四:蠱惑の毒草
「ルーク先生、おはようございます」
次の日、朝早くから職員室にやってきたのはリーシャ・アドニスであった。友人のシルフィ・レナンも一緒にいる。
「どうした、二人とも。今日はレポート提出はないだろう?」
二人がここへ来る用事などそれくらいしか思い浮かばない。だが、手にはしっかりとレポート用紙が握られている。
「あはは……レポートの再提出なんです」
それは次の授業まででいい、という話だったはずなのに。よくもまあ、勉強嫌いのリーシャがここまで熱心にやるものだとルークは感心した。
「なるほど。リーシャはリックのファンだからな。一生懸命にもなるということか」
「ええっ!? そ、そんなんじゃないですよぉ」
「……リーシャ、ばればれ」
おとなしめの友人、シルフィにまで突っ込まれてはリーシャも返す言葉がない。顔を赤らめて俯いてしまった。
(へえ)
意外な一面を見た。いつもはしゃいでいて『そういうこと』とは縁のない子だと思っていたのだが。
「あいつは今、理科室にいるはずだ」
「理科室、ですか」
「ああ。朝早くに先生のところに来て『鍵を貸してくれ』って言われたからな」
ルークの担当は自然科学である。特に植物学については数多くの論文を提出し、若いながらに大陸において権威となっている。
「だが、ああいうときのリックには近づかない方がいいぞ」
「どうしてですか?」
「自分が調べものをしているときに横から口を出されると、恐ろしい目で睨むんだ」
「リック先生らしい」
三人が笑いあった。
「でも、それじゃあどうしようか、シルフィ」
「うーん……私は、どっちでも……」
どうやらまた、リーシャがシルフィを強引に引きずりまわしているようであった。しかも今度は、単にレポートを提出するというだけではない様子だ。
「なんだ?」
「実は、リック先生とお昼をご一緒できないか、と思って」
目を丸くした。
リーシャがリックを気に入っているのは分かっていたが、まさかそこまで行動的になるとは思ってもいなかった。
(……案外、こういう活発で純粋な子の方が、リックには似合うのかもしれないな)
リックの傍にいる女性は、自分の中ではレティアしか思い浮かばない。おそらくリック本人も自分の隣に立つ人間はレティアしかいないと思っているのだろう。
これは、リックが過去を打ち破る一つのきっかけになるかもしれない。
だが。
(本気でないなら、リックにとっては迷惑だな)
他人という存在を、リックは邪魔者にしか思えないだろう。
万一リックが傍にいることを許したとしても、そのあとに離れてしまうようなことになったら、リックは立ち直れなくなるかもしれない。
(リックの横暴な態度に負けない根性を持ち、なおかつリックを裏切らない誠実な心の持ち主……そんな人物がはたしているだろうか)
だが、そうでなければリックを救うことなどできまい。
そしてそれは、強制されてできることではない。
「ルーク先生?」
きょとん、とリーシャが自分を見つめていた。
(……考えすぎだな。だいたい、リーシャはまだ子供だ。リックが本気にするはずもないしな)
考えなおして、ルークは「うん」と頷いた。
「伝えておこうか」
「え、いいんですか?」
「ああ。どこへ行かせればいい?」
「ええと、それじゃあ──中庭に」
「了解。何があっても行かせるようにするよ」
「ありがとうございます!」
リーシャは満面の笑みで答えた。シルフィもぺこりと頭を下げる。
そして、職員室を出ていった。
(リックの心を救うことができる人間か……本当にいるなら、どれだけ素晴らしいことだろうな)
誰もレティアのかわりになどなることはできない。
そして、リックがたとえ誰かのことを大切に思うようになっても、彼の中からレティアという存在が消えることはない。
(リックの隣に立つ女性も、そう考えると辛いな)
リックの過去をすべて背負うことができる人物。
そんな天使のような女性が、はたしてこの地上にいるだろうか。
(……レティア、どうして……)
どうして、リックを残していったのだろう。
リックにとっては、レティアこそが自分の世界そのものだったのに。
「何を考えている、ルーク」
いつの間にか、リックがやってきて隣の席に座っていた。深く考え込んでいたことを悟られて、やや気恥ずかしくなる。
「ちょっとね、いろいろと。ああそうだ、はいこれ。リーシャから預かったよ」
「ああ、昨日の再提出レポートだな」
「ついでに伝言」
「ん?」
「今日のお昼をご一緒しませんか。中庭で待っています」
リックは目を瞬かせると、一つため息をついた。
「俺に拒否権はないのか?」
「僕が、何があっても行かせるようにするって答えたから」
明らかに、リックの機嫌が悪くなった。
「ではお前が直接『無理だった』と答えておけ」
「駄目。誘われたのは君なんだから、断るんだったら自分できちんと言うこと」
「俺が言われたわけじゃない」
「リック」
だが、リックは真剣な表情でルークを見つめてきた。
「……お前は、俺に何をさせたいんだ?」
「リック」
「もっと他人に心を開けと? 無駄だ。あいつがいたころから、俺は誰にも心を開いたことはない」
「自分の可能性を否定してはだめだ、リック」
「可能性?」
ルークは意気込んで続ける。
「そうとも。過去がどうであれ、君には未来があるんだ。そして、ずっと一人で未来を歩くなんていうのは、あまりにも寂しい。誰かが傍にいなければいけない。そして、誰かを傍に置くことができるゆとりを、君自身が持つべきなんだ」
「生徒と食事をするのも、訓練のうちだと言いたいのか?」
「そういうこと」
「それで俺が本当に変わることができると、お前は本気で思っているのか?」
「変わることができればいい、と期待している」
それが嘘偽りのないルークの気持ちだ。
もっと人生に前向きになってほしい。
そして、幸せになってほしい。
ルークは自分のこと以上に、この憐れで可哀相な友人が幸せになることを願っていたのだ。
あの日から、ずっと。
「断る」
「リック!」
「昼は忙しい。生徒のレポートを全部添削しなければならない」
「でも、君は二時限目も三時限目もあいているじゃないか」
「他にやることもある」
「僕ができることなら変わってあげるよ」
本気だった。
本気で、ルークはリックのことを考えていた。
そして、それがリックに伝わらないはずがなかった。
「……お前は馬鹿なやつだ」
「知っているよ」
「では、任せる。この薬を調べてくれ。成分が分かればそれで充分だ」
リックは薬包紙ごとルークに手渡す。
「これは?」
「毒」
目を丸くして、薬包紙を見つめる。
「捜査の過程で見つかった。効用はだいたい分かっている。これを一度服用するだけでは問題ないようだが、何度も繰り返し服用していると心臓発作で倒れて死ぬ。だが、成分が今ひとつ分からない。生物学の権威なら分かるかもしれないな」
「了解。責任重大だな」
「その間、ゆっくりと休ませてもらおう」
「じゃあ、いいんだね?」
「仕方がないだろう」
リックは嫌そうに毒づく。
「数少ない友人の頼みだ。迷惑をかけている分、たまには応えないと人の道にはずれる」
ルークは笑った。だが、すぐにその笑みは凍りつく。
「……そう、レティアにも教わった」
リックを中庭へ追いやり、ルークは理科室に入って早速薬品の分析に取り掛かった。
こと、植物学に関してはリックよりも専門的知識があると自分を評価している。リックでは調べきれないことでも、自分ならもっといろいろなことが分かるはずだ。
リックが朝のうちにすませた分析結果を読む。なるほど、基本的な試薬は全てためされているが、結果は全て反応なしだ。
繊維が通っているのは間違いない。だが、粉末になってしまっているとそれからもとの植物を測定することは難しい。
だが、不可能ではない。
「さて」
専門の薬品を加えた水溶液をシャーレに作る。もとの植物がどれだけの年数生きているものかを調べる査薬である。
「結果は、どうなるかな」
もともとの色は赤。そして粉末を加える。
徐々に、色が紫から青へと変化していく。
(随分古いな……)
少なくとも百年は生きている植物ということになる。ということは、草ではなく、木か。
さらに、色は変化していく。青から、黒へ。
(これは、なんて古い)
完全な黒に達した。これは千年以上も生きていた植物ということになる。
(草であるはずがないな。千年も生きている草など──いや)
ぞくり、と背中が震えた。
ただ一つだけ、長命の草を知っている。齢三千年という草が北のセゥカ、北極圏に生えている。とてつもなく危険で、稀少な草。
(エルリーブ……!)
まさか、と思いたい。だが、それしかない、という感覚があとからあとからわいてくる。
『凍てつく草』と呼ばれるエルリーブ。永久凍土に根を生やし、太陽の光を浴びて自らの根を発熱させ、永久凍土を溶かして栄養分を吸収する。
そして草自体が凍り付いているかのように、ある一定の大きさまで成長するとそこでぴたりと成長を止める。葉形はクンシランのようにしっかりと厚みがあり、わりと長めで縦に伸びる傾向がある。
葉は氷のように冷たく、固い。だから動物たちが食べることはできない。しかもこのエルリーブは、まず根付くことがほとんどない。すなわち、希少品種ということだ。
(ありえない)
まず、この稀少品種を手に入れるということがありえない。これほど稀少価値の高い草で薬品を作ろうとしたところで、割に合わないのは目に見えている。
(だが、だがそれなら全てのことが説明できる……!)
動物たちが食べないのは、決して凍り付いているからというだけが理由ではない。ビタミンCの少ない永久凍土の土地では、非常に貴重な補給源になることは明らかだ。それなのに、北極圏の動物たちは絶対にこの草を食べない。
何故なら、この草は『毒』を持っているからだ。
特に、その葉。
溶けた葉の気孔からもれ出る水蒸気、酸素などに混じって毒物が排出されるのだとされている。
(そのために誰もこの草を調べることはできなかったということだが……)
長時間、この草から排出される毒素を吸い込んだものは、原因不明の病気で倒れることとなった。毒物は体内に溜まり、本人も気づかないうちに病状が悪化し、気づいたときが死ぬとき、ということになる。
そうして死んだ者の死因はいまだに特定できないのだという。
(リックから聞いた話と、重なる……)
そのような草を加工して毒薬を作るといったところで、薬品を作る前に倒れるのが関の山だ。
だから不可能だ。この草を使うことは。
それに。
(また……これに関わる、とは)
そう、この草に自分が関わるようになったのは、これが二度目なのだ。
そんな偶然がはたしてあるだろうか。
普通の人間がこの植物とかかわりをもつなど、一生ありえないだろう。
だが自分は、植物学の権威という理由からではなく、全くの偶然でこれを二度目にしたということになる。
(……まさか、あなたの仕業というわけじゃないだろうな……)
顔をしかめる。
その脳裏に浮かぶものは、たった一人の女性の顔。
(レティア──姉さん)
中庭に来ると、先にやってきていたリーシャとシルフィが木陰に敷物を広げてリックを待っていた。リーシャがぶんぶんと手を振って自分を招く。
「リック先生ー!」
特に何を考えるでもなく、リックは招かれるままそこへ近づいていく。
彼女ら同様に、中庭で食事をする生徒はけっこう多い。前期が始まったばかりの夏場。校舎の中にいるより、中庭や屋上にいる方がはるかに健康的だろう。
「お待ちしてました。こちらにどうぞ」
シルフィも微笑みながら空いている場所を示す。リックは遠慮なく、そこへ座った。
「……で、わざわざ俺を呼び出して何がしたかったんだ?」
リックがつまらなさそうに言うと、リーシャとシルフィは顔を見合わせた。
「一緒にお昼ご一緒できないかって、ルーク先生から聞いてないんですか?」
「聞いた。だがわざわざ先生と一緒に食事する生徒などいないだろう」
うーん、とリーシャは首をひねった。
「……リーシャが、先生と一緒にお話をしたいと言ったんです」
「ちょっ、シルフィ!」
「話?」
顔を赤くするリーシャと、まるで理解ができていないリック。
「リック先生のことはいろいろ聞きました。三年前にいなくなった天才だって。いつごろから勉強を始めたのかとか、どうして先生にならないでレグニアを出ていったのかとか」
「シルフィ」
リックは別段顔色を変えるでもなく、静かに名前を呼ぶ。
「は、はい」
「あまり人の過去というものは詮索しない方がいい。特に役所や公的機関で働こうと考えているのならな」
「は、はいっ」
「ちょっとまってください、先生」
リーシャはシルフィを弁護するように口を挟む。
「聞きたいって言ったのは本当にボクの方なんです。シルフィがそう思ってるわけじゃなくて」
「同じことだ。それに、俺は怒っているわけでも叱っているわけでもない。これは忠告として言っているだけだ」
もちろん、リックが動揺していないはずがなかった。
まさか生徒からそんな質問をされるとはつゆほどにも思ってはいなかった。もとより、誰に聞かれたところで答えるつもりなど欠片もなかったのだが。
「じゃあ、聞いてもいいんですか?」
「人の忠告を聞かなかった愚か者という評価を受けたければ聞いてみろ」
「や、やめておきます」
あはは、と乾いた笑いを浮かべながらリーシャは誤魔化す。
「それじゃあ、お昼にしましょうか」
さりげなくシルフィが話題を逸らし、弁当箱を広げる。重箱で三人分、しっかりと用意してあるようだった。
「先生も遠慮なく召し上がってください」
「ほう、シルフィが作ったのか」
「ちょっと、何でボクの名前が出てこないんですか先生」
「間違ってないだろう」
「……間違ってないです」
がっくり、と力尽きるリーシャ。
「でも、リーシャも手伝ってくれたんですよ」
「食材を買いにいくとか、味見をするということは手伝ったうちに入るのか?」
シルフィのフォローを、容赦なく切り捨てていくリック。
「せんせい〜。ボクに何か恨みでもあるんですか?」
「尋ねただけだ。事実なのか?」
「事実ですっ!」
ぷいっ、と横を向くリーシャ。やれやれ、とリックはため息をついた。
「それじゃあ先生、食べてみてください」
「ん、ああ……」
表情が変わらないので、二人には彼の心の内を読むことはできなかっただろう。
(中庭で食事か……何年ぶりだろうな)
自分たちも、何度も中庭で食事をした。
レティアが学校にいた三年間。前期の間はいつも中庭で食事をとっていた。
ここは、思い出の場所。
レティアが作ったお弁当を食べることができた場所。
片手で祈りを捧げてから、フォークを手に取る。その目に、少しだけ不恰好な卵焼きが映る。
(卵焼きか……)
レティアの得意料理。
甘く、おいしい。
(……駄目だ)
その隣にある唐揚げをとって食べる。
「……どうですか?」
シルフィがおずおずと尋ねる。
「上手だな」
ほっとしたように、シルフィが胸をなでおろした。
「ありがとうございます」
「じゃあ次、こっちの卵焼きも食べてみてください」
続いてリーシャが指さしてくる。リックはかすかに眉をしかめた。
「すまないな、卵は苦手なんだ」
「そうなんですか?」
残念そうなリーシャ。
「今度から、入れないようにしますね」
シルフィもフォローをいれる。
「……今度?」
リックがあからさまに嫌そうな顔をした。
「はい。もしリック先生がよろしければ、私たち、またこうしてご一緒させていただきたいです」
「今日は特別だ。やらなければならない仕事をルークが取り上げて、俺をここに押し付けただけのことだ。また誘われても俺は来るつもりはない」
「そんなあ」
リーシャは明らかに不満顔だった。
「ボクたち、もっとリック先生と話したいんです」
「何を話したいんだ?」
「だから、いろいろです。過去のことが駄目なら、学問のことでも何でも」
「わざわざ話して楽しい相手とは思えないがな。生徒の評判も理解している。俺はよほど、嫌われているだろう」
「そんなことないです!」
「お前の意見を全体の意見として聞くことはできない。別に悲しんでいるわけではないし、お前が気にする必要はない。むしろ俺は、怒りを覚えている」
「怒り……ですか」
シルフィが反復する。
「ああ。官僚になるためだけの学問。そんなものに何の意味がある。総合教養をやって全生徒を見ているが、本気で学問をやろうとしているのは、ほんの数人だな。それ以外は屑だ」
「……屑、ですか」
「知らないことを知らないままにしておく。そんなものがいったい何を学問していると言える? お前たちも教養を受けて身にしみただろう。自分がどれだけ知らないことをそのままにしているか」
二人ともしっかりと頷く。
「学問をやることが辛いと言っているうちは駄目だ。知識を広げることを楽しんでやるようでないとな。だから、そんなやつはこの学校にほんの数人だというんだ」
「ボクは……駄目ですか」
リーシャが真剣な瞳で尋ねてくる。
「今のところ、お前には何も期待はしていない。過去四年の成績や業績を見ても、まるで話にならない。五年生になっているのが不思議なくらいだ」
すごく悲しそうな顔を浮かべる。
「その評価を覆したかったら、半年後までに成果を出すんだな」
「半年?」
「俺は半期限りの講師だ」
えっ、と二人が驚いてリックを見つめる。
「いつまでもこの街にいるわけにはいかないのでな。もともと校長ともそういう契約だ」
「そんな、卒業までいてください」
「そうです。私、リック先生のおかげで今、すごい知識が増えてきて、勉強することが面白くなってきてるんです」
「ボクもボクも。自分で調べるだけでこんなに勉強になるなんて思わなかった」
本当に五年生か、とリックは一瞬思ったが別段口には出さない。
「お前たちも将来仕事をしていくつもりなら覚えておけ。一個人の都合で業務を放棄するわけにはいかない。冠婚葬祭は別にして、だが。人が業務につくということは、個人というものを捨てて職務に精励するということだ」
そう。
自分も、業務だからこの街に来た。
そうでなければ、こんなにレティアの面影が無数に漂う街になど近づきもしなかっただろう。
「でもボクは、先生にもっと色々なことを教わりたい」
引かない娘だ。
リックは相手の視線を真っ向から受け止める。
「──なら、あと半年、死に物狂いで学問をするんだな」
「はい」
リーシャは決してリックに一歩も引かずに、正面からその言葉を受け止めた。
(……なるほど。これが、そういうことか)
以前、レティアが言っていた。
人とは、興味深いものだ。決してデータで表せるようなものではない。データの裏に隠れているものがある。それを見つけることが一番面白い。
『もっと人を見るようにしなさい』
そう、確かに彼女はそう言っていた。
(他人に興味を持つということは今までなかったが)
もっと人を研究する──いわゆる、人文学、というもの。今まで、そういう分野は全く携わったことがなかった。
まるで興味がなかった。
人であるということに、何の意味も考えたことはなかった。人も結局動物の一種だと、本能のままに動く獣だと、ずっとそう考えていた。いや。
人間が、嫌いだった。
レティア以外の全ての人間は嫌いだったのだ。
「先生?」
「ん?」
尋ねられて、顔を上げる。いつの間にか考え込んでしまっていたようだ。
「先生は教養総合をやってますけど、専門は何もしてないですよね」
「ああ。今回教養だけやるという契約だからな」
「専門はやっぱり地理学ですか?」
昨日の一件を思い出しているのだろう。リーシャがそう尋ねてくる。
「……それも確かに一時期研究していた。だが、俺はそれを最上の学問とは考えていない」
「じゃあ、いったい何を?」
「経済学」
へえ、と二人は声を漏らした。
「それはどうしてなんですか?」
「そんなに難しいことじゃない。人は食わなければ生きていけない。一日三食を必ずとるとして、いったいどれだけの穀物量が必要となるのか。それだけの量はどうやって生産するのか。それをどう分配していくのか。それが人間の活動の原点だ。発展も争いも、全てはそれから始まる」
「……それは、経済学ですか?」
社会学ではないのか、という質問のようだ。もちろん明確に違う。
「人間の生産活動と消費活動。間違いなく経済学だ。それに加えて、生産と消費とを操作していく国や地方の政策。そうしたものを全て含めた市場での経済活動。それが一番の専門だ」
「はあ……」
これは経済学の基本ではなかったかと思ったが、二人とも経済学を専門ではやっていないことに気づく。
「よく分からないなら、来週の講義は経済学を中心にやってやろう」
「は、はい」
シルフィがかしこまって頷く。
「さて、それでは俺は失礼する」
フォークを置いて、リックは立ち上がった。
「ええ!? まだ全然食べてないですよ」
リーシャが慌てて立ち上がる。引きとめようとしているのはよく分かった。
「あまり時間がなくてな。悪いが今日は、ここまでだ」
「先生」
「また時間に余裕があるときに呼んでくれ」
ぱっ、とリーシャの顔が明るくなった。シルフィもほっとしたような表情を浮かべる。
「じゃあ、明日もまた」
「不可。しばらくは忙しいから無理だ。そうだな、一月もすればわりと楽になるだろう。そのときにまた誘ってくれ。そのつもりがあればな」
「はい! それじゃ、楽しみにしてますから!」
嬉しそうに、本当に嬉しそうにリーシャは微笑む。
(……やれやれ)
それを見て、リックはますます気分が落ち込んでいく。
(……ここでの食事は、レティアを思い出して、駄目だな)
レティアも、食事の後は笑っていた。
いつも、笑っていた。
「遅かったな、ルーク」
不機嫌そうに戻ってきたルークに、リックは声をかけた。
「その様子だと、あまりうまくいかなかったというところか」
「……うん」
ルークは薬品をリックに返した。
「すまない、力になれなくて」
「いい。お前で分からないのなら、こいつの正体をつかむ方法はないということだろう。だとしたらあとは黒幕をおさえて、吐かせた方が早い」
「すまない」
ルークはもう一度謝った。
それは、嘘をついたことに対して。
(……君に、レティアのことをこれ以上背負わせたくないんだ)
これは、自分が解決する。
リックにこれ以上辛い思いをさせないために。
伍:惨劇の記憶
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