、第五層を通過!』
「セントラルドグマの全隔壁を緊急閉鎖だ! 少しでもいい、時間を稼げ!」
 柳也が命令を下すと、一斉に発令所はそれぞれの行動を開始した。
『セントラルドグマ緊急閉鎖。総員退去、総員退去』
「まさか、佳乃たちが直接送り込んでくるとはな……好かれてるようだな、往人」
 柳也の声に、往人は顔をしかめた。
「あいつらは予定を一つ繰り上げるつもりだ。ここで、な」

 そのモノリスたちは暗闇の空間で話し合いを続けていた。
「人は愚かさを忘れ、同じ過ちを繰り返す」
「自ら贖罪を行わねば人は変われぬ」
「アダムや使徒の力は借りぬ」
「我々の手で未来へと変わるしかない。初号機による遂行を願うぞ」
 いつまでも、その場所だけは変わらずに

「装甲隔壁はカノン弐号機により突破されています」
「目標は第二コキュートスを突破!」
 佐祐理、舞から次々と来る報告に、往人が決断を下した。
「カノン初号機に追撃させろ」
 重々しい声が響く。秋子はしっかりと頷いた。
「はい」
「いかなる方法をもってしても、目標のターミナルドグマ侵入を阻止しろ」
 すぐに第七ケイジに連絡が行く。パイロットもすぐに到着するだろう。
「それにしても、使徒は何故弐号機を……」
 秋子の疑問は、柳也や往人にしても同じであった。
「まさか、弐号機との融合を果たすつもりか」
 使徒が弐号機を動かす必要などないのだ。ひたすら降下し、アダムと接触してしまえばいい。
 わざわざ弐号機を動かさなければならない理由が、あの少女にはあるのだ。
「あるいは、破滅を導くためかな」
 往人が重く答えた。


Wem der grosse Wurf gelungen,(大きな贈物をうけたものは、)
Eines Freundes Freund zu sein(友のなかの真の友たり、)
Wer ein holdes Weib errungen,(いとしき妻をえた者は、)
Mische seinen Jubel ein!(歓呼の歌を和せよ!)
Ja--wer auch nur eine Seele(そうだ、地上にただ一つの魂を)
Sein nennt auf' dem Erdenrund!(自分のものと呼んでいる者でも!)
Und wer's nie gekonnt, der stehle(そしてこれを今まで知ったことのない者は、)
Weinend sich aus diesem Bund.(泣き悲しみつつこの群れから去れ。)


「栞が、使徒……」
 初号機に乗り込んだ祐一は、その事実を半ば覚悟していたのか、重々しくゆっくりと口にしなおす。
『……祐一さん』
「俺の任務は、栞を殺すことなんですか」
『第一七使徒、シオリスです』
「栞を殺せばいいんですね」
 一方的に無線を切る。そして、にぎり、震える拳を強烈に打つ。
「栞が、使徒……」
 自分は、こんなに。
 物分りが悪かっただろうか。
「嘘だ……」
 そう、声に出して、その嘘に縋りたい。
「嘘だ、嘘だ、嘘だっ!」
 たった一人の女性。
 自分の、心安らぐ相手。
 七年間、自分がずっと待っていた人。
(俺に会うために生まれてきたんじゃなかったのか……)
 ぎりっ、と歯が鳴る。
「こたえろ、しおりっ!」

 その栞は、セントラルドグマを降下しながら見上げる。
「祐一さん……遅いな」
 そういえば、以前もこうして待っていた。
 雪の降る町で。
 寒さに震えて。
 倒れそうになりながら、たった一人を待っていた。
(でも、今度は必ず来てくれると分かっている……)
 それだけでも、充分に心は安らぐ。

『カノン弐号機、なおも降下。現在初号機が追跡中!』

「騙したのか……俺を裏切ったのか、栞」
 ずたずたの自分の心を、こなごなにするためにだけ現れたのか。
 栞。
 もう自分にとって、不可欠の存在となってしまっているのに。

 ──そうだ、地上にただ一つの魂を──

「いた!」
 祐一の視界に、赤い弐号機と、その両手に包まれているかのような栞の姿が入ってくる。
「待ってました、祐一さん」
「栞!」
 だが、初号機が到達するより早く、弐号機が動き出す。そして、カノンゲリオン同士が向き合う形となった。初号機の左手と、弐号機の左手が、お互いの頭の上で組み、それぞれの右手にはプログナイフが握られた。
(カノンシリーズ。アダムより生まれし、人間にとって忌むべき存在。それを利用してまで生き延びようとするリリン)
 その二体のカノンを見る栞の目がひときわ細まる。
(私には、分かりません)
 プログナイフがぶつかりあい、激しく火花を散らす。
「栞、なぜだ、何故こんなことをする!」
 栞はにっこりと笑った。
「カノンは私と同じ体でできているんです。私もアダムから生まれたものですから。魂さえなければ同化できます。この弐号機の魂は今自ら閉じこもっていますから」
『そう。二人の成功例が出たからだ』
 いつかの柳也の言葉が頭をよぎる。そうだ、確かにそう言っていた。アダムの体液を注入されながら狂わずに生き延びた二人の成功例。一人はあゆ。そしてもう一人は──
「それがお前か、栞……っ!」
 弾かれた初号機のナイフが、一直線に栞に向かって跳ねる。
「栞っ!」
 が、そのナイフは栞の目の前に現れた八角形の壁によって防がれた。
「A.T.フィールド」
 それは、まぎれもない使徒の証。
(栞、お前は本当に……)
 信じたくはなかった。
 だが、信じざるをえなかった。
 目の前にいるのは、使徒。
「そう、みなさんリリンはそう呼んでますよね。なんぴとにも犯されざる聖なる領域。心の光。リリンにも分かっているんでしょう、A.T.フィールドは誰もが持っている心の壁だということを」
「分からねえ……分からねえよ、栞っ!」
 弐号機のプログナイフがうなりをあげて、初号機の胸を貫く。
「うがあああああああっ!!!」
 祐一は胸を押さえながら、弐号機の首筋に向かってプログナイフを突き刺す。もはやそれは、本能のままに動く獣さながらであった。ただ目の前の外敵を倒すためにだけ動いているかのようであった。

『カノン両機、以前降下中』
『目標、ターミナルドグマまで、あと二〇』
 状況は、好転する気配を見せない。
 ここにきて秋子は目を閉じ、何かをしばし検討しはじめた。そして再び目を見開いたとき、真琴に向かって小さく囁いた。
「初号機の信号が消えて、もう一度変化があったときには……」
「分かってるわよ。ここを、自爆するんでしょ」
 真琴は冷や汗をかいていた。手も震えている。
「サードインパクトを起こされるよりは、マシだもんね」
「ごめんなさいね」
「いいのよ。覚悟は最初っからできてるんだから」
 二人の短いやりとり。そして、変化が訪れた。

 なおも降下するカノン両機。そして、栞。
 プログナイフをその身に受けたカノン両機を背に、栞はゆっくりと目を閉じた。
「人の運命……人の希望は悲しみにつづられています」
 そして、栞の体が光を放つ。


Freude trinken alle Wesen(歓喜をすべてのものは、)
An den Brusten der Natur;(自然の乳房から飲み、)
Alle Guten, alle Bosen(すべての良きもの、すべての悪しきものは、)
Folgen ihrer Rosenspur.(その薔薇咲く道をゆく。)
Kusse gab sie uns und Reben(それは、われらに接吻と酒をあたえ、)
Einen Freund, gepruft im Tod;(死の試験をへた友をあたえる。)
Wollust ward dem Wurm gegeben,(虫けらにも、快楽はあたえられ、)
Und der Cherub steht vor Gott.(そして天の使いは神の前に立つ!)


「どういうことですか!?」
 秋子の顔が真剣なものへと変わる。
「これまでにない強力なA.T.フィールドよっ!」
「光波、電磁波、粒子も全て遮断しています。何もモニターできません」
 真琴と舞の報告を受けて秋子は顔をしかめた。
「結界、というわけですか」
「目標、及びカノン初号機、弐号機、共にロスト! パイロットとの連絡も取れません!」
 もはや、手はない──佐祐理の報告がそう語っていた。

 そして、カノン両機はターミナルドグマへ舞い降りる。
 アダムの血を受けたもう一人の使徒も、また。
「栞っ!」
 祐一は叫んだ。翼をはためかせ、ドグマの奥へと進んでいく栞に向かって。だが栞は一度振り返っただけで、何も答えることはなかった。
「栞……」
 祐一は追いかけようとしたが、弐号機によって行く手を阻まれた。
 手と手が組み合わされ、力比べの体勢となる。
「栞……栞、栞、しおりぃぃぃぃっ!」
 なぜだ。
 何故、お前は俺のもとを去っていく。
 ずっと傍にいてくれるのではなかったのか。
 俺に会うために、お前は生まれてきたのではなかったのか。
 全て、俺とお前の出会いは運命ではなかったというのか。
「うああああああああああああああああああああああああああっ!」


Froh, wie seine Sonnen fliegen(楽しく、神の多くの太陽が、)
Durch des Himmels pracht'gen Plan,(天空の壮麗な面をとぶごとく、)
Wandelt, Bruder, eure Bahn,(走れ、兄弟たちよ、汝らの道を、)
Freudig, wie ein Held zum Siegen.(喜ばしく、英雄が勝利に赴くように)


「最終安全装置、解除」
「ヘヴンズドアが、開いていきます」
 秋子は息をのんだ。
「……ついに使徒が、たどりついてしまったんですね」
 アダムに。
 白き巨人に。
 そして、使徒とアダムとの接触はサードインパクトを引き起こすことになる。
 それは、人類の滅亡を意味する。
「真琴」
 秋子が声をかける。それだけで、全ては通じた。


Freude, schoner Gotterfunken(歓喜よ、歓喜よ、歓喜よ、美しい神の閃光、)
Tochter aus Elysium(楽園からの娘よ!)
Wir betreten feuertrunken,(われらは熱情にあふれて、)
Himmlische, dein Heiligtum.(天国に、汝の王国に踏み入ろう!)
Deine Zauber binden wieder,(汝の魅力は世の態により)
Was die Mode streng geteilt;(厳しく引き離されたものを再び結びつける。)
Alle Menschen werden Bruder,(全ての人々は兄弟となる、)
Wo dein sanfter Flugel weilt.(汝のやさしい翼のとどまるところで。)


 直後、カノン両機の頭上で激しい振動が起こった。それは、発令所にもモニターされることになった。
「状況は?」
「A.T.フィールドです」
「ターミナルドグマの結界周辺に、先ほどと同等のA.T.フィールドが」
「結界の中へ侵入していきます!」
 もう一つのA.T.フィールド?
 誰もが理解できない状況に陥っていた。無論、秋子もだ。いったい地下で何が起こっているというのか。
「まさか、新たな使徒……」
「駄目です、確認できません──あ、いえ」
 舞の報告が届く。
「消失しました」
 さきほどまで、激しく発せられていたA.T.フィールドは結界に侵入したと同時に完全に消えてなくなっていた。
「どういうことですか」
 だが、秋子の問いに答えられる者は誰もいなかった。

 栞は奥へと進んでいく。そして、アダムの前へとたどりつく。
「アダム。私たちの母たる存在。アダムに生まれしものは、アダムに還らねばならないのですか」
 栞は悲しげに、アダムの紫色の仮面につけられた七つの目を同時に見つめる。
「人を、滅ぼしてまで」
 目を閉じ、しばし瞑目する栞。そして、再びその目が見開いたとき、栞は愕然とした表情に変わった。
「違う、これは──リリス」
 アダムの最初の妻。人間を産み落としたもの。
「そう、ですか……」
 人間の体にアダムの体液を注入し、自分は使徒へと進化した。
 二番目の素体として。
 そして──その技術を応用し、さらなる進化を遂げようということか。
「リリン……罪深き者。そこまでして、救いを望みますか。本来、救われざる者よ。救うべき者を全て犠牲にしてまで、自分だけの幸せを望むのですか」
 栞の顔から表情というものが全て失われていく。  人を滅ぼすためにここまでやってきたが、それは全て徒労に終わった。
 そして、自分を始末するために、愛する人がやってくる。

 ──走れ、兄弟たちよ、汝の道を──

 壁が崩れ落ち、その向こうからカノン弐号機が倒れてくる。
 そして、ゆっくりと、両手を垂らした初号機が姿を現す。
 それを、栞は静かに見つめた。微笑みながら。
「栞……」
 初号機の右手が伸びる。その手の中に栞の体がすっぽりとおさまり、頭だけが握られた手の中から飛び出していた。
「ありがとうございます、祐一さん。弐号機は、祐一さんに止めておいてもらいたかったんです。そうしなければ彼女と一緒に生きつづけたかもしれませんでしたから」
「栞……何故だ」
 何を尋ねているのかは、祐一にも分からない。
 何故自分に接触したのか。
 何故自分と心を通わせたのか。
「私が生き続けることが、私の運命でしたから。結果、人が滅びたとしても」
 違う、そんなことを聞きたいんじゃない。
 自分が聞きたいことは、そんなことじゃない。
「でも、このまま死ぬこともできます。生と死は等価値なんです、私にとっては。自らの死。それが唯一の、絶対的自由なんです」
「何を……お前が何を言っているのか、俺には分からない」
 聞きたいことはそんなことじゃない。
 話したいことはそんなことじゃない。
 たった一つ。
「遺言です」
 祐一の体が完全に硬直した。
 ユ・イ・ゴ・ン。
 その言葉が、頭の中で何度も繰り返し流れた。
 栞が、死ぬ?
 何故?
 遺言?
 何だ……何を、栞は言っているんだ?
「さあ、私を消してください。そうしなければ、祐一さんたちが消えることになります。滅びの時をのがれ、未来を与えられる生命体は、ひとつしか選ばれないんです」
 幸せそうに、栞は微笑む。
「そして、祐一さんは死すべき存在ではありません」
 栞が、かすかに顔を上げる。
 その視線の先に、自分を見守ってくれる人がいる。
 気づいていた。
 必ず、来てくれると。
(お姉ちゃん)
 そこにいたのは、香里だった。
 今度こそ、自分が消えるときには傍にいてくれる。そう信じていた。
 だから、もう消えることは何も怖くない。
「祐一さんには、未来が必要です」
「……」
「ありがとうございます。祐一さんに会うことができて、嬉しかったです」
 レバーを握る祐一の手が震えていた。
 違う、そんなことを聞きたいんじゃない。
 俺は、俺が聞きたいことはただ一つ。
 何故お前が、俺の傍にきたのかということ。
 何のために近づき、何のために俺の心をずたずたにしたのかということ。
 お前は、俺のことをどう思っていた──?
 俺にはお前しかいない。最初に会ったときからそう感じていた。全てをなくしてしまった。たった一人の少女の記憶、たとえ自分の中にあったとしても現実には存在しない。自分が追い求めているのは存在しない少女だった。自分を見失い、何も分からず、風の中にたゆたっていた俺の前にお前が現れた──そう、俺にとってはお前こそたった一人の少女。俺の命、俺の魂、全てをかけられる相手なのにどうしてお前はいなくなってしまうと言うのか、俺はもうお前なしでは生きていくことができないほどお前の存在が俺の中でどんどんと高まっているというのにお前は俺の前からいなくなってしまうのか、俺はこんなにもそれこそ他に何も変えるものがないほどにお前を愛しているというのにお前はそうではないとでもいうのか何故だ俺はずっとお前と一緒に生きていけると信じていたのにお前は最初から自分が消えてなくなることを知っていたのかそれを望んでいたのか俺はそのことに気づくことすらできなかったお前は本当に消えてなくなることを望んでいるのか俺の傍にいることを望んでいるわけではないのか俺とお前との間にはそれほどの隔たりがあるのかおれはもうおまえがそばにいてくれればそれでみたされるのにずっとずっといっしょにふたりでいきていくのだとしんじていたのにうらぎるのかおまえもおれのまえからいなくなってしまうのかおれはうしないたくないおまえだけはうしないたくないおまえだけはそばにいてほしいほかのだれがいなくなったとしてもおまえだけはおれのそばにいてほしいおれのこころをやすらげてほしいおまえのいないみらいになんのかちがあるおれはただおまえとそばにいたいだけのそんざいになりはててしまったのにむかしのおれはこんなによわくなかったのにこんなによわくなってしまったのはおまえがおれのまえにあらわれたからなのにおまえはそのせきにんもぎむもほうりなげておまえだけのせかいにきえていなくなってしまうのかおれはいやだおれはおまえだけはたすけたいすくいたいいっしょにいたいおまえとすごしたこのいちにちおれはいままでにないほどこのしちねんかんではじめてみたされていたそれをずっとかんじていたいおまえのそばでしあわせなきもちのままみちたりていたいそれがたとえゆるされないことだとしてもはいとくなのだとしてもおれはただそれだけをねがっていたというのにおまえはきえるのかおまえはおれのまえからきえてなくなってしまうのかそしておれがおまえをころさなければならないのかなぜおれがおまえをころさなければならないんだおれがおまえをころすことができるはずがないのにおまえはおれにじぶんのしまつをねがうというのかそんなことをなぜおれにねがうおれがいまいちばんしたくないことをねがうのかおまえはそこまでおれをおいつめるのかおれをすくうためにおまえはあらわれたのではないのかおれはただすくわれたいたとえじぶんがよわくなってしまったとしてもいやおれのすべてをなくしてしまったとしてもおまえだけにそばにいてほしいほかのだれもいらないおまえだけがほしいおまえにそばにいてほしいだからおねがいだおれのそばにいてくれいままでのことはすべてうそなのだといってくれおれはおまえだけはころしたくないこのせかいにほかにだれもいなくなったとしてもおまえだけがそばにいてくれればおれはそれでしあわせにちがいないのにおまえはおれをあいしていたのかそれともさいしょからおれのこころをかきみだすことしかかんがえていなかったのかおれはおまえのそのはかなさとやさしさとやすらぎにこころをうばわれていたのにおまえはおれのことはなんともおもっていないのかそれともすこしはおれのことをあいしてくれていたのかこたえてくれそれだけをおしえてくれおれはただおまえだけをほしかったのにおまえはちがったのかおまえはおれのことをほしかったわけではないのかおれのそばにいたかったのではないのかあいしているあいしているあいしているこんなにもおまえだけをあいしているおまえがいなければおれのこころはすべてとけてきえてなくなってしまうおまえといっしょにおれもきえてなくなってしまうおまえがいなければおれもいきてはいけないんだだからきえるなどといわないでくれおまえはおれといっしょにずっといきていくそうすることがいちばんなんだそれともちがうのかおまえはおれといっしょにいきていきたくないとでもいうのかおれにあうためにうまれてきたというのはうそだったのかおれはまっていたんだおまえだけをおまえがそばにきてくれるまでずっとただひとりでさみしくこころぼそくふるえながらきばをむきながらだれにもこころをひらかずけっしてよわさをだれにもみせずただおまえだけをまっていたんだそれなのにおまえはちがうのかおまえはおれにあうためにうまれてきたのではないのかああおまえはどうしてそんなにもおれのこころをかきみだすおれはただおまえだけをおまえだけをあいしているあいしているあいしているこのちじょうでゆいいつおれのこころをうばっていったものおれはもうにどとうしないたくはないにどとくるしみたくはないだからずっとかべをきずいていたうしなうことがないようになにももたないできたそれはただたったひとつのものじぶんがたいせつにおもえるものをずっとまちつづけていたからだときづいたそしてきづかせてくれたのはしおりおまえだだからおまえだけはうしないたくないそばにいてほしいたのむいやだやめてくれおれはもうにどといやだうしないたくないだれもだれもだれもおまえだけはぜったいにいやだうしないたくないやめろなぜだあいしているのにしおりしおりしおりおまえだけはぜったいにうしないたくないでもおまえはそれをのぞむのかおまえはきえることをのぞむのかおれのそばではなくかみのもとへすべてのみなもとへふところへいきたいというのかおれではおまえのそばにいてやることはできないのかおまえはそんなにもしをのぞむのかいきることはかんがえられないのかおまえがいきつづけることはおれがほろびることとおなじなのかおれとおまえがずっといっしょにともにいきつづけることはできないのかそれができないということをおまえはしってしまっているのかだからおまえはしをねがうのかじぶんではなくおれにいきていてほしいとねがうのかそれはおまえのあいかそんなものはあいでもなんでもないただのがんぼうだおまえはずるいおまえはただすべてをほうきしてしのせかいへにげこむだけなんだおれをこのじごくへのこしておまえだけがなんのくるしみもないせかいへとにげるだけなんだおれはおまえとならこのじごくでもいきていくことができるのにおまえがいなくなったらおれはどうすればいいんだそれでもおまえはおれにいきることをのぞむのかじぶんがきえておれだけがこのせかいでひとりさみしくいきていくことをのぞむのかそんなあまりにもふしあわせなことをおまえはのぞむのかただおれはおまえがそばにいてくれさえすればいいのにおまえはしをのぞむのかしにたいのかきえたいのかおれはおまえをうしないたくないだがそれをおまえがのぞむならいやおまえだけはぜったいにころしたくないでもおまえがそれをのぞむのならおまえがそれだけをのぞむのならだがおれはいやだおまえをころすことだけはそれでもしなければならないのかおれがおまえをころさなければならないのかおまえはそんなことをのぞんでいるのかねがっているのかそれだけがおまえのねがいかそれならばそんなにもおまえがしをしょうめつをのぞむのならおれはそれをすいこうするおまえのためにおまえのねがいのためにおまえのくるしみをおわらせるためにおれはおれはおれはおれはおれはなみだがとまらないおまえをうしなうことがこんなにもくるしいこんなかんじょうがおれのなかにのこっているとはおもわなかったもうとっくにかなしみもくるしみもしちねんまえになくしてしまったのだとおもっていたそれなのにおれのなかであたらしくうまれたたいせつなものよおまえはおれのてできえることをのぞむというそしておれはそれをはたそうおまえのためにおまえのただひとつのねがいのためにさようならしおりおれはおまえのいないこのじごくのようなせかいでただひとりえいえんにこどくにさみしくいきつづけるおまえはくるしみのないせかいでおれのいないせかいでどうかしあわせにいやだいやだいやだいやだいやだおれはそんなことをねがっているんじゃないおれはそんなことをのぞんでいるんじゃないおれはおまえをころしたくなんかないだからああおまえはそれなのにしをのぞむおれはそれをたすけてやらなければならないおまえをあいしているからあいしているおまえがのぞむからだからもうこれでさよならだただひとりおれがあいしてやまないひとおれにぬくもりとやすらぎをおしえてくれたひともうにどとこんなきもちになることはないだろうおまえはにどとおれのまえにはあらわれないおまえはただおれのこころのなかにだけぜつぼうというかたちでのこるそしておれはそのぜつぼうとともにいきよういままでずっとそうしてきたようにだからさようならしおりどうかそれがなにかのしあわせにつながるようにああこれですべてがおわるおれがこのてでしおりをけせばすべてがおわるこわいいやだああなぜてがふるえるおれはそんなものわかりのわるいおとこだったかいやそうだおれはたったひとつたいせつなもののためにはあきらめのわるいおとこだったずっとたったひとりのしょうじょをおいもとめていたそしてまたおまえのおもかげをおいもとめていきるのかいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだああでもおまえがそれをのぞむならおれはそれをすいこうするしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりどうかしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおりしおり……

 ──そうだ、地上にただ一つの魂を──

 歌声が途切れる。
 そして、第一七使徒の首がLCLの海へと落ちた。










作者:静夜

製作:『悪意と悲劇の館』










 練習が終わり、一人ずつ講堂からいなくなっていく。
 たまたま誘われて久しぶりにチェロを弾いてみたが、それでも心が晴れることはない。
 いつか、自分が心やすらぐ日がくるのだろうか。
 七年前のあの日以来、一度もやすらいだことのない俺が。
 罪深い俺には、安らぐことなど許されてはいないのかもしれない。
 でもいつか。
 いつかは、救いを。
 それを願うことすら、許されてはいないのだろうか……。















続劇




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