弐:疑惑の朋友





「初日から、随分厳しくやったっていう話だな、リック」
 翌日、ルークから話し掛けられたリックはこともなげに「ああ」とだけ答えた。
「君の授業は本気で学問をしようとしている人以外には辛いところだろうな」
「本気でやるつもりのないやつが学校になど来るな。『自律・克己・自尊』の3つがこの学校の精神だろう」
「確かにそうだ。でも、学校はそれだけではないからな」
「どういうことだ?」
「お前には分からないかもしれないな。コミュニケーションの場だということだよ」
「──くだらない」
「そう言うと思った」
 朝の職員会議の前。穏やかな時間が流れていた。
 リックが新しい政治の本を読んでいたとき、職員室の扉が開いて一人の生徒が入ってくる。見覚えのある顔だった。
「おはようございます、ルーク先生、リック先生」
「おはよう」
「おはよう。ミレン・ドールだな。レポートを提出に来たか」
「はい」
 ミレンは10枚程度のレポート用紙をリックに提出する。
「『パ・ラーヌス』のバイトはいってきたのか?」
「いいえ、昨日は定休日です。あらかじめルーク先生から『教養総合を受ける日は放課後がなくなると思っておけ』と言われていましたので」
 だから毎週定休日の曜日に教養総合を入れた、というのである。
「賢いな。事前の準備がいい」
「ありがとうございます」
「そういう人物を国や地方は望むだろうな。すぐに添削する。少し待っていろ」
「はい」
 ぱら、ぱら、と次々にページをめくっていく。そして4枚目で手が止まった。
「ここはおかしいな」
「どこでしょうか」
「古ローヌ王国ではまだ貨幣経済は浸透していなかったはずだ。何の本を読んだ?」
「それは……ええと、レポートの最後に」
 リックは確認する。そこには『ローヌ王国の盛衰』とかかれてある。
「一冊だけしか確認しなかったのか」
「申し訳ありません」
「……では、ここのところは他の資料もあたって、もう一度提出しなおすこと。来週の授業が始まる前までに必ず提出」
「はい」
「あとは……そうだな」
 さらにめくっていく。だが、特別リックの目につくところはなかった。
「まずまずだ」
「ありがとうございます」
「これだけのレポートが書けていれば及第点だな」
「まだ、その程度ですか」
「やれと言われたことをやる。それができて及第点だ。だが学問を究めようと思うのなら、何も言われなくても自分で分からないところ、興味が出たところを調べるくらいの姿勢がなければならない」
「心がけます」
「そんなのは心がけなくてもいい。調べてみたい、と思ったら調べる。それでいいんだ。そうならないのは初めから学問に向かない人間というだけのことだ。学問に向かないが大成している人間はいくらでもいる。だから、気にしなくてもいい」
「はあ」
「だから及第点が取れていれば問題ない。単位はきちんと出す。安心していいぞ。お前なら問題はほとんどない。今後もこの調子で学問に精を出すように」
「はい」
 そうしてミレンは退出していった。
「リック」
 ルークがそれを見て声をかける。
「なんだ?」
「その調子で毎日100人近くと面談するつもりか?」
「いや。レポート提出でいい、と言ってある。その場で添削したのは、彼がどの程度のレポートを書いてきたのか、自分が書いたことをどれだけ把握しているのかを知るためだ。添削したものは基本的に担任の教師に回して、授業後のホームルームで返却してもらう」
「……指導熱心だな、君は」
「生半可な気持ちで学問をされるのが嫌なだけだ。それに、正直昼の間は『本業』の方が暇になるから、やることもないしな」
『SFO』の仕事。学園長ファーブル・ダーマの命を狙っている犯人を捕らえるというもの。
 この様子では、あまり捜査は進展していないのだろう。
(そういえば、ルシアという女性もあれから接触してこないな)
 すぐにまた会えるだろう、と高をくくっていたが、あの日以来全く接触はない。
「失礼しまーす!」
 元気よく職員室に入ってきたのは、昨日の教養総合を受けていた女生徒2人、リーシャ・アドニスとシルフィ・レナンであった。
「おはようございます、リック先生。レポートを持ってきました」
「ご苦労。2人とも、徹夜したようだな。目が赤い」
「分かりますか?」
 リーシャが明るく答え、シルフィは疲れたように頷いた。
「時間があるなら、今ここで添削してもいい。どうする?」
「あ、じゃあ、ボクはお願いします。シルフィはどうする?」
「私は……その、じゃあ、お願いします」
「了解」
 リックは受け取ったレポートの枚数を確認した。リーシャは8枚。シルフィは9枚。まあ、こんなものだろう。
 まずリーシャのレポートから確認する。最初の1枚目から目を引く内容だった。
「『……本学の精神は『自律・克己・自尊』にある。自律とは、自分でしっかりとルールを作り、それに従って行動することだ。克己とは、自分の邪念に打ち勝つことだ。そして自尊とは、そうした自分を誇りに思うことだ……』リーシャ。お前……」
「はい」
「初代校長の随想録を丸写ししたな」
 あ、と口をぽかんとあけた。
「……分かりました?」
「全部目を通してある、と言っただろう。言葉でいくら調べることができたとしても、それが自分のものにならなければ意味がない。今度はこの言葉を、これからの自分にどういかしていくことができるのか、それをレポートでまとめてくること」
「はーい」
「それから、3つ目のカルロス王の功績だが」
「はい」
「平和な国づくりとは書かなかったようだな」
 リーシャはさすがに赤面した。
「カルロス王の6都市建設と、それを互いに交えるようにした道路の建設。これは正しい」
 リーシャは頷いて次の言葉を待つ。
「だがせめて、6都市の名前と、都市と道路を建設したことによる効果、影響まで書いておくとなおよかった」
「はい……」
「ファブリアは都市と道路の発展によって、首都圏に人口を集中させた。その結果として地方と中央との間にさまざまな差が生まれることになった」
「は、はい」
「そこまで調べておければいいんだがな。できるか?」
「調べてみます」
 リーシャの前向きな返事にリックも頷く。
「よし。では次に……」
 そうして、全部で6箇所、リックはリーシャのレポートを添削して返却した。同じようにシルフィも3箇所の添削をして返却する。
「来週の授業開始までに提出すること。いいな」
「はい。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 答えた2人は、笑顔で職員室を出ていった。
「ルーク」
 今度はリックの方から話し掛けた。
「どうした、リック」
「今のリーシャという生徒のことだが」
「ああ」
「データでは、あまり熱心に学問をやる生徒ではないとなっていたんだが、お前の目から見てどう思う?」
 ルークはしばし考える。過去4年間、彼女が落第ぎりぎりでクリアしてきたことが思い返される。
「たしかに熱心な生徒ではなかったな。何回か単位も切られているはずだ」
「その割に、随分いいレポートを書いてきた」
 リックは言いながら、生徒のデータのところに書き込みを加えていく。
「無論穴だらけだが、努力した跡がうかがえる。そういう努力をする生徒だとは今の今まで思ってもいなかった」
「たしかにそうだな。でもリーシャは、やるときはやる子だよ」
「そうでなければ、あの成績で落第を逃れることはできなかっただろう。1回の集中力が素晴らしいのだろうな。興味深い生徒だ」
 そこで始業時間となった。職員会議の時間だ。
 今日もまた1日が始まる。新しい生徒たちにリックは教えに出かける。
 ルークには、それが嬉しかった。
 同じ場所で、同じ生徒に、授業をする。
 夢が、かなう日。






 レグニア私立学校は、1講座目の前にホームルーム、そして1講座、2講座と進み、昼食休憩1時間。そして3講座目を行って、最後にホームルームをもう一度行ってその日は終了となる。
 だいたい終わる時間が午後3時ころである。教養総合の課題がある者は、その後に図書館にこもることになる。
 ルークがこの日の朝のホームルームに向かったとき、生徒たちが廊下で話す声が聞こえてきた。
「いや、今度きた先生すごいぞ。厳しいのなんのって」
「マジ? 俺教養今日だよ。やだなあ」
 やはり、リックのような存在は煙たがられるようである。仕方のないことではあるが。
 ルークは苦笑しながら教室へと入った。
 5年B組。クラス在籍者数33名。
 毎年何人かずつ落第していくため、5年生ともなるとやはり人数も少なくなってくる。もっとも前の年の落第生もいるため、それほど大きな変動はないが。
「よし、ホームルームを始めます。日直」
「起立!」
 号令をかけたのはレド・ソーラス。ルークは3年のときからずっとこの生徒の担任になっている。小柄な生徒で体力はあまりないのだが、勉強熱心でいわゆるガリ勉タイプだ。
「礼! 着席!」
 落ち着いたところで、ルークが話をはじめる。
「さて、この中にも既に何人か、教養総合を取った者がいるでしょう。手をあげてみてください」
 まずはそこから切り出した。ぽつぽつと手が上がる。ミレン、リーシャ、シルフィなど、既に今朝の段階でレポートを提出した者もいれば、まだ職員室には顔を見せていないものも、何人か手が上がる。
「よし。いきなり厳しい授業で面食らったかもしれないけど、リック先生についていれば確実に『知識を吸収する能力』が身につくから、課題は絶対にこなすようにしなさい」
「先生」
 手が上がる。リオ・エルセスという、体格のいい生徒だ。
「リオ君、どうした」
「あの先生、ちょっと課題が厳しすぎるんですけど」
「どこがですか?」
 ルークはにこやかに尋ね返す。
「どこがって、今まであんなに課題を出した先生はいません」
「といっても、たかが一日徹夜する程度の量だろう? リック先生は一日でできない量の課題は出していないと言っていた。先生も課題の量は聞いたけど、そう思った。あれくらい厳しい先生が今までうちの学校にはいなかったから、丁度いいんだ。学問っていうのが厳しくないとみんなに思われたら困る。リック先生は学問は厳しいものだということを教えてくれる、いい先生だよ」
 やはり、不満があがった。それは覚悟していた。
 職員会議でも既にそのことが話し合われていた。徹夜した生徒は20人近くもいたという。そんなに無理な勉強をさせることがはたして生徒のためになるのか。生徒からのクレームは来ないのか。そういう内容だ。
『仕事をするようになったら嫌でも徹夜するときが出てくる。今からその程度のことができなくてどうする』
 リックに言わせると、せいぜい『その程度』のことらしい。
 では自分も『その程度』という立場で生徒に接しなければいけない。
「実際、今朝もう既にレポートをリック先生に提出しに来た生徒が3人いた。その全員がこのクラスの生徒だったというのは先生にとってすごく喜ばしい。社会に出たら、とにかく指示されたことに対してのスピードが要求される。それをしっかりと果たしている人は高く評価される。この中でそれをしているのはいったい誰だろうか? いいかい、みんなはもう5年生だ。うまくすれば来年にはどこかの国に勤めることになるかもしれない。そのときに泣き言をいうことはできない。今のうちに、厳しさというものを少し実感しておかなければ駄目だ。少なくともこの学校は、みんなを甘やかすためにあるわけじゃない」
 そう言われると生徒には反対することはできない。
「リック先生は知識を吸収することについては人一倍の情熱を持っている。リック先生がこの学校の生徒だったとき、彼は1年生のときからずっと席次1番を取りつづけた。それは才能があったからじゃない。それだけ努力する人だったからだ。努力もしないで不満だけ言う人間を彼は一番嫌う。リオくん、そのあたりのことはよく心得ておきなさい」
 はい、としぶしぶ答が返ってきた。だが、この様子ではリックに対する意識はあまり良いほうではないだろう。
(まあ、彼らにはいい薬だろう)
 学生という立場に甘えることなく、しっかりと学問をして、『さすがはレグニア私立学校の卒業生』と言われるような人材になってもらわなければ、将来的にこの学校に来る人数が減っていくことだってありうるのだ。
「それでは、今日の1講座目が始まりますので、各自、自分が受講する教室へ移動してください」
 ルークはそう言って、ホームルームを切り上げた。






 夕刻。
 リックが学校を出ようとしたときに、一人の女生徒が彼を呼び止めた。
「リック先生」
 リーシャ・アドニス。
 彼女は自警団の第2分隊長ヴァリア・アドニスの娘で、そのせいもあってかけっこう顔が広い。見たところ好奇心旺盛で何事にも首を突っ込むタイプだが、完全にのめり込むようなことはない。学問には不向きな性格をしているように見える。
「どうした」
「あ、今朝言われたこと、まとめてきました」
 リックは表情を変えずに「ほう」とだけもらす。
「早いな。いつやった?」
「昼の間と、放課後です。ルーク先生が『作業が早い人間を国は求めている』って言ってたので、できるだけ早くやろうと思いました」
「いい心がけだ」
 リーシャは嬉しそうに微笑む。手渡されたレポートをその場で目を通していく。
「──いいだろう」
「ありがとうございますっ!」
「まだ穴は多いがな。これからも学問に精を出すように」
「あ、はは。できるだけそうします」
 彼女らしい。そう思った。
 リーシャはそのまま駆け足で去っていった。
(さて、行くか)
 リックは『夜の顔』に表情を切りかえる。
 傭兵として、戦士としての厳しい表情だ。
 この数日間の調査の結果はあまり芳しくはない。とりあえずは半年の護衛と捜査、という形で校長とは契約を結んでいたが、犯人さえ捕まえてしまえばすぐにこの街からは解放される。
 学校長ファーブル・ダーマは人格的なところをいえば全く非の打ちどころのない高潔な人物だ。だが、それゆえに恨みをかうということもありうる。
 現在のところ、彼に恨みを抱いている人間は見当たらない。だとすると、個人的な恨みか、そうでなければ財産目当てか、ということになる。
 もしくは、校長という地位目当てか。
 レグニア私立学校には副校長のレン・トーラス、教務統括部長のミゲル・セーベの2人が次の校長ではないかと考えられている。2人ともまだ40代と若い。現在の校長は既に60を回っている。世代交代はそろそろだろう。
 だがそれなら、狙われる相手はレンかミゲルのどちらかでなければおかしい。この2人は同世代でライバル意識も強く、足の引っ張りあいをするところがある。
 そのためファーブル校長も簡単に跡継ぎを決められないでいる。
(……やはり、地位目当てということではない、か)
 地位目当てなら、校長ではなく対立相手を狙うはずだ。これはそんな単純な話ではない。
 リックは街の酒場通りへと向かった。
 ファーブルの息子、ガイウス・ダーマが今日はこの酒場に飲みに来るという情報を掴んでいたからだ。
(ガイウスは、もう40になろうとしているのに定職についていない)
 親のすねをかじりながらこの年まで生きてきたということだ。
(ファーブルが退職したら困るのはガイウスだろう。だが、死ねばどうなる?)
 莫大な遺産がガイウスのもとにころがりこんでくることになる。
(財産目当ての犯行か……ありえない話ではないな)
 目的の居酒屋を見つけて中に入る。
 こじんまりとした、雰囲気のいい居酒屋だった。
「いらっしゃい」
 こういう酒場に1人でやってくるのはおかしかっただろうか、と少し疑問に思ったが、まあもう遅い。
「ウォム酒をもらえるか」
「あいよ」
 カウンター席に座り、耳をそばだてる。席の上に掌よりも小さいサイズの鏡を置いて、後ろを確認する。
 小上がりに、ガイウス・ダーマがいた。
 そして彼の回りには3人の男たち。いずれも同じくらいの年齢層で、あまり柄のいい連中とはいえなかった。
 話を聞くかぎりでは、別段不穏な話をしているというわけではない。まあ、こんなところで悪巧みの話をすることはないだろうが。
 だがこの男たちはいったいなんだろうか。もちろんガイウスにも知り合いくらいはいるだろうが、今回ここで飲み会となっている理由がまだリックには分かっていなかった。
「そういや、あいつどうなった」
 男の1人がガイウスに問いかける。
「まだだな。あと一歩ってところだ」
「早くしろよ。時間もあまりねえからな」
「ああ。あと1ヶ月以内ってところだ」
「期待してるぜ、ぼっちゃん」
(……あと1ヶ月?)
 何の話だろうか、と話にさらに集中する。
「俺たちはもちつもたれつだからな。これからもよろしく頼むぜ」
 男の手から、何かの試薬が手渡される。
(薬?)
 カウンターに置いた小さな鏡で後ろの様子を確認していたリックは、さすがに不穏なものを感じる。
 ガイウスが手にとった薬品。あれはいったい、何なのだろうか。
 こんなところで違法に(ファブリア国内では薬品の無許可売買、譲渡は法律で禁止されている)手渡されているのだから、まっとうな薬であるはずがない。
 しかも、この話の内容から察するに。
(……ガイウスは、脅されているのか?)
 そして誰かを薬品で殺そうとしているのだろうか。
 ファーブル・ダーマを?
(いや、校長は健康で、薬など全く飲んでいなかった)
 では、いったい誰を?
(……余計な仕事が、絡んできたようだな)
 リックはため息をついた。






 ルークは残業を終えて、職員室を出た。
 廊下からガラスごしの図書館を見ると、まだ明かりが灯っている。もう9時だというのに、それでも課題が終わらない生徒がいるようだ。
(……そういえば、課題未提出者が4人いたとか言っていたな)
 3回未提出となった場合は容赦なく単位を切るとリックは言っていた。彼はやると言ったら必ずやるだろう。そして、それをこなしている生徒と怠けている生徒がいるのだとすれば、怠けている生徒を救済するのは、しっかりと課題をこなしている生徒に対してあまりに不平等だ。
(学問には昔から厳しかったからな、リックは)
 自分にも、フォトンにも容赦はなかった。自分たちがリックとつきあっていけたのは、最後まで努力することをやめなかったからだ。だから二人とも3年のときからずっと、席次1桁を維持しつづけることができたのだ。
(ここを卒業だけして自分に箔をつけておきたい、なんて考えている生徒には厳しい先生だろうな)
 リオのような生徒はまさにそうだ。レグニア私立学校を卒業したという付加価値をつけて自分を各国に売り込みたいのだ。
 だがリックは就職のためだけの学問など絶対に認めない。学問を修めた結果として、その人物が評価されて職が得られるものだと考えている。
(まあリックが正しいことには違いないんだが)
 とはいえ、正論だけでは人の世の中は成り立たないものだ。
 自分ですら、学問を続けることに苦しい、逃げたいと考えることがある。ましてや学問の道にようやく入りかけた生徒たちには、その楽しさなど分かるはずもないだろう。
(リックはそれを肌で知っている人物だった。なにしろ、すぐ傍に格好のライバルがいたからな)
 レティア・プレース。
 昔から現在まで、リックに一番大きな影響を与えている人物。
(……何故、死ななければならなかったんだ?)
 ふと、疑問に思う。
 今までは自分がリックを助けられなかった、という悔恨ばかりが先に出てきていたが、どうしてレティアが自殺をしなければならなかったのか、彼女のことを考えたことはほとんどなかった。
 死ななければならない理由など、彼女にはなかったはずだ。
(……本人でなければ分からないだろうな。なにしろ、リックにすら分からないのだから)
 後悔だけが残る。
 自分ならば何かができたのではないか。そういう、後悔。
(そうした後悔は誰しも負うものだが……)
 自分は違う。
 自分はリックにとって数少ない友人だった。そして──
 ため息をつきながら校門を出る。
 その先に、一人の人物が立っているのが見えた。
 黒く短い髪。非常にいい体格。がっしりと筋肉がついていて、腰には長剣をさしている。明らかに傭兵か、兵士の格好。
「よう、ルーク」
 気さくに声をかけてきた男。それはルークにとっても大切な友人の一人であった。
「フォトン」
 たちまち笑顔になってフォトンに駆け寄る。
 自分たちが学生だったころ、自分とフォトンとリックの3人でよく行動していた。自分たちは不思議と仲がよかった。全く正確の違う自分たちが一つのグループを形成していたのは、今考えてもどこかおかしいところがある。
 ただ、フォトンは自分を好いていたし、リックのことも好いていた。
 リックはレティア以外の人物についてはどうでもいいという態度を崩すことはなかったから、自分から声をかけないと決して反応しない。
 フォトンは、諦めずに何度もリックに話し掛けていた。もちろん自分も。次第に、リックも自分たち2人だけは受け入れるようになった。
 いうなれば、自分たちはリックの特別。それを誇りたかった。
 その気持ちは、フォトンも同じはずだ。
「久しぶりだな、仕事はいいのか?」
「ああ。久しぶりに隊長が定時に上がらせてくれたからな。明日の昼までは暇だ」
「そうか。忙しいんだな」
「なに、そういう仕事だって分かってて入ったからな。それより、あいつ、どこだ?」
 フォトンは嬉しそうに、待ち切れなさそうに言った。
「リック、か」
「ああ。3年ぶりだからな。会いにきた」
「残念ながら、彼はもう帰ったよ。やることがあるらしい」
「ちっ。遅れたか。もう少し早く解放されてりゃなあ」
「それでも定時なんだろ。仕方ないな」
「ったく、リックも気ぃきかして待っててくれたっていいのに」
「おいおい、何の連絡もなしにそれは無理だろう」
 ルークもまた、フォトンと会うのは久しぶりだった。同じ都市に住んでいながら、おそらく数ヶ月ぶりといったところである。
 もちろん友好関係は続いている。別段会うことが少なくとも、たまに会えばこうして会話もはずむ。飲みに行ったりもする。学生のころからいい関係を2人は築いていた。
「リックと飲みに行きたかったんだがな。あいつ、どこに住んでるんだ?」
「さあ。そういえば、聞いてなかったな」
 考えてみると、確かにリックがどこに住んでいるのか全く分からなかった。
 おそらくそれは、彼が3年前までは『あの家』に住んでいたから、そのときの名残で別段気にもとめなかったのだろう。
 だが『あの家』に住んでいるはずがない。既に人手に渡っているし、何よりリックは『あの家』に住むつもりは絶対にないだろう。
「なんだよ、せっかくの自由時間なのになあ」
「あらかじめそういう場合は連絡をしてくれよ。リックだって君のこと少しは気にしてたぞ」
「少し、な。あいつらしい」
 2人は苦笑した。
「仕事、忙しいみたいだな」
 落ち着いてから、ルークはそう切り出した。
 ちょうど半年前くらいから、フォトンは非常に忙しくなりはじめた。何か捜査をしているというのは分かったが、何の捜査をしているのかまではルークも聞いていなかった。
「ま、いろいろとな。随分捜査は進んでいるんだが、くだらない証拠ばかり見つかって肝心のところが見えてこなくてな」
「いったい何を捜査しているのかとは、聞いたらまずいんだろうな」
「ま、な。こう見えても守秘義務とかっていうやつを守らなきゃいけない立場だからよ」
 2人は並んで歩き出した。
 考えてみれば、あの卒業式以来、フォトンはまだリックと再会していないのだ。一刻も早く会いたいという気持ちは分からないでもない。
「……なあ、あいつの様子、どうだ?」
「リックかい? そうだな、割と元気だよ。でも、まだレティアさんのことを吹っ切れていないみたいだね」
「そうかあ……そうだよなあ」
 フォトンは辛そうに受け答える。
 あの日、フォトンは現場を見ていない。彼が確認したのは、倒れて、力を無くして、世界を完全に拒絶してしまったリックの姿だけだ。
『なんで俺のことを見てくれないんだよ!』
 リックの肩をつかんで強引に揺さぶっても、リックの目には何も映らなかった。
 そして、フォトンはリックから逃げ出した。
 リックが自分を全く必要としていない、自分を含めた世界を拒絶しているという事実に耐えられなかったのだ。
「……あいつ、何で帰ってきたんだ?」
「え?」
「まだ、吹っ切れてないわけだろ? それなのにどうして帰ってくる気になったんだろう」
「……それは、本人に聞いてみないと」
「そうだな、確かにそうだ」
 フォトンは言葉を区切った。
「せっかくだし、飲みに行くか?」
 ルークはそれもいいかと思ったが、すぐに思いなおした。
「いや、時間があるときに3人で飲みに行こう。それまで、酒はとっておく」
「ずるいぜ。どうせお前ら2人はもう飲みに行ったんだろ?」
「まあね」
「俺だって久しぶりにリックに会いたいのによ。ああー、早く会いたいなあ。明日の朝は暇だから、久しぶりに学校行ってみるかな」
「いいんじゃないか? リックも喜ぶだろう」
「そう思うか?」
「思うね。彼は意外に、人恋しい人間だ」
 フォトンは目を丸くした。
「嘘だろ?」
「事実だよ。レティアさんの一件を見れば分かる。彼は大切な人を失うことが怖いんだ。だから誰にも近づかない。レティアさんだけが唯一の例外だったんだ」
「じゃあ、俺たちは?」
「相手は誰だっていいんだよ。傷つきたくないから人を避ける。でも人恋しい。だから、自分からは声をかけられないから、誰かに声をかけてもらいたくてじっと子犬のように待っている。リックは、そういう奴だよ」
「……信じられねえ」
「これは、再会して思ったこと。君も多分、会えばなんとなく僕の言っていることが分かると思う」
 そんなもんかねえ、とフォトンは呟いた。
「じゃあ、また明日」
「おいおい、まだ行くとは言ってないぞ」
「君は来る。絶対にね」
「やれやれ。見込まれたら行かないわけにはいかねえなあ。あーあ、明日は久しぶりにゆっくり昼まで寝られると思ったのにな」
 口ではそう言いながらも、フォトンは嬉しそうだった。
 久しぶりに再会する友人。
 リックに会えるということが、彼を浮き立たせていたのだ。






 だが、次の日フォトンは学校へは来なかった。
 再会を楽しみにしているようだったのに、いったいどうしたのだろう、と考えていると当のリックがちょうど図書館から戻って来た。
「どうかしたか?」
 よほど自分は変な顔をしていたのだろう。正直に、昨日フォトンと会ったことを話した。
「なるほどな」
 そう頷いて、リックは席につく。
「なるほど、とは?」
「警戒されているっていう意味だよ、俺がな」
「警戒? フォトンが? 君に?」
 何を言っているのか、ルークには全く見当がつかない。
「本来、帰ってくるはずのない人間が帰ってきた。何か理由があって帰ってきたはずだ、と勘繰る。結果、自分たちが捜査しているものと関係があるのではないか、と推測する」
「……警察が何を追っているのか、君は知っているのか?」
「俺は情報から事実を推測することはできるが、何もないところから答を見つけることはできない」
「つまりは知らないということか。なるほどね、考えてみると確かに昨日のフォトンの態度は少しおかしかった」
 リックが何故帰ってきたのか、フォトンはそれを気にしていた様子だった。今思い返してみると、あれは自分から何か情報を引き出そうとしていたのではないか。
「何か言ったのか?」
「いいや、何も。分からない、とだけ答えておいたよ」
「賢明だな。まあ、こっちの捜査の邪魔さえしなければ別に教えても問題はないんだが」
「捜査は順調かい?」
「1つの事件の裏には10の事件が潜んでいるものだ。なんだか、余計な事件に巻き込まれそうだ」
「それは聞いてもいいのかな」
「ここではまずいな。後で、どこか別の場所でなら」
「了解」
 そう言っている間にも、昨日の教養総合の授業を受けた生徒がやってきてレポートを提出する。
 リックはそれを次々に赤インクで添削していく。
 授業の内容は、1日目と2日目ではほとんど違った。最初の出だしだけは同じだったものの、本当にそのときの気分によってリックが質問する内容が変わるため、傾向と対策などまるでたてられない。どこまで教養知識を知っているかどうかが課題の量の増減につながっていた。
「今日が3日目か。調子はどうだい?」
「まずまずだ。仕事をしている間は余計なことを考えなくてすむ」
「そうか」
 深くは追求しない。何を言いたいかは分かっているからだ。
 レティア・プレース。この街にいる限り、彼はレティアの呪縛から逃れることはできないのだ。





参:面影の女性

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