七:誤謬の解決





「ここか……ここに、全ての謎が……」
 月夜の晩。ルークはついに、秘密組織『リーベスト』の本部をつきとめていた。フォトンと情報を交換し、危険を顧みずに組織の末端員を尾行した結果である。
 その屋敷はレグニア市の中心部にある市議会議員ダブリス・ロウのものであった。もともと黒い噂が流れている議員で、あくどいやり方で土地を巻き上げているとの専らの噂だ。それが黒幕だということか。
 だが、証拠もなしに潜入することはできない。不法侵入になるからだ。だから自警団でもここに押し入ることはできない。
 だとしたら、どうすればいいのか。
 簡単だ。自分が潜入すればいい。
 もちろんリスクはともなう。見つかれば自分の社会的地位はあっというまになくなるだろう。それこそ自警団に引き渡され、職も失うことになりかねない。
(それだけの価値が、リックにはある)
 自分の命をかけてもリックを守る。そう誓った。
『そのとき、一番近くにいる人を、必ず守りなさい』
 やはりこれは呪いだろうか。
 正直、何故リックをここまでかばおうとするのか、自分でも理解できない。やはりあの日、自分はレティアに呪いをかけられていたのだ。
 そして今日、彼を過去の幻影から守る。
 未来に彼を連れていく。
 そのためには自分が『レティア』の影を完全に消滅させなければならない。
 それが自分の最重要使命なのだ。
 ルークはゆっくりとその壁に張り付く。
 屋敷の周りは全て高い壁で囲まれている。高さは2メートルより少し高いくらいか。もちろん乗り越えるのは簡単だ。だが、ここがリーベストの本拠地だとするならば当然中には無数の罠がしかけられているはずだ。
 慎重に、その壁に手をかける。
 その壁の向こうに、石を投げ入れてみる。
 5分、待つ。
(……何もない、か)
 壁に手をかけてじっと佇んでいるのは別に何も犯罪ではない。
 何か向こうからのリアクションがあるかとふんで待っていたが、何もないのなら行動を開始するべきだろう。
(行くか)
 手に力をこめて、壁の上に飛び上がる。
 素早く全方位を見わたして塀の内側を確認してから、飛び降りる。
(犬はいないようだな)
 一番怖いのは人間ではない。動物だ。奴らは生き物の気配を敏感に感じ取る。
 そしてこの先には、もしかしたらブービートラップが隠されているかもしれない。
 気をつけなければならないことは山のようにある。慎重に進まなければならない。
 茂みの中に身を隠し、じっと状況を確認する。
 5分が経ったが、誰も来ない。
(どうやら、気付かれていないようだな)
 改めて、周りを確認する。
 見張りの一人もいない。本当にここが『リーベスト』の本拠地なのだろうかというぐらいに警備が薄い。もしかしたら的外れだったのかもしれない。
 とにかく、中を確認するのが先だ。
 ルークは建物に近づいていく。
 建物は3階建てだ。外から見たかぎりでは、かなり中は広いことが分かる。部屋も1つの階に10は下らないだろう。これほどの土地と建物を持つ個人はレグニアに5人はいないだろう。
 当然、出入り口も多い。
 正面から入るのは当然不可能だ。だが勝手口や裏口は何箇所かにあるだろう。
 特に勝手口。調理場の近くにあるのが普通だ。建物から少し離れたところから見ると、どうやら建物の西側にあるようだ。
 場所を移動する。
 屋敷の中にいる人間に気付かれないように行動するのは骨の折れる作業だった。
(エルリーブ……本当にここにあるのだろうか)
 間違いなく組織の構成員はここに入っていった。
 もし違うというのであれば、それは最初の情報が間違っていたのか、それとも本拠地は別の場所でここは──
(その可能性もあったか。見落としていたな)
 つまり、組織が作ったエルリーブと取引をしているのがこの屋敷の議員だという可能性。
(いずれにしても、ここで何かを見つけて帰らないとな)
 最近、リックの態度が変化してきている。
 おそらくは何かに気付いている。ここ数日で今回の事件を解決してしまおうという意気込みだ。
 だがその内容を自分には話さない。
 それは、つまり。
(自分も疑われているんだろうな。まあ仕方がないか)
 気付かれないように行動していたつもりだが、それを見逃すほどリックは甘くない。それは重々承知している。
 だからといって、彼を『レティア』の影に近づけるわけにはいかない。
 この町に戻ってきた彼は、病人だった。
 3年前の事件から、まるで立ち直ることができていない。
 病原菌は、取り除かなければならない。
 彼を未来に連れていくためにも。
(ここから入れるな……)
 建物の壁に背をつけて、180度を見わたす。誰もいない。
 扉の向こうに精神を集中する。気配はない。ノブに触れる。5秒待って、音を立てないように回す。反応はない。ほんの少し、扉を引く。
 隙間から中を確認する。
 暗い。誰もいない。
(鍵がかかっていないのは随分無用心だな……)
 だが、こちらとしては幸いだ。そのまま体を滑り込ませる。ぴったりと扉をしめて、しばらくその場で待つ。
 誰もいない。
 屋敷の中にいる人間は全員寝静まっているのか、どこにも活動しているという雰囲気はない。
(ここは……調理場か)
 当然こんなところに誰かがいるはずもない。
 ゆっくりと中を確認する。食材がきちんと整理されて保管されているのが分かる。
 調理場の中には2箇所に扉があった。
 1つはおそらく食堂に続く扉。もう1つは通路につながっているのだろうか。
 扉にはりついて、向こう側に人の気配があるかどうか確認する。
 静かだ。物音1つしない。
(食堂か……)
 扉を開け、中を確認する。そして静かに扉を閉めた。
(ということは、こっちだな)
 同じようにして扉を開ける。やはり通路だ。向こう側には誰もいない。廊下には何箇所か燭台に炎がともされている。
(行くか)
 さすがにここから先に行くことは躊躇われた。だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
 静かに扉を開き、廊下に出る。
 全神経を耳に集中させる。物音は何も聞こえない。
 建物の内部をまずは確認する。廊下はコの字型になっており、中央には2階に通じる階段と、正面玄関がある。
(上か……とにかく、証拠さえ掴んでしまえば)
 脱出は強攻策でもかまわない。何らかの証拠を掴むことができればいい。
 もちろん、ここが黒幕だとするならば、当然命の保証はない。
(誰か来る!)
 気配を感じて、階段の近くにある大きなブロンズ像の陰に隠れる。
 心臓が早鐘を打つ。気付かれただろうか。いや、気配はゆっくりと歩きながら近づいてきている。気付いたのではない。普通に屋敷の中を移動しているだけのようだ。
 暗がりから、歩いてきた男の顔を見る。
 老人だ。こちらには全く気付かず、ゆっくりと歩いている。正面玄関のところまでいき、老人は鍵をかけた。どうやら、執事か何かのようだ。
(……これから勝手口の方も鍵をかけるつもりだろうか)
 老人がブロンズ像のすぐ傍を通り過ぎていく。
 ルークはじっと息を止めて、老人が過ぎ去るのを待った。
 その老人が、像の前でぴたりと止まる。
(気付かれたか)
 じわり、と汗がにじみ出た。
 そのまま、数秒。
「……ふう」
 老人はため息をついて、そのまま歩み去った。
 どっ、と汗が吹き出る。
 いったいなんだったというのだろうか。何も意味はなかったのか。
 だとしたら、とんでもないタイミングだ。
 老人がいなくなってしばらくしてから、彼はゆっくりと活動を再開した。
 階段を昇るのは危険な行為だ。何故なら、隠れられる場所がない。
 誰も来ないという前提のもとでのみ上ることができる。だがその保証はどこにもない。
(ままよ)
 ルークは一段目に足をかける。その階段が丈夫な造りであることを確認すると、一気に駆け上がった。
 素早く回りを確認して、物陰を探す。だが、1階のブロンズ像のようなものはどこにもない。
 3階への階段と、H型の廊下。
 その右手の方で、扉が開く音が聞こえた。
(まずい)
 3階に上るのはまずい。かといって1階も駄目だ。隠れる前に見つかってしまう。
 反対に逃げるのがいい。
 左手の廊下に逃げる。二股になっている道の、上の方に逃げていく。
(どこかに隠れないとな)
 扉がいくつか並んでいるうちの、適当な扉に手をかけ、中の気配を確認する。誰もいない。
 急いで扉をあけて、中にすべりこむ。
 音を立てないように扉を閉めて、外の気配を確認する。
(……誰か、来る)
 先ほどの足音が、ゆっくりと近づいてくる。
(気付かれたか……)
 ぐ、と拳を握る。もしも気付かれたのなら相手を昏睡させるしかない。
 こう見えても武術には自信がある。何度もリックと組み手をした仲だ。自警団相手でも負けないくらいの力は持っている。
 ……コツ、コツ、コツ、コツ。
 ゆっくりと足音は近づいてくる。
 コツ、コツ、コツ、コツ……。
 そして、遠ざかっていった。
 ふう、と息をつく。
 そして改めて、部屋の中を確認した。
(ここは)
 思わず声に出してしまいそうになり、慌てて口を閉じる。
 そこは、資料室だった。
 大量の本、それにファイルやデータ、それらが部屋の中の本棚にびっしりと保管されている。
(これはエルリーブに関する調査資料だ)
 その中の1つを手に取って、中を確認する。
(……詳細なデータだ。エルリーブがどれだけの量で人間が死亡するのか、かなり綿密に詰めている)
 そのデータを得るまでに、いったいどれくらいの人間が犠牲となったのだろうか。
 ともあれ、これはいくばくかの状況証拠にはなる。だが、決定的な証拠ではない。何故ならここにはエルリーブそのものがない。
(きっとここには、レティアと関係するものがあるはず)
 それは予感にすぎないものだ。だが、レティアがエルリーブを使って薬を作っていたこと、それにこの町に暗躍するエルリーブを利用した組織リーベスト。
 偶然であるはずがない。レティアはきっとこの組織の一員だったに違いない。
(リストがあるはずだ……構成員のリストが、ここに)
 むやみに全てのファイルを調べても時間の無駄だ。おそらくはラベルが貼られていないもので、できるだけ使いやすい位置にあるはず。
(──これは)
 手に取りやすい場所に緑色のファイルが何冊か保管されている。
 そっと、手に取る。
 そして中を確認する。
(!)
 その1枚目を見て、愕然とする。
『エルリーブ顧客リスト』
 やはりここではエルリーブを取り扱っていることがこれで証明された。だが、驚愕したのはその点ではない。
 その下だ。
『顧客管理担当:レティア・プレース』
「馬鹿な」
 日付を見ると4年前となっている。4年前といえば、レティアが死ぬ1年前だ。
 当時、彼女はまだ18歳。
 そんな若い女性が、顧客管理担当を行うなどとはとても信じられない。
 他のファイルも見てみる。
 3年前。顧客管理担当:デル・グレン。どうやらレティアが死んだために担当が変わったようだ。
 いや、もしかしたら──
(レティアの死は、この組織が原因なのか?)
 充分にありうることだ。いや、それしか考えられない。
 レティアがリックとの生活を望んでいた。そのためにこの組織から足を洗おうとしていた。
 だが、組織はそれを許さず、自殺に見せかけて殺した──
 充分にありうることだ。だが、
(……あのレティアにかぎって、そんなことがあるだろうか)
『レティアだからこそ』その理屈はおかしいと感じる。
 彼女はそんな甘い女性ではなかった。確かにリックといて幸せそうな表情を浮かべていたが、それを至上のものと考えているとはとても思えなかった。
 レティアはもっと、別のことを考えて行動している。そんな感じがしてならない。

 がちゃり。

 その時、扉が開いた。
 はっ、となって振り返る。
 そこに、人影があった。






 リックは気配を殺してその屋敷に侵入した。
 もともとこういう仕事はなれている。『SFO』は傭兵部隊と言われてはいるが、実際に戦争の傭兵として使われたり、護衛として使われたりすることはせいぜい全部の仕事のうち半分か、それより少ないくらいだ。
 言うなれば『SFO』とは便利屋。調査や捜査も普通に行う。また、それだけの能力がある人間のみがファイターランクを得ることができる。
 裏口から侵入したリックは、そこにいた執事を昏睡させ、さらに中に入っていく。
 こうしたところはルークと違い、非常に堂々としたものだ。
 ルシアの報告に虚偽はないと彼は信じている。ここがリーベストの本拠地だと彼女が言うのであれば、それに間違いはないのだ。
 たとえ自分が見つかったとしても、全員を打ち倒してその上で証拠を見つけるつもりだった。
 3階建ての屋敷だが、実はここには地下がある。
 このブロンズ像。何の像だかは分からないが、これを回転させると、階段が出てくるしかけになっている。
(よく見つけたものだな)
 おそらくこの陰に隠れていたときに、誰かがブロンズ像を回転させたのだろう。
 ぐるりと一回転させると、正面玄関前に地下への階段が出る。
 それをリックは下りていった。
 その下は実験室。
 エルリーブを作るための、調合を行う部屋であった。
「何者だ!」
 そこから声が聞こえてくる。だが聞く耳はもたない。
 彼は剣を抜いた。
「お前たちの敵だ」
 地下には、5人の護衛がいた。いずれも抜き身の剣を既に構えている。
 だが、A級ファイターであるリックにかなうはずもない。世界に名だたる傭兵部隊『SFO』のA級ファイター。限られた人間にしかなることができないそのランクを彼らは身をもって知ることとなった。
「ば、馬鹿な」
 そこでうろたえていたのは、市議会議員ダブリスであった。
「全てを失ったようだな、ダブリス。これが明るみに出ればお前は破滅だ」
 護衛の五人は、全員床に伏した。
「ふ、不法侵入だ。傷害罪だ、脅迫罪だっ! きさまの方が法を無視しているではないか!」
「毒薬を売りさばいていた男に言われる理由はない」
 リックは剣をダブリスに突きつけた。
(これで一応、ローラ姉さんの仇を取ったことになるのかな)
 この男を自警団に突き出せば、全てが終わる。
 だがその前に、必要な資料はこちらで確保しておかなければならない。
 リックはダブリスら一同を縛り上げると、今度は階段を昇った。






「お久しぶりです、ルークさん。妙なところで会いますね」
 それは、ルシアだった。リックがこの町に到着した日、リックと再会した日に自分に会いにきた少女。リックの部下であり、リックの身辺調査を行っていた『SFO』の傭兵。
「何故ここに」
「多分、目的はそんなに違わないと思いますけど」
 ルシアはルークの持っているファイルを指差す。
「リックお兄ちゃんに見られたくないファイルを探しているんでしょう?」
 図星だ。
 だが決して表情に出すような真似はしない。嘘でも事実でも、何を言われても何も答えない。何も反応しない。それが一番相手に自分の意思を伝えない方法だ。
「実は今、下でお兄ちゃんが黒幕を捕まえているころなんです」
「黒幕?」
「はい。リーベストの親玉を」
「そうか……偶然とはいえ、まさか同じ日に乗り込むとはな」
「でもリックお兄ちゃんは、ルークさんがここにいることをまだ知らないはずです」
 ルシアは近くの本棚からファイルを一冊抜き取る。
「レティアさんのことは調べました。リックお兄ちゃんにレティアさんがこの件に関わっていることを知られたら、少しまずいことになるとアタシも思います」
「どういう意味だ?」
「3年前。初めてお兄ちゃんを見たときと、同じ状態に戻るかもしれません」
 それは、完全な虚脱状態。
 レティアがこの組織に所属していたということをもしリックが知ったらそうなる可能性があるということか。
「ありえないと言い切れますか?」
「いや」
「では、この屋敷の中にあるレティアさんの痕跡は、跡形もなく消し去るしかありません」
 ファイルを抜き取った本棚を前に倒しながら言う。大きな音がして、埃が舞った。
「レティアさんの記録があるファイルがどれかは全部調べがついてます。そのルークさんの持っているファイルと、私が持っているファイル。この2つだけです」
「……これをどうするつもりだ?」
 彼女はリックの身辺調査を行っていると言った。
 そのために、この資料は『SFO』の上層部への報告の参考資料となるかもしれない。
 だとすれば、渡せない。
「燃やします」
 ルシアははっきりと答えた。
「レティアさんのことを知っている人は、数が少ないに限ります。上に報告するのも最小限に押さえます。とにかく、リックお兄ちゃんにとって一番最良の方法を取ります。つまり、ここからルークさんと一緒に逃げ出して、一緒にこのファイルを抹消するということです」
 真剣な瞳だった。
 嘘偽りのない、真摯な眼差しであった。
(なるほど)
 どうやら、自分がやりたいことと彼女がやりたいことは完全に一致してしまったらしい。
「では、仕方がないな」
 ルークは自分がファイルを抜き取った本棚を、やはり同じように前倒しにした。
「レティアのことを、少しでも勘付かれるわけにはいかない。君に協力しよう」
「ありがとうございます、ルークさん。というわけで、もう時間があまりありません。逃げ道がありますから、一緒に逃げましょう」
 ルークは頷くと、ルシアの後をついていった。
(とにかく、このファイルさえ破棄してしまえばいい)
 レティアのことだけは、リックの耳に入らないようにすればいい。
 それで、彼が破滅することはなくなる。
(リック……君は、真実を知りたいだろうか)
 レティアのことを知りたいだろうか。その精神の崩壊と引き換えに。
(僕は、君を失いたくない。これはエゴだろうか。それとも偽善だろうか)
 そんなことを考えながら、ルークは先へ進んでいった。






 号外! 毒薬密売組織『リーベスト』自警団により検挙さる!
『○○月××日未明、市議会議員ダブリス・ロウの屋敷を自警団が一斉に検挙。ここで大量の毒薬が発見され、ダブリス・ロウを始めとする毒薬密売組織『リーベスト』の面々は一同に検挙されることとなった。ロウ議員は以前から黒い噂のあった政治家である。12年前、ロウ議員の政敵であったガル・ダイソン議員を暗殺したなどという噂もあり、今回の検挙でその件についてもかなり追及の手が伸びると見られている。『リーベスト』については以前から自警団が追いかけていた組織であったが、巧妙な手口で毒薬をレグニア全市で売買しており、その尻尾を捕まえることができずにいた。今回ロウ議員の不正献金を理由に家宅捜索を行ったところ『リーベスト』が売買している毒薬が発見され、このたびの検挙となったのである。
 だが、ロウ議員の資料室は自警団の捜索以前に何者かによって荒らされており、顧客リストの一部や構成員のリストなどが見つからないでいる。自警団は逃げ出した構成員がいるものと見て、捜査を継続する方針だ。』






「とんでもないことになったね、リック」
 翌日の昼休み、職員室でその号外を読み、ルークは友人に声をかけた。
「なんのことだ?」
 リックはつまらなさそうに生徒のレポートを添削している。
「毒薬密売組織リーベスト、検挙さる……こんな組織があったなんてね、驚きだ」
「しらじらしい。そんな物言いはやめろ」
 手を置き、リックは鋭く友人を睨む。
「しらじらしい?」
「いったい何のためにファイルを盗んだんだ? 俺には言えないようなことか?」
 バレている。
 だが、カマをかけられているだけなのかもしれない。全く顔には出さないようにして、ルークは答えた。
「何のことだい?」
 自分は随分、嘘をつくのも上手になったものだと思う。
 リックは鼻を鳴らし、再びレポートを手に取った。
「その組織がファーブル校長の暗殺の黒幕だ」
「へえ。じゃあ、これで君の仕事は一段落したってことかい?」
「そうなるかな……」
 少し考えるようにリックは言った。ぱらり、とレポートが1枚めくられる。
「お前がリーベストのことを黙っていたのは、俺の姉を殺したのがこいつらだったからなんだな」
 小声で、彼はそう言った。
「なんだって?」
 しっかりと聞き取れなかったわけではない。聞き取れなかった振りをした。
「いや……心配をかけたな。すまない」
 まさか。
 彼が、こんな風にして謝るとは思ってもみないことだった。
「だからさっきから、何のことだい?」
「お前がそう言い張るならそういうことにしておいてやる」
 リックが無表情で仕事を続けているのを見て、ルークは穏やかに微笑む。
「これからどうするんだい?」
「そうだな、契約期間はまだあと2ヶ月あるからな。前期の成績を出してから『SFO』に戻ることになるかな」
「そうか。せめて、年度末までは一緒にやりたかったな」
「俺が『SFO』に戻るからといって、別に二度と会えなくなるというわけでもないだろう」
「リックとはずっと一緒にいたいと思う。それは変なことかな」
「ああ変だ。どこまでいっても人は孤独だ。交わることはあっても、重なることはないからな」
 今日のリックは随分と哲学的だった。
「なんだか学生のころに戻った気分だよ」
「たまには学生のころのように、ずっと学問に集中していられたらいいんだがな」
「そうだね。たまにはずっと研究がしていたいな」
「研究か……確かに、たまにはゆっくり本を読むのもいいかもな」
 リックはレポートを添削する手を止めない。その目が次のレポートに向けられたとき、一人の女生徒が職員室に入ってきた。
「リック先生、先生、先生、先生!」
「1回呼べば聞こえる。騒ぐな」
 リックは声の主に向かって言った。言わずとしれた、リーシャであった。
「今日こそは、一緒に食事してもらいますよ! ここ一週間は忙しいの一点張りで、ずっと来てくれてないんですから」
 そもそも一緒に食事をとらなければいけない理由もないのだが、とリックは不思議に思う。
「ルーク。お前また、こいつに妙な知恵を吹き込んだな」
 ルークは肩を竦めた。
「たまにはリーシャと一緒に食事をするくらい問題ないだろう、リック。せっかくのご指名なんだ、あまり女性に恥をかかせるなよ」
「……お前がそんなことを言うとはな、明日は雪だな」
 リックはため息をついて、リーシャに手を引かれて出ていった。
「ふふ……リックも彼女にかかったらペースが乱れるらしい」
 ルークは背もたれによりかかる。
 うまくいった。
 ファイルは全て消滅したし、いろいろ打った手がことごとく巧を奏していた。
 一週間前、ローラとリーベストのメモ紙を『わざと』机の上に残しておいた。
 リックはそれを見て、自分が調べているものがローラとリーベストの関係なのだと誤解したのだ。
 本当に調べていたのは無論、レティアとリーベストの関係だ。
(……もちろん、ローラとリーベストに何も関係がなかったわけじゃない)
 詳細は全て、ルシアから聞いた。
 両親を失ったローラとリックの姉弟は、リーベストという組織にローラが加入することで保護を受けるという形になった。もちろん組織の中枢に入るというわけではない。毒薬売買の仲介を行うという意味だ。
 少女が毒薬を売買しているなどとは誰も思わない。たとえ見つかったとしても、足がつかないようにしておく。
 ローラはそれを全て承知したという。
 そしてローラが組織の末端にいると自警隊に発覚されそうになったとき、組織は無常にもこの姉弟を切り捨てることとした。
 そして彼女は殺害された。彼らの家に組織の構成員が押し入り、刀でばっさりと姉は斬られた。
 弟は姉が毒薬を売っていたなどということは知らない。ただ姉と弟が仲睦まじく暮らしていた。それ以上の意味を考えたことなど弟はなかった。
 だから、殺されなかった。生きていても、証言することはできないということが明らかだったからだ。
 弟は目の前で姉が殺されたショックで自閉症となり、孤児院に入って半年の間、口を開くことがなかった。そして、組織の構成員であるレティアが接触することになる……。
(何故レティアがリックと接触したのかは分からない。きっと理由はあるのだろう。でも、もう分からない)
 レティアという少女の存在は、組織の中でもほとんど希薄だった。
 たった2つ残っていたファイルに名前が載っているだけで、他に彼女の足跡はまるで残っていなかった。あらかじめルシアが下調べをして、破棄するファイルに目星をつけていたのだという。
(結局は分からずじまいか。でも、リックがレティアのことに気付かなくてよかった)
 ローラのことは、胸にしまっておけばいい。それにもう、リックは知っているのかもしれない。
 レティアのことは──
(リックは、二度と彼女のことを思い出してはいけない)
 だから、絶対に生涯口外はすまい、と誓った。
(それでいいんだよね、姉さん)






「どうしたんですか、先生。何か機嫌が良さそうですけど」
 別にリックは笑っていたわけではない。だが、そうした雰囲気は自然と発せられるものらしい。
「いや、自分でも分からないことがあると、面白く感じるものらしい」
 ルークが何かを隠しているのは察しがついていた。
 おそらくローラのことはカムフラージュだ。それ以外に何かを隠している。だが、それが何なのか皆目検討もつかない。
 こんなことは、生まれて初めてのことだった。
「リック先生でも分からないことってあるんですね」
 シルフィが心底驚いたように言う。
「人間は、他人のことを理解することは永久にないんだろうな」
 ふと、目に水の止まっている噴水が映った。
 もうじき秋が来る。秋は噴水のまわりにたくさんの落ち葉が積もる。
『ねえ、リック』
 彼女はその噴水の前で言った。
『いつか、この噴水を見たときに私を思い出してね』
 彼女はよく、まるで自分といつか別れるかのような話をしていた。
 その度に、自分はこらえられない衝動にかられて、彼女を抱きしめていた。
(俺は……少しは彼女のことが分かっているのだろうか)
 何故死んだのか。
 死ぬことが分かっていたのか。
 何も、何も分からない。
 それが、人間というものなのだろうか。
「ほらほら、お弁当さめちゃいますよ。早く食べてください」
「……最初から冷めているだろう、それは」
「細かいことは気にしないでください! 今日こそ、ボクの手作りお弁当を食べてもらうんですから」
 やれやれ、と心の中で思う。
(やはり……居心地がよくないな)
 彼女の影が見えるこの場所では、あまり食事をしたくなかった。
 だが、今日くらいはゆっくりしてもいいだろう。
(事件解決記念だ……今日くらいは何も考えずに、君の傍にいるよ、レティア)
 噴水の傍に立つシルエットが、優しく微笑んだ。






 こうして、事件は解決したかに見えた。
 だが、すぐに翌日、リックとルークの二人は驚愕の事実を知ることになる。
 それは、学園長ファーブル・ダーマが再び襲撃された、というものであった。





八.救済の契機

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