伍:惨劇の記憶
リックは、レティアとルークが姉弟だということを知らない。
正確には血のつながりはない。同じ孤児院で育った仲間、とでも言おうか。
──そう。リックには秘密にしたままだったが、ルークもまた孤児院の出であった。孤児院の中でも特に利発で礼儀正しかったため、今の老父母のもとに引き取られることになった。
自分は、幸せな暮らしをしていると思う。
孤児院では優しい神父様と楽しい仲間たちがいて、引き取られた先でもとても大切に扱われて育ってきた。学校にも行かせてもらえた。そのおかげでリックという友人を得ることもできた。
本当に、自分は恵まれていると思う。
同じ孤児でも、家族を全て失った後に孤児院に入れられ、自閉症のままレティアに引き取られたリックと比較すれば一目瞭然だ。
そして、レティアにしても。
(……そう。僕は、レティアのことは知っているんだ)
孤児院にいたとき、彼女の名前は『レティア』ではなかった。
たしか『ミリー』とでも名乗っていたかと思う。
おそらく彼女にとって、名前がさほど重要なものではなかったのだろう。
孤児院といってもみんながみんな仲がよいわけではない。大きく二つのグループに分かれる。自分のような、赤子のときから孤児院で育った者。そして、リックのようにある程度成長してから孤児院に引き取られる者。
レティアは後者だった。
自分がまだ幼く、何も考えることができなかったころに彼女はやってきた。
子供の自分が一目で憧れるほど、美しい女性だった。
彼女が他の孤児たちと全く違っていたのは、その雰囲気。
彼女は孤児でありながら、その雰囲気を全く持たなかった。例えるなら、孤児たちを束ねる孤児院の院長の愛娘。いや、まさにその役割を演じ、果たしていたのだ。
レティアには不思議な魅力があった。その魅力は誰をも巻き込み、捕らえて離さない。
子供心に、あの魅力は毒だ、と自分は悟っていた。
その毒にあてられてはいけない、と自分に言い聞かせていた。
だからだろうか。
彼女は孤児院の中でも、自分に一番接触しようとしてきた。
『ルーク。好き嫌いをしないできちんと食べなくては駄目よ』
『ルーク。あまり孤児院から遠いところへ行ってはいけません』
『今日はいいことでもあったの、ルーク。顔が笑っているわよ』
あまりよくは覚えていないが、やはり自分に話し掛けられる回数が一番多かった気がする。
そして、あの日のこと。
自分が孤児院から今の養父母のもとに引き取られる前日の夜のことだった。
『私とあなたはいつかまた出会うわ、ルーク』
これは呪いだ。
それを知っていながら、自分はその呪いを受ける以外に術はなかった。
既に、彼女から逃げることはできなかったから。
『そのとき、一番近くにいる人を、必ず守りなさい』
話によると、レティアは自分が引き取られてから一月後には孤児院を出たという。出てどうなったのかまでは知らないが、数年後にはその孤児院からリックを引き取りに現れたのだ。
(……いったい、レティアは何がしたかったんだ?)
今になってようやく、レティアの言いたいことが少しずつ見えてくる。
自分に、リックを守れ、と言いたかったのだろう。
ではやはり、彼女が死んだことも、何か理由があってのことということだ。
そして、あの草。
(『凍てつく草』エルリーブ……今、思い返してみると、あの草の影響で、植物に興味を持ったのかもしれない)
エルリーブは北のセゥカ王国にしか生えない。そのセゥカの中でもさらに北部、北極圏に位置するところでなければ生えない。
『これはね、薬よ』
レティアがよく、自分にだけあの草を調合しているところを見せていたことを思い出す。
『ただ、使い方を間違えると危険な毒になるわ。気をつけて取り扱わないとね』
彼女は『薬』を作っていると言っていた。
だが『薬』を作ることは、専門の薬剤師でなければ許されない。厳罰に処される。
幼い自分は、そのことを知らなかった。
(エルリーブは毒になることはあっても、薬になど絶対にならない)
知識を手に入れた今なら、それが分かる。
(レティアは、誰かを殺そうとしていたのか?)
あれは、自分が十一歳、レティアが十三歳のときだ。
(今から九年も前か……)
今から九年前に、何か事件があっただろうか。もちろん数えればキリはない。だが、自分たちに関係してきそうな人物で、特にレティアに関係していそうな人物で、誰かなくなったというようなことは……。
(まさか)
正確に、いつ死んだのかということを知っているわけではない。
だが思い当たる人物はいる。
(ありえない。だいたい、まだ十三歳でしかないレティアが、いったい何のために……)
確かめてみる必要がある。
リックには知られないように。
全て、自分の中で処理するために。
(自警団に行けば分かるか……だが、はたして情報を見せてもらえるだろうか)
フォトンの力を借りなければならない。
それしか、方法はない。
夜になって、リックは再びダーマ家を訪れていた。
聞きたいことは一つ。ガイウス・ダーマが殺した、ロザリア・ダーマの件についてだ。
無論、告発するつもりなどない。彼が知りたいのは、ファーブル・ダーマの周辺の情報なのだ。
ロザリア・ダーマが死んだのは記録では今から十一年前。事故死、ということだった。もちろん当時のことなど彼の知るところではない。図書館でファーブル校長の手記を見つけて、そこから手に入れた情報だ。学園の会誌に亡き妻への想いが語られていた。
『やむなきこととはいえ、いくら後悔してもしきれない』
どういう思いでファーブルはその言葉を書いたのか。息子、ガイウスが殺害したのだと知っていたのだろうか。
そもそも、どのようにして事故死に見せかけたのか。その殺害の方法についてしっかりと聞いておきたい。
「よく来てくれた、リックさん」
ガイウスは嬉しそうに彼を出迎えた。あの話をしたのはせいぜい数日前だというのに、その話をした相手を迎えることに不安や戸惑いはないのだろうか。
「先日の話の続きを聞きたくて、まいりました」
「そうか。酒を用意するから、少しの間応接室で待っていてほしい」
案内された部屋にガイウスがやってきたのはすぐのことだった。その間にエイルが酒の準備を全て終わらせていた。
「さて、何から話せばいいのかな」
「その前に」
彼は軽くグラスを持つと目線にまで上げる。ガイウスもそれにならって、グラスを上げた。
「十一年前のことだ」
グラスを一杯あけてから、ガイウスが語り出した。
「たいしたことではなかった。母上と私が口論になった。私はこの通り、何の仕事もしていない身分だからな。父上は校長なのだし、自分が仕事をしていないというのは対面上よくないと母上はよく言っていた。あの日も、その口論が起こった。それで終わるはずだった」
「何が起こったのでしょうか」
「軽く。ほんの軽く、肩を押しただけのつもりだった。私が母上を押しのけて部屋に戻ろうとしただけだった。それなのに……」
ガイウスの言葉がかげった。
「階段の上に立っていたのは母上の方だった。それなのに、階段から……」
突き飛ばされたロザリアはそのまま階段を転げ落ち、首の骨を折って亡くなった。
ガイウスはそのまま自分の部屋に閉じこもり、エイルがロザリアが亡くなったことを発見してから、今知ったかのような素振りを見せ続けた。
「私は卑怯だった。あれは事故だった。後から考えればそれですむということが分かっていた。だが私は、私が無実でありつづけるために母上の死体を放置したのだ」
(それを、この『薬』を渡してきた連中が知っているというのはおかしな話だ。そしてそれをガイウスも分かっている。分かっていて、罪の意識から何もできずにいる。それに──)
ガイウスが見たという『母親の亡霊』とは、いったい何者か。
少なくとも彼の目には全く、何も映らなかった。彼が駆けつけたときにはもう消えていたということなのか。それともガイウスの気の迷いか。
「話を変えましょうか」
彼の方から話を切り替えた。おそらく、ロザリアの事件と今回のファーブルの事件とは関係がないだろうと考えたのだ。
「この『薬』ですが、いくら調べても成分が分かりませんでした。なかなか手こずらせてくれますよ」
「だろうな。私も調べたが、全くもって正体を現さない」
「植物から作られていることは分かったのですが、そこから先が途絶えます」
「なるほど。ではリックさんが考えているのは、これを渡してきた連中に直接聞くことか」
「それができれば一番ですね。次に奴らと会うのはいつになりますか?」
ガイウスは首を振った。
「分からない」
「というと」
「向こうから時間と場所を指定してくるのだ。こちらからコンタクトを取ることはできない」
「なるほど。徹底してますね」
この『薬』の正体を暴くのは難しいか。
だがファーブルを殺そうとしているのが連中であることはおそらく間違いないだろう。
目的はやはり、遺産か。この間のガイウスとの会話を聞いたところではそのように思える。
「連中が父上を殺そうとしているのは分かっている。だから私が防波堤になろうと考えたのだが」
「既に暗殺者がファーブル氏を襲っています。二重、三重の手を打っているのでしょう」
だが、接触するにもその方法がなければどうすることもできない。
(フォトンか……あいつに頼むか)
自警団の力を借りれば、その組織力と情報力で連中と接触することができるかもしれない。
(……八方塞がりか。また何か、別の糸口を見つけるしかないか)
彼はせっかく手に入れた糸口の端が切れていることに無念を感じていた。
が、別の糸口は案外すぐに見つかることになる。
「やあ、フォトン」
ルークは直接自警団の本部へとやってきていた。
フォトンが現れるまでに、どのように話をしようか考えていたのだが、やはり直接話をするのが一番だと考えた。
だが一つだけ、彼が至上とすべき命題がある。
何があっても、自分が動いていることをリックに悟られてはならない。
そして、今回の事件の影に、レティアがいるかもしれないということを、気付かれてはならない。
「よう。この間は行けなくて悪かったな。急ぎの仕事が入ったもんでよ」
「気にしないでくれ。自警団の仕事が忙しいのは分かっているさ」
応接室にいるのは二人だけだ。友人同士であるはずなのに、なんだというのだろう、この居心地の悪さは。
お互いに、何かを腹に隠している。おそらく向こうもそう思っているはずだ。
それをどこまで話してくれるのか。話していいものか。
「それで、今日はどうしたんだわざわざ」
「聞きたいことがあるんだ。リックのことで」
「リックの?」
「ああ。あいつの家族の件だ」
「家族? あいつ、孤児だろ?」
フォトンはルークが何を言いたいのか分からない様子だった。
「ああ。でも孤児になったのは家族が亡くなってからなんだ。確か十二年前のことだ。そのころの資料が残っていれば、教えてほしい」
「おいおい待てよルーク」
フォトンは両手を上げた。
「たとえその資料があったとしても、それをお前に教えるわけにはいかないぜ。なんたってここは秘密の固まりなんだからよ」
「そこを何とか頼む」
「無茶言うなって。だいたい、なんでそんな資料が必要なんだ?」
「彼の力になりたい」
ルークは拳を握りしめた。
「彼の家族がどう亡くなって、孤児となってしまったのか。それが知りたいんだ」
「それがリックのためになるってのか?」
「そうだ」
真剣で、切実だった。
ルークは本気で言っているのだし、それがフォトンにも伝わったようだった。
ぼりぼり、と頭をかいて、うーん、とうなる。
「頼む、フォトン」
「そうは言ってもなあ……」
「もし情報をくれるのなら、今フォトンが追いかけている『組織』の情報の片鱗を渡してもいい」
フォトンの顔色が変わった。
「なんでお前が『リーベスト』の連中を知っている!?」
『リーベスト』
確かに聞いた。
それが、自警団が追いかけている組織の名称であり、リックが手に入れた『薬』を捌いている組織の名称。
(エルリーブを使う連中だから、リーベスト、か)
たちの悪い冗談のような名前だ。
「知ったのは偶然だ。もしフォトンさえよければ、捜査に協力したってかまわない」
「おいおい」
フォトンはまだ自分がはめられたことに気付いていないようだった。このまま隠しつづけた方がいいだろうと判断し、会話を続ける。
「『リーベスト』はこの街だけの組織ではないだろう?」
「おそらくはな。この街にいるのは組織の末端さ。だがそんな連中でも捕まえることができれば少しはこの街も住みやすくなる」
「その通りだ。だからこれは、取引だ」
うぐぐ、とフォトンはうなる。
勝ったな、とルークは心の中で息をついた。
「しゃあねえな。だがその情報、価値のあるものなんだろうな」
「先にリックの家族の情報を教えてもらってからだよ」
「分かったよ! ったく、いったいお前、いつからそんな悪人になった」
「失礼な。僕はただ、リックのためになることを考えているだけだよ」
やれやれだ、と毒づいてフォトンは資料を取りに出かけた。
(なんとかなったか)
だが、これで毒物の件については説明せざるをえなくなった。どこで手に入れたのかも当然言わなければならないだろう。
リックに迷惑をかけずにすむ方法を考えなければならない。
当然、ガイウス・ダーマの件も話してはならない。
(難しいな)
フォトンが戻ってきて、資料をデスクに置いた。
「これだ。九年前の事件。たしかにリックのことが載っている」
「早かったね」
「当たり前だろ。俺だって奴のことは気になってたんだ。時間が空いているときにあらかたもう調べてあったんだ」
「この数日で?」
「いや、俺が自警団に入ってからすぐだ」
ということは、この三年間彼は自分にこの事実を黙っていたということか。
組織の人物である以上仕方のないことであるのは分かっているが。
「見せてもらうよ」
ルークは資料を開いた。
「おはようございます!」
リーシャが職員室に入ってきたのは、職員会議が始まる少し前のことだった。
「おはよう、リーシャ。またリックを誘いに来たのかい?」
「残念、違います」
リーシャはくすくすと笑う。
「今日は、先生をご招待しようと思いまして」
「僕を?」
「はい。ルーク先生を」
なるほど、分かった。
おそらく昨日、リックから何も聞くことができなかったから、今度は自分から情報を集めようというのだろう。
(どうしたものかな)
リックの過去を話すつもりはない。
だが、リーシャがリックのことを本気だというのなら、それだけの覚悟が必要になることを教えてあげたい。
(リーシャには……彼の傍に立つのは無理だな)
教師というのは、ある意味で残酷で現実的だ。生徒と何度か話していると、それまでの経験からどういう生徒なのかがだいたい分かってくる。
リーシャは残念ながら、情熱的という言葉とは縁のない生徒だった。
いや、情熱はある。だが、それが長続きしないのだ。
流行ものにすぐに目を奪われるが、それを持続させることができない。
リックにしても、新しい先生が来て気になるという程度のことであって、すぐに冷めてしまうだろうとルークには思えた。
「分かった。どうすればいいのかな?」
「ありがとうございます。では、お昼に中庭で」
「了解。少し遅れるかもしれないけど」
「かまいません。シルフィと一緒に待ってますから」
リーシャが出ていくと、ルークは大きく息をついた。
(……リック、か)
資料を見たとき、自分は思わず目を疑った。
九年前。彼は、姉を亡くしている。
病死だと思っていたが、事実はそうではなかった。
斬殺。
犯人はわからない。唯一の目撃者であったはずの、当時十二歳のリックは以後一年間、完全な自閉症に陥っており、何の証言も得られなかった。
一年後に再び証言を求められたが、犯人の顔は全くわからないということだった。
だが、少なくともレティアが作っていたエルリーブの毒と、リックの姉とが関係あることはなさそうだった。
問題は、あまりにもタイミングが良すぎるということだ。
孤児院から姿を消し、孤児となったリックを引き取ったレティア。
はじめからレティアはリックを狙っていたのか。それともリックを引き取ったのはただの偶然の産物か。
レティアの行動とリックの姉の死との関係を裏付ける証拠はどこにもない。
そもそもエルリーブ、レティアはあれを何のために使用したのだろうか。
エルリーブは人体に害を及ぼすことは分かっているが、どう及ぼすのかがどれだけ調べても分からないのだ。
(エルリーブの成分には、人体に有害なものは全く見当たらない)
もちろん、試薬となったものから調べたので、エルリーブそのものを調べたわけではない。
「考え事か、ルーク」
後ろから声をかけられ、飛び上がりそうになるのを必死に堪える。
「ああ、おはようリック」
「ああ。お前、そんなにぼんやりしている奴じゃなかったのにな。仕事をするようになってから自分の世界に入ることが多くなってるんじゃないのか」
誰のせいだと思っているのか、と心の中で思う。
(姉を亡くして、リックは心を閉ざした。それを引き取ったのが、レティア……)
リックは、レティアに姉の影を見ていたのだろうか?
「ルーク。一つ教えてほしいことがある」
「ああ、なんだい」
「昨日、例の試薬を調べてもらったが、どういうやり方で調べたのか、何が分かって何が分からなかったのか、それを少し聞きたい」
「ああ……」
顔にこそ出さなかったが、内心、冷や汗をかいていた。
リックに嘘をついても、すぐにばれることは間違いない。自分はすぐに顔に出ると彼は言った。変わらない、とも。
おそらくリックは自分が隠し事をしていることを見抜いている。
(だが僕は、レティアのことだけは君に考えてほしくないんだ)
逃げかもしれない。
でも、彼にはそんな昔のことで傷ついてほしくない。
「職員会議を始めます」
と、救いの手が入った。
「リック、放課後でいいかな」
「ああ。別に急ぐわけじゃないしな」
つまらなさそうに彼は言った。
「お邪魔するよ、リーシャ、シルフィ」
昼休みになって、ルークは二人の元に顔を出した。二人は喜んでルークを招く。
「いらっしゃいませ、先生」
「遅いよ、先生」
「悪い悪い。ちょっと仕事がまだ残っててね」
そう。これは何よりも大切な仕事だった。
ルークにとって、リックのためになることは自分の至上任務なのだ。
「それで、リーシャはリックの何が知りたいんだい?」
「ぐっ」
ちょうど唐揚げを食べているところだったリーシャは思わず喉につまらせる。
「ごほっ、ごほっ」
「リーシャ、リーシャ、大丈夫?」
思わずルークは吹き出していた。本当に、感情が外にすぐに出る娘だ。
「せ、せんせい〜」
「つまるところ、その話がしたかったから僕を招待したんだろう? でも、僕もリックが教えたくないと思っていることは教えられないから、そのつもりでね」
「駄目なんですか?」
ルークは苦笑する。
「彼には、過去なんてない方がいいからね」
思わせぶりな言葉だった。それはルークも理解していた。言うべきではないということも。
「リーシャ。リックのことが気になるのはよく分かるよ。僕もリックのことが好きだからね。大切な親友だ。でも、もしもリーシャが彼を傷つけるようなことをするつもりなら、僕は全力で彼を守らなければならない。たとえ君を傷つけてでもね」
熱烈な愛の言葉ともとれるその台詞を、リーシャとシルフィは呆然として聞いていた。
「……えっと」
「リックのことをかぎまわるなと言っているわけじゃないよ。調べれば分かることも結構あると思う。でも、それを軽々しく吹聴するようなことはしないでほしい。彼は傷ついている。傷口を広げるようなことをしたら、僕が許さない」
「は、はい」
その迫力にリーシャは完全に圧されていた。いつもは温厚なルークであるが、ことリックのことに関してはこれほどに感情をあらわにする。
ルークの一面を見た二人は、いつものような元気よさがなくなってしまったようだった。
「まあ、どうでもいいことなら教えられるさ。たとえば、ほら、この卵焼き。あいつは卵が大好きだったからな。昨日も食べていたんじゃないか?」
「えっ?」
二人の声が揃った。驚いているようだった。
「どうした?」
「あ、いえ……」
シルフィが言いづらそうに答える。
「リック先生、卵は苦手だって……」
「まさか。あいつは──」
三年生の時までは、レティアと一緒に食事をしていた。
あとの二年は、レティアの弁当をよく食べていた。
(……レティアが、よく作っていたから)
卵焼きを見ると、レティアを思い出すということか。
「ああ、そうだ。そういえばあいつは卵にあたってから苦手になったんだった」
「え、そうだったんですか」
シルフィが尋ねてくる。
「いつだったかな。そう、たしか彼が五年目の夏だった。あの年は食中毒が流行ってたから、卵は控えろって言ってたのにな」
「リック先生らしくないですね」
「全くだ」
ルークとシルフィは笑ったが、リーシャはじっとルークを見つめていた。
「どうした、リーシャ」
「……ボク、がんばって作ったんだけどな、昨日」
リーシャは悔しそうに卵焼きを口にした。
「リーシャ、料理なんてできたのか」
ルークが驚いて言うと、シルフィが援護射撃をした。
「リーシャ、どうしてもリック先生に自分で料理したものを食べてもらいたいからって、がんばって料理の勉強したんですよ。卵焼きが一番うまくできたから、お弁当に入れたんです」
「そうか。それは残念だったな」
「ねえ、先生」
リーシャは思いつめたような表情で、じっとルークを見つめてきた。
「ボク、もっとリック先生のこと知りたいよ。こんな、こんな想い、初めてだから……」
(おやおや)
リーシャは、ぎゅっ、と胸の前で右手を握った。
(まさか本気とは。でも、それがいつまで続くかは分からないからな。簡単にリックのことを教えてやるわけにはいかないが……)
それに、リックの方がおそらくは本気にしないだろう。
「だったら、方法は一つだな。彼と付き合うなら僕と同じ方法を使えばいい」
「どうすればいいんですか?」
「僕がリックと友人でいられたのは、とにかくリックに僕の方からつきまとったこと、そして彼に認められるために努力を惜しまなかったこと。それにつきる」
「つきまとって、努力する」
「そう。努力しない人は彼にとっては軽蔑の対象でしかないからね。そして彼は自分から心を開くことはしない人だ。あとはこちらから積極的に何度も話し掛けるしかない。彼はいつも、誰かが自分に声をかけてくれるのを待っているからね」
「そう……ですか」
「ああ。彼は寂しがりやなんだよ。信じられないけどね」
リーシャとシルフィが目を合わせた。
「うそっ!」
そして声を合わせる。ルークは苦笑する以外にない。
「本当だよ。別れるのが辛いから、初めから友人なんて持たない。徹底しているよ、彼は。だから彼と付き合うのは覚悟が必要だ。もし中途半端に付き合って彼を悲しませるようなら……僕は、君を許さない。リーシャ」
ぞくり、とリーシャの背筋が震えたのが分かった。
「さ、さっきから先生、ボクのこと、脅してる……?」
「彼には、彼の過去と彼自身を全て背負える人が必要なんだ。だからリーシャがそれに相応しいというのなら、それ相応の努力をしてもらわないとね」
「過去ですか……」
「もしリーシャが僕の眼鏡にかなうのであれば、リックのことをお願いするかもしれないな」
さて、とルークは立ち上がった。
「そろそろ昼休みも終わりだ。リックに相応しい女性になりたければ、しっかりがんばるんだな」
「は、はいっ!」
全力で答えるリーシャに、ルークは優しく微笑んだ。
ふん、とリックは鼻をならした。
見下ろした中庭では、昨日のあの場所で、ルークがあの二人と仲良さそうに話している。
(昨日の成果報告でもしているつもりか。それとも、どうやって俺を懐柔させようか企んでいるのか)
別に彼らが何を考えていようと、自分には関係がない。
(……俺を裏切ると、どうなるか分かっているのか、ルーク)
彼の手の中には、試薬と、そして一枚のメモ用紙。
そこには『エルリーブ』と書かれている。
(相変わらず、考えていることが顔に出る奴だな。お前が俺に隠し事できるとでも思っていたのか……だが、何故わざわざ俺に隠した? 確かに希少品種であり、危険な植物であるのは間違いないことだが)
切れた糸口の端が、まさか自分のすぐ傍で見つかるとは思ってもみなかった。
これは裏切り行為だ。
だが。
(お前は俺のためにならない行動はしない奴だからな。何か理由があるのは分かるが、いったいお前は何を俺に隠している?)
今日はどうやら、ルークを尾行する必要がありそうだった。
六:変化の兆候
もどる