拾壱:呪縛の解放





 大陸学会は無事に終了した。
 学生という身分で学会に参加した五人の学生たちはいずれも高い評価を得ることとなり、その場で引き抜き合戦が行われた。
 ミレンは憲法の内容による論文だったため、ローディス王国からのアプローチに応え、就職が確定した。この場合、学園では繰り上げ卒業の制度を認めている。一度引越しなどの手続きを行うのにどのみち学園には戻らなければならないので、そこで卒業証書が授与されることになるのだ。
 一方のリーシャも引く手数多だった。いくつもの国や組織が次から次へと殺到していた。数だけいうのであれば、ミレンをはるかに上回っていた。
 無論、それには各国の思惑が裏に存在する。ミレンのような優秀な学生は将来、大臣クラスの椅子まで考えて雇用することになる。そのため、外の血を必要とする革新的な国には好まれても、保守が強い王政においては活躍するどころか騒乱の種になる。
 それに対し、リーシャは女性で、どうしたところで国家の中枢にはなりえない。むしろほどほどに優秀で、使い勝手がよく、しかも国の優秀な武官や文官と結婚させるという選択肢のあるリーシャの方が求人は多かったということだ。それも、王国ではなく地方領主からの仕官の誘いが圧倒的に多かった。もしかすると、リーシャの外見も一枚かんでいたのかもしれない。
 魅力的な話はいくらでもあったが、リーシャは全てを丁寧に断った。リックからは後で『何を考えている』と叱られることになるのだが、彼女の就職先の希望ははっきりと決まっていたのだ。
 それは、リックに永久就職する、というものだ。






「先生。いろいろとお世話になりました。ありがとうございました」
 一人だけの卒業式を終えたミレンがいの一番にやってきたのはリックのもとであった。
 この学生はどうやら、学生生活五年目にして、ようやく自分の師となるべき人物にめぐりあえたと感じていたようだ。
「俺は何もしていない。すべてはお前の努力の成果だ」
 つまらなさそうに答える。が、ミレンはかぶりを振る。
「いいえ。先生にお会いすることができなければ、こうはならなかったと思います。自分の第一志望がかなったのは先生のおかげです」
 ミレンはローディス王国では法務局と呼ばれる部署に配属される予定だった。そこは過去の法律と憲法とを照らし、必要のないものを改廃していく作業で追われているという。法律の知識が多い彼にとっては絶好の仕官先だった。
「もし先生が何か困ることがあったら、いつでも言ってください。それまでに絶対に出世します」
「目標を持つのはいいことだが、お前に一つ教えておくことがある」
「はい」
 真剣な瞳をリックに向ける。彼にとっても、これが最後の教授の機会なのだ。
「目的と目標を混同するな」
 ミレンは分からないというふうに瞬きをする。
「つまり、出世するという目標と、将来出世をしてお前が何をしたいのかということをきちんと区別しておけ、ということだ」
「はい」
「お前には、生活していくこと以外の人生の目的があるか?」
 ミレンは少し首をかしげて悩んだ。
「難しいです。でも、世界に戦争がなく、人々が平和に暮らせる世界を作ることができればいい、と思います」
「ならば自分の行動がそれにずれていないか、常に自己検証を絶やすな。人は組織に入ればいやでも理想通りに行動することができなくなる。現実とのギャップに思い悩む。その中で、自分が絶対に譲れないものと、妥協してでも目的を達成するための最善の道を選ばなければいけないものとを、しっかりと見分けることだ。そうすれば間違わずに進んでいけるだろう」
「はい。最後まで、本当にありがとうございました」
 そうして、リックにとって人生で最良の生徒は巣立ってゆく。
 彼とまた出会えるかどうか、ということはリックにとって大きな問題ではなかった。
 それすら、レティアという存在の前には、かすんで消えてしまうようなものだったからだ。






 前期終了の三週間前になるとテストの告知がなされる。
 レグニア私立学園における単位認定はテストとレポートの両方である。テストは全科目に用意されており、教養総合、運動総合に加えて自分の専門分野などを加えて一人あたり十科目の試験に合格しなければならない。一期の間に可能な受講数は十五であるため、これは決して高き門ではない。普通に学習していれば、だが。
 学年総合主席は運動総合、教養総合のほか、自分の合格した科目の中から点数の高い八科目を合わせた十科目の総合点数で決まる。一科目の基準点は百点で、そこからの加点・減点方式を取る。及第点は六十点で、それを下回れば落第となる。また、加点方式を取る以上、当然百点よりも高い点数を取ることもできる。毎回上位二十名ほどの生徒は十科目の合計が千点を超える。
 この学年総合得点の過去最高記録は誰あろう、リックが五年の前期でマークした一八二四点である。それまでの最高記録を十三点上回った不屈の金字塔であった。






「就職しなかったんだって?」
 ルークは帰ってきたリーシャに尋ねる。もちろんその理由はよく分かっている。というより、逆に就職を決めて帰ってきていたら憤るところだ。何しろリーシャにリックを任せるつもりだったのだから。
「はい。もうすごいんですよ。断っても断っても次から次にボクのところに人が来るんです。まだ論文発表する前からボクに声をかけてくれた方もいました」
「評価されているね」
 もちろんそれはリーシャ個人を評価しているのではなく『レグニアの優秀な女生徒』に対するものであったのは間違いない。そして驚くべきことに、リーシャはそれをはっきりと分かっていた。
「ボクがそんなに評価してもらえるはずがないです」
 自虐的というのではなく、リックが普段からいう、冷静・客観的に分析したらそうなるのだという。
「リーシャは十分に立派な論文を書いたと思うけど?」
「でもボクの評価は論文を読んだ結果のものではないです。ボクに声をかけてくれた人の中で、ボクの論文の中身を理解している人はいませんでした。タイトルすら覚えてない人がいたくらいです」
「それはそれは」
 あまりにも露骨な人材収集に思わず苦笑する。
「結局ボクは、リック先生の下でないと学問はできないです。相手に迷惑もかけられません」
「リックからは叱られなかったのかい? どうして就職を決めてこないんだって」
「それはもうたっぷりと」
 叱られる、というような生易しいものではなかった。
 リックが学会の終了後に話しかけてきたときの第一声は『どこに就職することにしたのか』だった。就職しないという選択肢はまるきり頭になかったらしい。
 すべて断ったと告げると、みるみるうちにリックの顔色が変わり、雷が落ちた。
『お前は自分の将来をなんだと思っている!』
 これが他の先生だったなら、せっかくレグニアから一人就職者を出すことができて、学園の知名度がまた上がるところだったのに、という私情が入るところだろう。だが、リックは違う。彼は学園に対して何の責任も持っていない。だから彼が怒ったのはレグニアのためではない。あくまでも純粋に、リーシャのことを案じていてくれたからこそ怒ったのだ。
「リックにとって学問は趣味であり、手段だからね」
「趣味であり、手段?」
 意味が分からない、とリーシャは首をかしげる。
「うん。彼に学問を教えたのはレティアだし、レティアを養うためにも早く卒業して就職したかったんだ」
「じゃあ、リック先生も学会とかに出たんですか」
 興味津々という様子でリーシャが尋ねてくる。
「いや。彼はそういうのは全部断った。ここの学園の教師になることが目標だったから」
「出世とかじゃなくて、ですか」
「ああ。彼にとってはこの街を出るなんていう選択肢はなかった。なにしろ、この街にはレティアがいたからね」
 結局、リックの背後には常にレティアありきだった。いや、今だってそれは変わらない。彼がこの街にいることで、はたしてどれほど苦しんでいるだろうか。どれだけレティアの影に追われているだろうか。
「レティアさんって、そんなに素敵な方だったんですか」
 尋ねられて、ルークは少し返答に困った。あれは魅力的とかそういう次元を大きく逸脱している。
「レティアは確かに美人で知的で、それでいてきちんとリックを立てることを忘れない、リックにとっては理想的な恋人だったと思う。でも、リックにとってはそれだけじゃない。恩人でもあるし、それ以上に彼女に傾倒していた」
「けいとう?」
 少し言葉が難しかったか、とルークは苦笑する。
「リックにとって、レティアが生きる意味そのものだったっていうことだよ」
 そしてそれは今でも変わっていない。だが自分はそんな彼を見ていたくはない。彼にはいつでも笑っていてほしい。それだけなのに、それができない。
「あの人は本当に、どうして死んでしまったんだろうね」
 ルークもまた知りうるのなら知りたかった。一人の、いや自分を含めて、二人の男の人生を狂わせた女性の考えを。
「ボクだって、リック先生に対する気持ちなら負けません」
 ぐ、とリーシャは両手を握り締めた。
「レティアさんはリック先生を置いていったかもしれないけれど、僕は絶対にそんなことしません」
 力強いその言葉にルークは頼もしさを覚えた。この華奢な体のどこにそれほどの熱情があるというのだろう。そう思っていると、リーシャが不意に表情を崩した。
「っていうのも、昔よく一緒にいてくれた人の受け売りなんですけど」
「へえ」
「ボク、いろいろと目移りするのは自分でもよく分かってるから、恋人だけは絶対に作らなかったんです。ちょっといいなって思っても、三日後にはそんな気にはならなかったし、それもいつものことでしたから。でも、その人はボクに言ったんです。本気で好きになったらどうする、って。ボクが答えられないでいると、その人が言ったんです。私なら何があっても一緒にいるって。たとえ死んでも一緒にいるんだって」
 死んでも、一緒に。
 その言葉が一人の女性を思い描かせた。
「死んだら時を戻ってもう一度めぐりあうんだって言ってました。ロマンチックですよね」
 と続いたので、ルークもほっと一安心した。死んでも相手を縛り付けるようなことはしないというのなら、それは彼女ではない。
「それなら一つ聞いておきたいことがある」
 そしてリーシャにそこまでの覚悟があるのなら、ここではっきりとさせなければいけない。
「はい」
「リックが半期限りの講師だというのは知っているね?」
 リーシャは神妙に頷く。そう。リックは彼女の卒業までここにいるわけではないのだ。
「リーシャはどうするつもりだい? リックはきっともうすぐ、それこそ全ての授業が終わった日にでもこの街を出ていくだろう」
 う、と一度呟いてから彼女はじっくりと考え込んだ。
 もちろんリーシャにとってリックが誰よりも大切な相手というのは間違いないことなのだろう。だからといって、彼に想われているわけでもないのに、この街の全てを捨てて彼についていくことはリーシャにはできないだろうし、リック自身がそれを許さないだろう。
「説得します」
 あのリックを。それはさすがに不可能なことのように思えた。
「この街にずっと居てほしいというのかい? それは──」
「そうじゃないです」
 リーシャは言葉を選びながら言う。
「ボクは、卒業したいです」
 うん、とルークも頷く。
「お父さんに四年半も学校に通わせてもらっているし、それにリック先生からいろんなことも教わりました。僕、あと半年かけて今度は納得のいく卒業論文を書きたいんです」
 そこまで学業に本気になれたのも間違いなくリックのおかげだ。
「だから、その卒業論文をリック先生に見ていただきたいんです」
 ──なるほど、そう来たか。
 卒論まで見るということは、必然的に卒業までここに滞在するということだ。そうして卒業してしまえば、リックと一緒にこの街を出ることだってできる。
「うん。その気持ちが嘘じゃないということは分かる。でも、多分リックはそういう言い方は好きじゃないと思う」
「はい」
「たとえ今の気持ちが本当でも、リーシャにはそれ以上の想いがあるだろう?」
 顔が真っ赤になる。ルークの言う通り、彼女は他の何にも変えがたい気持ちがある。
 一緒に、いたい。
 それが彼女の偽らざる、本当の気持ちだ。
「それを最初に伝えること。リックは直球で勝負しないと、相手にもしてもらえないよ」
「はい」
 もちろん、論文を見てもらいたいという気持ちに偽りがあるわけではない。だが、それはリックが好きだという気持ちの副産物のようなもの。
 一番大切な気持ちだけが、リックにとっての評価対象となるのだ。
「勝負は一回きり。分かるね?」
「はい。最後のキャンプ日です」
「ああ。僕が援護するから、リーシャはしっかりと自分の気持ちを伝えるんだ」
「分かりました」
 ここに、同盟が結ばれた。
 リックを無事に立ち直らせることができるかどうか。それはすべて、その日にかかっている。






 そうして、キャンプの日を迎えた。
 一泊二日のシノア湖へのキャンプ。朝早くに出発し、四時間の行程で現地に到着。ちょうど日が頂点に差し掛かるところだった。
「期待してるぜ、フィッシングマスター」
 本当に食材を何も持ってこなかった(リーシャとシルフィが用意した荷物を運んではいたが)フォトンがリックに気安く声をかける。
「知るか。食べるものがほしければ自分で調達しろ」
「ラジャー、サー。じゃ、俺は久しぶりに猪でも狩ってくるかね」
 いのしし?
 リーシャとシルフィが疑問符を浮かべたが「んじゃ、後で」と一言残して去っていくフォトンを止めるようなことはしなかった。
「猪だと、水が多めに必要だな」
「一頭しとめれば食べきれないだろう。余ったら魚のエサにすればいい」
「それもそうか。じゃ、準備しようか。リックは魚の方お願い。リーシャもね」
「あ、はい」
「私はどうすればいいですか?」
 シルフィが尋ねる。
「じゃ、こっちを手伝ってもらおうかな。仕事は山ほどあるし。シルフィなら食事の準備とかは問題なくできるね? 僕は湖から水を運んでくるから、その間にお願い」
「分かりました」
 こうして、三組に分かれた一同が、それぞれの場所に配置した。
 シノア湖は季節柄さすがに寒く、キャンプをしようという物好きは他にいないようだった。夏だと涼しくて格好のキャンプ場となるのだが、冬のシノア湖は静かで穴場だ。
「寒くはないか」
 湖に釣り糸を垂らし、リックが尋ねる。
「大丈夫ですよっ! 防寒は完璧にしてきましたから」
「そうか。まだまだ寒くなるぞ。寒ければすぐに火のところに行け」
 一応このキャンプ地は誰でも使えるコテージなどもいくつか用意されている。管理されているわけではないので早い者勝ちなのだが、さすがにこの時期だと一人で一つ使ってもまだ余裕がある。
 その近くに火を一つ。こちらはルーク・シルフィ組が調理用に使う。そして釣りをしているリックたちの近くにもう一つ。こちらは暖を取るために使う。
「あ、でも先生。ボクもうおなかぺこぺこ」
「すぐに釣るから、焼いて食べてろ」
「いいんですか?」
「この時期のシノア湖なら入れ食いだ。釣れないことなどないだろう──っと」
 言ってる間にリックの釣り糸が下がる。頃合を見て、一気に吊り上げた。見事に一匹、引っかかっている。
「鉄串で刺して丸焼きにして食べるといい」
「はい。準備しますね」
 ふと、リックはてきぱきと準備をするリーシャを見て尋ねた。
「魚の丸焼きは食べられないかと思ったが」
「ふふん、甘く見てもらっちゃ困りますよ。ボクだって、自警団の皆さんがキャンプに行くときはもれなく連れてってもらってますから、サバイバルには自信があるんです」
「ほう」
 意外な一面を見たという様子のリックに、リーシャが柔らかい微笑みを見せた。
「初めて、ボクのことに興味を持ってくれましたね、先生」

 そう。彼は初めて、この生徒のことを『可愛い』と思った。

「今日はいい天気だね」
 彼女がそう言って空を見上げた。彼方に雲は見えるが、冬も間近だというのに太陽の陽が暖かい。
「そうだな。お前には晴れの日がよく似合う」
 言われて、しばらくたってから、リーシャの顔が真っ赤に染まった。
「せ、せ、先生っ!」
「どうした、慌てて」
 それは女性として褒められたのか、それとも単なる一生徒として褒められたのか、その言葉からは判断がつかない。だが、彼が少なくともリーシャに対して心を開いているのは間違いのないことだった。
 彼はただ釣り糸を下げて魚を釣った。
 彼女はただその傍に座っていた。
 穏やかで、平和な時間が流れていた。






「うまくいくといいですね、リック先生とリーシャ」
 調理をしながらシルフィが話しかけてくる。そうだね、とルークは答えた。
 もう少し邪険にする様子が見られるだろうかと思ったが、案外リックはリーシャを受け入れているようだった。この半年間、彼女がひたすらアタックを続けたおかげで、リックも彼女を認め始めているようだった。そう、その手はルークが伝授した手法だ。自分から何度もアタックして彼の傍にいることを認めてもらう、それを最初にやったのが自分とフォトンだった。
「リック先生って不思議な人ですね」
「不思議?」
「はい。あんなに毅然として、堂々としているのに、それでも放っておけないっていうか、守らなきゃいけない子供みたいなところをなんとなく感じるんです。リーシャもそこが一番好きなところなんじゃないかなあ」
 随分と観察力のある娘だ。彼女の言っていることは一から十まで正しい。リックは姉のローラや恋人のレティアに置いていかれて泣いている子供だ。ずっと、ずっと泣いている。
 彼に泣き止んでほしいと思うし、もっと自分を頼りにしてくれればとも思う。だが、自分では駄目なのだ。自分もまた、レティアに捕われている人間。レティアとは無関係な人間でなければ、彼の鉄の心を溶かすことはできないだろう。
 リーシャのような。
「シルフィはリーシャを応援するために、このキャンプについてきたのかい?」
 彼女が友人思いなのはよく知っている。だが、リーシャと違って内向的な彼女はキャンプとかにはほとんど行く機会がなかったはずだ。
「はい。それもあります。でも、他にも理由があるんです」
「他に?」
「ええ。私もリーシャと同じで、好きな人がいるんです。だから、来ました」
 いつの間にか、彼女の手が止まっていた。そして、真剣な瞳で自分を見つめている。
(まいった)
 こんな奇襲を受けるとは思っていなかった。完全にノーガードだった。まさか、教え子から慕われていたなどと、この場にいたるまで全く気付かなかった。
「シルフィ、僕は」
「このキャンプで、二人きりになったら迷わずに言おうと心に決めてきたんです。先生」
 ルークの言葉を遮るようにして、彼女が言う。
「好きです」
 返事もできずに、ルークは彼女の言葉をただ聞き続ける。
「ずっと、好きでした。ルーク先生の授業、私、ほとんど受けているの、気付いてましたか?」
「まあ、必ずといっていいほど僕の講義にいたからね」
「追っかけっていうんじゃないんです。先生の講義が好きで、先生の話を聞いていたくて、勉強してきました。おかげで植物のこととかすっかり詳しくなりました」
「そうだね。シルフィは僕の講義を完全に近いくらい理解していたよ」
「動機は不純かもしれませんけど、今は植物の勉強自体がすごく好きです。リーシャじゃないけど、できれば先生に卒論を見ていただきたいと思っています。これは不純な動機じゃなくて、植物の勉強をあと半年間、本気でやりたいから」
「そっか」
「はい。そして──返事は、卒業の時に聞かせてください」
 彼女がそう言うと、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「緊張、しました。今までで一番」
「そうだね。僕も緊張した。今まで女性と付き合ったことなんてなかったし、告白したこともされたこともなかったよ」
「本当ですか?」
「まあね。僕はある意味、女性に興味がなかったから。変な意味にとらえてほしくないけど、女性よりも、あそこにいる友人と一緒にいる方が楽しかったからね」
「リック先生ですか」
「そう。僕の人生を変えたというのなら、まさにあの男だよ。あいつに出会わなきゃ、僕ももう少し気楽な人生を歩めたんだろうなあ」
 本当にそう思う。だが同時にこうも思うのだ。
 彼と出会うか出会わないか選べるとしたら、絶対に彼に出会う人生を選ぶ、と。
「友達思いなんですね」
「シルフィと一緒でね」
「そうですね。私たち、同類ですね」
 苦笑する。そして、彼女の言葉に答えた。
「ねえ、シルフィ」
 可能な限り優しい声を出す。
「はい」
「僕は、今まで男女っていう視点で誰かを見たことはなかった。正直言って、戸惑ってる」
「はい」
「だから君の言う通り、卒業まで待ってほしい。それくらいの時間がないと、僕はそういうことを考えられないと思うんだ」
「はい」
「シルフィは可愛いと思うよ。それに優しいし、好感が持てる。好きになる要素は大きいと思う。ただ僕は、昔たった一回だけ、心から愛した女性がいて、それを今でも引きずっている」
「そう、なんですか」
 少しかげりのある声で応える。
「うん。その女性はもう、この世にはいないけど、忘れ形見みたいなものを残していった」
「……それって、まさか」
「ああ。僕が愛したのは、リックの恋人だった人だよ。僕はリックも、そしてその恋人も、二人とも愛している。だから、恋人を失って苦しんでいるリックを目の前にして自分ばかりが恋愛することに気が引けているっていうのもある」
「でもリック先生とルーク先生とは」
「うん、関係はないよ。でも、僕は二人に本当に心酔しているから。それこそ今日、リーシャが彼の心を溶かしてくれたなら、僕は安心して自分だけの恋愛をすることができるかもしれないね」
 シルフィが体を震わせた。
「それじゃ、私のためにもリーシャにはがんばってもらわないと」
「そうだね。全く同感」
 湖の方を見ると、釣り糸を垂らすリックの隣で、リーシャが魚を食べていた。手が空かないリックに向かって食べさせようとしている。度胸のある娘だ。
「でもやっぱり私、リーシャには幸せになってほしい。私が幸せになるよりその方が嬉しいって、変でしょうか」
 思わずルークは笑ってしまった。
「いや、変じゃないよ。だって、僕もそうだから」
「そうだと思いました」
 そうして二人は笑った。どうやら自分たちは似たもの同士だったらしい。
(教師と生徒という立場じゃなかったら、もう少し違った見方もできたのかもしれないな)
 ただあくまでも自分はシルフィの教師という立場だ。それ以外の見方ということが残念ながらできない。そういう環境にいた。
(女性としてのシルフィか。卒業までに随分と難しい課題を出されたな)
 そうして、ルークはまた手を動かし始めた。
 そろそろフォトンも戻ってくるだろう。猪を煮る準備をしなければいけなかった。






 そして、夜。
 満点の星空の下、火を囲んで五人が思い思いに話し合っている。
 どこに隠し持ってきていたのか、フォトンが秘蔵の酒を持ち出してくると、リーシャもシルフィも「飲みたい」と言い始めた。どうにかしろ保護者、とフォトンが言ってきたのだが、リックとルークは視線を交わすと「かまわないんじゃないか」と答えた。
「俺たちもキャンプの時にここで酒を飲んだだろう。俺たちがよくて彼女たちがいけない理由は何だ?」
 この辺り、リックもルークも教師という枠からは少し逸脱していた。ルールというものをきちんと守らせるのではなく、ほどほどに守って社会の枠からはみ出ないようにしていればいい、という大まかな考え方だ。
 そうして酒が入ると、フォトンがどんどん話を始めて他のメンバーが聞くばかりになった。そして最後には「じゃ、お先」と言って眠りについてしまった。
 シルフィも途中から酒が回ってきたのか、船を漕ぎ出したので、ルークがコテージで眠ることを勧めた。
 そうして、三人がその焚き火の回りに残った。
「リック」
 時は来た。
 いよいよ、彼を立ち直らせる最後の勝負が来たのだ。
「なんだ」
「君はいつまで、レティアのことを引きずっているつもりだい?」
 直球勝負。
 聞いていたリーシャの方も驚いてルークを見つめる。機嫌を悪くしたリックが睨みつけてくる。
「お前には関係──」
「あるよ。なにしろ、レティア本人から君のことを頼まれたからね。ずっと昔に」
 そう。確かに頼まれた。
 いつか彼女と再会したとき、すぐ近くにいる人物を必ず守れと。
「聞いていないぞ」
「言わなかったからね。でも、僕は確かに頼まれた。君を助けるって。君が今苦しんでいるのなら、絶対にその苦しみを取り除くんだって」
「教えてやろう、ルーク」
 彼は冷たい声で言った。
「それは、無理だ」
「人間に無理なんてない。空を飛べなんてことを言ってるんじゃないんだ。リックが彼女のことを思い出にして、新しい人生を生きる。それのどこが無理なんだ」
「俺にとってはそれは、空を飛ぶことと同じだ」
「違う。それは自分で可能性を閉ざしているだけだ。君は翼を持っているのに、それを広げようとしていない。飛べるのに飛べないと言う。それは簡単なことなのに、できないと言い張る。何故だかあててみようか」
「やめろ。聞きたくない」
「目を逸らさないで。耳を背けないで。君は、かつてあったレティアという幸せにすがろうとしているだけなんだということに、気付いて」
「やめろっ!」
 低く、鋭く声が走る。だが、動揺が生まれているということは、それが真実だということを意味している。
「やめないよ。僕は君を立ち直らせると心に決めた。だから、今ここで君が傷ついてでも、絶対に立ち直らせてみせる。いい加減、女々しいとは思わないのかい。いつまでも死んだ女性に縋ってばかりで、自分からは何もしようとしない。自分の未来を切り開こうともしない。それが本当にレティアの望みだったとでも言うつもりかい」
「レティアの考えていることなど、俺には分からない」
「分からないんじゃない。分かろうとしていないだけだ。たった一回の行動の理由が分からない程度で、君はレティアの全てを分かってない気になっているだけだ。死んだ理由は、それは僕にだって分からない。でも、君のことを心配していなかったはずがないんだ。彼女は君のためだけに生きていたんだから」
「じゃあ、死んだことも俺のためだとでもいうのかっ!」
「彼女がその選択を選んだのなら、きっとそうなんだ。レティアが何故死んだのかは分からないけれど、君のために死んだんだ。僕に分かるのはそれだけだ」
 断言。そう、それだけは間違いない。彼女は絶対にリック以外のことを考えていない。それだけは自信を持って言える。
「どうし、て……」
「僕はもしかしたら、君よりもレティアのことが分かっているかもしれない。僕にとってレティアは家族のような人だったから」
「どうして、そんなことが」
「ゆっくりと考えて、リック。レティアは君のことしか考えていなかった。それを君は疑うのかい?」
「俺の目の前で死んだあいつを、どうやって信じろっていうんだ!」
「その一回に捕われすぎなんだよ、リックは。もっと他のことを思い出して。彼女が入れてくれた卵焼きや、夜中まで一緒に討論したゼミのこと。どんなときだって彼女は君の傍にいて、君のためだけに生きていた。その彼女を疑うのかい」
「だったら、どうして……」
 彼の気持ちも、当然分かる。
 何故死んだのか。これからずっと二人で生きていくと決めていたのに。
「その問題に答はないよ。でも、それも彼女が生き残るよりずっと良い選択肢だったっていうことなんだろうね」
「あいつが死んでいいことなんか!」
「あるんだよ、きっと。それは彼女にしか分からない。でも、彼女にだけは分かっていた。なにしろ、彼女は自分が死んだ後のことまで、僕に託していったくらいなんだ。君のことを思わなかったはずがない」
 すると。
 彼がゆっくりと俯き、打ちひしがれる。
 そう。彼にも分かっているのだ。彼女が彼を裏切ることなどないのだ、ということを。
 それなのに、その一回だけ、死んだという事実だけが理解できない。
 自分を見捨てたのか。
 その不安が拭いきれないのだ。
「彼女は君を、見捨ててなんかいない。それよりも、死ぬことで君を守った……そう、僕は思っている」
 何から守ったのかは分からない。だが、予想はつく。
 リーベスト。
 あの組織がきっと、彼女に何らかの影響を与えているのだとしたら。
(でも……それは言わない方がいいんだろうな)
 もしもリーベストと彼女が関係があると知れば、彼はレティアの影にこれからも追われ続けることになる。
 この場で気持ちを切り替えなければならないのだ。
 ルークはリーシャを見つめた。
 自分ができるのはここまで。
 レティアという人物の影は、ある程度吹っ切ることができた。後は、彼に生きる希望を与えるだけ。
 この絶望の状況に差し込む光に、彼女がなれればいい。
 ルークは無言で立ち上がるとコテージに向かった。
(頼んだよ、リーシャ)
 願わくば、明日の朝は彼が彼女の呪縛から解かれていますように──






 ルークが去って、しばらく経つ。
 ぱちぱちという焚き火の音。そして、空に流れるいくつもの星。
 動きのないその場所で、リックはただ炎を見つめ、リーシャはただリックを見つめていた。
 レティアという女性は、いつまでも自分を縛る。そう、これが呪縛だということは自分でもよく分かっていた。
 ルークは言った。彼女は死ぬことで自分を守ったと。
 本当だろうか。
 いや、きっと本当なのだろう。彼女が自分を苦しめるなど、ありえない。それは分かっているのだ。
 それなのに、彼女のことを思い出すときは、必ずあの悪夢の光景からだ。
 天井から下がった体。
 力なく、ぐったりと手足が伸び。
 そして、あの、顔──
(いやだ!)
 見たくない。思い出したくない。
 苦しみに色づく彼女の顔なんて、知らない──!
 何故、死ななければならなかったのか。そこに意味はあったのか。ただ自分を苦しめるためだけに死んだのではないのか。
 自分に、何を伝えたかったのか……。
 分からない。分からない。分からない。何度考えても答は出ない。
 それが、自分の限界。
 レティアのことを分かった気になって、その実何も分からなかった。
 そんな自分。
 それでも。
 確かに、覚えている。
 風の日に、窓から二人で眺めた雲の流れを。
 雨の日に、並んで傘をさして歩いた通学路を。
 雪の日に、童心に帰って雪を投げあった公園を。
 晴れた日に、頬を染めて、唇をかわした思い出を。
 確かに、覚えている。
 すべて、この心の中にある。
(レティアには、もう会えない)
 そう理解した瞬間、彼の呪縛は解けた。
 すべては思い出の中に。そして、思い出は優しい記憶となって。

 ──その時だった。

 ずっと黙っていたリーシャが、すっと彼の後ろに回って、彼の背に手を置いた。
「ボクじゃ、レティアさんのかわりになれない?」
 顔を上げた彼が、後ろにいるリーシャに振り向く。睨まれたのかと思いきや──
「せん、せ……」
 笑っていた。
 そして、リックがぽんぽんと、彼女の頭を撫でる。
「そうだな。お前なら、なれるかもしれない」






「お疲れ様でした、先生」
 コテージに戻ってくると、先に寝ていたはずのシルフィが起きて彼を待っていた。
「あれ、こっち」
 男性用と女性用とでコテージを分けたはずだったが間違えただろうか、とルークが頭をひねる。
「いいえ。フォトンさんがさっき来てくださって、ルーク先生がもうすぐこっちに来るから、かわってやるって」
「あいつ」
 どこまでも目ざとい奴、とため息をついた。
「多分リーシャとリック先生は、朝まで焚き火の前だと思います」
「そうだね」
「ほら、こっちに来てください先生。暖炉の前じゃないと寒いですよ」
 コテージなのに立派な暖炉があって、そこに薪がくべられている。用意周到だ。
「今日は私たちもお互いを知るために、ゆっくり話し合いたいと思うんです」
「そうだね。僕もリックの件は片付いたみたいだし」
 見ると。
 座っている彼が、立っている彼女に抱きついている。
 その彼の頭を、彼女が優しく撫でていた。
「いいなあ、リーシャ」
 そう言ってシルフィが羨ましそうに眺めている。ふと思いついたルークは、シルフィの頭を優しく撫でてみた。
 暖炉の明かりだけではなく真っ赤になったシルフィの顔が面白かった。
(可愛い、のかな)
 その姿には好感が持てる。そう、確かに自分にはこの女性はお似合いなのかもしれない。
(好きになれると、いい)
 まだそれが恋愛になるかどうかは分からない。でも、こうして一緒にいられることで幸せを感じられるのなら、それは遠い未来のことではないような気がした。





終:現実の未来

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