壱:運命の邂逅





 リックとルークは学校傍にあるレストラン『パ・ラーヌス』へとやってきていた。もちろんルークの就業時間後のことである。まだ日は暮れておらず、学生の中でも裕福な者たちは連れ立ってやってくることも多い場所であるため、ルークに声をかけてくる者もときにはいる。
「慕われているようだな」
 ルークは微笑でこたえた。
 もともとルークは真面目な好青年だ。彼を嫌うような者は誰もいないだろう。彼は就職が決まったときから、生徒想いの熱意あふれるよい教師となるだろうといわれつづけてきた。そして、それは全く予想通りとなった。
「久しぶりだな、ここに来るのも」
 ルークが言うので、リックは顔をしかめた。
「職員同士で来たりしていないのか?」
「それはまあ、あるけどな。君と来るのが久しぶりだっていう意味だよ」
「まあ……そうかもな」
 このレストランは決して学生向きというわけではない。まして年齢層が低かった当時のリックやルークらにとっては滅多なことでは来られない場所であった。
 しかし、パ・ラーヌスで食事をしたというのは学生たちの話題の一つとして上がりやすいため、学生であれば誰でも半期に一度くらいは足を運んでいるのである。
 そのおかげか、パ・ラーヌスのメニューはほとんどの学生が覚えてしまっている。決して少ない量ではないが、それでも覚えられるほど学生たちにとって人気のあるレストランだったのだ。
「なにしろ、この街に来ること自体が3年ぶりだ」
「ああ。とにかく帰ってきてくれてよかった。本当に。ずっと心配していた」
「何度も聞いた。もうやめてくれ」
 リックは無表情で、席につく。相変わらずだ、と思いながらルークも向かいの席についた。
「いらっしゃいませ、ルーク先生」
「がんばってるか、ミレン」
「はい、なんとか。先生に紹介された以上怠けられませんから」
 注文を取りに来たのは今年5年生となるルークの教え子であった。
「とりあえずウォム酒を2つ。あとはマトンのステーキを。ルークはどうする?」
「同じものを」
「というわけで、マトンのステーキを2つ」
「承りました。この方は先生の友達ですか?」
 興味津々、という様子でミレンは尋ねてきた。
「ああ。今度から教養総合を持つことになったリック先生だ。厳しいからな。今のうちから覚悟しておけよ」
「お手柔らかにお願いします、リック先生」
「ああ。君はミレン・ドールだな。3年次から常に席次30番以内を取っている優秀な生徒だと聞いている。特に法律が得意なようだが、将来はその方向へ進むつもりなのか?」
 ミレンはもとより、ルークも目を丸くした。
「は、はい。できれば、国か地方の役職に就ければと思っております」
「おい、リック。君はまさか、生徒のデータを全部覚えてしまったというわけではないだろうな」
「教師である以上、当然のことだろう」
 さらりと言ってのけるリックに、ルークは頭をおさえた。
「君は赴任してきてまだ一日目だろう」
「データはあらかじめもらっている。全員覚えるのに三日かかった。さすがに今日来ていきなり生徒全員を把握するのは不可能だ」
「相変わらずの努力家だな、君は」
 呆然としているミレンに、ルークは「料理を頼むよ」と言って立ち直らせてやる。
「本当に、相変わらずだ」
 ミレンがいなくなってからルークは楽しそうに笑った。
「君はどんなときでも『当然のことだ』といって、凡人にはできない勉強量をこなす。君には辛くないのかもしれないが、誰でも学問をするということはときに辛いものだ」
「分かっているつもりだ。ただ俺は、知識を充足することが生きる目的のようなものだ。昔からそうだった。そうだな……そう。その意識は考えてみれば、レティアに植え付けられたものかもしれない」
 話が、一気に核心に迫った。
 今日、ここで必ず話しておかなければならないことがある。それはあの3年前の事件のこと。それを今自分たちがどう思っているのか。その意思疎通をしておかなければならないのだ。
「……あの日、君はどうしていなくなったんだ?」
 沈黙。そんなに簡単に答が出るようなものなら、あの日わざわざ黙って消えたりはしなかっただろう。それが分かっているだけに、次の言葉は慎重だった。聞かれた方も、聞いた方も。
 重い雰囲気を醸しているテーブルに、さきほどのミレン少年がウォム酒を運んでくる。かすかにルークが微笑んだが、深刻な話であるということが彼にも伝わったのか、すぐにその場を退いた。
「……あの日、俺は狂っていた」
 酒には手をつけずに、彼は話し始めた。
「今でこそ、少しは精神的に強くはなった。だがあのときの俺は子供だった。レティアの呪いから逃げ出したかったんだ」
「呪い……」
「あのとき、一緒にいたお前なら分かるだろう。あれは、呪いだ」
 目が細まる。たしかに、そうと言えなくもない。
 扉を開いた瞬間に、目に飛び込んで来た首吊り死体。
 遺言も何も残さずにいなくなった女性。
 それが最愛の、誰よりも、自分よりも大切な相手だったとすれば。
「レティアは俺を苦しめるために死んだ……そうとしか思えない」
 絞り出すような声だった。確かにそう思わざるをえないようなところはあった。
 だが。
「リック。それは考えすぎだ」
「そうだろうか。俺はレティアとずっと一緒にいたから、なんとなく彼女のことは知っているつもりだ。彼女は自分の本心を誰にも見せない。俺にすら。それでいて、魅了する。俺はずっと魅了されていた。彼女の傍から離れることはできなかった。心から彼女に傾倒していた──いや、今でもそうだ。俺の心はレティアのものだったのに、彼女はそうではなかったんだ。彼女は俺なんかどうでもよかった。自分の成すべきことを成して死んだ」
「成すべきこと、とは?」
「……それが、分からない」
 リックは首を振った。
「ただ俺を苦しめるだけに彼女は存在していたんだろうか……そうではないと思いたい。だが、彼女の行動は客観的に見れば不可思議なことばかりだ」
「と、いうと」
「俺を引き取ったこと自体が妙だ。両親を失い、姉を失い、完全に世界を拒絶していた少年。孤児院の陰に座って何日も動かないでいた少年。そんなやつを、誰が引き取る? 彼女は初めから、何かの目的のために俺を引き取ったんだ。そうでなければ一人暮らしの、まだ年若い女性が自分と同じくらいの年の男の子を引き取るはずがない」
「そして、その理由が分からない、か。致命的だな」
 ルークはようやく、目の前のグラスに手を置いた。リックも同じようにウォム酒を口に運ぶ。
「……だが、それだけ話せるようなら、随分立ち直っているようだな」
「全く」
 だが、すぐに返ってきた反応はルークの思い至らないところであった。
「全く?」
「全く。俺はこの街に来るつもりなどなかった。絶対に戻ってきたくなかった。ここには、レティアの面影が多すぎる」
「それはそうだな。5年間、いや入学前から君たちは暮らしていたんだったな。では6年か。それだけずっと2人で暮らしていたわけだろう」
「街、学校。いたるところにレティアの面影がある。今日、この街を歩いてみて分かった。自分が倒れないのが不思議なくらいに、俺は立ち直れていない」
「リック」
「何もかもに、レティアの面影があるんだ。図書館で2人で日が暮れるまで本を読んだ。読んだ後は必ず討論をして知識の充足をはかった。運動場で真剣勝負もした。レティアは強く、ほとんど俺は勝てなかった。一緒に講義を受けた講義室。レティアが冗談まじりで机に彫った跡がまだ残っていた。並んで歩いた廊下。1年のとき上級生から喧嘩を売られたが、2人でなんとか切り抜けた。学校だけじゃない。昼休みには中庭で食事をした。3年間、前期の間はほとんど毎日だ。街だってそうだ。一緒に歩いた公園。一緒に出かけた劇場。一緒に食事をした──そう、このレストランだって。全てにレティアがいる。目を閉じれば、そこに──」
「リック!」
 話をしながら次第に顔が青ざめていくリックに、ルークは鋭く声をかけた。
「……考えすぎるのは、よくない」
「ああ、すまない。ルーク。いつもお前には心配かけてばかりだな」
 ルークは目の前の少年──同い年だが、ずっと昔から彼は成長していないように見えた──を抱きしめたい衝動にかられた。
 彼は、なんと脆いのだろう。
 この3年間、ずっとレティアにとらわれ続けていたのだろうか。だとしたら何と苦しく、何と辛い3年間だったのだろうか。
 おそらく彼の性格上、こんなことは誰にも話せなかっただろう。もしここにいるのが自分ではなく、フォトンだったとしたら話すことはできなかっただろう。
 自分だから、彼も話すことができたのだ。
 自分は、あの悲劇を目の前で見たただ一人の人間だから。
(もし──)
 もしも自分があの日、レティアと付き合うことをやめさせることができていたら、彼はここまで病むことはなかっただろうか?
(いや、無駄だ……)
 彼はレティアに捕らわれている。あのときからずっと。たとえ自分が何を言っても聞く耳は持たなかっただろう。
(いっそのこと、この手でレティアを……!)
 それでも結果は同じだ。レティアを失ったなら、絶対に自分を見失う。
 それが、容易に予想つく。
「この3年、どこで何をしていたんだ?」
 まだその話をしていなかった、とルークは話題を変えた。これ以上、レティアの話をするのはリックの精神上、そして自分の精神上、よくないと感じたからだ。
「今回、この街に来たのはある仕事を引き受けたからだ」
「ああ。教養総合を教えることだろう」
「違う。それは、自分がこの街にいるための仮の地位にすぎない」
 ルークは首をひねった。彼が何を言っているのか分からなかったのだ。
「どういうことだ?」
「つまり、俺は別の仕事でこの街に来た。その仕事を行うためには教師として活動する方が便利だったというわけだ」
 リックは懐にしまっておいた階級章を取り出す。
「これは?」
 赤い『A』という形のバッジ。手にとってじっくりと見るが、別に変なところは見当たらなかった。
「これは『SFO』の階級章だ」
「SFO……『SFO』!」
 はじめ、何を言っているのか分からなかったが、その3文字を頭に思い描いてようやく理解ができた。
『SFO』──大陸規模で活動する傭兵派遣組織の略称。
 すなわち、それは。
「……君は『SFO』に入っていたのか」
「ああ。今回は護衛の任務でこの街に来た。この街で、ある人間を守り、ついでにその人物を狙っている犯人を捕まえることが目的だ」
「誰かと尋ねて、教えてもらえるのか?」
「別に困りはしないが、想像はできるだろう。俺がわざわざ何のために臨時講師をやらなければならないかを考えれば」
 なるほど、と頷いた。
「ファーブル校長か」
「ああ。既に校長は何度か命を狙われているらしい。ボディーガードも既に雇っている。だが、誰に命を狙われているのかがはっきりしないようだ。そこで『SFO』に依頼したというわけだ」
「ボディーガードがいるなら護衛の任務はそんなに多くなくていい。つまり、教師をしながらその傍ら犯人探しをするというわけか。教師という身分が操作を行う上でカムフラージュになるということだな」
「ああ。この件はこれ以上広めないでくれ。相手が誰であってもだ」
「誰であっても? フォトンでもか?」
「フォトンでも、だ。あいつは警察だろう。組織の人間は内部では口が軽くなる。特に軍事・警察関係は上下関係が厳しい。手に入れた情報は全て報告する義務を負っている。警察に知られるわけにはいかないから、フォトンにだけは何があっても話すな」
「やれやれ。友人に秘密ごとはあまりしたくないんだが」
「今回の仕事が終わるまでだ。我慢してくれ」
「それこそ警察に言って協力をあおいだ方がいいんじゃないのか?」
「犯人が警察の人間でないとは限らない」
 驚きで、ルークはグラスを持つ手がすべりかけた。
「警察に犯人が?」
「例えば、の話だ。まだ調査は始めていないんだ。言うなればこの街の住人全員が容疑者だ」
「驚かさないでくれよ、まったく」
 だが、その話を信じるとすれば、まさか自分までが容疑者の一人として候補に上がっているのではないだろうか。
 それとなく尋ねてみることにした。
「わざわざ僕にだけそういう話をしてくれたというのは、僕のことを信じているからか?」
「もしお前が本当に犯人だとしたら、すぐ顔に出る」
 仕事の話となると、彼は本当に無表情だった。淡々と、ただ話しつづける。
「最初に会ったときに分かった。変わらないのは俺じゃない。お前の方だ」
「そうか」
 親友と信じている相手にここまで言ってもらえるということ。
 ルークは満足だった。






 それから、2人は食事を終えて別れることとなった。まだルークとしては飲みにいきたいところだったが、リックの「やることがある」の一言で終わってしまった。
「これから学校でいくらでも会えるだろう。今度は逃げたりしないから、安心しろ」
 そう言われては、ルークに否と言えようはずがない。
 おとなしく実家へ帰ろうと家路を歩いていた。
 月が出ていた。
 3年前。リックがいなくなった日の早朝。まだ沈みきっていない丸い月が、冷たく大地を照らしていたことを思い出す。
「3年……か」
 変わらない。そう彼は言った。だが、本当に自分はあのときのままだろうか。
 そうなのかもしれない。自分はあの事件を3年間ずっと引きずっていた。思い返さない日はなかった。大切な友人のことを思わない日はなかった。
 だが。
 これからは変われるだろう。こうして、リックが生きてこの街に戻ってきた。まだ過去の幻影に捕らわれてはいるものの、少しずつ成長の兆しも見えている。
 彼を助けていくことで、自分も変わっていけるはずだ。
(……ん……?)
 と、そのとき。もう既に日も沈んで暗くなっている道の途中に、1人の女性の姿があるのを見つけた。この街は治安のいい方ではあるが、それでも夜道の1人歩きは危険だ。
 学校の生徒だろうか。
 闇を吸収するかのような黒い髪。そして、それとは逆に煌々と緑に輝く瞳。
 見覚えがなかった。
「もし……」
「ルークさんですね。こんばんは」
 声をかけようとしたら、先に挨拶をされてしまった。見知らぬ女性から挨拶をされ、思わずかしこまる。
「そうですが。あなたは?」
「リックの部下、といったところです」
「ということは『SFO』の?」
「話が早くて助かります」
 女性の左胸を確認する。そこには『B』と形づくられた青いバッジがある。
「アタシ、ルシアといいます」
「僕はルーク……と、もう知っているんだったね」
「はい。失礼ですが、調べさせていただきました」
「何のために? 僕が犯人だとでも思っているということかい?」
 リックは自分だけは違うという確信をもっている。だがそれは、以前の自分を知っているという一事が大きく作用していることは間違いない。だからその部下が逆に疑う、ということは大いにありえる。
「犯人?」
 だが、ルシアはきょとんとして、何を言われたのか全く分かっていない状況だ。そして、ぽん、と手を打つ。
「ああ、おにい──リックの仕事の話ですね、それは。違います。私は別件で動いていますから」
「別件?『SFO』の傭兵が、別々の事件で同じ街に派遣されているということ?」
「そんなところです。といっても、アタシの仕事は依頼されたものではなくて、上からの命令なんです」
「と、いうと」
「リックの身辺調査がアタシの役目なんです」
 ルークは一気に緊張を高めた。
 それは『SFO』という組織がリックを信用していないということだろうか。
「なるほど。それで僕に接触してきたというわけか。3年前、どうしてリックがこの街を去ることになったのか、それを知りたいんだな」
「実はもう、そのあたりのことは調べがついちゃったんです」
 ルシアはぺろっと舌を出した。
「3年前。同棲していた相手レティアが謎の自殺。数日の虚脱状態の後、失踪。要約するとこういうことですよね」
「……そうだな」
 気に入らなかった。
 たとえ職員とはいえ所属する組織からプライバシーを調べ上げられるというのは、気分のいいことではない。
 そしてそれが自分の親友であればなおさらだ。
「それで、僕に何が聞きたいんだ?」
「そんなに、かまえないでください」
 牽制するかのように、ルシアはそう言ってきた。
「アタシ、リックが好きです」
 そして、思いもかけない言葉が飛び出してきた。
「好き?」
「ルークさんもそうでしょう? リックは、すごい傷ついている。それが見ていて分かる。だから、力になりたい。でもリックはそれを求めていない」
「……」
「アタシがリックのことを知りたいと思うのは、我儘なことですか?」
「いや……」
「うちの支部長も同じ思いなんです。だからリックと一番親しいアタシにこの役目が回ってきたんです。他の職員にリックの過去なんて教えたくなかったから。アタシと支部長だけが分かっていれば充分だったから」
 どこまで真実を言っているのか、このときのルークには判断ができなかった。
 口ではなんとでも言える。人と接する商売をしているからそれがなおのことよく分かる。真実を伝えている様子であっても、完全なでまかせを言っている場合だってある。しかも相手は戦場を駆け抜ける傭兵。場慣れしているのは間違いない。
「……今日は、これで引き上げます」
 ルシアは悲しそうに呟いた。
「アタシが来ているということは、リックには伝えないでください。時期が来れば、アタシから直接会いに行きますから」
「……彼に知られてはまずいというわけか」
「知られた途端、リックはアタシを見つけ出してぶん殴ります。それは痛そうなので教えないでください」
 いくらリックでもそこまでのことはしないだろうと思うが、あえて何も言わないことにしておく。
 もしかしたらありうる、とも思えるからだ。
「ルークさん。リック……お兄ちゃんをよろしくお願いします」
 そう言って、彼女は去っていった。
(……おにいちゃん、か)
 しばらく無言でルークは立ち尽くしていたが、やがてまた、家に向かう帰り道を歩きはじめた。






 数日がすぎた。
 長期休暇もようやく終わり、いよいよ本日より新年度の授業開始ということになった。
 レグニアは学問の街だ。国の中では辺境に違いないが、立派な私学があるというだけで国中、ひいては大陸中から若人が集まってくる。
 レグニア私立学校には各学年2クラスずつ、1クラスは約50人なので、だいたい500人前後いることになる。
 教養総合は必修単位であるため、全員が受講することになる。当然、大講堂を使っても入れる学生の人数は200人が限界なので、分割して行うこととなる。全部で5つに分けて毎日行い、生徒は都合のいい日を選択していずれかを取ればいいということになる。
 教養総合は、5日間全て1講座目に行われることとなっていた。これは去年までと変わらない。教養総合を1講座目、運動総合を2講座目に行う。生徒たちは都合のいい時間を選んで分かれていく。
 リックは初日の授業に、何も道具を持たずに講堂へと向かった。
 講堂に入ると、既に集まった学生で賑わっていた。新しい先生が来る、という噂はとっくの昔に広まっており、全員がリックの姿に注目する。
 学生は、だいたい100弱、いた。
 教卓へと向かい、リックはそこに積み上げられた受講表を手に取る。一回目の講義のときは、生徒は必ずこの受講表を提出しなければならない。提出することによって、受講を認められるのである。
「静まれ」
 威圧感をもって、リックは言った。不思議と、生徒たちはその気迫にのみこまれたかのように静まり返った。
「今回教養総合を担当することになったリックだ。初めに言っておくが、学問は優しいものではない」
 リックの言葉に、生徒たちは耳を傾けている。
「人はよく体系的な学習が必要だ、というが、お前たちの段階でそんなものは必要ない。とにかく個別の知識の積み重ねが重要だ。体系はその後で各自が行えばいい。また、そうでなければ意味がない。今期の教養総合では、とにかく知識をお前達に授けていく。政治、経済、歴史、地理、芸術、科学技術、時事、人文、何を尋ねるかはそのときの気分次第だ。だが、俺の授業を確実にこなしていけば、半年後には『知識を吸収する能力』が確実に身につくだろう」
 頷いている生徒、既に眠くなってきている生徒。それぞれいる。そんなものだろう。
「そこで、俺の授業スタイルを先に説明しておく。とにかくこっちから質問する。指名された学生はそれに答えろ。答えられない場合は、それは全員に対する課題とする。課題の内容はその場で指示していくから必ずメモしておくように。もし聞き逃したものがあれば、授業後でもいつでもいい。尋ねに来れば答える。課題は翌日昼までにレポート提出。課題を3回怠った者には単位は出さないからそのつもりでいること」
 ざわっ、と教室がどよめく。無理もない。こんな横暴な授業はおそらく誰も行ったことはないであろう。
「では、最初に出欠を取る。こちらも顔と名前を一致させていく必要がある。名前を呼ばれたら手を上げて返事をするように。レード・シェス」
「はいっ」
「バルス・ロード」
「はい」
 ……と、このような調子で93人の出席を取り終え、ようやく授業に入ることになった。
「では、授業を始める。プライカ・レヴィン。起立」
 出欠の際には30番目くらいに呼ばれた人物がいきなり指名される。学生は驚いたようであったがしぶしぶ立ち上がった。
「最初の質問だ。このレグニア私立学校の精神を答えろ」
 目を丸くしていた。無理もない。
 何の授業が始まるのかと思えば、突然そんなことを聞かれて答えられる学生はそう多くはないだろう。
「分かりません」
「たわけっ!」
 一喝が、教室を震え上がらせた。
「お前はどこに学問をしに来ている。ここは学校長ファーブル氏の目指す学問を行うために作られた場だ。そんなことも分からないで、今まで3年間も何を勉強してきた!」
 生徒が驚いたのは、リックが最後に言った『3年間も』というところであった。
 受講表には名前と学年、クラスが書かれている。確かにリックの手元にはそれがあるわけだが、それを見た素振りは全くなかった。
 では、この短時間で生徒のデータを頭に入れたということだろうか。いや違う。そんなことができるはずもない。
 つまり、生徒のデータ自体は、既に彼の頭の中に入っているのだと考えなければつじつまがあわない。あらかじめデータだけは調べておいて、あとはこの場で顔と名前・データの突合せだけを先ほど行っていたということなのだ。
 ……おそろしい先生である、ということが生徒たちの中にすぐに充満した。
 これほど生徒一人ひとりをしっかりと調べ上げる先生が、過去にいただろうか。
「最初の課題だ。この学校が設立された年代、初代校長、創立の精神、とにかくこの学校が作られる過程で調べられるものを全て調べてこい」
 すぐに生徒の手が動きはじめた。
 そして、すぐに絶望感が彼らを襲った。
 この調子でやっていくと、いったいどれだけの課題が出されることになるのだ?
 授業時間は1時間半。出欠をとっても、まだ10分しかたっていない。
「次、ミルファ・ローデス、起立」
「は、はいっ!」
 女性の声が講堂に響く。やり方は完全に学生に浸透した。つまり、自分がミスれば、全員が課題を背負うことになる。緊張感は高まるばかりだ。
「この学校があるレグニアは、なんと言う国のなんという行政区画に所属しているか」
「は、はい。ファブリア王国の、えっと、ちょっと待ってください」
「5秒だ」
「は、はいっ! ええっと、エルンスト公爵領です!」
「よろしい」
 ほうっ、と学生たち全員が息をついた。だが、惨劇は終わらない。
「次、ゼルト・ウォート」
「はい」
 赤毛の青年が、やばい、という表情で立ち上がった。
「ではファブリア国王とエルンスト公爵の名前は何と言ったか」
「……ええと、ファブリア国王はカルロス・ヒュペリオン王です」
「公爵は」
「……すみません」
「てめえは自分がいるとこの領主の名前も知らんのかっ! そんなことでお前はいったいどこの官僚になるつもりだ! まだ2年目だからって甘ったれてんじゃねえ! 課題! 現在のエルンスト公爵の業績を残らず調べ上げて来い!」
 また課題が増えた、と生徒たちがうらめしそうにゼルト青年を見つめた。
「次、リーシャ・アドニス!」
「はっ、はっ、はいっ!」
 茶色の髪をした少女があわてて勢いよく立ち上がる。顔には明らかに緊張の色が走っている。
「カルロス王の最大の功績とされるものを2つ、あげてみろ」
「は、はい。ええと……」
 瞬間的に大量の汗が彼女の額からあふれ出た。そして、震える声で、答えた。
「へ、へ、平和な、国を作ったこと、です……」
 講堂が静まり返った。
 リックは少しの沈黙のあと、深く息を吸い込んだ。
「きさまはそれでも最高学年生かっ!」
「すいませんっ!」
「現代の偉人カルロス王のことも知らないでお前はいったいここに何をしに来ている!」
「勉強しなおします!」
「当たり前だ! 課題! カルロス王の功績を2つ、完全に調べ上げてこい!」
 ──と。
 このような調子で最初から最後までやるわけなので、彼の授業で気を抜く者は当然ながら一人もいなかった。
 指名された者の中には泣き出す者さえいた。特に1年生、入学したばかりで最初の授業からこんなに厳しいことをされては、これからの生活に不安を抱いても仕方ないことであろう。
 結局、課題は1時間半の間に30ほどもでた。これを全て調べるとなると、徹夜しても終わるかどうか、という内容であった。
「以上で今日の授業を終わる」
 ほーっ、と生徒から安堵の息が一斉に漏れた。
「最初に言ったとおり、課題については全員が必ずやってこい。レポートの量は問わん。やれといったことを確実にやれ。不足分についてはおって指示を出す。無論、ふざけたレポートだったらその場でつき返すから真面目にやれ。ここの図書館は夜10時まではやっている。本の量も全員分揃っている。それでも時間が足りないというのであれば、俺の方から延長願を出しておくから安心して図書館で徹夜していけ」
 再び泣きそうになる生徒たち。
「それからカンニング、共同作業の類は一切認めない。発覚した場合はその場で、見せた者、見た者、両方の単位を落とす。それでもいいという者だけやるといい。俺はやるといったら必ずやる。共同作業をしたければうまくやることだ。言っておくが、俺はこの図書館にある本のほとんどは目を通している。間違いなくこの学校の図書館にあるもので調べられるから安心して残って勉強していけ。それから、レポートを読めば何の本を読んできたかはすぐに分かる。何の本を読んだと聞かれたときにすぐに答えられないような調べ方はするな。使った本をレポートに書き込むくらいのことはしてこい。以上だ」
 都合よく、何人かで協力しようと考えていた生徒たちにとどめを刺す一言であった。
 こうして、リックの初日の授業は生徒たちに絶望を与えたまま終了するのであった。






 その夜、図書館に設置されている発熱灯が消えることがなかった、とだけ付け加えておく。





弐:疑惑の朋友

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