参:面影の女性





 それから何事もなく、1週間が過ぎた。
 ルークのもとには相変わらず、ルシアもフォトンも接触してこない。リックとも捜査状況について話し合うこともない。
 平平凡凡と、日々を過ごしていた。
 そんなある日のこと。
「ルーク君」
 廊下を移動中、ファーブル学校長から突然声をかけられた。
「お疲れ様です、校長」
「うむ。どうだね、リック君の様子は」
 校長は何気なく話題をふったつもりのようだったが、何を言わんとしているのかはおおよそ察しがついた。リックの厳しい授業で、生徒たちが根をあげていないか、ということだろう。
「ええ、今のところは何の問題もなくやっています。ただ、教養総合で落第しそうな生徒が既に何人かいそうなだけで」
「それはかまわん。リック君に任せておけば、本物とそうでないものとの区別がはっきりできる」
「たしかにそうですね」
 校長の後ろには、秘書のサイウス・バルドが控えている。校長よりも頭1つ大きい。ルークより拳1つほど背が高い。均整のとれた体つき、武術でもやっているようなひきしまった筋肉。すらりとのびた手足。邪魔にならないように後ろで1つ縛られている、整えられた黒く長い髪。そして、漆黒の瞳。
 この人物が秘書として採用されたのは今期からだ。事務能力はかなり優秀で、以前までの秘書と比べて格段に校長の仕事が楽になったと聞いている。
(ああ、そうか)
 ようやく思い至った。この人物が、リックの言っていた『ボディガード』なのだ。
 秘書として雇った人物がボディガード、臨時講師として雇った人物が捜査にあたる。
 よく考えられている。そう、ルークは思った。
「君とリック君がいると、なんだか5年前を思い出すな」
「あのときよりは、2人とも成長していますよ」
「そうだな……あの事件は非常に残念だった。そう、かえすがえすも残念だった。我が校は優秀な卒業生2人を同時に失ってしまった。彼も、そして彼女も、人生を投げ出すにはあまりに早かった」
「おっしゃるとおりです」
 その場にいたルークにしてみると、言葉と内面は全く異なる。校長がリックのことを心配しているというのは分かる。分かるのだが。
(あのときのリックを一目も見ていないのに……)
 彼がどれほど世界に絶望していたか、校長は知らない。
「だが、1人は無事に帰って来た。これからも我が校で活躍することを期待しているのだよ」
「はい、私も同じ考えです」
「うむ」
 校長は機嫌よさそうに、また歩いていった。
(命を狙われている、か……とてもそんな雰囲気はないな。表に出さない演技力はたいしたものだ)
 そのまま職員室へ向かう。その扉の前で、一人の女生徒が立ちすくんでいた。
「あ、おはようございますルーク先生」
 リーシャだった。
「おはよう、リーシャ。誰を待ってたんだ?」
「リック先生です。教養のレポートを持ってきたので」
「リック? 中にいなかったか」
 彼は誰よりも早く学校に来る。理由はない。学生の頃からそうだった。
 職員室にいないのなら、あとは彼の行く場所は1つしかない。
「それなら、図書館だな」
「図書館ですか?」
「朝は勉強時間だって決まってるからな、彼は。朝だけでなく、放課後もいつでも勉強してたから、あまり変わらないとは思うが。でも、レポート提出なら机の上に置いておくだけでもいいだろう?」
「添削してもらいたいんです。直接言ってもらった方が分かりやすいですから」
「なるほど」
 どうやら、この少女はあの能面に憧れのようなものを抱いているようだった。たしかに見目はいいし、なんといっても姿勢が立派だ。高潔な人物といって間違いない。
 ただ、目の前の少女が憧れるようなタイプだとは、とうてい思えないところに違和感があるが。
「それじゃあボク、図書館に行って──あ」
 彼女はルークの後ろに見えた人物を確認すると顔を輝かせた。
「リック先生ー!」
 右手を大きく振って、廊下の向こうからやってくる人物に大声で呼びかける。
「聞こえている、リーシャ。廊下で騒ぐな」
 リックは無表情で応対した。リーシャは嬉しそうに、すいません、とだけ答える。
「レポートか?」
「はい。添削してもらいたかったので」
「分かった、入れ」
 扉を開けながらレポートを受け取る。そしてリックはレポートの1枚目に目を通した。
 自分の席につき、ペンと赤インクを取り出す。
「……ふむ」
 2枚目、3枚目と添削を続けて、5枚目で手が止まった。
「大陸でも最も水揚げ量の多い港を10箇所。よく調べがついたな。ただちょっとデータが古いな。何で調べた?」
「資料がありました。いろいろ統計が載っている本です。この学校の学生が昔書いたレポートだったんですけど、名前までは分かりませんでした」
「『統計総録』か。なるほど、7年前に書かれたものだな。データはさらにその6年前か。つまり13年前のデータだ」
「……すごいですね、そこまで記憶しているんですか」
 隣の席にいたルークが何故か吹き出していた。
「その資料を読んでどう思った?」
「よく調べられてますけど、北のレブリア港だけ、細かいデータがありませんでした。あれが分かったらもう少しいいものが書けたんですけど」
「なるほど。その理由までは、さすがに分からなかったか」
「はい。やっぱりこの学校からだと遠いから、学生も手を抜いたのかなとか思っちゃいましたけど」
 ルークは必死に笑いをこらえている。何故笑っているのか、リーシャには分からないようだった。
「当時、北のセゥカ王国は西のバルティア王国と第2次戦争を行っていた最中だった。だから現地の資料を取り寄せることもうまくいかなかった、というのが理由だ」
「そうなんですか。でも、どうしてそこまで知っているんですか?」
 リックはレポートにいろいろと書き込みを終えて、リーシャに手渡した。
「あれは、俺が書いた」
「……は?」
「あれは俺が書いたんだ。だから内容も覚えている」
 リーシャの顔が一瞬で青ざめていた。
「調べなおすことはあらかた書き込んでおいた。行ってよし。次回の授業までに再提出すること」
「はっ……はいっ!」
 全力で逃げるようにリーシャが出て行ったあとで、ぷはっ、とルークがようやく吹き出した。
「今のはリーシャが可哀相だよ、リック」
「あまりにも見たことがあるデータだったからな。少しくらいは追及しても文句は言われないだろう」
 つまり、リーシャが調べてきたデータを見た瞬間に、それが自分が書いた論文のものから抜粋したのだと分かったのだ。分かっていてあえて尋ねたのだ。確かに多少意地が悪いと言われても仕方がない。
「あのレポートは傑作だったからね。たしか君が2年生のときに書いたやつだ」
「ああ。あの頃は都市に興味があった時期だからな。農業のさかんな都市、工業のさかんな都市、水産業のさかんな港町、あらかた調べた。そうして気づいたことがある」
「なんだい?」
「人は、どこかに集まろうという習性がある、ということだ」
 机の上のレポートを添削しながら、リックは話を続けた。
「孤独な人間は、自分が世界から排除されているのではないか、という錯覚をおこす。それを防ぐために、人はできるだけ多くの組織に所属しようとする。あるいは多くの知己を得ようとする。この学校など、典型例だろう」
「ああ、そうかもしれないな」
「俺も結局は一人では生きられなかった。いや、今の組織に、無理やり生かされ続けた、といった方が正しいかな……」
 彼は、笑った。
 そう。彼も笑うことができる人間なのだ。レティアと一緒にいたときは、彼もよく笑っていた。レティアのこととなると幸せそうな表情を浮かべていた。
 だが。
 決して、こんなふうに笑ったことは一度もなかった。
(いけない)
 こんな笑い方をしてはいけない。
 自虐的な笑み。自分が愚かで、存在価値のないものだという笑い方。そんなことは、駄目だ。
「リック、そんな笑い方をしてはいけない」
「……?」
「君は、君という大切な1個人だ。決して、そんな笑い方をされる人間じゃない」
「……ルーク」
 また、表情を元に戻す。そして、言った。
「お前は、俺の何を知っているんだ?」
「リック」
「俺は、何も分からない、愚かな人間だよ。一番大切な人が何を考えているのかすら分からない、本当にくだらない人間なんだ」
「それは違う、リック」
「──だが、お前の言いたいことは分かる。あまり、自分を責めないようにすることにしよう」
 強引に話を切られると、それ以上ルークも何も言えない。
 言いたいことはたくさんあるのに、それを全部胸の中に押し込めたまま、1日が始まろうとしていた。






 リックは裏路地を歩いていた。
 月は次第に欠けていく。薄暗く、ほとんど何も見えない。ランプがなければほとんど歩くこともできないような道であったが、リックは速度を落とすことなく進んでいく。
 なんといっても、リックは夜目がきく。
 少しの明かりでもあれば周りを見わたすことは彼には決して不可能ではない。もっとも真の闇の中ではさすがに何も見ることはできないが。
 そして、この道は彼にとってなじみ深いものであった。
 数年前、よく彼女と二人で歩いた道。
(……吐き気がする)
 この道を歩くだけで、生々しい記憶が蘇ってくる。
『リック、どうしてこの世の中はあるのだと思う?』
 哲学的な問いは、どこまでいっても解明することはできない。当時のリックも既にその境地に達していた。
『レティアらしくない質問だね』
『分かってはいるのよ。でも、最近はよくそんなことを考えてしまうの。どうしてこの世界があって、どうして私たちは出会ったのか……』
『レティア』
『どこにも、いかないでね。リック』
 ……彼女が自分の前からいなくなったのはそれからわずか10日後のことだった。
(うぐっ)
 強烈な吐き気に立ち止まる。胸をおさえて、近くの街路樹に手をかける。
(考えるな)
 閉じられた瞳。
 時の止まった部屋。
『死』の匂い。
(考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな)
『ねえ、リック。私は、ずっとあなたと一緒に生きていきたい──』
「やめろっ」
 掠れた声で幻影を振り払う。
 街路樹に手をついて、思い切り頭を叩きつける。
 呼吸が荒くなっていた。
 全身に汗をかいていた。
(……重症だな)
 自分の症状を冷静に分析する。
 頭の痛みが徐々に彼を現実に連れ戻していく。
「うわああああっ!」
 そのとき、路地の向こう側で男の悲鳴が上がった。しまった、と後悔する。そう、今自分は彼を追いかけていたのだ。何を過去の幻影に捕らわれていたのだろうか。
 急いで駆け出す。が、体が重く、あまり言うことを聞かない。
『行くわよ、リック』
 そう、この道を二人で走った。
 トレーニングの一環として、そして、彼女の気まぐれのために。
『帰ったら、おいしいご飯を作ってあげる』
 走りながら、リックは頭を左右に振る。
 苦しい。
 半分、リックは泣いていた。
 そして、その向こうに彼──ガイウス・ダーマがしりもちをついて、必死に後ずさりをしていた。
 その正面には。
(……?)
 リックはおそるおそる近づいていく。
「ああ、あんた、助けてくれ!」
 ガイウスがリックに気づいて、駆け寄ってくる。
「あいつに、あいつに襲われたんだ!」
「大丈夫です、もう追い払いました」
「おいはらっ……た?」
 ガイウスは後ろを確認する。そこには、誰の姿もない。
「そ、そうか。ありがとう、感謝する」
「いえ、たいしたことはしていません」
 そう、別にリックは何もしていない。
 何しろ、そこには『はじめから何もいなかった』のだから。
「お礼がしたい。私の家はすぐ近くなのだが、来てもらえないだろうか」
 知っている。何しろ学校長の息子だ。
 今日、校長が屋敷の方にいないことは知っている。資金繰りでスポンサーと会っているはずだ。
 行っても特別問題になるとは思えない。
「それでは、お言葉に甘えましょう」
「ありがたい。私はガイウス・ダーマという。レグニア私立学校の学校長の息子だ」
「私はリックといいます」
「ではリックさん、こちらへ」
 ガイウスは安心したように歩き始めた。
(なるほど。家路を一人で行くのは危ないと考えているのか)
 礼をするというより、そちらの意味合いの方がきっと強いのだろう。
「それにしても本当に助かりました」
「いえ。私は何もしていません」
「ですが来てくれなかったら私の身は危険だった。感謝します」
「お言葉だけ受け取っておきます」
(随分、礼儀正しい男だ)
 正直、最初のイメージとは若干異なった。誰かに毒を盛ろうとしている男なのだから、親の威を借りた傲慢な人物かと思っていた。
 だが助けてくれた相手はきちんと敬い、そして礼までしようとする。
(そういや、校長の家には執事がいたな)
 レグニアを出たときだから、もう3年以上も前になるが執事とは一度顔を合わせている。
 随分有能な執事だったから、もしかしたら自分のことも覚えているかもしれない。
(まあ、考えても無駄か。それに自分の正体が相手にバレたからといって困るわけでもない)
 そう考えていると、本当にすぐにダーマ家についた。
 長い塀で囲まれた邸宅。庭には池があり、美しい庭園を作り上げている。
(そういや太鼓橋まであったんだよな)
 東方の貴族の住まいにはこうした庭園がよくあるらしいが、大陸のこちら側ではあまり見かけることはない。
 昼間に来たら、さぞかしいい眺めなのだろう。だが今はさすがに池も太鼓橋もよく見えなかった。
「庭園に興味がおありかな?」
「ええ、まあ。滅多に見られませんから」
「よければ泊まっていかれるといい。朝日が昇れば見られるでしょう」
「いえ、そこまでしていただくわけにはまいりませんから」
「そうですか、残念です」
 リックは夜目がきく。おぼろげだが、だいたいの構図は分かる。
 だが確かに、朝日で輝く庭園を見るのはさぞ絶景であろう。
「エイル! エイルはいるか!」
「はい。お帰りなさいませ、おぼっちゃま」
 玄関から屋敷に入り、ガイウスは執事の名前を呼びつける。
 現れた人物は、少しだけ背が曲がった白髪の老人であった。
(老けたな)
 3年前までは、まだ背もぴんと立っていたし、白髪もあまり目立たなかった。3年でここまで変わってしまうものなのか。
「こちらのお方は?」
「ああ、今私の命を助けてくれたリックという青年だ」
「そうでしたか。おぼっちゃまを助けていただき、主人になりかわりまして厚く御礼申し上げます。本当にありがとうございます」
「いえ。自分は何もしておりませんから」
 彼が自分のことを覚えているかどうかは分からなかった。やりとりだけを見るともう忘れてしまっているかのようではあるが。
「エイル、酒を用意してくれ。それからアレもな。俺はその間に着替えてくる」
「はい。申し付かりました」
「ではリックどの、しばらくごゆっくりなされよ。部屋はエイルに案内させますので」
 ガイウスが出ていって、改めてエイルは深々と頭を下げた。
「お久しぶりです、リックどの」
「やはり覚えてたんですか。お久しぶりです、エイルさん」
「忘れるはずがありませんとも。あなたのような奇才を学園に迎えることができると、3年前の旦那さまはたいそうお喜びになられておいででしたから」
「それはそれは」
 結果的にその期待を裏切るような形となってしまったのだ。そう言われると多少窮屈だ。
「そして現在あなたはレグニアの学校に勤めてくださっています。旦那さまも心から喜んでおいででした」
「褒めてくれるのはありがたいですが、私は半期限りでいなくなりますよ」
「それはどうでしょうか。旦那さまは気に入った人物は傍に置きたがる方ですから」
「校長個人は嫌いじゃないですが、俺はこの街が嫌いなんです。できるだけ早く、逃げ出したいんですよ」
「ほほう……」
 エイルがグラスとワインを用意して、手馴れた動作で注ぐ。
「やはり、3年前のことが問題ですか」
 リックは表情を変えずに、グラスを手にとった。
 その件については何を問われても答える気はなかった。他人に、勝手に自分の心の中にまで入ってはこさせない。そういう意識が彼にはある。
「失礼なことを申しました」
 すぐにエイルは謝罪した。リックは片手をあげて応えた。
「エイルさん、少しおうかがいしたいのですが」
「なんなりと」
「校長にも尋ねてはみたのですが、校長は何か持病などを患っているということは」
「ありません」
「何か服薬しているということも」
「全く。いたって健康でございます」
「なるほど」
 やはり、あの薬をガイウスが盛っているということは考えにくい。いや、それとも密かに料理や酒に混ぜて飲ませているのかもしれない。
(……まずは、薬の正体からだな)
 なんとしても、今日のうちに薬を手に入れなければならない。それで操作は一歩前進する。
「……それは?」
 エイルが棚から1つの台と、2つの箱を持ってきた。台の上には白と黒のマスが交互に並んでいる。
「チェスでございます」
「何故、こんなものを?」
「お坊ちゃまが、リックどのと一局手合わせしたいということでしたので」
 いつ、そんなことを言ったのか──いや、そうか。
「なるほど。ガイウスが用意しておけといったのは、これか」
「はい。お坊ちゃんの特技でございますから」
「強いのか?」
「いえ、そうではありません。チェスをすれば、その人がどういう人物か分かる、と」
「チェスで人を見る?」
「はい。特異な才能でございます」
 たしかにそれは特異だ。しかも、それで自分が強くないというのも不思議な話だ。
「お待たせした、リックさん」
 そこでようやくガイウスが現れた。先ほどまでのフォーマルな服装ではなく、黒と白の2色が混ざったシンプルな服装だった。それが非常によく似合っている。
「いえ、美味しいワインをいただいておりましたので」
「それはよかった。お、チェスはもう用意されているのだな」
 嬉しそうにガイウスは話す。チェスが好きだというのはよく伝わってきた。
「チェスがお好きなのですか?」
「下手の横好き、だな。あまり強くはないのだが、初めて会う人間にはこれが必需品でね」
「人を見る、と?」
「エイルめ、話したな」
 執事がウィスキーを運んできて深々と頭を下げる。そして部屋を出ていった。
「まあ、そういうわけで、もしご不快でなければ一局付き合っていただきたい」
「自分はいっこうに。そのかわり、先手をいただきます」
「チェスはなさるのですか?」
「3年前までは。もうしばらくやっていないので、覚えているかどうか」
「3年もたてば新手も増えますからな」
 そうして、2人は駒を並べ始めた。
 並べ終わると、早速ガイウスは先手を打つ。キングの前のポーンを2つ進めてきた。
「どうぞ」
 それに対して、自分は右側のビショップの前にいるポーンを2つ進める。
「チェスをすることで人を見るということが、どういうことかリックさんは考えている」
 ポーンで駒組みをしながら、ガイウスは話しかけてくる。
「先に情報が与えられている。リックさんは私に対して警戒している」
「なるほど」
 ルークを1つだけ進め、ガイウスは続ける。
「……あなたは、私を調べているのだ」
 ぞくり、とした。
 だが、その驚愕を悟られることなく、自分もまたビショップを動かす。
「考えてみれば、あなたが私をうまく助けたということもおかしい。あなたは私を尾行していたのですね」
 まるで占い師のように話しつづける。そして、ガイウスはキングを動かした。
(もう、キングを?)
 クイーンの位置をずらしながら、相手の行動を観察する。
「そう。あなたは私を調べている。それがいったい何なのか……ああ、なるほど」
 クイーンとキングが、斜めに重なった。
(おいおい、クイーンが死ぬぞ、それは)
 ナイトでチェックメイトをかける。キングが逃げて、クイーンが捕まる。
「これですね」
 と、ガイウスが懐から出したものを目にして、震えが走った。
(……薬!)
 まさか、相手の方から切り出してくるとは。
 だが、それを見ても動揺を見せることはない。だがその姿勢が相手にさらなる確信を抱かせることとなった。
「……なるほど。あなたは私の真意をはかりかねている。これを自分に見せてどうするつもりなのだろうか、と。そして戸惑ってもいる。いったい私がどういう人物なのか、と……うん?」
 ガイウスが、真剣な眼差しでリックを見つめてきた。
「影が見える」
 ほんのかすかに、リックの左眉が落ちた。もちろん、ガイウスはそれを見逃してはいない。
「なんだろう……まだ若いあなたの人生に、非常に大きな影響を及ぼした存在。あなたの回りにまとわりついて、離れようとしない。いや、あなたが手放そうとしていない」
「チェックメイト」
 クイーンを動かして、王手をかける。
「これで、詰み、です」
「おや、終わってしまったか」
 残念そうに、ガイウスが言う。
「もう少しでリックさんの正体が完全に見えそうだったのだが」
 冗談ではない。リックは背筋に冷や汗をかいていた。この男の力は、まぎれもなく真実だ。
「リックさんは警察の方ですね。最近警察ではこの薬をばらまいている組織をとらえようとやっきになっていると聞きましたから」
「なるほど」
 どうするべきか、とリックは悩む。チェスが終わったらガイウスは相手を推し量ることはできないようだった。
「話していただけるのですか」
「私もあまり詳しいことは知らない。この薬が必要だというのなら差し上げよう。もうそれは必要ないのでね」
 チェス時とは口調まで完全に異なっている。まるで何かが乗り移ってでもいたかのようだ。
「……この場で、薬を調べてもよろしいですか」
「どうぞ」
 慎重に、薬包紙を解いていく。その中には白い粉末が入っている。
(匂いはない……まあ、粉末にしているのだから当たり前か)
 このまま口に含むのはさすがに問題があると感じ、リックは粉末を1つまみ、ワインの中に落とした。
(やはり匂いはないか……味は、どうだろう)
 小指の先でワインを少しだけすくうと、舌先と喉の奥の2ヶ所で味を確かめる。
(毒性はないのか……いや、遅効性かもしれない。だが味もないな。無味無臭というわけか。いったいどういう毒物なんだ? いや、そもそも毒物なのかこれは。麻薬……かもしれない)
 麻薬だとすれば、香のように燃やすのかもしれない。だがさすがにこの場でやるわけにはいかない。
(……この状態では分からないな。学校でじっくり調べてみるか)
「それは毒だ」
 調べている間、じっと黙っていたガイウスが言う。
「それは間違いなく毒だ。一定量服薬すると死にいたる。痕跡は残らない」
「なるほど。体内にたまっていくというわけですか。その間、体調に全く変化はない。本人も毒を飲んでいるという自覚がない」
「そんなところだ。一定量服薬したところで、唐突に心臓の動きが止まる。ようするに心臓発作を引き起こす毒薬、といったところかな」
「そんな便利な毒薬があるとは知りませんでしたね。それで、あなたはこれを使って誰を殺そうとしていたのですか?」
 ガイウスはウイスキーをようやく一口含んだ。
「それは、リックさんには関係のないことだ」
「答えていただきます。何しろ私の依頼主の命に関わるかもしれませんから」
「依頼主……?」
「私は警察のものではありません」
 そして、リックは懐からバッジを取り出した。
「……『UFO』。それも、A級ファイターの証か。初めて見るな。なるほど、リックさんが守っているのは私の父上か」
「連中が殺そうとしているのはあなたの父上、ファーブル氏だ。そしてあなたも、ファーブル氏がなくなれば莫大な遺産を相続できる」
「たしかに」
「……で、真実はどうなのですか」
「私が父上を殺す、か。ありえないな、そんなことは。私は父上を尊敬している。私のように、社会に対して何の役にも立たない屑とは違って、父上は未来ある若者を育てるという、社会に貢献する仕事を営んでいる。私には真似できない。そんな父を殺すくらいならば、私は自らの命を絶つだろう」
「……では、あなたはその毒薬で、誰を殺そうとなさっているのですか」
「リックさんには関係のないことだ。それにどのみち、もう全てが終わる」
 グラスに残り半分のウイスキーを、一気にあけようとガイウスは口をつけた。
 瞬間、リックは手をのばしてガイウスが手にしていたグラスを叩き落とした。
「なっ」
 グラスごと、ウイスキーが床に散乱した。
「何を……」
「なるほど、あなたが殺そうとしていたのは自分自身か」
 ガイウスの表情がこわばる。
「何を」
「くしくも今言ったとおりだ。あなたは何か弱みを握られた。そしてファーブル氏の暗殺を請け負わなければならなくなった。だが父上を殺すくらいなら自分を殺そうと考えた。そして、自分がその薬を飲むことにした……というわけですね。そして」
 リックは床に落ちたグラスに目をやる。
「それが致死量にいたる最後の一杯だったというわけですか」
「やれやれ、あなたも随分人を見る目がおありのようだ」
 ガイウスは苦笑した。
「概ね、あなたが今いった通りだ。私は弱みを握られている。それにつけこまれて父上を殺さなければならなくなった」
「その弱み、とは?」
 リックの疑問に、ガイウスの表情が固まった。
 そして、少しずつ。彼の体に震えが走り出した。
「……ガイウスさん?」
「『あれ』を、見たか?」
 何を言われたか、全く理解できない。
『あれ』と言われても──いや。
(そうか、さっきの……)
 先ほど、裏路地でガイウスは『何か』に怯えていた。
「『あれ』は、何です?」
 別に何も見えなかった、とは言わない。話を促した方がいいと判断した。
「……私にもどうして『あれ』が出てくるようになったのか分からない。だが『あれ』のことを奴らは知っている。『あれ』は……」
 ガイウスは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「私の罪の結晶。私が殺した母上が怪物と化したものだ」





四:蠱惑の毒草

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