拾:遥遠の過去





 捜査が一段落したこともあり、リックはこの街で唯一世話になったといえる人物のところへ顔を出していた。
 教養の授業で生徒をしごいた後に、まだ生徒たちが学校にいる時間帯を狙ってその人物のところへ向かう。そうしなければ、その人物の娘とはちあわせになる可能性があった。
 大きな屋敷。遠目に見たことは何度かあったが、入ったことはない。
 もし以前にこの街にいた時にこの屋敷に入ったならば、彼女とはちあわせることがあったのかもしれない。そう思うと不思議な気持ちになる。
 その人物は今日自分が来ることを分かっていたのか、訪ねるなり応接間へと案内された。
「やあ、久しぶりだね」
 そして紳士服に身を包んだ上品そうな人物が現れる。
 この人物こそ、自警団の団長にして、かつて自分がレティアを失った時に最後までその調査にあたってくれた人物。自分の姉ローラが亡くなった時も何かと力になってくれた。
「お久しぶりです。アドニスさん」
 自警団団長ヴァリア・アドニス。リーシャの父親であった。
「ご無沙汰しております。その節はどうもご迷惑をおかけしました」
 いや、と言って首を振ったヴァリアは逆に頭を下げる。
「私の方こそ、君の力になることができなくてすまなかった。だが、こうしてまた君と再会できたことを喜ばしく思う」
「光栄です」
 そこで一息つく。二人は運ばれてきたコーヒーを一口含むと、ようやく最初の緊張が解けてきていた。
 リックにしてみるとこの人物は恩人であった。姉のローラが亡くなったときも、レティアに引き取られるまで世話をしてくれたのはヴァリアであったし、レティアの件についても最後まで徹底的に調べてくれた。そして、この街を出ると決めた時に手引きしてくれたのもこの人だ。
 逆にヴァリアはそれが間違いだったと思っている。どんなことをしてでもこの街に留め、精神的に立ち直らせるべきではなかったか、と。
「娘から聞いたよ。君が半期限りでいなくなるということをな」
「ええ。仕事は終わりましたので、戻らせていただきます」
「そうか。やはりまだ、この街は居づらいのかね」
「そうですね。街のあちこちに彼女の影が見えますから」
「レティア・プレース」
 その名前が出たところで、また会話が途切れる。
 あの首吊りの場面をヴァリアはよく覚えている。天井からぶら下がっている彼女と、その前で完全に意識を失って倒れてしまっていた少年。その少年の隣で呆然としていた友人──ルーク。
「確かに彼女と君は深い関係にあった。君がこういう話をされるのを好まないと知っていてあえて言うが、それでももう彼女は亡くなったのだ。そしてまだ君は生きている。君は自分の未来をもっと大切にしてほしいし、そうするべきだ」
「アドニスさんが自分のことを真剣に心配してくれているのは分かっています。姉さんの件でお世話になってからずっと面倒を見てもらってますから。多分、自分がその話をされても不機嫌にならなくてすむのはアドニスさんだけです」
「それは私の方こそ光栄だな」
「そのアドニスさんに、あんな可愛らしいお嬢さんがいるとは思いもしませんでしたが」
 話を変えようとしたのは伝わってしまっただろうか。だが、おそらくその話は後で蒸し返しになる。今は少し軽い話を放っておきたかった。
「その娘から尋ねられたのだよ。君の過去と、そして、レティアさんの名前を」
「リーシャが?」
 何故彼女がレティアの名前を知っているのか。もしそのきっかけになるものがあるとすれば──先日の図書館書庫、あそこしかない。
「ああ。どうも君のことを好いているようだ。私は反対したのだがね」
「自分が相手では、お嬢さんには役不足でしたか」
 別に本気で言っているわけでもない。苦笑しながら言う。だが、むしろヴァリアの方が真剣だった。
「違う。逆だよ。娘では、君の相手として役者不足なのだ」
 完全に言葉に詰まる。
「君はレティアさんのことを忘れられない。私も君を説得してはいるが、分かっているのだ。君が何を言われても決して変わらないだろうということを」
「まあ、確かにそうです。自分はレティアのことを忘れることはできません」
「だが娘は本気だ。およそ今まであの娘が本気になったことなど見たことがなかったが、君のことに関しては全く妥協しない」
「光栄です。お嬢さんはいい娘さんですよ。人生を捨てた自分なんかにはもったいないです」
 ヴァリアが最初に娘から相談を受けた時はさすがに困惑した。おそらくリックはまだ彼女のことを忘れていないはずだ。そのリックを相手にするのは娘では人生経験も足りなければ、リックを受け入れるだけの包容力も足りない。
 だが、自分もリックのことをよく知っている。いい青年だし、自分の娘が彼の心を癒してくれるのなら、それに勝る喜びはない。姉のローラがいなくなり、レティアに拾われた後も何度かリックとは話をしている。子供の時からよく知っているといっても過言ではない。
「それを本気で言っているところが君らしいな。だが、もう一度言う。君は生きているんだ。人生を捨ててはいけない」
 だが、リックは自虐的に笑った。
「生きているように見えますか?」
 さすがにその言葉には、ヴァリアの方が言葉を失う。
「自分はあの日、死んだんです。リック・プレースという個人は死んでしまった。それなのに肉体だけがこうして生きてしまっている」
「生きている以上、誰にでも幸せになる権利はあるだろう」
「その通りです。でも自分はレティアなしで幸せになりたくないんです」
 そう。自分は分かっている。自分は呪縛を受けているのではない。自ら進んで、その呪いを身に受けているのだ。自分は幸せになれないのではない。幸せになりたくないのだ。
「だから死に場所がほしかった。だからSFOに入ったんです」
「SFO?」
「ええ。SFO極西支部です」
「君は傭兵になったというのか」
「そうです。死ぬには一番の近道だと思いましたから。戦場で何人もの敵を殺してきました。自分はもうそういう人間なんです。殺した人間の数などもう分からないほどです。そんな自分にお嬢さんは相応しくありませんよ」
「私も人殺しだよ」
 ヴァリアは何とか、相手を逃がさないようにその発言を封じ込めようとする。
「生きるために多くの命を奪った。だが、私は後悔していない。君もそうではないのか?」
「私には後悔も何もありません」
「だが生きている。死にたいなら別に回りくどい方法を使う必要はなかった。死ねばいいのだ。それをしないのは、君自身のどこかに生に対するこだわりがあるからではないのかな?」
「生や死など問題ではありません。こだわっているのは一つだけです」
 リックは苦笑した。本当に、自分を傷つけているようだった。
「レティアが何故死んだのか。その命題を解くことだけが、自分の生きるこだわりです」





 リックによるミレンとリーシャへの知識伝達は毎日行われた。
 大陸学会は各国の王立学院の著名人や専門家などを呼ぶ大掛かりなものである。私立学院からも例年数名の生徒がそこで発表を行うのだが、今回はミレンとリーシャを含めて五名と、ここ数年で最も多い人数となった。
 五名の生徒はいずれも力量のある生徒たちで、リックもアドバイザーという形で他の三名の論文をチェックしていた。教養で片手間に行ったレポートと異なり、よくできた内容だった。
 私立学院のレベルは年々下降しているという話だったが、上位は確実に上がっているのを実感した。おそらく古参の教員はリックやレティア、ルークなどの黄金時代を見ているだけに、上位のランクが下がったと感じているのだろう。だが、当事者のリックにしてみれば自分たちの方が例外に近いものであって、この五名ほどにできた生徒があの年代に他にいたかと言われれば一、二名だっただろう。
 もっとも、そうしたレベルの高い生徒が出てきた要因として、リックのスパルタ式学習が成果を上げていることが大きいのは否定できない。
 それにしても、この二人を指導するのは教えがいがある。
 ミレンは知識に対して貪欲だし、リーシャの集中力は他の誰より優れている。
 と、同時にリーシャが自分を見る目が日増しに熱くなっていくのを意識せざるを得なかった。
 そんなある日のことだった。いつものようにレポートの添削をしていたリックの下へ尋ねてきた男がいた。
「よ、リック」
「ああ、よく来たな。そこに座っていてくれ」
 彼を訪ねたのはフォトンであった。
 先日のリーベストの件でも結局すれ違いで出会うこともなく、リックがこの街に来てから四ヶ月、ようやく再会を果たした旧友二人であった。
 ──にしては、全く感動のない再会であった。
「聞いたぜ。検挙を手伝ってくれたって」
「偶然だ。俺は俺でやることがあっただけだ」
「ふうん?」
「それより本題を聞こうか。そうだな、応接室なら空いているだろう」
 そう言って席を立つと、リックはフォトンのことなど全く構っていないかのように歩き出す。フォトンも肩をすくめてそれについていく。
 応接室は思った通りに誰もいなかった。きちんと扉が閉まり、一応の防音は成立する。一番落ち着いて話すことができる部屋だ。飾ったものは何もなく、椅子が四脚にテーブルが一脚。そのテーブルを挟んで向かい合わせに二人は座る。
「で、どうした?」
 リックから尋ねると、鋭くフォトンは切り込む。
「どうしたもこうしたもねえよ。知ってるんなら教えてくれ」
「何をだ」
「リーベストの顧客名簿。それだけがファイルごときれいさっぱりぬけおちてる。何しろ棚からそこんとこだけがポッカリ穴が空いたようになかったんだからな」
「どうして俺が?」
「他に誰がいるってんだよ」
「悪いが、知らん。というより、そんな情報を持っていたところで俺には何の価値もない」
「お前にはな。だが、SFOにはどうだ?」
 なるほど、とリックは納得した。そんなところに気が回らなかったのは自分の不注意としか言いようがない。
「SFOはお前にリーベストの情報をつかむよう指示、校長の護衛を隠れ蓑にしてな」
「まあ、SFOだけにありうる話だし、それを引き受ける可能性もあるんだろうが、本気で俺とは無関係だ。資料を持ち逃げされたか処分されたのではないのか?」
 確かにその可能性が一番高いといえば高い。フォトンは悔しそうな表情をしたが、やがて大きく息をついた。
「ま、お前が嘘をついてたとしても仕方のねえことか」
「組織の人間は嘘をつくものだ。俺も、お前もな」
「だが、お前は俺に嘘は言わない。違うか?」
「時と場合による。絶対などということはない。だが、もしリーベストの情報を俺が握っていたとしたなら、それをお前に譲ることに何の問題もない。何にでも誓っていい。俺は知らない」
「それで充分だよ」
 肩をすくめてみせるフォトンに、リックも頷いて答える。
「今まで俺に会いに来なかったのは、それが理由か?」
「そりゃそうだ。情報を漏洩するわけにはいかんからな。お前だって校長の暗殺未遂の件で警戒して俺に接触しなかったんだろうが」
「話が早くて助かる。自警団に犯人がいないとは限らなかったからな。アドニス隊長は良い方だが、その下の人間を俺が全員知っているわけじゃない」
「そっちも話はついたのか」
「解決した。俺もあと二ヶ月でここを立ち去る」
「ああ、そういやそうだったな」
 フォトンは先日のルークとの会話を思い出した。
「ま、お前にはこの街はよくねえよ」
「俺もそう思う。だがまあ、勘違いする奴は多い。俺がこの街にいたらパンクする。ルークもそれに気付かない」
「しゃあねえだろ。あいつはお前のこと愛してるからな」
「……微妙な表現だな」
 否定しきれないところがある意味で怖い。
「シノアにキャンプに行くんだろ。休暇願いは受理されてるぜ」
「早いな。ルークか?」
「まあな。あいつはお前のこととなると見境ねえからな」
「確かに」
 どうしてルークがそれほどリックにこだわるのか、それを駆り立てるものが何かは分からない。単純な友情だけではないことは確かなのだが。
「釣るんだろ? 食材は持っていかねえぜ」
「魚しか食わないつもりか。だいたい、釣れるかどうかなど分からん」
「お前が釣れなかったことは一度もねえからな。信頼してるぜ。さて」
 と、フォトンが立ち上がる。
「もう行くのか?」
「ああ。こう見えても仕事中だからな」
 そして同じく立ち上がったリックの肩に手を置く。どうしたのか、と思った直後、ボディに一撃が来た。痛みで顔が歪む。
「ったく、心配させやがって。とにかくお前が体だけでも無事で安心したよ」
「そういうのは、再会直後にやるものじゃないのか?」
「そんなのはガラじゃねえ」
「確かにな」
「これでチャラにしてやるよ」
「分かった」
 それが何を意味しているのかはよく分かっている。あの三年前の日、自分が彼の呼びかけに全く応えなかったこと。その清算なのだ。
「んじゃ、またな」
 そうして、フォトンは去っていった。





 ルークは用があって図書館へ来たとき、ちょうどカウンター側の大テーブルを占領するように本を積んで勉強しているリーシャを見かけた。
 学問にはスペースが必要だ、とはリックの言である。いくつかの論文を比較するためにあらかじめ必要な書籍の必要な頁数を開いておいて、一気に読破する。息継ぐ間もなく読み込む方が頭に入るらしい。
 忠実なリック信者である彼女にとっては、リックの方法をせずにはいられないのだろう。
「あ、ルーク先生」
 リーシャが読んでいた本を置いて立ち上がる。
「いや、いいよ。勉強の邪魔をしたくはないから」
「いえ、ちょうど切り上げるところだったんです」
 学問に真面目に打ち込むようになってから、リーシャの態度が見違えるようによくなった、と教師陣の間では話題だ。人から教わろうとする姿勢が身についてきた、ということだ。いい変化だ。
「出発は五日後だっけ」
 大陸学会は隣の国で行われる。比較的距離が近かったことも、今回生徒を多数連れていける理由の一つだった。
「はい。もうレジメは出来上がってるんですけど、想定される質問の裏づけを取るのが大変で」
 まったく、四ヶ月前に比べてなんという成長だろうか。それもすべてはリックという一人の教師のおかげだ。
「あ、それから先生。キャンプの件はOKが出ました。シルフィも来るって」
「そうか。じゃあ華やかになりそうだな。リックも君がいてくれた方がいいだろうし」
「え?」
 ぼっ、と火がついたように赤くなる。全く、分かりやすい娘だ。
「男三人で行くのは別にかまわないんだけど、やっぱり味気はないからね」
「アハハ……努力します」
「リーシャもこれが多分最後なんだから、たっぷり彼に甘えるといい」
 ──と、リーシャの顔がそこで暗くなった。それは別れを惜しむとかいうものもあるが、何か別の理由がその表情に見え隠れする。
「リーシャ?」
「あの、ルーク先生。一つ、教えてほしいんですけど」
 随分真剣な表情だ。リックのことを思いつめているというより、何かに悩んでいるかのような。
「何だい?」
「あの、レティア・プレースという人をご存知ですか」

 一瞬、呼吸が止まった。

 とんでもな直球が無自覚に投げ出されている。表情にこそ出さなかったものの、全身の毛穴が開いてそこから汗が吹き出ている感覚。どうしてその名前を彼女が知っているのか。自分の、そしてリックの要ともなる名前。その名前を知っていることなどないはずなのに。
(誤魔化すか、それとも教えるか)
 だが、その迷いが結局『知っている』ということをリーシャに伝えることになった。
「知っているのなら、教えてください」
「それは、少し困ったな。だいたい、どうしてリーシャはその名前を知っているんだ? 彼女のことを知ってどうしようと思っているんだ?」
 リーシャもまた少し悩んだようにしてから答える。
「図書館の書庫で、リック先生がその人の卒業論文を読みながら泣いていたんです」
 目眩がした。
 レティアがらみのものを絶対に彼に近づけさせまいとしていたのだが、まさかそんなところに落とし穴があったとは思わなかった。
「その卒論は?」
「あ、これです」
 受け取る。それはルークも何度も読み返したものだ。犯罪心理学に関する最先端──いや、未来の論文。少なくとも現状でこの論文が受け入れられることはない。だが、十年、二十年先には確実に広まっているだろう考え方。
「読んだのかい?」
「はい。すごい先駆的で、驚きました。それに分かりやすいですし。ちょうどボクが憲法の調査で必要だった資料もたくさんあって、まるでボクのために誰かが調べてくれたんじゃないかっていうくらい」
「そうか」
 確かにこの論文は前提に憲法と刑法を意識した作りになっている。その辺りも、憲法がない国々にとっては受け入れられないものになってしまっている。
「これは使うのかい?」
「いえ。必要な資料はいただきました」
「だったら、これは僕にくれないかな」
 え、とリーシャが驚いたように反応する。
「こんなものをリックの目の届く所に置いておくわけにはいかない」
 はっきりと宣言する。そう。こんなものを見たリックが平然としていられるはずがない。だいたい、どうしてリックだってそんなものを見に行ったりするのか。全くもって──自虐的だ。
「えと、あの、ルーク先生」
「知りたいかい?」
 ルークはここでリーシャの選別をするつもりだった。
 本気なのか。どこまでリックについていく気持ちがあるのか。彼の心の中にいるレティアと戦えるだけの覚悟があるのか。
「知りたいです」
「そう。でも、それが単なる興味本位だっていうのなら許さない。彼の心の傷は大きく、深い。それをただ単に広げるだけだというのなら、話すわけにはいかない」
「ボク、中途半端な気持ちじゃないです」
 リーシャは真剣に答える。
「半年間、ボクが他のことに一度も目もくれず見続けてきたことなんて、これまでにありません。リック先生だけなんです、他に何も考えられなくなったのは」
 だが、それだけではルークは納得がいかない。何かに熱中するというのはよくあることだ。
「ルーク先生からすると、ボクじゃリック先生には相応しくないって思うのも当然だと思います。ボクじゃ頼りないし、全然子供だし。でも、リック先生が泣いているところを見た時、ボクで何か力になってあげられないのかって、本気で思ったんです。ボクは今までずっとリック先生に助けられてばかりだったけど、僕がリック先生のために何かしてあげられないのかって」
「なるほど」
 ルークは頷いてさらに尋ねる。
「リーシャが仮にずっとリックの傍にいたとしても、リックはリーシャのことを永遠に見てくれないかもしれない。それでもいいの?」
「ボクが我慢すればいいだけならそれでもいいです。リック先生をあのままにしておけない」
(おやおや)
 六つも年上の男性に抱く気持ちは、単なる憧れや好意だけではない。泣いている子供を守ろうとする保護欲まであるらしい。
 まあ、あの破滅的な彼の生き方を見せられたなら、分からなくもないが。
「レティアとは、彼が失った昔の恋人の名前だ」
 ルークの言葉に、リーシャが目を丸くする。
「……場所を変えようか。ここは話をするには不向きだ」
「は、はい」
 リーシャは慌てて道具と本を片付ける。それを見ながら、さてどうやって彼女に話をしようか、と悩むルークであった。





 二人がやってきたのは高級料理店だった。すべての卓が個室で区切られており、話が外に漏れることが決してない。
 静かで、少し暗い感じがするが、キャンドルなどの灯りが逆に雰囲気を出している。恋人同士で来るのならいい場所なのだろう。
「こ、こんな高いトコ、いいんですか」
「かまわないよ。何しろ、リーシャにはリックを託すんだ。これでも全然足りない」
「う、緊張します」
「かしこまる必要はないよ」
 そうしてルークは慣れた様子でコースメニューを二つ注文する。リーシャにはジュースを、そして自分はワインを頼んだ。
「お酒飲むんですか」
「こんな話をするのに、と思うかい?」
「はい」
 大事な話なのだから、真剣に言ってほしいと思うのは仕方のないことだろう。素直にリーシャは頷く。確かにそれが普通の感覚だ。だが。
「でも、今の僕では酒の力でもないとその話はできそうにないんだ」
 それだけ、あれは重い話。
 自分にとっても、リックにとっても。
「少し長い話になる」
 ルークは目をつむって、しばし過去を思い返した。
「僕がリックに出会ったのは、この学園の生活が始まって一週間がたち、二回目の教養授業の時のことだった──」







 今ではもうその講師は学園に残ってはいない。総合教養科目を教えていたのは、地学の権威として名高い講師だった。
 ただ、その講師は自分の専門科目と教養科目の違いがどうもわかっていなかったらしい。明らかに教養にしては専門的すぎる内容を一回目から行っていた。もちろん、地学分野のみだ。総合的に学問をすることでも、知識を伝達することでもない。ただ自分の専門の知識をひたすら述べる学問。地学を専門に行う生徒にしてみればそれはありがたいのかもしれないが、そんな生徒はほんの一握りだ。
 その二回目の授業の途中で、自分の隣に座っていた生徒が当時のリック・プレースであった。授業の途中、突然彼は立ち上がったかと思いきや、その講師に向かって言いきったのだ。
「あなたは教養と専門を勘違いしている。我々は教養の知識を得るためにこの講義を選択したというのに、内容が専門的なことをやられたのでは、我々は騙されたことになる」
 入学間もない一年生からそんなことを言われたのでは講師としても立つ瀬がない。その場で退席を命令し、リックはそのまま席を去った。
 彼とはクラスは同じだったものの、その一週間で話したことは一度もなかった。とはいえ、この時からすでに彼に対する興味、保護欲というものが自分の中にもあったらしい。自分はその後を追った。
「ねえ、君」
 自分も講義を立ち去って、おそらく後で講師から目をつけられるだろう。だが、そんなことよりも退席した彼のことの方が気にかかった。
「何だ」
「どうするんだい、教養をとらなければ進級はできないのに」
「専門的な学問は専門的なところで行う。俺があの時間にやりたかったのは総合的な学問の知識を手に入れることだ。その内容があれでは詐欺だ。学園長に直訴する」
 まだ十二歳の彼がそんなことまで考えていたのに脱帽したが、自分も彼についていくことにした。一人ではうやむやにされることも考えられたからだ。
 ファーブル・ダーマ校長は自分たち二人の話を真剣に聞き、すぐに調査会が開かれた。こういう場合は先に訴え出た方の勝ちとはよく言ったもので、先にリックの方が学園長を押さえ込んでしまったために、その講師はほとんど言い分らしい言い分もできず、他の生徒の意見などを聞いた結果から、教養科目の担当者が変更することとなった。無論、専門的な分野では大陸でも権威であるためその年は学園に残ったのだが、これがしこりとなって年度末に学園から出ていくこととなる。

 そうして自分の思ったとおりの学習ができるようになったリックは、その教養科目で二年生から五年生までの上級生たちよりも成績が高く、他の専門科目、実技科目なども含めて学校総合主席を手にすることになる。一年生で学校総合主席となったのは史上二人目、一年から五年まで、前期・後期に分かれて計十回すべてで学校総合主席をとり続けたのはリックだけだ。
 その、一年生で学校総合主席を取った最初の人物。それが、当時三年生だったリックの同居人。
 レティア・プレースであった。

 はじめてルークがリックの家に行ったとき、正直驚きを隠せなかった。
 あのミリーがここにいる。自分に優しく投げかけてくれたあの笑みを、今はリックに向けている。
「はじめまして、ルークさん」
 だが、彼女はそんなことをおくびにも見せずにのうのうと自己紹介をしたのだ。
「ルークさん。リックをよろしくお願いします」
 そうして、あの笑顔を向けられた。そう、あの時に自分はレティアの呪いにかかったのだ。
 自分が守るべき相手がリックだということを悟ったのだ。

 リックとレティアは誰から見ても仲のよい恋人同士だった。
 食事は必ず一緒にとっていた。レティアは同学年の生徒とはあまり話さず、休み時間などは常にリックと一緒にいた。
 リックにしても同学年の生徒と話すことなどほとんどない。例外として、自分とフォトンの二人だけが彼につきまとっていた。フォトンはいろいろと顔が広かったが、自分はほとんどリックと過ごすことが多かったように思う。もっとも、自分もフォトンほどではないにせよ、それなりに顔がきいたが。
 時にリックとレティアは激論になった。一つの論文をめぐって徹底的な論戦を行うのは一度や二度ではない。二人とも学問に対しては決して妥協しなかったし、議論をしているときの二人には割り込む余地などなかった。それだけレベルの高いものだったし、そのための下調べを二人ともしっかりと行ったうえでのことだった。自分はそれを見るたびに圧倒されたものだった。

 レティアは美人だった。
 クラス、学年というレベルではない。学校全体のアイドルだったといってもいい。ただ、彼女の関心は常にリックにのみ向けられていた。高値の花というわけではないのだろうが、決してリック以外の人間が手出しのできる相手ではなかった。
 リックがそのやっかみを受けたのは一度や二度ではない。呼び出されて喧嘩になったことは数え切れない。だが、そのすべての相手にリックは正面から戦った。いや、さすがに人数が多い時はルークやフォトンも加わった。だが、一対一では絶対に割り込まなかった。そしてリックは負けなかった。
 当然だ。リックの武術、剣術はすべてレティアの直伝だ。科目別に見れば多くの学問で一位の座を、そして総合主席の座をリックに明け渡していたレティアであったが、剣術については彼女が在学中の三年間、一度として一位を譲ったことはない。そのレティアが毎日のように稽古をつけていたのだ。学問のついでに体を動かしているような連中にリックが負けるはずがなかった。
 そんなレティアではあったが、リックには彼女が美人であるという認識はほとんどなかったらしい。というより、彼にとっての彼女という存在は、美醜の問題があるわけではない。単純に彼女に依存しているものなのだから、美人かどうかなどは問題ではなかったのだ。

 彼女が卒業して、二年が過ぎる。
 自分たちも卒業する時が来た。そして、卒業式の日。
 リックはいつになく喜んでいた。彼は自分と同じで、そのまま学園の講師になることが内定していた。これでレティアを養うことができる、と思っていたのだ。
『次の夏からは、お互いここの教師なんだな』
『ああ』
『これで君も、レティアさんを食わせてやれるな』
『……ああ。夢、だったからな』
『夢?』
『レティアと、ずっとこの街で暮らしていくことが』
『そうか』
『それがかなって、俺は嬉しい。これからもずっと、レティアと一緒に研究しながら生活していきたいと思っている。ずっと……』
 そして、喜びながら帰った家のドアを開ける。
 その中で二人が見たものは、天井からだらりと下がっている人間の体。
 レティア・プレース。
 彼らにとって、なくてはならないものの、変わり果てた姿。
 硬直した時間がすぎて、彼は倒れた。
 どこかから通報されたのか、すぐに自警団がやってきた。その先頭にいたのはヴァリア・アドニス。
『くっ、こんなことが』
 アドニスは呆然としていた自分たちに話しかけてきたが、自分もショックを受けていたし、リックにいたっては世界を拒絶して意識を失っていた。
 そのまま病院に運び込まれたが、リックが意識を取り戻したのは丸一日が過ぎてから。
 そして、そのまま何も言わず、何もせず。

 彼は、誰にも知られずにこの街を去ったのだ──。







「これが、事件の全容」
 ショック、という表現が一番正しいだろうか。泣いたり喚いたりするのではない。ただ何も言葉がなくうつむいてしまったリーシャを見て、やはり言うべきではなかっただろうか、と少し不安がよぎる。
「これを聞いたリーシャがどうするか。もちろん、話を聞いたところでそれを誰にも言わないのなら、今日のことはなかったことにするのなら、それでもいいだろう。ただ、リーシャが引かないというのなら、覚悟は決めておいた方がいい。あいつはリーシャのことをきっと見てはくれない。あいつの心のにはレティアしかいないから」
 リーシャは何も言わない。食事に手もつけない。
 ルークは黙ってワインを喉に流す。口を滑らかにするためのアルコールだというのに、頭が冴えるばかりで何も効果がなかった。
「ボク……」
 リーシャが顔を上げた。
 決意を、その中にこめながら。
「ボクがリック先生のためにしてあげられることは、何がありますか」
「本気かい?」
「本気です」
 リーシャはためらわない。それが自分の生きる道だと言わんばかりに。
「ボクはリック先生の傍にいたいんです。そして、リック先生がそんなに辛い思いを今でもしているのなら、その思いを少しでも和らげたいんです」
「彼を救う方法は一つしかない」
「それは?」
「簡単だよ。レティアを忘れさせることだ」
 それは、途方もなく不可能な事象に思える。だが、リックが救われるためにはそれしかないのだ。
「リーシャがレティア以上に、彼の大切な存在にならなければいけない。そうしてはじめて、彼は幸せを感じることができるだろう」
「ボクが……」
 リーシャの目に少しずつ力がこもっていく。
「やります」
 ルークは嬉しかった。
 リックの過去を知れば、自分が愛される可能性がないとわかれば、だれも彼に近づく者などいないだろう。
 だが、リーシャは違う。彼女だけは、いつまでも彼の傍にいるという覚悟があるのだ。
「なら、リックを頼む。もう残された時間は少ない。今回の学会と、それからキャンプ。それくらいだからな」
「はい」
「それから考えておかなければいけないのは、リックにどうやってついていくかということだ」
 もちろんその先のことまでをルークは考えている。だが、リーシャにはまだそこまで頭は働いていなかっただろう。
「どうやって?」
「そうだ。この街を出ていくリックについていく覚悟があるのかどうか。リーシャがこの街を出ると決めない限り、彼の傍にいつまでもいることはできない」
「はい」
「リックはあれで結構危険な仕事もやっている。それでも──」
「お父さんには申し訳ないですけど、ボクはもう決めました」
 リーシャは迷わない。一度決めたら、その道を進む。そう宣言する。
「ボクは、何があってもリックについていきます」
「うん。その覚悟があるなら大丈夫かな。それなら今は就職とかそういうことは考えない方がいい。リックについていく。それだけを考えるんだ」
「はい──先生。ボク、もう一回お父さんと話をしてきます」
 料理も途中で、リーシャは立ち上がる。
「少しでも早く、いろいろなことを決めたいですから。それに、お父さんもリックのことを知っているのなら、いろいろと聞きたいですから」
「ああ、わかった。気をつけて」
「はい」
 そしてリーシャは出ていく。それを見送って、もう一度ワインを含む。
 ようやく、頭がぼうっとなった。





拾壱:呪縛の解放

もどる