四:女神の影





 その夜、リックとリーシャはフィラスの部屋に呼ばれていた。だが犯人が捕まった、というには早すぎる時間であっただろう。だとすると、いったい何のために呼ばれたのだろうかと2人は思った。
 隊長室に入ると、そこにはぐったりと疲れ切っているフィラスの姿があった。その様子があまりにひどかったので、見ている者を思わず不安にさせてしまうところがあった。
「お疲れのようですね」
 リックが丁寧に声をかけると、フィラスは「ええ、まあ」と答えた。
「クレメント宰相にこってりとしぼられました。早く犯人を捕まえろ、とね。どうも民衆からの苦情が日を追うごとに増えているようです」
「もうしわけありません、自分の失敗のせいで」
「ああいや、こちらこそ非難したわけではありませんので、気を害されたのでしたら謝ります」
 と、その時フィラスは部下から呼び出しがかかり「しばらく待っていてください」と2人に告げると隊長室を出ていった。
「しばらく、か。どれくらい待たされるのかな」
「ねえ、リック」
 おずおずとリーシャはリックに話しかけた。
「何だ?」
「この国って宰相がいたんだね。ボクらの国にはそんなのいなかったのに」
「おい、リーシャ」
 リックは頭を抱えた。
「いくら政治に疎いからといって、隣国の様子も知らないのかお前は」
「う、だ、だってそんなこと気にする暇もないほど世界中動き回ってるじゃないか」
 リックは仕方なく、リーシャに対してこのファブリア王国の情勢というものを教えてやることにした。
 ファブリア王国の国王はカルロス・ヒュペリオン、当年56歳である。しかし、カルロス国王はもともと心臓に病を患っているというので、あと数年もすれば寿命だというのが医者の見解だとされている。
 カルロス国王は42歳の時に初の子供が誕生した。見事、王子である。国王も王妃も高齢だったため、もはや子は望めないだろうと言われていたので、国王の喜び方は熱狂的といえるほどであった。しかし、その1週間後、王妃の方が体調を崩し、帰らぬ人となった。王子が生まれてこれから、というときであったため、国王の落胆ぶりは激しかった。それと共に、我が子にかける期待というものは一層大きかった。
 王子はエリオット、と名付けられた。エリオット王子は当年15歳。見目麗しく、秀才の誉れ高い人物であるとされている。それでいて人柄もよく、宮廷の人々からとても愛されていたしかし何分、年若いということがあって、国王が崩御された後、しっかりと国を継ぐことができるかどうか危ぶまれているところがある。
 宰相のクレメントは現国王の従弟にあたる。やはりカルロス国王には兄弟もいなかったので、もし『エリオット王子が生まれていなければ』次の王となっていた人物である。従弟とはいえクレメントは未だ38歳と若く、国を継いで統治していくには十分な年齢であった。
 このような状況から、宮廷内はいま王子エリオット派と宰相クレメント派に別れて対立しているのである。エリオット派はあと3年、カルロス国王が持ちこたえてくれることを切に願っている。エリオットが18歳、成年となれば摂政を置く必要もないし、人事権をクレメント派に握られることもない。
「複雑なんだね、宮廷って」
 大体の状況を把握し、リーシャは素直な感想を述べた。
「まあ、このくらいの宮廷闘争ならどこにでもある。死者が出ていないだけまだ穏和な方だろう。もっとも、この先はどうなるか分からないが」
「うう、肉親同士の争いかあ。なんだか最近こういうのばっかりだね。ああやだやだ」
 リーシャがさも嫌そうに体を震わせた。
「だが、エリオット王子はあまりそういった宮廷闘争には加わりたくないという評判だな。話を聞くかぎりではクレメント宰相の方が一方的に権力争いを展開しているということだが」
「そりゃ、人柄のいい王子がそんな嫌なことに首をつっこむわけないよ。ああよかった、王子がそういう人物じゃなくて」
 どうやら、リーシャも『王子』という言葉に何らかの幻想を抱いている人物のようであった。妻の意外な一面を見て、リックは少々驚いていた。
「すいません、遅くなりました」
 ちょうどその時、フィラスが部屋に戻ってきたので、この話はここまでとなった。
「ええ、それで、用件というのはいったい何だったのでしょうか」
「それよりも、今私のところに連絡が来たのですが、どうやら犯人が捕まったようなのです。既に取調室に入れられているということなので、一緒に来ていただけますか?」
「よくたった1日で見つけられましたね」
 驚いて、リーシャが聞き返していた。
「ええ、リックさんが目撃した犯人の様子と、こちらでリストアップした人物の容貌とを照合して、疑わしい人物を調べていったんです。こちらとしても今日明日中に犯人を見つけるつもりではいましたが、ここまでうまくいくとは予想外です」
 おそらくは正直な感想をフィラスが述べると、リックは椅子から立ち上がった。
「それでは、その犯人のところへ連れていってください」
「分かりました」
 リックたちは取調室へと向かった。



 男の名前はオーソンといった。オーソンは今年で32歳になるが定職に就いておらず、兄夫婦のところに居候しているということであった。リックは昨日見た男に間違いないと、フィラスに目配せして伝えた。フィラスは頷くと、オーソンによって誘拐されたと思われる12人の女性のリストを見せ、その上で確認した。
「君が誘拐したのは、この12人だね?」
 オーソンはふてぶてしい表情を全く変化させずに「ああ」と答える。
「誘拐した女性は、どうしたんだ?」
 フィラスの質問に対して、ある意味では予想通りの答がかえってきた。
「殺した」
 そのたった一言に、フィラスもリーシャも顔をしかめた。後ろで話を静かに聞いていたリックだけが、その発言を無感動にとらえていた。
「何故、君はこんなことを?」
 オーソンはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと答える。
「大地母神の教義は悪魔公爵テュリオを現世に呼び出すためのものだ。だから、それを防ぐために俺は決意した。俺の行為は正しいことだ。こんなところに連れてこられなければならないいわれなど、ない!」
 淡々とした口調が徐々に熱を帯びはじめ、最後にはオーソンは叫んでいた。それを聞いたフィラスは、諦めたかのように大きくため息をつく。
「それだけの理由なのか?」
 フィラスはおそらく、怒っていたのだろう。たったそれだけの、ほとんど迷信といっても過言ではないもののために、12人もの命が失われたのだ。
「他に、何がある?」
 オーソンは勝ち誇ったかのように、フィラスを見下して笑った。
 フィラスは怒りを抑えると、淡々と質問を繰り返した。共犯者はいないのか、被害者はどうやって見つけてくるのか、レイセンの香料はどこから手に入れたのか、などなど。しかしオーソンはそれらに対してはほとんど黙秘といったような状態であった。1人で実行したのだし、大地母神の信者は悪魔公爵の匂いがするので嗅ぎわけられる、と主張する。ただし、レイセンの香料については決してどこから手に入れたかを喋ろうとはしなかった。
 それらのフィラスとオーソンとのやりとりは、別にリックにはどうでもいいことであった。もはやここまできたらオーソンの死刑は確定したようなものである。リックが聞きたいことはそんなことではない。たった1つ、それさえ聞くことができれば、リックはそれでよかったのだ。
「フィラスさん、席を外してくれますか」
 リックが控えめに声をかけた。
「彼に聞きたいことがあるのです」
 フィラスは大分迷っていたようだが、フィラスとしてもオーソンの処分が覆ることはないと判断していたのだろう。「お願いします」と一言告げると、取調室を出ていった。
「お前も、外に出ていろ」
 リーシャはリックにそう言われたが、リーシャは首を振って「ここにいる」と答えた。そのリックの瞳があまりに冷たかったので、思わずリーシャは泣きだしそうになってしまった。こんなに冷たい様子は、この3年間、一度もなかった。
(どうして……)
 リーシャの中に、その思いが溢れていた。どうして、隠し事をするのだろう。どうして、自分を側に置いてくれないのだろう。どうして、自分を拒絶するのだろう。
 リックはしばらくリーシャを見ていたが、やがてため息をつくと、前に出て椅子に座った。そして、男の顔をじっと見つめる。
「オーソン、といったな」
 リックは声を低くして話しかけた。オーソンはそのリックの不気味さに、僅かにたじろいでいたような様子が側で見ていたリーシャには感じられた。
「お前は、王都でおきている連続誘拐事件について、どう思う」
 オーソンは戸惑いを表情に出していた。いったい、この男が何を自分から聞き出したいと思っているのか、はかりかねているようであった。何しろ、その連続誘拐事件を引き起こしているのが他の誰でもない、オーソンであったのだから。
 そしてそれは、リーシャにしても同じであった。いったいリックがオーソンに何を聞こうとしているのか、全く想像もつかなかった。
「お前は12人を殺害した、と言った。だが、王都では20人もの女性が誘拐、もしくは殺害されている。では残りの8人はいったい誰が誘拐したのだと、お前は思っているんだ? 不思議には思わなかったのか?」
「それはそうだが」
 オーソンは戸惑いをそのまま声にしたようにして答えた。
「答えろ」
 リックは身を乗り出してオーソンに迫った。
「あいつは、誰だ」
 リーシャは、オーソンの体がびくんとはねあがるのが分かった。
「あいつが、お前に犯罪を唆したのだろう?」
「違う」
「あいつが、この犯罪を計画したのだろう?」
「違う!」
 オーソンは息を乱して叫んでいた。だが、その動揺はリックの語っていることが真実であると証言しているようなものであった。
「お前の経歴について調べたものがここにある」
 リックは3枚にまとめられているオーソンの身上書を机の上に置いた。
「お前は去年の春、大地母神の巫女に恋をしたが、かなわなかったそうだな」
「それがどうした」
「それが、お前の心の中で負い目になった。自分と、大地母神の教義とを比べられて、その巫女は大地母神の教義をとったのだから、それは仕方のないことだろう。だが、そのせいでお前は大地母神の教義を憎むようになった」
「違う、俺は……」
「お前は大地母神の教義そのものを憎むようになった。それを後押ししてくれたのが『女公爵イシュタル』だ。そうだな?」
 明らかに、オーソンの表情に驚愕の色が出ていた。
「調べた結果、確かに500年ほど前にそういうことを言いだした元神官がいるということを知り、お前は大地母神の教義が誤ったものであると主張することができる正当性を得た。そしてその主張をもって、お前は恋心を抱いていた巫女のところに訴えかけにいった。大地母神の教義は間違っているから、巫女をやめて俺のところに来い、と。しかし、巫女はそれを聞かなかった。当然のことだな、大地母神の教義を少しでも勉強したことがある者なら、その主張が単なる言いがかりにすぎないことなど誰でも知っている」
「嘘だ!」
「だからお前はその巫女を殺した。思わず、かっとなってしまったのだろう。我に帰ったお前は、その巫女の死体をどう処分するか、悩んだ。そしておそらくはどこかあまり人の来ないようなところに埋めたのだろうが、問題はここから先だ」
 リックが睨むとオーソンは、ひっ、と声を上げた。
「お前はあいつに、若い女性をさらって来るならこのことは黙っててやると脅された。そして、あいつが計画した通りに、13日おきに大地母神の信者を襲うことを了解した。大地母神の信者であれば、誘拐して殺害しようとも『悪いことではない』とお前は思ったんだ。だから、巫女を殺したこともお前の中では正当化された」
「違う、違う違う違う!」
「耳を塞ぐな!」
 リックは立ち上がると男の手を締め上げて机の上に伏させた。
「だが、よく聞け。あいつはお前の他にも人を使ってこの王都で若い女性を誘拐しては殺害している。分かるか、お前はあいつが犯罪を行うための道具にされたんだ。正当性などこれっぽっちもあるものか。お前は意味もなく12人の女性を殺した殺人者だ!」
「違う! 違う!」
 リックは手を放すと、呼吸を整え、改めて椅子に座り直した。オーソンはといえば、そのままの体勢でがたがたと震えている。
「このまま、単なる殺人者になってもいいのか」
 リックはオーソンに向かって声をかけた。
「あいつは、誰だ」
「違う、違う、違う…………」
 しかし、オーソンはただ繰り返すだけで、リックの求める答を喋ってはくれなさそうであった。
「あいつは誰だと聞いている!」
「やめて、リック!」
 再び激昂するところであったリックを、今度はリーシャが抱きついて止めた。リックは舌打ちしてリーシャを睨み付けた。リーシャは、睨まれていることが分かっていたので、顔を上げてリックの顔を見ることができなかった。そのままの体勢で、しばらく時間がすぎた。
「違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う……………………」
 その間中、オーソンはただひたすら「違う」というその一言だけを繰り返していた。



 部屋に戻ってからも、2人の間に会話はなかった。リックはしばらく黙って窓の外を見つめていたが、やがて1人、部屋を出ていこうとした。
「どこ行くの、リック?」
 おそるおそる、リーシャはリックに声をかけた。ついていこうと思って立ち上がる。
「お前は来るな」
 しかしリックはそう言うと、リーシャには目もくれずに外に出て行こうとした。リーシャはたまらなくなって、リックに向かって叫んでいた。
「バカ!」
 ドアを開けようとしていたリックの動きが、ぴたりと止まった。
「今日のリック、おかしいよ! どうして、ボクに何も言ってくれないの? オーソンに向かって言ったことは何だったの? どうして、そうやってボクのこと避けようとするの!」
 涙を流して叫ぶリーシャを見ても、リックはなおも無表情であった。それが一層リーシャの心を切なくさせる。
「いったい、ボクに何を隠してるの? 教えてよ。教えてよ、リック!」
 ついに、リーシャはしゃくりあげて俯いてしまった。
「こんなんじゃボク、安心してリックの側にいれないよ……」
 ひっく、ひっくと声を殺しているリーシャに向かって、それでもリックは何も言うことができなかった。だが、やがてリーシャの鳴き声がやんだ時、リックは一言呟いたのだった。
「あいつの……」
 リックの言葉に、はっ、とリーシャは顔を上げた。
「レティアの影が見える」
 そして、リックは外へ出ていった。ぱたん、と閉じられた扉の内側に、リーシャは絶望という言葉と共に自分が閉じ込められたことを悟っていた。



 レティア・プレースという名前を、リーシャはよく知っていた。どういう人物かは知らない。しかし、その名前は3年前、リックの友人という人物からよく聞かされたのだ。
 リックとリーシャは同じ街の出身である。レグニア、という辺境のこじんまりとしたとこであったが、街の人々は互いに仲がよく、地縁的によく結ばれている街であった。
 レグニアには私立の学校が1校あった。その学校には百人くらいの生徒が常時いた。5年制の学校で、入学は自由。学問を志す者には門を閉じないというのが学校の趣旨であった。
 リックはその学校では優等生であったという。13歳の時に入学したという話であるが、10歳前後で入学する者が多い学校においては、かなり遅い方だったといえるだろう。しかし、詳しいことはリーシャもその時代の学校に通っていたわけではないから分からないが、学問についてはまさに1を聞けば10を知るというような秀才ぶりで、入学から卒業まで首席を守りつづけたという。成績は学年問わず全生徒を合わせて順位づけがされるため、入学当初から首席をとったというのは過去に例がないというものであった。
 そのリックの1歳年上で、2年早く入学していたのがレティアという人物であった。
 9歳の時に両親をなくし、唯一の身内であった姉までも入学の1年前、12歳の時に失っていたリックは、このレティアという人物によく懐いていた。リックが入学を決意したのも、そこにレティアがいたから、というふうにリーシャは聞いている。
 2人は、学問においては同志であり、私生活においては恋人であった。リックが入学する前までは2年生ながらレティアが首席だったのだが、リック入学後はずっと次席だったという。2人はよく共同で研究したり、時には激しく論じ合ったということである。同志というよりはライバルという関係に近かった、とリックの友人は語っていた。
 しかし、学問という領域から離れると、リックは心の底からレティアを慕っていたようである。レティアにもどこか人を寄せつけないところがあったということであるが、この1つ年下の恋人を、レティアはよくかわいがり、愛していたという。
 レティアにも身寄りがなかったため、2人は幼いながらも同棲していたということである。おそらく、レティアが卒業してからも2人は学問において自宅でよく討論したりしたのではないだろうか。
 しかし、そのような2人の関係は長く続かなかった。
 今から6年前、リックが18歳の時のことである。リックは卒業後、この学校で教師になることが決まっていた。そして卒業式を終えた後のことである。リックは卒業の記念を祝ってくれるはずであろう、レティアの待つ家へと帰りを急いだ。そして、喜びいさんでリックは家の扉を開いた。
 そこに見たのは、レティアの首吊り死体であった。
 レティアは、自殺したのだ。その理由は定かではない。自殺の心当たりはリックには全くなかった。それよりも、レティアが死んだという事実が、ひどくリックの心をうちつけていた。精神的に心を許せるたった1人の人物であるレティアが亡くなってしまった、というその事実は、いまだ少年の心を保っていたリックに相当なダメージがあったのだろう。
 リックは10日間、飲まず食わずで過ごし、そしてそのあと忽然と姿を消した。リックの友人たちはリックのいそうな場所を手当たり次第に探したが、どうやらリックは既にレグニアを旅立ってしまったようであった。せめて、死んでないことだけを願い、それから3年の月日がたって、レグニアに帰ってきた。リーシャと出会ったのはそのときのことである。
 言うなれば、リックにとってレティアという人物は、何にもかえがたい、自分やリック本人以上の存在であった。リーシャはそのことをリックの友人から言われていたのだ。
『きっと近い将来、このことが君とリックの関係に亀裂を与えるだろう。しかし、それでもいいというのなら、それを乗り越えられる自信があるのなら、リックと結婚すればいい。そして、リックを、あの馬鹿をよろしく頼む』
 しかし、リーシャにはもはやその自信がほとんどなくなってしまっていた。レティアのことを思うリックの瞳には、自分などほんの一かけらも映ってはいなかった。レティアのことをいっぱいになっているリックの心には、自分など入り込む隙間はどこにもなかった。
「これじゃあ、ボク、バカみたいじゃないか……」
 リーシャはベッドに顔を押しつけて、泣いた。涙は後から後から溢れてきた。やがて泣きつかれたリーシャはそのままの体勢で眠りについていた。



(この懐古感)
 リックは外に出ると、不思議な感覚に導かれるままに、都市の郊外へと向かって歩いていた。
「いるんだな、そこに」
 ふらふらと、意識が定まっていないかのようにリックは歩き続けた。不思議な感覚は徐々に強くなっていく。きっと、この先に、彼女が、いるのだ。
『久しぶりね』
 声は、直接頭の中に響いた。六年ぶりに聞くその声は、あの頃と全く変わってはいない。
「お前なのか? レティア」
『私を、忘れたの?』
 リックは振り返ると、そこに昨日と変わらずにそこに立つレティアの姿を見た。一瞬、その眩しさにリックは目を細めた。
「忘れるはずがない」
 リックはレティアに向かって答える。
「あの時、どうして」
 レティアはくすりと笑った。
『これで終わりじゃないわよ』
 レティアはうっすらと消えていった。
「待て、レティア!」
『私に手駒はいくらでもあるんだから』
 レティアに駆け寄ったが、その時には既にレティアの体は闇にとけてなくなっていた。
「お前は、まだ生きているのか? それとも……」
 リックの頭の中は混乱していた。昨日から、ずっとこの調子である。
「あの時、どうして死んでしまったんだ? 俺がこんなに、愛していたのに……」
 愛しい、愛しい女。リックはレティアのことを自分の半身と信じていた。自分たちは互いに互いのことを理解しあえた。自分たちの罪、そして自分たちの希望。それらは永遠に分かち合うはずのものだったのに。
「どうして、俺を置いていってしまったんだ、レティア……」
 ひどくひさしぶりに、リックは孤独感を味わっていた。



 次の日の朝、2人は21人目の犠牲者が出たことをフィラスから告げられた。



「どうぞ、お座りください」
 フィラスに席をすすめられて、とにかくも2人は座った。互いに顔を合わせるのが心苦しかったが、公務とあっては嫌でも合わせないわけにはいかなかった。
「今回の犠牲者は、今までのものと違うということですが」
「ええ『犯行現場』にメッセージが残されていました」
「犯行現場、ですか?」
 誘拐という事件の性質上、犯行現場が特定しずらいというのはやむをえないことである。しかし、ここまで明確に言葉を使う以上、そこが犯行現場とフィラスが判断するに足るものがあったのだろう。
「そのメッセージとは?」
 フィラスは少し渋い顔をした。
「『これで3人』と、そう血で書かれていたということです」
「これで3人」
 リックは自分の手の中にある被害者のリストを見た。12人の事件はオーソンが犯人であることは疑いない。そしてそのメッセージを信じるならば、残った8人の被害者のうち2人を誘拐・殺害したのが同一人物であり、その人物が今回の事件を行ったということになる。
「どう、思われますか?」
 フィラスから小声で尋ねられ、リックは言葉を選んで慎重に答えた。
「本当に、今回の事件の犯人が他の事件と関係しているかどうかは、分かりません。今回で3回目の犯行だというなら、何故今まではそういうメッセージを残さなかったのか、そして何故今回からこういうメッセージを残すことになったのか、犯人の行動が矛盾しているからです。あるいはこれが初回の犯行であり、わざと『3人』としたのかもしれません」
「こちらを混乱させることが目的、ですか」
「今のところは、そういうふうにとった方が無難でしょう。もちろん、本当に3人目であることも考慮して、残りの8人の中から共通点を探すことを怠ってはなりませんが」
 だがしかし、この時リックの心の中にあったのは、別の意味で『3人』なのではないかということである。
 昨日、確かにレティアは『手駒はいくらでもある』と言った。だとしたら、これは自分に対するメッセージなのかもしれない。『これは3つ目の手駒なのだ』と。
「とにかく、犯行現場に行ってみましょう。現場を見ないことには推理のしようもない」
「分かりました。すぐ準備いたしましょう」



 犯行現場と思われる場所には、確かにそのメッセージが残っていた。
『これで3人』。
 いったい、このメッセージが何を意図して書かれたものなのか、リックには正直、つかみかねるところがあった。
「リックさん、これが身上書です」
 フィラスから数枚の用紙を受け取ると、リックはざっと目を通した。
「18歳、恋人はなし、か」
 18歳。そういえば、レティアが死んだあの日はリックの卒業と同時に誕生日であった。1つ年上のレティアと、ほんの12日だけ同い年になる日である。あの日、自分もレティアも18歳だったのだ。
「今日は暑くなりそうですね」
 フィラスが手をかざして太陽を見上げた。既に太陽は高く昇っており、さんさんと地上を照らしている。言われてみると、リックも知らないうちに額に汗していたようである。それに気がついて汗を拭おうとした時のことであった。
「──?」
 背中にぞくりと悪寒が走る。これは、今までの懐古感とかいうようなものではなく、明確な悪意であった。いったい、これは何だというのだろう。
「リーシャ、これを持っててくれ」
 リックはリーシャに資料を渡すと、自分の感覚に従って走りだしていた。
「ちょっ、リーック!」
 リーシャが止めるのも聞かず、リックはこの悪寒の原因を探るため、必死に走りつづけた。裏路地に入ったところで、何者かの影がさっと逃げるように動く。
「逃がすか!」
 リックはその影を追ったが、もはやそれらしき影はどこにも消えてなくなってしまっていた。
「どこへ──」
 相変わらず悪寒はやまなかった。むしろ増大しているような感じである。
 ふわり、とリックはその時懐かしい花の香りがした。と気づいた途端、強烈な吐き気を催す。
「この、匂い、は!」
 レティアが、あの日レティアが首を吊ったその部屋の中にたちこめていた、アリシアの花の匂い──!
 そして、風にのって、囁くような甘ったるい声がリックの耳に届いた。
『メッセージ、分かってくれたんでしょ?』
 やはり、あれは自分に対して向けられたメッセージだったのだ、と思いながらリックは意識を失っていった。
 懐かしい香りに包まれながら。



「リック、リック、起きて!」
 聞きなれた声がする。これは、レティアの声。
「こら、おーきーろ!」
「リーシャ?」
 目を開けると、そこに必死にリックを助けようとするリーシャの顔があった。
「大丈夫?」
「ああ、何とかな」
 リーシャの助けを借りて、リックはゆっくりと起き上がった。
「リック」
 リーシャは起き上がったリックを見つめた。
「また、レティアさんの影が見えたの?」
 恐ろしい質問であった。しかし、リーシャは聞かずにはいられなかった。ここで聞かなかったら、リーシャはきっと後悔したに違いないから。
「いや、違う。だが」
 だが。
 その先の言葉は何だったのだろう。リーシャは耳と目と体全体でその次の言葉を待ったが、リックは結局何も言わなかった。
「帰ろう」
 リーシャは、リックが自分に対して心を閉ざしているのだ、と感じていた。もう、自分の言葉はリックに届くことがないのだろうか、という不安とともに。






伍:過去と現実

もどる