参:ペンダント





 リックが『そのこと』に気がついたのは翌日、街中を歩いている時だった。
 既にリックは朝のうちにフィラスに対して大地母神の教会に対して恨みを抱いているもの、大地母神の信徒に危害を与えようとするおそれのあるものについてリストアップをするように要請していた。そのため、そちらの調査については完全に警備隊にまかせることとし、リックは残りの8人の被害者についての調査を行っていた。
 その調査の途中、そろそろ夕暮れ時となり、最後の調査地へ向かう途中で突然リーシャがそわそわしはじめたのだ。いったいどうしたのかと思っていると、リーシャは意を決したようにリックに向かって言った。
「リック」
 リーシャは真剣な顔つきでリックを見つめてきた。
「どうした」
「お願いが、あるんだ」
 これだけ必死の表情を見せるリーシャも稀であるし、それがひどく切実な願いであるということはリックにもその雰囲気から用意に予想がついた。リックもまた真剣な表情になり、リーシャを促した。
「言ってみろ」
「その、少し、時間がほしいんだ」
「?」
 リックは何を言われているのかがよく理解できなかった。
「だから……今日は『女探偵イシュタル』の最新刊の発売日なんだよ! お願いだからそこの本屋に行かせてっ!」
 リーシャが指さしたところにはけっこう大きな本屋が建っていた。リックはあまりの言葉に一瞬思考回路がショートしていた。
「リーシャ」
 ようやく回復したリックは、かなり無表情でリーシャを睨みつけた。
「それだけのことで、そんな真面目な表情を作ったのか?」
「だ、だって、今は仕事中だし、こんなことふざけて言おうものならまたリック怒るかなーと思って」
「ふざけていようが真剣だろうが俺が怒ることに変わりはないとは思わなかったのか?」
 う、とリーシャはその怒りのオーラを見て1歩後ずさった。淡々と語るその口調が、リックの怒りをさらに大きく表現させていたのだ。
「だめ?」
「……」
 リックは右手で頭を押さえると、疲れたように呟いた。
「10分以内に戻ってこい」
「え?」
「早くしろ、時間がなくなるぞ」
 リーシャの顔がぱっと輝いた。
「ありがとう、リック!」
 笑いながらリーシャは本屋へと走りこんでいった。やれやれ、と改めてリックは大きくため息をついた。
 もっとも、リーシャの気持ちも分からないでもなかった。リックも本はよく読む方であり、中にはタイトルを見ただけで普通の人間なら読む気にならないようなものもあれば、今リーシャが買いにいった『女探偵イシュタル』のような一般向け小説も読む。だから読書欲がある、ということはリックにとってはリーシャに対してマイナスの感情を生起する要因にはならない。むしろ好ましくすら思えるのだ。
『女探偵イシュタル』は希代の人気女性作家、アルファ・プロメテウスの手によるものである。彼女は冒険ものやホラーから現代文学まで幅広い分野において作品を残しており、リックは彼女の作品は全て読破している。中でもこの作品はアルファの代表作ともいえるもので、雑誌『オケアノス』に連載されているものである。内容は普通の探偵ものではあるが、犯人の細かい描写や考えもつかないトリック、そして何より主人公のイシュタルと一体となって捜査を進めているかのような文章テクニック、これらが見どころとなっている。
 そういえば『イシュタル』シリーズの中にも大地母神の信者が次々と襲われる、といった話があったな、とリックは思い出した。たしかその時は、大地母神の信仰が悪魔公爵テュリオを蘇らせると信じこんでいた犯人が13日おきに犯行を繰り返した、というものだったが。
 リックは背筋がぞくりと震えた。
 まさか、とは思うが『イシュタル』シリーズに悪影響を受けた者がこの犯行をおかしているのではないか、と思ったのだ。いくらなんでもそれは考えすぎだ、とリックは頭を振る。だが、考えてみればこの話が文庫になって店頭に並んだのはたしか8か月ほど前のことだ。時期的には一致する。
 と、その時リーシャが本屋から笑顔で出てきたので、リックは厳しい口調でリーシャに被害者の資料を求めた。リーシャは突然言われてびっくりしたようであったが、慌てて荷物の中から資料を取り出す。リックはひったくるようにその資料を奪うとぱらぱらと目を通していった。
「ど、どうしたの?」
「……」
 悪い予感が、あたった。
「俺のミスだ」
「何が?」
 慌てたような、落ち着かないような感じでリーシャは尋ねてくる。リックはペンを取り出して犯行日に印をつけていく。
「これが第1の被害者。これが2番目、これが4番目」
 そうやって印をつけていくと、その日時にある共通性を持つことに、さすがのリーシャでも気づいたようであった。
「13日おき?」
「大地母神の信者が狙われていることから犯人を予想すればいい、と考えたのは俺のミスだ。この中からさらに共通点を見つけて犯罪を予防するように考えるべきだった」
「ちょ、ちょっと待ってよ。次の被害者はまだ出てないんだから、リックのミスじゃないよ。次の13日後って、いつ?」
「今日、だな」
「よかった、間に合ったじゃないか」
「ああ、その意味では確かにまだ手遅れではないな」
 リーシャは落ち着いたように「よかったあ」と言う。だが、リックはそれだけで安心するわけにはいかなかった。
「あ、でも犯行日時が分かっても犯行現場が分からなかったら意味がないのか」
 リーシャが今気づいたように言う。そう、犯行現場が不特定であれば犯人が今夜犯行を行うにしても、どこで張り込めばいいのかが分からなければならない。
「よく見ろ、リーシャ」
 リックは自分に言い聞かせるように、説明を始めた。
「王都は北地区、西地区、東地区、南地区の4つに区分されている。12人の被害者の住所をあてはめてみると、北地区で4人、東地区で4人、南地区で4人だ」
「西地区の人はいないね」
「そうだ。そしてフィラスさんに聞いたところ、大地母神の教会というのはやはりこの3地区にしか存在していないらしい」
「じゃ、この被害者の人たちは」
「おそらく、信者にせよそれ以外にせよ、大地母神の教会を出たところで襲われたのだろう。そして被害者を順に見ていくと」
「あ、被害者が北、東、南の順番になってるね」
「つまり、今夜犯人は」
「北地区の大地母神教会から出てくる女性を襲う可能性が高い、と」
「そういうことになりそうだな」
 リックは言いながら半ば自分の言葉を信用していなかった。統計上、これだけしっかりと規則的に犯行が行われている。だが、何といえばいいのか、あまりに規則的すぎるところがリックに不安を与えていたのかもしれない。
「じゃあさっそくフィラスさんに教えないと」
 リーシャがそう言ったが、しかしリックはその言葉にすぐ肯定することはしなかった。それどころか、フィラスにこのことを教えるべきかどうか迷っていた。そして、リックは決断した。
「いや、フィラスには教えなくてもいいだろう」
 きょとん、とリーシャがリックを見返した。不思議そうな色をたたえた瞳がリックに向けられている。
「どうして?」
 1つには、フィラスへの疑惑というものがリックの中にあった。いったいフィラスが自分たちに対して何を隠しているのか、という疑惑である。
 第2に不思議な、としかいいようがないのだが、それこそリックが今までに一度も感じたことのない感覚なのだが、この事件は自分が解決しなくてはならない、といった使命感である。何故そのような感覚が芽生えているのか、それはリックにもはっきりとはしていない。だが、何かが、リックをそのように急かしていた。
「時間がない。犯行時刻は8時から10時ということだったが、7時には完全に日も暮れる。ここから北地区の教会に行けば間に合うだろうが、本部によると手遅れになるかもしれない」
「じゃあボクが知らせてくるよ。リックは先に行ってて」
「いや、犯人が複数犯だとしたら、大地母神の信者を助けるのに手一杯で犯人を取り逃がすかもしれない。とにかく、今は一刻を争う。リーシャも来い」
 ほとんど有無を言わせぬようにリックは早足で移動した。リーシャは「ちょ、ちょっと待ってよ、リック!」と叫んで、資料をしまいながらその後をついてきた。おそらくリーシャの中ではこのようなリックの態度は不審なものだっただろう。だが、リックは何故かこの件に関しては妥協の余地を許さなかった。



「そろそろ、9時だね」
 既に2時間、2人はこの教会の傍に身をひそめていた。だがこの教会から出ていく人はおろか、やってくる者すらいない。空には三日月がくっきりと浮かんでいて、その周りを星々で飾りつけられている。雲1つない晴天であった。
「ねえ、リック」
「今度は、何だ?」
 半分呆れたような声と表情でリックは答えた。
「う、そんな声を出さなくてもいいじゃないか」
「悪かった。それより、もう少し声を潜めろ。犯人が傍にいたらどうするつもりだ」
「ごめんごめん。そう、さっきから聞きたかったんだけど、どうして犯人は大地母神の信者ばっかり狙ったのかな」
「お前『女探偵イシュタル』シリーズは全部読んでいるんだろう?」
「うん、でもあれは物語の中での話でしょ?」
 リックはばつの悪い表情を浮かべていた。リーシャの目には、リックがその件に関してはあまり聞かれたくないような様子として映っていた。
「確かに大地母神の信仰が悪魔を呼び寄せるという『説』があることは本当の話だ」
「じゃあ、大地母神の信仰ってよくないことなの?」
「まさか。それは単なる迷信にすぎない。だが犯人にとっては、その迷信を単なる迷信ではないと判断してしまったのだろう」
「まあ、迷信が事実だった例はいくらもあるからね」
「ああ。だが、この迷信は間違いなく迷信にすぎないんだ。どうも大地母神の信仰が悪魔を呼び寄せるという説を提唱した人物は五百年ほど前の悪魔学者なんだが、彼によると、大地母神の教典が悪魔公爵テュリオを召還する呪文になっているのだ、としている。だがこれは」
「もちろん、でたらめなんでしょ?」
 リックは息を吐き出した。
「ああ。でまかせもいいところだ。彼はもともと大地母神の司祭だったそうだ。だが、その職を取り上げられて大地母神を恨むようになった、とされている」
「じゃあ、逆恨みでそんな説を提唱したってこと?」
「どうもそのようだな。全く、こういう馬鹿がいるから神学を勉強するのは難しい」
 心底いまいましげにリックが言い捨てるのを聞いて、リーシャは思わず笑いだしそうになった。
「ねえ、それじゃ──」
 と、リーシャがリックに話しかけようとした時、リックは真剣な表情に戻って教会の方を見つめなおした。つられて、リーシャもそちらの方に目を向ける。すると、1人の女性──暗くて判断するのにしばし時間がかかったが──が教会から出てくるのが分かった。
「信者、だな。もしくはこの教会に仕えている巫女か」
「巫女さんがこんな時間に出歩くはずないよ、リック」
「それもそうだな」
 ひそひそと、2人は言葉をかわしあう。そしてそのまま2人はじっとその女性の次の行動を見守っていた。女性はそのまま歩きだすとこちらの道へと歩きだした。
「どうやら、家に帰るところのようだ」
「じゃあ、もしかしたら狙われているかも」
「その可能性は高いな。どこかで彼女を見張っているのか、それともあらかじめ帰り道が調べられていて待ち伏せしているか」
 言いながら2人は周りの状況を改めて確認する。が、どこにも人の気配はない。おそらくこの辺りには犯人はいないのだろう。
「綺麗な星空」
 女性の声が2人のところに届いた。だがもちろん、とりたてて意味のある言葉を呟いているわけではない。
「どうする、リック?」
「気がつかれないように、後をつけよう。距離はしっかりととるんだ」
 そして、2人はその女性がぎりぎり視界に入るくらいの距離を保ちながらその後を追いかけた。1歩、動くたびに周りに人がいないかどうかを確認する。緊張感を最大限に保ちながら、少しずつ、少しずつ進んでいく。
 そして、女性がゆっくりと通りを左に曲がった。2人は頷き合うと少し歩みを速めてその曲がり角へと向かう。そして、その曲がり角にたどり着いたその時、であった。
 ひっ、と女性が息を飲む声が確かに2人の耳に届いた。そしてその声が聞こえるのと同時に2人は駆け出していた。そして、そこには既に気を失っている女性と、それをかつぎあげようとしている1人の男の姿があった。
「待てっ!」
 リックは声を上げながら走りより、同時に剣を抜いて相手を牽制した。男は、ちっ、と舌打ちすると女性を放り捨てて逃げ出していく。
「お前はこの女性を頼む!」
「分かった!」
 リックはリーシャの返答を待たずに男を追いかけていった。リーシャは素早く女性に駆けより、大丈夫ですか、と女性を助け起こした。
「ううん」
「しっかりしてください、もう大丈夫です」
 女性はうっすらと目を開け、そしてリーシャにとっては驚くべきことを言った。
「私、襲われていたのですね?」
「え?」
 女性はリーシャの助けでゆっくりと起き上がると、左手を額のあたりにあてていた。
「怪我はありませんか?」
 リーシャは何と声をかけていいのか分からなかった。襲われた女性としては、あまりにも様子がおかしかったからだ。
「怪我はありません。それどころか意識もあったんです」
「意識、が?」
「はい。突然目の前に知らない男性が現れて、それで何か奇妙な匂いをかいだと思った時には、全身の力がぬけていたんです」
「それは」
 リーシャには思い当たるふしがあった。
「どんな匂いでした? 甘ったるいような、それでいてお香に近いような匂いでは?」
 女性は思い出すように、ゆっくりと答えた。
「そう……そんな気も、します。甘いというか、気だるい感覚がありました」
「意識はしっかりとあったんですね?」
「はい。力が抜けていくのに、目の前で起こっていることだけははっきりと分かりました。あの、あの男の人が……私を……」
 ようやく、といっては失礼だろうか、女性はがたがたと体が震えはじめ、ようやく自分が襲われたということの実感を得たようであった。
「もう、大丈夫です。犯人はすぐに捕まります。今日は私が家までお送りします。もう大丈夫です」
 だが繰り返していうリーシャの頭の中で、これが途方もなく計画的な犯罪であったということがはっきりしてきていた。すぐにリックの後を追いかけたかったのだが、この女性を放っておくわけにもいかず、もどかしい気持ちがリーシャの中で渦巻いていた。



 一方リックは犯人をほとんど追い詰めていた。袋小路に追い込み、逃げ道を奪い、剣を突きつけて相手の降参を促す。だが、犯人は諦めようとせずにどうにか逃げる隙はないものかと模索しているようだった。
「諦めろ、もう逃げるところはない」
 リックは1歩、また1歩と犯人に近づいていった。建物の影になっていて顔まではよく見えないが、かなり小柄な男のようであった。髪も短く、ひょろっとした印象をそのシルエットからは感じられる。
「傷つきたくなかったら、剣を捨て、手を後ろの壁につけろ。そうすれば決して危害は加えない」
「ちっ」
 すると犯人は自暴自棄になったのか、リックに向かって突進してきた。だがリックはそれを軽くかわすと、一撃で剣をはじきとばし、男の腹を蹴り上げる。がはっ、という男のうめき声が聞こえた。大陸規模でその名が知られている傭兵組織『SFO』のA級ファイターが相手では、さすがに勝負にはならなかった。
 リックは男を縛り上げようと紐を懐から取り出した。が、その時、リックはえもいえぬ感覚に体が支配されてしまった。
 その感覚は、懐古、に近いものがあった。リックは、またか、と思った。この不思議な懐かしさ。2日前にもあったこの感覚。
 そして続けてリックは、この感覚の正体を知りたかったからこそ、自分は警備隊に連絡することをためらっていたのではないか、という気持ちに襲われる。
 その懐かしさは、すぐ後ろから発せられていた。
 リックは振り返ると、そこに1つの人影を見た。
「馬鹿、な……」
 この暗がりでも輝きを放つ豊かに波うつ金色の髪、雪よりも冷たく白い肌、見る者を魅了しながらも裁きを下さんとする意思すら感じさせる瞳、口もとに浮かぶ微かな笑み、そして──そして、胸元に揺れるペンダント。
「まさか……そん、な」
 そこに女神がいた。リックにとっては女神に等しい人物がそこに立っていた。2度と出会うことのない、出会うはずのない人物が、今、目の前で微笑んでいる。
 その女性は優雅な仕種で右手を差し延べると「こちらへ」と呟いた。するとその声に惹かれるように、倒れていた男が動き始めた。だが、それをリックは止めるどころか、眼中にすらなかった。リックはこの間、瞬き1つしてはいなかった。まさに、目の前の女性に目をうばわれていた。
 やがて、男の姿が消えると、その女性は聖母の笑みをたたえつつ、後ろを振り返った。
「ま、待て! 待ってくれ!」
 その声と同時、あるいは少し遅れて女性の姿が闇に溶け込むように消えていった。まさに女神のように、歩いて去っていったのではなく、消えるように、無くなっていくように去っていったのだ。
 リックは、目の前で起きた現象に信じられないでいた。いったい、何故、このようなことが起こりうるのか、全くもって理解できなかった。
 しばらくの間、リックはただ茫然とその場に立ち尽くしていた。



「リック、リーック!」
 リーシャの声が辺りに響いていた。リーシャは女性を家まで送ると、リックを探して周りを駆け回っていた。そして、ようやくリックの姿を見つけると、無事だった、という安堵とともにリックの下へ近づいていった。
「リック、よかった、無事だったんだ」
 しかしリックは俯いて何の返事もしようとはしなかった。それどころか、リーシャの声が届いているのか、それすらリーシャには判断することができなかった。何を語りかけても、リックはぴくりとも反応しようとはしなかったのだ。
「リック、ねえ、リックってばー」
 リーシャがリックの体を揺すると、ようやくリックは目が覚めたかのようにリーシャの顔を見返してきた。
「大丈夫、リック? 犯人はどうしたの?」
「……逃げられた……」
「そっか」
 まさか犯人に逃げられたことがショックで落ち込んでいるのだろうか、と一瞬考えたがリックにかぎってそれはないだろうとリーシャは自己完結した。だがすると、リックがいったい何故こんな状態でいるのかが理解できない。
「どうしたの、リック。何かヘンだよ?」
「……いや、何でもない」
 リックは小さな声で呟くが、それが尋常の様子でないことはリーシャには一目瞭然であった。こんなにショックを受けているリックを見たことは今までに一度としてなかった、といっても過言ではない。
「ねえ、何があったの?」
「いや。それより、保護した女性はどうなった?」
 ようやく、リックの頭が回転しはじめたようなのを感じ、リーシャはひとまず安心した。だがもちろんリックが何故ショックを受けてしまっていたのかは分からないままではあったが。
「うん、家に送り届けてきた。家族がいるから今日のところは大丈夫だよ。それから女性のことなんだけど、1つ分かったことがあるんだ」
「言ってみろ」
 リックはまだ本調子ではないようだったが、リーシャは自分からどんどん話しかけようとしていた。それにはリックが何故こうなってしまっているのか、という不安を打ち消していこうとする意識があったのかもしれない。
「襲われた女性には、レイセンの香料が使われていたようなんだ」
「レイセンの香料? それは間違いない、のか?」
「うん、前に一度試してみたことがあったでしょ? あれを嗅ぐと確か、脳の中の、脳幹網……とかなんとかいうところに直接働きかけて、機能が低下しちゃうんだよね。こうなると意識はあるんだけど筋肉が弛緩しちゃって動けなくなっちゃうんだったような」
「ああ、だがそれがレイセンの香料であるかどうかは」
「甘ったるい匂いとお香の匂いがあったっていうし、吸い込んだあとは気だるくなったっていうからまず間違いないと思う」
「そうか、よくやったな」
 珍しくリックに褒められた、と手放しで喜べるほどリーシャの心境は穏やかではなかった。少なくとも、今のリックは通常のものではないのだから。
「まあ、犯人は逃したがだいたいの識別はできている。警備隊に戻ってフィラス隊長に報告しておこう」
「でも、また犯人が誰かを襲ったりしたら」
「この犯罪は計画的なものだ。失敗したからといって無意味に他の人を襲ったりはしないだろう。それに、今日は疲れた」
 どうして、これほどまでに投げやりな態度なのだろうか、とリーシャは心配せずにいられなかった。少なくともここに来る前、いや、犯人を追いかける前まではこの捜査についてあんなにやる気があったのに。何だか突然人が変わったかのように、全てに対して無気力になってしまっている。
「どうした、帰るぞリーシャ」
 歩き出していたリックの傍に近寄ることができず、リーシャはその後ろを2歩分下がってついていった。いったい犯人と何があったのか、聞きたいのに聞ける雰囲気ではなかった。
 その、2歩、という距離が、2人の亀裂の大きさであったとするならば、何とじれったく、埋めにくいものであっただろうか。リーシャはリックのその背中に、その腕に、帰り道何度抱きつこうとしたか数えられないほどであった。だが、結局一度も2人は手をつなぐことも言葉をかわすこともなかった。
 リーシャはその夜、眠ることができなかった。



「……あまり、単独行動は控えていただきたかったですね」
 翌日、報告書をフィラスの所へ持っていったリックは当然のように皮肉を言われてしまい、リックとしてはただ頭を下げるほかはなかった。
「ですがまあ、これだけ犯人の特徴が分かっていれば、今日明日にでも犯人を捕まえることができるでしょう」
「よろしくお願いします」
「それで、犯人を取り逃がしたとありますが、共犯者でもいたのですか?」
「──いえ、誰も」
 返答にやや間があった、と思ったのはリーシャであった。もしかしたらフィラスにもそのように感じられただろうか。だがフィラスは少し間をおいて「分かりました」と答えた。「とにかく、捜査としてはこれで一歩前進ということになります。ご協力ありがとうございます」
「いえ、これではまだ事件の半分を解決したにすぎません。それも犯人を捕まえてすらいない。これでは助っ人としての役割を十分に果たしたとはいえないでしょう」
 台詞だけはすっかり元のリックに戻ってはいたものの、その表情には生気が見受けられなかった。それは前にリックに会ったことがある者ならば一見して分かるようなものであっただろう。当然フィラスにもそのことが分かっているはずだ。それともフィラスには単にリックに元気がないのは犯人をみすみす取り逃がしてしまったことへの後悔だとしか映っていないのだろうか。
「それで、今日はどのような調査をなさるおつもりでしょうか?」
 しばらく迷っていたようだったが、やがてリックは「資料を整理してみようと思っています」と答えた。つまり、外出するつもりはないと言っているのだ。
「それで、もし今日中にでも犯人が捕まったら教えていただきたいのですが」
「分かりました。すぐに人をやりますが、どこにおられますか」
「自室に」
「了解しました」
 そうして報告を終えると、2人は丁重に隊長室を出た。
「ねえ、リック」
 リーシャは自室に戻る途中、どうしても気になっていることを尋ねようと思ってリックに話しかけた。
「どうした、リーシャ」
「聞きたいことがあるんだけど──」
 言いづらそうにしているのを見て、リックはリーシャの頬に手をあてた。
「目が、赤いな。眠れなかったか」
「あ、うん……」
 眠れなかったのはリックのせいなんだけど、とリーシャは心の中で呟いた。
「それで聞きたいんだけど──」
「悪いが昨日のことなら聞かないでくれ。俺も、気持ちの整理ができていない」
 先手を打たれ、リーシャは言葉に詰まった。そしてリックに何と声をかければいいのか全く分からなくなってしまった。
「……じゃあ、気持ちの整理ができたら、教えてくれる?」
「…………」
 しばらく、リックは黙っていたが、やがて答えた。
「ああ……そうだな……」
 だが、その言葉は受諾したというよりはむしろあいまいに答えたというようなものでしかなかった。リーシャは自分が望んでいる答が得られないというもどかしさに気がくるいそうであった。
(どうして……)
 何も聞けず、何も言えない2人の関係は、今、かつてないほどに冷えきっていた。






四:女神の影

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