六:変化の兆候





「たわけっ! 芸術分野は社交界の基本教養だと何度言えば分かるっ!」
 今日もまた、リックの罵声が飛ぶ。
 少しでも答が出て来ないようなら容赦なく叱りつける。明らかにやる気を見せない者は講義室からたたき出すこともしばしばであった。そのような厳しい指導に反感を覚える生徒も多かったが、リックの講義を受けることで着実に力をつけている生徒が多く、逆にリックの指導を尊敬するような生徒が増えていることも事実であった。
「課題! 現代3大芸術家の作品を可能な限り調べてこい!」
 だが、課題を出されるたびに生徒の顔色が変わるのはやむをえないことだ。
 そんな折、このようなことがあった。
「先生、質問があります」
 今までそういったことは全くなかった。とにかく彼がただひたすら問題を出しつづけていく。時には解説することもあったが、基本的には『調べろ』というのが彼の授業スタイルだった。
「質問? 自分で調べることもせず、講師に聞けばなんでも解決すると思っているのか?」
 明らかに不機嫌な様子であった。
 質問したのは4年生のレィル・マースリーであった。
「いえ、そういうわけではありません。調べてもなかなか理解できないこともあります。そういうとき、我々は質問することは許されていないのですか?」
「講師の役割については確かにお前の言うとおりだ。が、この授業に限り、質問が出るようなことを俺はした覚えはないが? 質問をしているのは俺だ。お前たちではない」
 生徒は何か言いづらそうであった。よく見ると、彼のすぐ後ろには反骨精神旺盛の5年生リオ・エルセスがいる。
「なるほど」
 そのリオと、リックは視線を合わせた。
 これは挑戦だ。
「お前たちは、俺が本当に講師に相応しいか、確かめたいというわけだな」
 ざわり、と教室が浮き立つ。
「いいだろう。今から数分間、お前達の質問を受けつける。挑戦するというのならば受けてたとう。俺が答えられなければ、お前たちと同じように俺もお前たちからの課題を受けよう。だが、お前たちの質問を俺が全て答えたときは、お前達にさらに課題を課すが、それでかまわないだろうな」
 余計に教室がざわめく。
「どんな問題でもいい。専門の問題になってもいいだろう。法律、政治、経済、社会、芸術、自然科学……何を聞いてもかまわん。何を聞いてきても答えてやろう。特別サービスだ。さあ、最初に質問するのは誰だ?」
 ざわざわざわ、と前後左右で話し合う。この突然の展開に生徒の方が戸惑っているようだ。
「では、質問をいいですか」
 レィル・マースリーが最初に尋ねた。
「ではレィル」
「はい。現代3大芸術家と今先生はおっしゃいましたが、本によってその3人が違っていたりすることがあるのですが、それはいったいどういうことなのでしょうか」
「何冊の本を読んだか聞いてみたいところだな。現代3大芸術家はロイスダール、セルベス、フェリックスの3人だ。それがサロンの評価だ。たしかに野に埋もれている芸術家を加えると、必ずしもこの限りではない。自然派のロイスダールが3大芸術家から外れることはないが、古典派のセルベスが外れて点描画のニールを入れる場合もあるし、モンテーヌ派のラブローを入れる場合もある。だがそうした芸術家のランクを決めるのはあくまでサロンだ。サロンに出品していない画家を3大芸術家と呼ぶことはない。これでいいか?」
「はい、分かりました」
 ちっ、と舌打ちする音が聞こえた。リオだ。
「他には?」
「はい」
 そのリオが手を上げた。
「よし、リオ」
「隣国アルゼワの歴史の資料が少ないので分からないことがあるが、あそこには副王という制度があるらしい。その副王にはいったいどういった人物がいるのか教えてほしい」
「アルゼワの国王一人につき必ず副王は一人まで。先に副王が亡くなったとしても新しく副王を迎えることはできない。逆に副王を迎えなくてもかまわない場合もある。アルゼワができた250年前から王家は現在16代目だが、そのうち副王を向かえた例は12。欠番は2代、7代、11代、16代。順番に言うと、ロルト・シャーク、エンリケ・フォレスト……」
 つらつら、とリックはこともなげに答えていく。リオの顔には既に敗北の色が浮かんでいる。
「……というわけで、こんな基本的な問題で時間を潰すな。もったいない。他」
 冗談ではない。どこの国の歴史を学ぶにしても、国王の順番を覚えるのがどれほど大変か、歴史を少しでも学んでいるものなら誰もが知っている。それを国王だけではなく副王まで覚えているのでは、どんな問題を出しても手に負えないような印象を生徒たちは受けていた。
「はい」
「よし、ミレン」
 3人目はミレン・ドールであった。せっかくの機会を有効に使おうというのだろう。
「東のローディア王国の判例で気になったものがあったのですが──」
 判例とは、裁判所の判決のことであり、裁判所が今後どういう基準で判断を下していくか、その指針が示されるものである。
「予想はつく。アルメニア裁判官の反対意見だな」
「はい。彼の説が今後どういう影響をローディアに与えるか、お伺いしたいのですが」
 そのような質問が出ても、他の生徒たちはちんぷんかんぷんである。まずは説明からしなければならない。
「まず事件の説明をしておくと、ローディアの一地方で尊属殺が起こった。虐待されていた子供が父親を殺したというものだ。無論、尊属殺を適用すれば死刑か無期懲役。裁判所はどう判決をしたか? 尊属殺を犯したとなると、最低でも無期懲役が確定してしまう。だが殺人罪なら状況によっては3年以上の有期懲役で、執行猶予もつく。裁判所では父親の虐待は子供を殺害にいたらしめるほどのものであり、これはいうなれば正当防衛であって、尊属殺ではあるが情状酌量によって有期懲役7年とする、という判決を出した。だがアルメニア裁判官は一人反対意見を述べた。内容はこうだ。尊属殺は無条件で無期懲役以上というのであれば、殺人罪に比べてあまりに刑が重く、被告人の権利を守ることができない、というのだ。そもそも尊属殺というものは、その家庭生活があまりに劣悪でなければ起こることはまずありえず、本件被告人のようなやむをえない事情があったとしても無期懲役を適用するのは法の精神にそぐわないことであり、尊属殺の規定自体に誤りがあり、殺人罪を適用するべきである……というのがアルメニア裁判官の反対意見だ」
 既に理解できていない生徒が半数である。が、さすがにミレンはしっかりと頷いてよくついてきている。
「だがあくまで彼は多数意見ではなく反対意見であるということから、今後の裁判に影響が出ることはほとんど考えられない。だが、法の精神ということが今後議論されることになるのは間違いないな。被告人がやむをえずに犯す犯罪というものをどうとらえるか、そしてどう刑を適用するのか、今後の刑法論はなかなか楽しい方向に進むだろう」
「分かりました。ありがとうございました。リック先生はどうお考えですか?」
 リックは少し考えてから答える。
「法の精神という言葉は別に新しい言葉ではない。かつての法学者、ラリー・ベークマンの言葉だ。法の精神とは、国民の権利を守ることを意味する。国王は法の精神を常に念頭におきながら法を作らねばならない。アルメニア裁判官はそれを使ったのだろう。古い言葉だが、重みのある言葉だ。アルメニア裁判官の言っていることは基本的には間違っていない。だが、全ての例外を含むことができないという意味では、検討の余地が残るだろう。この尊属殺という件に関しては、俺は廃止してもかまわないと思っている。その理由の1つはアルメニア裁判官の言うとおり、尊属殺と殺人罪とではあまりに刑の重さが違いすぎるから平等規定に反するという点、もう1つは現実に尊属殺で裁かれる被告人などというものはほとんどいないという点だ。それはアルメニア裁判官が説明した通り、よほど家庭環境が劣悪でない限り尊属殺など起こりえないからだ」
 法学を勉強していないものにとっては完全に未知の領域である。ミレンだけが満足して「ありがとうございました」と答えた。
「さて、他に質問は? なければ課題が待っているから、なんとか俺を攻略できる質問を考えた方がいいぞ?」
「はいっ」
 元気よく声をあげたのはリーシャであった。ほう、と内心思いながらリックは指名する。
「ではリーシャ」
「はい。ボクの得意分野からの問題です」
 得意分野なんてあったか、と思いながらもリックは頷く。
「最近の流行、デア・マスターと呼ばれるカードゲームのレアカード32種類、全部言ってみてください!」
 一瞬、頭痛がした。
「……それは教養か? そもそも、だいたいそれはお前、自分で知っているだろう」
 もっともな意見である。だが、リーシャは怯まなかった。
「先生! デア・マスターは上流階級の間でも流行っているカードゲームなんですよ!? それに先生、挑戦は受けてたつとおっしゃいました!」
 握りこぶしで主張するリーシャ。生徒もこの予想外の勝負を楽しんでいるという様子だ。いや、この問題ならリックも答えられないだろうという期待の眼差しを向けている。
 やれやれ、とぼやきながらリックは答えた。
「赤8枚。真紅のフェニックス、レッド・ドラゴン、アポロ、英雄スーヴニール、魔法『クリムゾンフレア』、ドラゴン・ブレス、炎の剣、伝説の土地フレイムランド。白8枚。天馬ペガサス、ホワイト・ドラゴン、ゼウス、勇者ガイアス、魔法『ハルマゲドン』、アシッド・レイン、勝利の杖、伝説の土地エデン。黒8枚。漆黒のワイバーン、ブラック・ドラゴン、リッチ、賢者レイモンド、魔法『ネクロマンサー』、カース・ワード、死の槍、伝説の土地コキュートス。青8枚。海の王リヴァイアサン、ブルー・ドラゴン、ネプト、王者ブラッドリー、魔法『大いなる癒し』、タイダルウェイブ、海神の矛、伝説の土地アイスランド。以上32枚」
 カタログ通りに、完璧に答えた。
 さすがにリーシャもこれにはぐうの音も出なかった。まさかこんな、カードゲームにまで精通しているとはさすがに誰も思わなかった。
 だいたいカードゲーム、デア・マスターのファンだって32枚全部言うのは大変なのだ。それをすらすらと言えるあたりがこの人の知識量が膨大であることを示している。
(やれやれ、まさかこんなところで役に立つとは思わなかったな)
 もちろんリックがカードゲームなどやるはずがない。彼がこれを知っていたのは本当に偶然だ。
 B級ファイターとしての最後の仕事はある商人の護衛だった。その商人が運んでいたものは雑貨であり、その中にデア・マスターが混じっていたのだ。
 その商人はデア・マスターの熱烈なファンで、護衛の間も馬車の中で付き人とずっとカードゲームをしていたのだ。
 見ていれば、そのうち勝手に覚えるのは道理というものだ。おかげでリックは一度もやったことがないデア・マスターのルールからカードまで全て知っている。
「これでよかったか?」
「は、はい……」
 もはやリックがどれだけ知識をもっているかという勝負になってしまった質問すら、リックは完全に答えた。
 これは、彼の知識を上回ることは不可能だと誰もが思っても仕方のないことであった。
「では、課題だな」
 がっくりとうなだれる生徒たち。
「最近図書館にローディアで2年前に採択された『憲法』の解説書が大量に入ってきている。軽く300冊はあるだろう。どれでもかまわない。必ず1冊読破してレポート提出。レポート枚数はレポート用紙で50枚が最低ライン」
 ざわっ、と一気に教室がどよめく。
「期間は2週間以内。早ければ早いほど評価が高いのは社会人になってからの常識だ。期限ぎりぎりまでかかってもかまわないが、早くできた方が高い評価を受けることを覚えておくように」
 特に低学年の方ががっくりとうなだれていた。
「ちょうど時間だな。では今日出た課題はいつもどおり、明日までに提出すること。以上」
 そしてまた、リックを恨む声が今日もひそやかに学校のあちこちで囁かれることになる。






 あれから、2ヶ月が経っていた。
 リックもルークのことを調べながら毎日を過ごしていたが、なかなかルークはボロを出さなかった。ガイウスにしても、あれ以後『連中』が接触してくることはないという。自分がいつも顔を出していることが怪しまれているのかもしれない。
 糸口はルークのところにある。だがリックはルークに真偽を正すことはしなかった。必要がなかった。彼が隠そうとしている以上、それは何があっても自分に教えることはないだろう。
 であれば、なんとか別の方法で情報を集めるしかない。
「やあ、リック。今日はなんだか、たくさん課題を出したんだって?」
 実験室にこもっているリックのもとへルークが顔を出して言った。
「そうでもない。レポート50枚提出させるだけだ」
「なるほど、君の基準だね」
 懐かしさを覚える。レポートの課題が出るとき、リックは必ず50枚を最低基準として提出していた。他の生徒たちが、2、3枚で提出するのに対してだ。
「2、3枚程度のレポートでいったい何が報告できるんだ? レポートできると思っていること自体が間違っている」
 それを聞いてからというもの、ルークも最低でも10枚のレポートを心がけるようになった。
「ああそうだ、リック。これを預かってきた」
「なんだ?」
「リーシャから」
 小さなメモ用紙を手渡される。
「……また食事か」
「またとか言わない。リーシャはかなり本気だよ」
「何に対して本気なんだ?」
「理想の異性として、じゃないかな」
「ふざけてる」
 一言で片付ける。メモ用紙をそのまま握りつぶして、ゴミ箱へ捨てる。
「リック!」
「俺は行かない。リーシャがそう考えているのならなおさらだ。俺は人に好かれるような人間ではない。お前だって知ってることだろう」
「だが、リーシャが君のことを想っているなら、応えるにせよ断るにせよ、君は応じなければならない。それは義務だ」
「義務? 勝手に惚れられて、つきまとわれて、迷惑しているんだ。それを俺のせいにするような言い方はやめろ」
「本当に迷惑しているのかい?」
 リックは眉をひそめた。
「僕にはそうは見えないよ。リーシャといるとき、君はいつもより少しだけ楽しそうだ」
「目が腐ってる」
「リックの気持ちがどうかなんてことはこの際関係ないよ。リーシャが待っている。それなら行ってあげるのも先生の勤めだろう」
「ルーク」
 名前を呼んだ。彼が友人の名前を呼ぶのはきわめて珍しいことだった。
 それは、かなり感情的になっていることを意味していた。
「お前は、俺のことを知っているな」
「知っている」
「だとしたら、俺が他の誰かと一緒にいることを拒みたいということも知っているな」
「知っている。でも、それでは駄目だ」
「なんだと?」
「何度でも言うよ。君には未来があるんだ。未来を自ら閉ざしてはいけない。僕は別にリーシャを好きになれって言っているわけじゃないんだ。君のことを好きになっている人物がいる。その気持ちを受け止める方法を君は知らない。誰にも愛されたことがないから」
「ルーク!」
「リック。君は愛される練習をするべきだ。そうしないと、今後他の誰かに愛されたとき、そして君が愛そうと思ったとき、どうすればいいか分からなくなる」
「〜〜〜〜〜」
 歯を食いしばってルークを睨みつける。だがルークも一歩も引かなかった。
「というわけで、行っておいでよ。だいたいリーシャに聞いたら君がオーケーしたって言ってたよ」
「なんだと?」
「一ヶ月もしたら暇になるから一緒に昼食をとってもいいって」
 そういえばそんなことを言ったかもしれない、と今にして思う。
 だがそんな口約束を覚えていろという方が無理だ。
「というわけで、行ってらっしゃい」
「ルーク」
 本気で怒っているモードだ。それが分かった。
「なんだい?」
「今度取り次いだら絶対に許さん。分かったか」
「了解した。今度はリーシャに直接誘うように言うよ」
 リックは大きく舌打ちしてから実験室を出た。
「……でもね、リック」
 誰もいなくなった部屋で、ルークは小さく呟く。
「彼女、もしかしたら君の心を溶かしてくれるような気がするんだ」
 リーシャ・アドニス。
 不思議な少女だ。去年とはまるで違う。学問に対する姿勢も変わってきているし、何か1つのことにずっと打ち込むということも今までにはなかったことだ。
 何しろ今までは、学問はとにかく放ったらかし、流行に流されて1つのことをずっと続けることがほとんどなかった。
(変えたのは、リックか)
 年齢差は6歳。リーシャは今年16歳になる。リックは22歳。別におかしいというほど年齢が違うわけでもない。
(本気かな……今のところは本気のようにも見えるけど、でも、どうなるかは分からないな)
 ルークは最後の最後でリーシャのことを完全には信頼していなかった。だからリックには『愛される練習』などという言葉を使った。
 リックもそれは分かっているはずだ。彼女は流行に流されやすい。自分のことも一時期の気移り程度にしか考えていないはず。
(でも本気だとしたら)
 リックの過去とリック自身を支え、いつまでも彼の傍にいて、無償の愛を与え続けることが求められる。
 それが彼女にできるだろうか?
(それに……いよいよ、これを解決しなければならない時期だしな」
 ルークの手には試薬が握られていた。
「リーベストの連中を一網打尽にしてやる」
 ルークは力強く頷いた。






「リック先生!」
 相変わらずの元気な声。だがリックにはそれすらわずらわしかった。
 一人でいたい。その方が気楽でいい。
 そう考えていること自体は事実だ。だがその奥に、他人に先に死なれてしまうことを恐ろしく感じていることに彼は気付いていない。
 失うくらいなら、初めから持たなければいい。
 無意識で彼がそう考えたとして、どうして彼を責められるだろうか。
「聞こえている。大声をあげるな」
 立ったままで、リックは二人を見下ろす。
 中庭は好きじゃない。
 ここにはレティアがいる。レティアの影がある。
(……最近、やけにレティアが見えるな)
 木陰で待つ彼女。そこでたおやかに笑い、彼を迎え入れ、共に食事をした。
 卵料理が彼女は得意だった。
 あれほど美味しい卵焼きはもう二度と食べることはできないだろう。
「なんだか今日は先生、ご機嫌斜めですか?」
 座ろうとしないリックに、シルフィが尋ねてくる。
「まあ、そうだな」
「やっぱり今日の講義のことが原因ですか?」
「それもある。が、まあそれはいいんだ。講師が生徒を評価するように、生徒も講師を評価する。たまには逆に講師が尋ねられてもいいだろう」
 彼にとってはそのことはたいした問題ではなかった。彼も昔は『できる』先生と『できない』先生の判別をしていた。授業の質が高い講師は真剣に授業を受けていたが、何を教えているのか手についていないような講師はまるで無視して自習体制に入っていた。
「じゃあ、何かあったんですか?」
「ああ。生徒の一人が小細工を使って俺の貴重な休み時間を妨げた」
 リーシャは途端にばつの悪そうな顔をした。
「……ボクのせいですか」
「食事に誘いたいなら、何故直接言いにこなかった。ルークに話せば俺が必ず来ると思っているのなら勘違いはしない方がいい。ルークはあれで世話を焼いているのかもしれないが、俺にとっては軽蔑の対象にしかならない」
「そんな」
 リーシャは泣きそうな表情になる。自分の行動が完全に裏目に出たのだと知ったのだ。
「先生」
「シルフィは黙ってろ」
 リックは強くリーシャを睨んでいる。彼女はまともに目も合わせることができず、ただ俯いていた。
「悪いが、今日は忙しい。何かあったら今度は俺に直接言え」
 リックはそのまま戻った。
 不愉快だった。
 想いを伝える努力を怠るリーシャも、それを後押しするルークも、全てを分かっていて何もできない自分も。
(レティア……)
 自分を置いていなくなってしまった、レティアも。
 彼女が何をしたかったのか。
 彼女が何故死んでしまったのか。
 何も分からない自分が、何より腹立たしかった。






 職員室へと戻ってきたリックであったが、そこにルークの姿はなかった。
 すぐ隣のルークの机。いつもどおり、きちんと整頓されている。
 その机の上にあったのは一枚のメモ用紙。
 ふと、リックはその紙を取り上げて、何が書いてあるか確認する。
 少し目を細めて、また元に戻した。
 そして席について、生徒が提出してきたレポートにまた目を戻す。
 先週末は話が生物学の方向に流れてしまった。あまり考えずに授業をしていると、たまにそういうこともありうる。
(よく書けるようになってきた)
 どの生徒のレポートも少しずつ内容が濃く、分かりやすくなっている。無論まだ穴は多いが、最初の頃とは雲泥の差だ。
(これは……まだ駄目だな。5年生か。現場ではものの役に立たないだろう。どこにも推薦できる生徒ではないな)
 それに比べて、次のレポートはなかなかだ。名前はカル・フォースと記してある。
(1年生でここまで書けるのか。この生徒も最初はたいしたことがなかったが……)
 やはり、人は努力次第で変われるものらしい。
(努力次第で、か……)
 自分はまるで変わろうとしていない。
 3年前のあの日から、変わる努力をしていない。
 変わることができないと自分に言い聞かせて、変わる努力を怠っている。
(教師失格だな)
 案外、教師とはそういうものなのかもしれない。
「リック」
 職員室に戻ってきたルークが声をかけてきた。
「食事はどうしたんだ」
「断ってきた」
「おいおい」
「お前には関係のないことだ」
 リックは冷たくあしらう。だいたい、リーシャの片棒をかついだのはルークだ。
「おっと」
 ルークは机の上にあったメモ用紙を取り上げて懐にしまう。
「リック、君、このメモ見たかい?」
「いや」
「そうか、それならいいんだ。じゃ、急ぐから」
 ルークはそう言うと再び職員室を出ていった。どうやらそのメモを取りに戻ってきたらしい。
(案外間抜けなところも変わってないようだな、ルーク)
 よりによって、そんな大事なものを忘れるとは。
「エルリーブを扱う組織、リーベストか……それに」
 ローラ。
 その名前を、まさかこんなところで見ることになるとは。
(お前、俺のことを調べているのか)
 メモ用紙にはその2つのことだけが書かれてあった。
「もう、何年になる……ああ、そうか。9年か」
 自分が心を閉ざした原因となった女性。
(ローラ姉さん)
 レティアと出会ってからは、もうそんなことすら忘れていた。
 ずっと彼女に惚れこんでいて、自分が塞ぎこんでいたことも自分に家族がいたことも忘れていた。
 それほど、彼女の印象だけが頭の中にあった。
(だが、それを調べることに何の意味がある?)
 ルークが意味もなく9年前の事件を調べているとは思えない。
 エルリーブを扱う組織リーベスト。それと何か関わりがあるというのか。
(……9年前の事件には『リーベスト』が絡んでいたのか?)
 暗闇に隠れていた自分。
 目の前で斬殺された姉。
 誰が姉を殺し、何が目の前で起こっていたのか、全く分からなかった。
 次の記憶の中には、もうレティアがいた。
『もう大丈夫よ、リック』
 姉と同じ目で。
 姉と同じ微笑みで。
 そして、自分は彼女に縋った。
(だが、リーベストか。その名前さえ分かってしまえばこちらにも動きようがある)
 彼は、目を閉じた。
(──それが、一番だな)
 そして瞬時に判断を下した。






 夜。
 リックは一人、暗闇を行く。
 一月前からそのことには気付いていた。
 予測はついている。
 ここに、いる。
 うらぶれたあばら屋。物置ほどの大きさしかないその小屋の扉をゆっくりと開けた。
「誰?」
 中から女性の声と共に剣が突き立てられる。
「誰に剣を向けている」
 リックはその剣に手をかけた。
「えっ」
 その女性は目を丸くしてリックを見つめた。
「俺に隠れて、随分こそこそとかぎ回っているようだな、ルシア」
 表情を変えずにリックは女性を睨みつけた。黒髪の可愛い顔立ちをした少女が困ったように顔を引きつらせて後退する。
「こんな小さな町で『SFO』に依頼が2つも来るなんていう偶然はないな……お前が単独で行動するはずがないし、つまり」
 ずい、と一歩踏み出す。
「トレインの指示だな」
「うっ」
「俺を探っているんだな」
「ううっ」
「お前……レティアのことを知ったな!」
 リックは左手でルシアの胸倉を掴みあげた。
「やめて、お兄ちゃん!」
「勝手にこそこそかぎ回って、俺のことを根掘り葉掘り調べやがって」
「だって、それは命令で」
「他人のせいにするな!」
 ルシアの体がびくんと撥ねる。
「お前が自警団に忍び込んでデータを無断で見たのも知っている」
「うそっ」
「3年前の事件も、9年前の事件も、どうやらもう全て知っているようだな、ルシア」
「う……っ」
 右手でルシアの喉笛を押さえる。
「俺が、それを知った人間の口を塞ぐとは、考えなかったのか?」
「く、くる、し……」
「誰にも知られたくないことを暴かれることの痛みが、お前に分かるのか!?」
 ぱっ、と手をはなす。ごほごほっ、とルシアは咳き込む。
「1回だけだ」
「ごほっ……え?」
 ルシアはきょとんとリックを見上げた。
「今回限りは見逃してやる。そのかわり、お前も仕事を手伝え」
「う、うん、うんっ!」
 そこで頷かなければ殺されることが分かっていて、拒否することはできなかった。
「この町に巣食う麻薬密売組織『リーベスト』のことを大至急調べろ。期間は一週間だ」
「ええっ、無理……」
 リックの手が柄にかかった。
「……じゃないです」
「いい返事だ。長生きできるぞ」
「うう〜、お兄ちゃんの意地悪」
 ルシアは立ち上がると上目づかいで睨んだ。そして、くすっ、と笑うとその頬にキスした。
「……慰めなんて、いらないかもしれないけど」
「いらないな。そんなものが必要なら、死に急ぎはしない」
「私、ずっとお兄ちゃんの傍にいるからね」
「何度も言うが『お兄ちゃん』はやめろ、ルシア」
 そうしてリックは踵を返す。
「一週間だ。オーバーしたらどうなるか……分かっているな?」
「脅さないでよう」
「仮にもB級ライセンスの持ち主ならそれくらいは調べろ。俺はマークされていて下手に動けないからな」
 リックは下唇を噛んだ。





七:誤謬の解決

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