九:記憶の迷図
捜査は暗礁に乗り上げていた。もっとも、それは無理もないことだ。何しろ、肝心の情報があまりにも少なすぎる。
まず凶器。ペシュカドではないかとは考えられるが、あまり出回るような剣ではないために、いや、まずもって普通の武具店で売られるような剣ではないために、その入手経路などは全く見えてこなかった。
次に動機。確かにファーブル学園長は悪い人ではない。だが上に立つものというのはそれだけで何かしらの標的にされるものだ。全くないというわけではないだろうが、正直にいって何が動機なのかと見定めることはできない。
(手詰まりだな)
何かしらの新規情報を探さないかぎりは、この問題を解決することはできない。そう結論づける。
だからといって、その新規情報をどうやって手にするのかが非常に大きな問題なのだが。
(……少し、視点を変えた方がいいな)
基本的にこうした捜査ということは自分の役割ではない。自分は戦うこと、戦場で多くの死を導くことが自分の役目だ。
(女探偵イシュタル、か)
リックは持ち込んだ雑誌『オケアノス』を見る。三ヶ月ほど前からこの雑誌で連載されるようになったこのシリーズは彼にとっても興味深いものであった。
普通の探偵ものの小説なのだが、犯人の細かな描写や、考えもつかないトリック。視野を広げるという意味ではちょうどいい内容だ。
主人公のイシュタルはこのように言う。
『殺人事件がおこったというのなら、私はまず殺人事件がおこっていないと考える。実際に死体を目にしても、それは他殺ではなく自殺ではないかと考える。与えられた情報を疑うこと、それが探偵としてもっとも必要な要素なのよ』
二つ目の事件を解決したときのイシュタルの台詞だった。
「殺人がおこっていない、か……」
今回は傷害事件だ。そして暗殺未遂事件だ。これが起こったのは事実だ。
だが、それは本当に事実なのだろうか。
少なくとも自分は見ていない。傷害があったことも、賊に襲われたことも。
(まてよ……)
実際に死体を目にしても、それは他殺ではなく自殺ではないかと考える。
それを、今回の事件にあてはめることができるとしたら?
(学園長が……自作自演した、というのか?)
はたしてその可能性はあるだろうか。
まず、動機が分からない。学園長がそんなことをして何かメリットがあるとでもいうのだろうか。
だが、いくつかの不可解な点は解明できる。仮に学園長が自作自演でこの事件を作っていたのだとすれば、暗殺者の行動の謎は解ける。暗殺者は殺すことが目的だったのではない。傷をつけることが目的だったのだ。だから目的を達成した瞬間に逃げ出した。
だが、何のために?
もし自作自演であるならば、自分を傷つける必要がどこにあるというのだろうか。
(落ち着け……)
リックは目を閉じる。
この街に来てからのこと。
出会った人々。
起こった事件。
全てのことを思い返す。
(そうか……)
時間軸通りに事件を整理した場合、たった一つの可能性が見えてくる。
(勘違いをしていたな。そうか、そういう可能性があるのか……)
リックは息をつくと、黙って近くにいた女性を呼んだ。
「ルシア」
呼ばれた女性は、とことこと近づいてくる。
「なに、お兄ちゃん」
一瞬、その呼び方をやめさせようと考えたが、それよりも今は優先事項があると判断した。
「一つ、調べてほしいことがある」
「いいよ」
「学園長の秘書兼ボディーガードのサイウス・バルドの履歴を早急に調べてくれ。そうだな、一時間以内に」
「無理っ!」
だが、その言葉を吐いた瞬間、リックの全身に殺気がみなぎる。
「……じゃないですぅ!」
「それでいい。長生きできるぞ」
「鬼! 悪魔! 人でなし!」
「鬼悪魔はともかく、人でなし、は間違っていないな」
そう言って少しの間が生じる。
「お兄ちゃん」
「行け」
「む〜」
ルシアはひょこっと近づき、ちゅっ、と頬に口づけした。
「人でなしでも、アタシはお兄ちゃんが好きだよ?」
「あと五十九分」
「前言撤回!」
ルシアは全力で部屋を出ていった。
ルークが職員室にやってきた時、リックは報告書を読み、隣ではルシアが完全に燃え尽きていた。
ルシアとルークが既に顔なじみになっていることはリックも聞いていた。
「また、リックにこき使われたのかい?」
ルークは苦笑しながら自分の席で倒れているルシアに声をかける。
「うっ、うっ、うっ、ルークさぁん、アタシはもう駄目ですぅ」
泣きながら訴えてくるルシアを、よしよしと頭をなでてなだめる。
「それで、今度は何を調べたんだい?」
「これだ」
リックから受け取った報告書を見て、ルークは目を細める。
サイウス・バルド
年齢:二十五歳
十六歳、九年前にレグニア私立学校を主席で卒業。
特筆すべき能力は剣技、秘書能力、翻訳、速記術。
十八歳のとき、大陸人材派遣セミナー『リアリス』に就職。
以後、秘書として大陸各地で活躍。
今年四月より、レグニア私立学校長ファーブル・ダーマ氏に事件解決まで
という名目でボディーガード兼秘書として雇われる。
「サイウス氏について調べていたのか」
「まあな。だが、これではっきりした」
「何を?」
「誰がこの事件の犯人だったのかということだ」
ルークは目を見張る。
ルシアもようやく体を起こした。
「お手柄だったな、ルシア」
「ふえ?」
「お前が調べてきたものは俺の役に立った。感謝する」
「ふええええ?」
突然ほめられて、さすがのルシアも悪い気はしないといったところだが、それよりも『リックがほめた』という事実に驚いているというのが本音だろう。
「それで、誰が犯人なんだい?」
「サイウスだ」
サイウスが犯人。
サイウスが、ファーブル学園長を襲った犯人……?
「それと、もう一人」
「もう一人?」
そのまま鸚鵡返しに尋ねる。
「それは誰なんだい?」
リックは、つまらなさそうに答えた。
「俺だ」
その日の夜、リックはルークを伴ってファーブル学園長の屋敷まで来ていた。
最初にファーブルの部屋を簡単に確認した上で、納得したようにリックは頷く。
そして、口を開いた。
「どうやら、間違っていないようだな」
リックとサイウスが犯人だと聞かされたものの、何の説明もないことにルークは正直不満があった。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
ひとしきり納得したかのような彼にルークが尋ねる。
学園長の部屋はかなり広い。縦横ともに二十歩程の広さがある。ドアの正面には窓、そして窓から離れたところにベッドが置かれている。
学園長は寝ているところを襲われた、ということだったが。
「サイウスが一階で待機していて、窓ガラスが割れてからここまでたどり着くのにざっと三十秒。それだけの時間があって、学園長を殺せなかったというのはおかしい」
「ああ」
「つまり、賊の目的は学園長を傷つけることであって、殺すことではなかったんだ」
「殺すことではなく、傷つけること?」
「ああ。だが、時期が悪かったな。これがあと半年早く行われていたら、俺は絶対に気づかなかっただろう」
ルークには全く意味が分からない。だが、全てを納得した様子のリックは、そのまま部屋を出ていく。
「行くぞ」
「どこへ?」
「決まってる。ファーブルのところだ。事件は解決したからな」
「事件が解決した?」
「いや、その表現も若干おかしいな」
だがリックはそれ以上何も言わず、一階へと足を進めていく。ルークは意味が分からずそのまま着いていくだけだ。
そして、一階にはファーブルとサイウス、それにファーブルの子のガイウスと、執事のエイルとが揃っていた。
「長い事件でしたが、ようやくこれで一段落といったところですね、学園長」
「なんのことかな」
ファーブルの顔にはうすら笑いが浮かんでいた。
「あなたを狙っている人間など、それこそ数限りなくいる。あなたは逆にそれを利用して、自分の目的を果たそうとした。全く、昔から人が悪いとは思っていましたが、こんな罠をしかけてくるとは思いませんでしたよ」
「気づいたというのか」
「ええ、気づかせていただきました。カラクリさえ分かってしまえば、そんなに難しいことではありませんでしたよ。サイウス、最後に一つだけ確認したいことがある」
「なんだ」
「この間の襲撃事件の際、エイルさんの姿は見たかい?」
「なっ」
ガイウスが声を上げて執事を見る。
「いや、見ていない」
「エイルさん、その時間、あなたのアリバイを証明してくれる方はいらっしゃいますか」
「全て、お分かりになられているのでしょう。であれば、今さら私のアリバイなど気になさらぬよう」
エイルは頷いて答えた。
「リックどのの推測通り、私が旦那様を襲いました」
「ばかな! 何故だ、エイル!」
ガイウスが詰め寄る。だが、エイルは悠然と言った。
「それが、旦那様の望みだったからです」
「な……」
ガイウスは意味が分からないという様子でエイルと父親のファーブルとを何度も見返した。また、サイウスもルークも、いったい何を言われているのか、理解できないといった様子だった。
「解答は、実はそれほど難しいものではありませんでした。ファーブル校長は自分で学校を作られるほど、人材を集めることが大好きな方です。ですが、校長がたった二人だけ、取り逃した人材があった。それが──」
「私、か」
サイウスは独白した。
「そう。それと、私もです」
リックが言う。
「だから校長は自作自演の行為を行った。ありもしない襲撃事件をでっちあげ、私とサイウスをこの学校に残す。それが校長の狙いだったのでしょう」
事件のカラクリはこうだ。
まず、狙われているからボディーガードを雇うということにする。ファーブルは幾人かにうらまれているのには違いないのだし、もしかしたら暗殺計画もあるかもしれない。実際、リーベストの連中はファーブルを狙っていたのだから、的外れというわけではなかった。
そこでサイウスとリックを雇う。雇った後は頃合を見計らって、一度襲われればいい。おそらくは半年が経過する直前くらいに一度、エイルがファーブルを襲う段取りになっていたのだろう。
だが、それよりも早くリーベストの連中が一網打尽にされてしまった。これでファーブルはもう狙われていないとリックは判断するだろう。だから計画を急いだ。エイルに襲わせ、怪我だけさせて何とか助かったという体裁を整える。
あとは、次の襲撃に備えさせてサイウスとリックを自分の手元に置いてしまえばいい。
ファーブルの計画に穴があったとすれば、犯罪組織リーベストが本当にファーブルを狙っていたため、組織が潰れたことによってサイウスとリックの任務が完了したと思わされたことにある。計画を早めたものの、リーベスト壊滅の翌日に襲われたというのではタイミングが良すぎる。逆に不信感を抱かれても仕方がない。
「やれやれ。たいして長くはもたなかったな」
「時期が悪かったのでしょう。これがあと半年前ならきっと成功していた。私が気づくきっかけとなったことも、また、リーベストの連中の検挙だって簡単にはいかなかったはずですから」
ようやくルークは納得した。サイウスとリックが犯人だといったのは、このことだったのかと。
「窓ガラスを破ったのはよくなかったですね。わざわざ護衛のサイウスに気づいてくれと言わんばかりです。賊が入ったぞということを宣伝しなければいけないのは分かりますし、賊がいたという証拠をサイウスに見られなければならなかった。だからあなたとエイルはあらかじめペシュカドで傷をつけ、そのうえで窓ガラスを破り、サイウスが入ってくるところを見計らってエイルさんが脱出した。そんなシナリオでしょう。もちろん、証拠はあります」
「ほう?」
「窓ガラスの破片が外側に飛び散っていることですよ。大きな破片はありませんでしたが、窓の下を丹念に調べたら細かい破片はいくらでも転がっていました」
「さすがは学園一の秀才だな」
ファーブルは残念そうにため息をついた。
「仕方がない。諦めるとしよう。サイウス、今まで騙していて悪かった。違約金は払おう。これでお前は自由だ」
「かしこまりました」
サイウスは最後まで秘書として礼節を保ち、一礼する。
「それから、リックは──」
「私はあと二ヶ月、ここにいますよ」
つまらなさそうにリックが答える。
「契約期間は半年、もしもそれ以上延長するようならさらに半年、そういう契約だったはずです」
「うむ」
「それに、教え子の中に目を見張る奴が二人いましてね。学会での発表を控えているので、ここで放り出すわけにはいきませんから」
「これを機に、この学園の講師になるつもりはないのかね?」
リックは首を振った。
「全く、ありません。ここには寂しい思い出しかありませんから」
翌日。
眠たい目をこすってあくびをかみこらえていたルークは、昨日のことなど何もなかったかのようにして職員室に入ってきたリックの姿を見て声をかけた。
「おはよう、リック」
「ああ」
リックの席はルークのすぐ隣だ。彼は腰かけるとすぐに溜まっているレポートに目を通していく。
(あと二ヶ月か)
昨日、リックはそう言った。ここにはいたくないのだと、体中で叫んでいるのが自分にも聞こえるようだった。
ここにはレティアの思い出しかないから。
ここにいるだけで耐え切れないほどの苦痛を浴びることになるから。
(僕は、少しでも彼の支えになれているだろうか)
そうは思えない。自分は過去を思い出すための存在だ。共に未来へ歩いていけるような存在ではない。
彼には支えが必要だ。彼の過去を知らずに、彼の過去を背負える、そんな人間に。
だが、それが無理なことは分かっている。そんな出来た女性ならば、おそらくはレティアと性格が似るだろう。そうなればリックの精神に負担をかけるだけだ。
だから彼には出会いが必要だ。いろいろな人と出会い、その中で少しずつ過去の痛みを克服していくしかない。
(長い旅になるかもしれないな)
幼い頃に両親を失い、目の前で姉を失い、レティアの首吊りをその目で見た彼。
死というものに幼い頃から触れてきた彼は、もう普通の生活ができないような精神になってしまっている。
それを解きほぐす人物が必要だ。
自分では無理だ。誰か、他に。
「おはようございまーすっ!」
そして、今日も元気にリーシャがやってくる。最近は毎朝顔を出すようになっていた。
それほどリックに会いたいのだろうか。
「今日は何の用だ、リーシャ」
気だるい様子でリックが尋ねる。
「あれ、ボクまだリック先生にお話があるなんて言ってませんよね?」
「毎朝来れば、いい加減分かる」
「えへへ」
リーシャは少し嬉しそうにはにかむ。
「実は今日こそお弁当をご一緒しようと思って、お誘いに来たんです」
「それもほとんど毎日だな」
もちろん誘われるのが毎日なのであって、毎日断り続けているのだが。
「でも、昨日ルーク先生に尋ねたら、リック先生のお仕事が一段落ついたから今日は大丈夫だと思うっておっしゃってくださったので」
「ルーク」
ルークは苦笑をもらす。
「仕方がないな。この間のレポートの件もあるし、一度話はしておかないといけないからな」
「やたっ!」
「そのかわり、課題は山積みだから覚悟はしておくように」
「がーん」
明らかにショックを受けて肩を落としているリーシャを見て、ルークは机に突っ伏して笑う。
「リック先生って、本当に学問一筋ですよね」
「学問をすることで実際に何の利益があるのかと言われて、お前なら答えられるのか、リーシャ」
「え? えーと、就職に有利になる」
「就職した後は? 実際の現場は机上とは全く違うぞ」
「うーん、でも、そうしたらいったいどうして先生は学問をするんですか?」
「俺がやりたい理由は多少異なるが。だが、人間は学問をする動物だ。それは否定できない。実際、学問をすることでのメリットなど何もない。無駄なんだ。だが、人間は無駄なことをする動物だ。だから学問を行っている」
「無駄だから、行う?」
「そうだ。人間だけが無駄なことができる。逆にいえば、無駄を行うことはきわめて人間らしい行為だということだ」
「人間らしいかあ。ボクにはちょっと分からないです」
「まあ、学問をする理由は人それぞれだ。出世の道具に使う者もいれば、知識の探究そのものが目的の場合もある。俺の場合は趣味と実益を兼ねている形になるが」
うーん、とリーシャは首をひねった。
「リック先生には他に何か趣味はないんですか?」
「趣味?」
尋ねられて少し思い悩む。
レティアと過ごしてきてから、学問以外にこれといった趣味などなかった。レティアがいなくなってからも学問は続けていたが、それ以上に戦争に出ていくことが多くなっていた。自分は今でこそこんな教職に就いてはいるが、本来は傭兵だ。
「リックは釣りが趣味だよ」
すると、横手からルークが話にのってきた。
「釣りですか?」
「ああ。そうだろ、リック?」
「趣味というわけではないな。釣りは精神力と忍耐力を鍛えるには最適なだけだ」
「釣りが趣味ですか……似合わないですね」
ルークは吹き出して笑う。さすがにリックも不機嫌そうな表情に変わった。
「あ、いや、別に、悪気があったわけじゃないんです!」
「悪気があるならこの場で張り倒している」
リックの声のトーンがオクターブ下がったような気がした。
「そういえばリック、前期の最後の休日は空けておいてくれよ」
「前期最後?」
「ああ。久しぶりに三人でシノア湖にキャンプに行くからな。リックもここ最近、釣りなんかしてなかっただろ。ゆっくりするといい」
「……なるほどな。歓送会のつもりか」
「それも含めてね」
前期が終わればリックはいなくなる。それは昨日、ファーブルの屋敷で聞いた。
「リック先生、本当にいなくなっちゃうんですか?」
「ああ。一応講師という立場ではあるが、俺の仕事はもう終わったからな。今期限りだ」
途端に、リーシャは泣きそうな様子で寂しげにリックを見る。
(おやおや)
リーシャは本気だ。
本気で、リックを見ている。
しばらく俯いて、言葉が途切れる。
リックもどうしたらいいものかと、さすがに戸惑っているようだった。
やがて、リーシャは顔を上げて言った。
「そのキャンプ、ボクも参加していいですか?」
「なに?」
リックは聞き間違えたのかと思い、尋ねなおした。
「そのキャンプ、ボクも参加していいですか? あ、一人じゃまずいなら、シルフィも連れてきますから」
そういう問題ではない。
リックは頭を抱えてすぐに断ろうとした。が、
「いいよ」
やはり横手からルークが、リックよりも早く答えた。
「本当ですか?」
ぱっ、とリーシャの顔が輝く。
「ああ。そのかわり、怖い団長さんにはきちんと話をしておいてくれ。まあ、リックが一緒なら大丈夫だとは思うけど。ヴァリア団長には世話になってるからな、リック。それに団長のところのフォトンも一緒だし、問題はないだろう」
「フォトンさんもですか? 心強いです!」
「……ルーク」
これは、かなり怒っている。
だが、ルークも退く気はなかった。
(もしもリーシャが本気だというのなら)
リックの支えになるだけの覚悟があるというのなら。それに賭けてみるのもいいかもしれない。
もちろん、途中でリックを裏切るようなら許すつもりはないが。
(小姑みたいだな、自分は)
思わず苦笑した。
「ルーク先生、ありがとうございます」
「いやいや。やっぱり男ばかりというのも華がないからね。期待してるよ、リーシャ」
「はいっ! それでは、失礼します!」
いつものように元気いっぱいで、リーシャは職員室から出ていった。
「ルーク」
「駄目だよ、リック。僕はもう決めたから」
「何を?」
「君に、立ち直ってもらうということを」
真剣な表情でルークも答える。
「あと二ヶ月しかないんだよ、僕が君にしてあげられる期間は。だったら、少しでも君の将来のことを僕は考えたい。余計なお世話かもしれないけど、そうすることが必要だと思うから」
「余計なお世話だ」
リックは左手で頭を押さえた。彼が苛立っているときは必ずそういうポーズになる。人や物に当たらないあたりが彼らしいのだが。
「それから忘れないようにね。今日の昼は、中庭でリーシャたちとランチだろう。必ず行くんだぞ」
「ルーク」
「なんだい?」
「……」
だが、返す言葉もなくリックは苦虫を噛み潰したような表情になった。
さすがにここで笑うと、リックも激怒するだろう。ルークは笑うのを必死に堪えた。
放課後の図書館は、それなりに人が入る。
特に今期のにぎわいは激しい。何故なら、リックの教養科目のおかげで大量の課題が出ているからだ。
学園図書館は三階建て。かなり大量の蔵書がある。その本だけでほとんどの課題は調べられるようになっていた。リックがそういう質問ばかりをしていた。
だが、滅多に使われない地下書庫がある。雑誌のバックナンバーや、学生たちの卒業論文などがここにしまわれている。
リックはこの二、三年の卒業論文を読むために書庫に入ってきていた。
ランプの灯りが綺麗に整頓された棚を浮かび上がらせる。
昨年度、一昨年度の論文が製本されて並んでいる。
年ごとにきちんと色分けされているので、違う年度のものが入っていると一目で分かるようになっている。
昨年度の棚に、一冊だけ別の色の論文があった。
嫌な予感がした。寒気がする。
黄色で製本された中に、一冊だけ赤。
その予感に導かれるままに、リックはその冊子を手に取った。
やけに、手になじむ。
(ああ)
何度も読んだこの本。
彼女が一冊だけこの世に残した本。
それは、レティア・プレースが唯一この世に残した証。
(お前は、こんなところにもいるのか)
この本は何度も何度も読み直した。
週に一度は読んだのではないだろうか。
あまりに先駆的な内容に、思わずめまいがしたほどだ。この作品は少なくとも十年、いやさらに先を見据えたものとして書かれている。
犯罪心理学について述べられた本。最近になってから、ようやく彼女の考え方が世の中に出てくるようになってきたが、彼女はそれを十年も前に完全に検討しつくしていた。
何度も、何度も読んだ。
この本で知らないことなど、何一つない。
──リックは、知らずのうちに涙していた。
コツ。
突然の人の気配に、リックはあわてて振り向く。
そこにいたのは。
「あ、リック、先生……?」
リーシャがいた。
おそらく、昼間にあれこれと課題指示を出したので、ここの蔵書を調べに来たのだろう。
リックは開いていたページを閉じて乱暴にあった場所にその冊子をねじこむと、逃げ出すかのようにリーシャの脇を抜けて書庫を出ていった。
後に残されたリーシャは、呆然とそれを見送っていた。
拾:遥遠の過去
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