伍:過去と現実





 その夜、リーシャはリックと2人で過ごすことに耐えることができず、1人で王宮内をぶらぶらしていた。王都警備隊のワッペンのおかげで、王宮のよほど奥深いところでなければ、リーシャは自由にこの中を動くことができる。正直、リックの側にいることができない今のような状態だとありがたい話であった。
 リックのことを考えながらぼんやりと中庭に座っていると、雲の動きに合わせて月の光がリーシャに降り注いできた。ふと見上げると、もうすぐ半分になる月が、うっすらとかかった雲の向こうに、申しわけなさそうに小さく浮かんでいる。
「アハハ。何だか、今のボクみたいだ」
 笑おうとしても笑えない、そういう状況はリーシャの心をひどく苦しめていた。
(どうして、いまさら)
 リーシャは心の中で叫んでいた。
(レティアさんはボクからリックを奪おうとするんだ!)
 両腕で膝を抱え、そして顔を伏せる。また、涙が溢れてきそうになるのをリーシャは何とか堪えるのに精一杯だった。
 リックの頭の中には、今やレティアのことで一杯であった。自分の入り込む余地などない。どうして、今になってレティアはリックの前に現れたのだろう。
 初めてリックと出会った日。リーシャがまだレグニアの学校で落ちこぼれだった時、リックは学校の臨時教師としてやってきた。今、改めて考えてみると、確かにあの時のリックは全く笑うことがなかったような気がする。きっと、まだレティアのことを忘れることができなかったのではないだろうか。
 リックは当時既に『SFO』のA級ファイターで、レグニアに戻ってきたのはある人物の護衛をするためだったらしい。詳しいことは聞かされていなかったのでよく知らないのだが、その護衛の傍ら、リックは学校の臨時教師を努めることになった。
 最初は、とんでもない先生だった。自分がリックから習っていたのは4日に1度の教養科目。しかしその内容の濃さたるや、落ちこぼれだったリーシャにはその1時間の授業でその日のエネルギーを全部使いきってしまっていた。しかも、翌日までの『課題』の量が莫大に多かった。リックは『間違いなくこの学校の図書館にあるもので調べられるから安心して残って勉強していけ』と言い切った。自分は学校の蔵書には全て目を通しているぞ、だから調べられるはずだぞ、と脅迫していたように思える。『課題』をやってこない者はリックは授業を受けさせなかった。学問はやる気のないやつがやるものではない、というのがリックの主張だった。
 最初の時間、リックから聞かれた5つの質問を自分は1つも答えることができなかった。リックから『やる気がないならやめてしまえ』と言われたのを、今でも覚えている。
 だから自分は『課題』だけはしっかりと次の日までに仕上げて提出した。一度も遅れたことはなかった。最初の課題を提出するために、自分は夜中の12時まで居残ってレポートを仕上げた。翌日また怒鳴られるのだろうかと思いながらレポートを提出した。だがリックは自分が提出したレポートを見ると『これだけ、次の時間までに調べてこい』とその場で添削して返してくれた。あの時、自分は認められたのだと思った。少なくともやる気さえあれば、リックは自分を見捨てたりはしない。努力を認められたということ、正当な評価をされたことが自分には嬉しかった。
 授業を繰り返し聞いているうちに、『課題』を提出する度に、リックと話をする毎に、自分はリックの知識量と識見とを尊敬するようになっていた。自分が調べたことの全てをリックは知っていた。自分が考えたことの全てに対して、リックは批評してくれた。
 一度、分からないことがあってリックに尋ねていったことがある。その時、リックはいつもの無表情でこう言った。『お前は調べもせずに俺に聞きにきたのか』と。学問とは習うことではない、自分で行うものだということを、初めてリックから教わったような気がする。
 半年後、自分はもう落ちこぼれではなくなっていた。リックから『俺が教えた中で、一番成長したのはお前だな』と言われて、涙が出るほど嬉しかった。この時、自分は既にリックのことを好きになっていたんだと思う。
 それでも、リックは一度も笑ってはくれなかった。
 放課後の図書館。調べ物をするために入った書庫で、リックがある本を読みながら泣いているのを見た。リックは自分に気がつくと、本を元の場所に戻し、そして立ち去っていった。ある女性の学術論文で、犯罪心理学について述べられたものだった。
 レティア・プレースという名前を知ったのは、この時である。



「どうしたの、お姉ちゃん」
 突然、後ろから声をかけられてリーシャは跳ね上がるほどに驚いて後ろを振り向いた。そこには、綺麗な顔をした小柄な少年の姿があった。サラサラした金色の髪と満月のように丸い瞳。きれいなもの好きのリーシャは一瞬その姿に目を奪われていた。
「お姉ちゃん?」
「あ、ご、ごめんね。ちょっと風が気持ちよかったから、涼んでたの」
 少年は少し不審そうな表情を浮かべたが、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべた。
「そうだったんだ。でも、ここは普通の人は立入禁止なんだよ。王都警備隊だからって入ってこれる場所じゃないんだけどな」
「え、そ、そうだったの?」
 どうやら、知らないうちに随分と奥の方まで来てしまってみたいである。リーシャは慌てて立ち上がる。が、するとこの少年はいったい何故ここにいるのだろうという疑問が頭をよぎった。
「それじゃあキミはどうしてここにいるの?」
 ストレートに尋ねてみると、少年は少しきまりがわるそうに鼻の頭を掻いた。
「うん。僕もお姉ちゃんと一緒。ちょっと、涼みに」
「ははあ、ここだと見つからないで来ることができるって分かってたんだね?」
 リーシャがそうやって聞くと、少年は何だか楽しそうな表情で答えた。
「うん」
「そっか。それじゃあ、ここにいたことは2人だけの秘密にしておこ、ね?」
 くすくす、と少年は笑いだした。そして「もちろん」と答える。
「よし、それじゃあ見つからないうちに逃げだすとするか。あ、そうだ。ボクはリーシャっていうんだ。キミは?」
「僕?」
 少年は何だか言いづらそうに、目線を逸らせて黙っていた。
(どうしたんだろう。何だか、自分の名前を言いたくないって感じだけど)
 リーシャがぼんやりと思っていると、近くの茂みがガサガサと鳴る音が聞こえてきた。
「大変、近衛隊の人が来る」
 少年は静かな声でそう言った。
「ええ? ど、どうしよう」
 リーシャは慌てふためいて、どうやって言い訳をしようか考え始めた。すると、
「お姉ちゃん、逃げて」
 と、少年が別の方向を指さした。どうやら、そっちに逃げ道があると言っているようである。
「で、でもキミは」
「僕のことなら大丈夫。だから、見つからないうちに早く」
「う、うん」
 何だか言いごたえできない雰囲気にあてられ、リーシャは1人、少年が指さした方向へと逃げようとした。と、その時、少年はリーシャの手をがっしりと掴む。
「え、な、何?」
「お姉ちゃん、明日も来れる?」
 少年が真剣に尋ねてくる。リーシャは動揺しているのもあって、どうやって答えたらいいか分からなかった。
「た、たぶん」
「じゃあ、僕待ってるから」
 そう言うと少年はリーシャの手を放した。しばらく呆然としているリーシャに向かって少年が「早く!」と言う。リーシャはその言葉に我に返ると、少年の示す方向へと逃げ去った。



 一方、1人で部屋に残っていたリックは被害者のリストを見返していた。
『これで3人』というメッセージが、リックの考えている通り、3人目の犯罪者だという意味だとしたならば、いったいどういうことになるのか。既にリックはオーソンという『1人目』の犯人を見つけていることになる。
 つまり、オーソンが殺害したのが12人で、残った被害者は今回の『3人目』の犯人の事件を除けば8人ということになる。すなわち、この8人は『2人目』の犯人によって誘拐されていることになるのだ。
 そこで改めて、リックはこの残った8人の被害者の中に共通点がないかどうか、探していたのである。しかし、そうたやすく共通点が見つかるものではなかった。およそ3時間の苦闘のすえ、リックはこの中から共通点探しをすることを諦めたのであった。
 では、犯人は無差別に誘拐していった、ということなのだろうか。どうやらここまでくるとその可能性が高いようである。こうなるとリックにしてみれば手のうちようがない。予防策も犯人像も推理することができないのだ。
 もし、この8件が同一犯によるものなのだとしたら、犯人はよほどの計画性を持った人間か、よほどの気まぐれかのどちらかである。
 犯罪を続けて繰り返すとなると、その周期というものが自然と生まれてくる。だがこの犯人の場合、過去6か月で8回の犯行を繰り返しているわけなのだが、最初の月に1回、次の月にも1回、しかしその次の月には4回犯行をしていることになり、2月とんで先月が2回、という犯行スケジュールになってしまう。これが本当に同一犯の仕業になるのか、この犯罪周期だけを見ても疑わしい。
 だが、レティアのメッセージは間違いなく自分あてのものであるはずだ。だとするとこの8件の事件は全て同一犯であるに違いないのだ。リックはこの時、違うかもしれないと疑問を抱いてはいなかった。これは、レティアから自分への挑戦である、とそう判断していたのである。
 とにかく、リックはこの件に関してはひとまずおき、今回の事件に関しての報告書を読むことにした。
 被害者はエレクトラ・フォートン、18歳。王都西地区在住。犯行日時は昨日の夕方以降。買い物に出かけてくると言って家を出て、そのまま帰って来なかったということである。両親は何かあったのではないかと思いつつも、翌日まで待ってみようということになり、翌朝一番に王都警備隊に駆け込んできたということである。
 やはり、この子ももう殺されてしまっているのだろうか、とリックは無感動に思った。全ての犯罪者の後ろにレティアがいて、レティアがオーソンに対しては女性を殺害することを命じていたのであれば、同様に他の犯罪者に対しても女性を殺害させていると考える方が妥当であろう。
「何のために?」
 そう、問題はそこだ。レティアは何のために女性を殺害し続けているのか。あの理知的なレティアのことである。きっと何らかの理由で、仕方なく犯行を続けているのに決まっている。
 何らかの、理由で。
 ここにいたって、リックはレティアを庇おうとしている自分に気付いていた。同時に、強い嫌悪と後悔と納得と、それぞれの感情を生起させていた。
「もしも」
 もしも、レティアが自分に対して犯罪を手伝えと言われたら、自分は何と答えるだろうか。その結論を考えた時、さすがのリックも身体中が震えた。もしかしたら、自分はレティアに従って犯罪者になるかもしれない、そう思ったのだ。
 ガチャリ。
 ノブが回る音の後に、扉は音もなく開いた。リーシャは静かに部屋の中に入ってくると、音を立てないように扉を閉める。
 しばし、2人は見つめ合った。しかし、交わされる言葉は何もなかった。
 リックは、何をしていた、と尋ねたかった。しかし、その資格を今の自分は失っていると考え、何も聞くことはできなかった。
 リーシャは、何をしていた、と尋ねられたかった。そして、中庭で出会った少年のことや、リックに対する今の気持ちなんかを全部夜が明けるまででも話し合いたかった。
 しかし、2人は何も言えなかった。そのままの体勢で何秒、いや何分が過ぎたのだろうか。やがてリーシャは「もう、寝るね」というと早々にベッドの中に入っていった。
 2人の間に生じた亀裂は、時間とともに大きくなっていった。



「何か、進展はありましたか」
 翌日、2人は揃ってフィラスの前に来ていた。先に発言したのはリックの方で、これはフィラスに首を振られて終わった。
「ただ、王都警備隊に新しい命令が来まして」
 フィラスの言うところによると、どうやら王都警備隊は夜間のパトロールを強化することになったということである。当然といえば当然だろう、今までその措置がとられなかったことの方がおかしい。
「だが、この広い王都をいくらパトロールをしたからといって犯人が捕まるものでもないでしょう」
「ええ。しかもこちらの捜査能力にも限界があるのに、あれもやれ、これもやれということになるとどちらも不十分なものになってしまう危険性があります」
 フィラスの言い分はもっともである。しかし、国としては何の対策もしないというのでは民衆に対する聞こえが悪くなるという側面は否定できないだろう。だとするとやはり過密労働になったとしても、王都警備隊の夜間パトロール強化はやむをえないといったところである。
「ですが、警備隊だけでは人員が足りないだろうということで、近衛隊も夜間パトロールをすることになったということです」
「近衛隊? それはまたおかしな話ですね」
 近衛隊とは、王族の身命を守護するために、常時その側で護衛することが任務のはずである。
「何も、正規軍をパトロールに出せばいいことだと思いますが」
 リックの言葉にフィラスも「まったくです」と頷く。
「ですが、警備隊のパトロール強化も、近衛隊がパトロールに出ることを提案したのも、クレメント宰相ですから文句を言う人物はほとんどいなかったみたいでして」
 なるほど、クレメント宰相もパトロールの人員を増やすという意味では少しは頭の切れる人物のようだ。しかしその人員を近衛隊から確保するというのが今一つ納得がいかない。
「近衛隊というと、現在この王都におられる王族といえば、カルロス国王と、エリオット殿下、クレメント宰相の3人だけですね」
「ええ、一時期に比べて王族も少なくなられましたから」
 クレメント宰相は38歳。妻はいるらしいのだが子宝に恵まれず、未だ子供はいない。ということは、もしエリオット王子がなくなられたら、王家の血は途絶えることになる。その危険を冒してまでも近衛隊をパトロールに使うというのだから、リックの中でクレメント宰相の評価が下がったのは当然のことだっただろう。
「こうなると、一刻も早く事件を解決しなければなりませんね」
 真剣な表情でリックが言うと、フィラスはしっかりと頷いた。
「今日はこれからどうなされるのですか?」
 フィラスが尋ねると、リックは少し悩んでから答えた。
「8件の被害者の犯行場所と思われるところを見てこようと思います」
「やはり、捜査は現場が基本ですか」
「まあ、そういうことですね」
 と、リックが立ち上がろうとしたとき、リーシャが青ざめた表情でリックを見つめていた。
「リック」
「どうした、リーシャ」
「ボク、何だか具合が悪いみたいなんだ。だから今日、ちょっとお医者さんのところに行ってきても、いいかな」
「具合が?」
 リックはとりあえずリーシャの額に手を置いてみるが、別段熱があるというわけでもない。
「まあ、具合が悪いというなら医者にかかった方がいいんだろうが」
「それでしたら、王宮にかかりつけの医者がいますから、その方に診てもらってはいかがでしょう」
 フィラスは善意で言ってくれたのだが、リーシャは慌てて首を振った。
「いえいえいえ! そこまでしてもらうほどのものじゃないですから。それじゃあ、ごめんね、リック」
「気にするな」
 もう一度、ごめんね、という呟きをリーシャが言うと、リックは頷いて取調室へと向かった。



 結局その日、収穫らしい収穫は何もなく終わった。



 その夜。リーシャは誰にも見つからないようにして、こっそりと中庭へやってきていた。幸い近衛兵がパトロールに出かけているため、リーシャは誰にも見つからず、無事にここまで来ることができた。しかし、肝心の少年の姿はまだなかった。
「待ってるって、言ったのにな」
 リーシャは昨日と同じ場所にちょこんと座ると、また空を見上げた。今日は昨日と違って雲のない夜空である。月は昨日よりもまた少し欠けていたものの、白く輝いている。その回りには無数の星。
「リックと初めて見た夜空も、こんな感じだったなー」
 ころん、とリーシャはその場に横になって空を見上げた。
 湖のほとりで、リックとその友人2人と、自分と、自分の友人と5人でキャンプをしていた。リックはああ見えても釣りが趣味だった。似合わない、と本人を目の前にしてつい言ってしまった。リック曰く『釣りは精神力、忍耐力を鍛えるには最適だ』と答えた。素直に趣味だと言わないところがリックらしい、と思わず笑ってしまったのをよく覚えている。
 夜になって、焚き火を囲んでみんなで話をした。でも自分の友人は夜遅くまで起きているのが辛いというのでさっさと寝てしまっていた。だから自然と話はリックたち3人だけで交わされていた。自分はリックの隣でその話をずっと聞いていた。
 レティアさんの話になった時、リックはかなり難しい顔になっていた。泣きだしそうに自分には見えた。リックはレティアさんのことについては何も言わなかった。2人は気まずくなってしまったのか、その話を中断すると、テントの中へと入っていった。
「考えてみると、ムード満点だったんだな……」
 本人の精神状況さえ無視できれば、だが。満天の星空、湖のほとり、そして焚き火の前に座る2人。外的な状況だけを捉えれば、これほどムードのある状況というのはなかなか作れないだろう。でも、この時のリックの心の中は、レティアという人物によって占められていた。
(今思うと、ボクってものすごく恐ろしいこと言ってたんだ)
 2人っきりなのに、リックは自分のことを見ようともしなかった。じっと炎を見つめて、ぴくりとも動かずにいた。その横顔が本当に切なくて、苦しくて。だから、自分は思い切ってリックに向かって言った。リックのことが、本当に好きだったから。
『ボクじゃ、レティアさんのかわりになれない?』
 その言葉を聞いたリックは、無表情でリーシャを睨んだ。
(やっぱり、怒ってたよなあ……)
 しかし、リックは小さくため息をつくと、リーシャの頭をぽんぽんと叩いた。そして初めて、リーシャはリックも笑うことができるんだ、と感心したのだった。
「ボクが思うに、あれはきっと呆れたんだな。うん、そうに違いない」
 1人呟きながら、リーシャはうんうんと頷いた。しかし、本当のところはどうだっただろうか。それはリックに聞かなければ分からない。
 数日後、レグニアの学校では前期の授業が全て終わり、臨時として雇われていたリックも任期が切れることになった。もっとも、この後もしばらくリックはレグニアに残ることになり、後期も一般教養の臨時教師として生徒たちが非常に嘆いていたが。
 その時既に、護衛の任務も終わっていたらしい。だとすると、リックはレグニアに残る理由は何もなかったはずだ。いったい、何のためにリックはレグニアに残ったのだろう。
(ボクを連れていくため、だったのかな──まさかね)
 当時5年生だったリーシャはあと半年で卒業だった。もしかして、リックは自分の言葉を本気にして、それまで待っていてくれたんだろうか。
「お姉ちゃん?」
 その時、リーシャに向かって小さな声が投げかけられた。リーシャはむくっと起き上がると、声の主を見つけて、にっこりと笑った。
「本当に来てくれたんだ。ありがとう。それからごめんなさい、遅くなって」
「いいよ別に、謝らなくても。実はボクも、キミに会いたかったんだ」
 それは嘘ではなかった。今は、誰でもいいから話し相手が欲しかった。
「僕も、お姉ちゃんに会いたかった」
 少年はにっこりと笑う。それがまた、途方もなく可愛く見える。
「それにしても、キミ、こんな夜遅くにこんなところにいていいの?」
 リーシャがいまさらのように尋ねるが、少年は「大丈夫」と答える。
「僕はこう見えても、もう15歳なんだ。1人で出歩いたって大丈夫だよ」
「15歳?」
 とてもそうは見えなかった。せいぜい12歳かそこらだと思っていた。このくりくりとした瞳に騙されてしまっていたようである。
「うーん、とてもそうは見えないなあ」
 正直な感想を言うと、少年はしょぼんとしてしまった。
「うん。よく、言われるよ」
「あ、ごめん、気にしてた?」
「気にしないで。僕が年若く見えちゃうのは、仕方のないことだから」
 無理して笑っているように見えたのは、きっとリーシャの気のせいではなかっただろう。
「あ、そうだ。まだキミの名前を聞いてなかったね。何ていうの?」
「うん、その……」
 やはり昨日と同じように、少年は言いづらそうにしている。
「本当は嘘ついた方がいいと思ったんだけど、隠すのがやだから正直に言うね。僕、エリオットっていうんだ」
「エリ……オット?」
 どこかで聞いた名前だと思った。その名前が記憶の中から出てくるのに少し時間がかかった。そして記憶の中の名前と該当したとき、まず顔が青ざめていくのが分かった。次に混乱した。
「え、えーと」
 最後に慌てた。少年──エリオットはそんなわたわたとどうすればいいのか困っているリーシャを見て、くすくすと笑っていた。
「本当に、王子様、なの? あああ、違った、ですか?」
 少年は笑うのをやめなかった。だがそのかわり、少しだけ寂しそうな表情を浮かべて、こう答えたのである。
「僕、普通に話し合える人がいなかった。だから、お姉ちゃんが僕に対等に話しかけてくれるのが嬉しくて、それでまた来てってお願いしたんだ。だから、今まで通り、普通に話してほしいな。駄目?」
 リーシャはあまりの出来事に「えーと、えーと」と繰り返すばかりであった。少年は困ったような表情で彼女の様子をじっと見つめていた。やがてリーシャはぴたりと止まり、じっと少年の顔を見つめた。
「話に聞いた通りだったんだ」
 少年はきょとんとした。
「エリオット王子は当年15歳。見目麗しく、秀才の誉れ高い人物であるとされている。それでいて人柄もよく、宮廷の人々からとても愛されている」
「お、お姉ちゃん」
 少年はかあっと顔を赤らめ、俯いてしまった。その様子を見てリーシャはくすっと笑った。
「本当に、普通に話してていいの?」
「うん、お願い」
「うーん、お願いされたら仕方がないなあ。ボクは時々無礼なことを言うかもしれないけど、それも許してくれるの?」
「うん。そういう人が欲しかったんだ」
 少年は気持ちのよい笑顔を浮かべた。
「それにしても、王子様って感じじゃないなあ、キミは」
 リーシャはいきなり無礼なことを言い出したが、少年は笑って「どうして」と聞き返した。
「だって、ちょっと褒められたくらいで赤くなったり、夜中に近衛兵の目を忍んで出歩いたり、普通の王子様じゃそんなことしないよ」
「うん。でも、僕は本当の意味で褒められたことがないから」
「どういうこと?」
「だって、僕の回りには僕のことを褒めない人はいないよ。僕が何をしても、さすがです、とか、見事です、とかそんなのばっかり。たまに失敗したとしても、お気になさらず、とかもしくは見なかった振り。こんなので本当に褒められたことがあると思う?」
「うーん、どうなんだろう。その人たちが本当にそう思ってるんだったら伝わると思うけど」
「じゃあ僕には伝わらなかった。僕のこと本当に褒めてくれたのは、お姉ちゃんだけだ」
 ちょっと脹れ気味に少年は言い切った。リーシャはちょっと困ったがこう答えた。
「でもボク、その人たちの気持ち、ちょっと分かるよ」
 少年は、リーシャの顔を見つめた。
「ボクも本当に好きな人の前だと、その人の機嫌を損ねないようにだとか、その人に嫌われないようにしようだとか、そういうことばっかり考えて、ちゃんと向き合って話さないこと、あるから……」
 そう、ちゃんと向き合って話すべきだったんだ。逃げるべきではなかったんだ。あの時自分が『レティアさんのかわりになれない?』と聞いたように、勇気を持って、話しかけていかなければならなかったんだ。
「みんな、本当に僕のこと好きなのかなあ」
 少年が本当に分からないというふうに言うので、リーシャは「当たり前だよ」と自信満々で答える。
「だって、キミはこんなにいい子じゃないか。こんないい子を嫌うのは人間じゃないよ」
「いい子、か」
 少年は嬉しそうな、それでいてちょっぴり残念そうな笑顔を見せた。
「でも、これだけは忘れないで」
 リーシャは真剣な表情で少年に向き合った。少年も、真剣な表情でリーシャを見つめてくる。
「自分が好かれているのは当たり前だ、なんて絶対思わないこと」
「自分が、好かれているのは当たり前だなんて、絶対思わないこと」
「まず自分が相手のことを好きになって、それでも相手が自分のことを好きになってくれなかったら……」
 その時は……。
「諦めずに、好きになってもらえるようにがんばること!」
「うん」
 少年はしっかりと頷いた。
「ありがとう、お姉ちゃん。何だかすごくすっきりしたみたい」
「ボクもだよ。何だか今まで悩んでいたのがバカみたいだ」
「お姉ちゃん、すごくいい顔だよ。昨日泣いてたのより、ずっといい」
「あ、あー、あれは」
 リーシャは思わぬ反撃に、顔が真っ赤に染まる。
「見てたの?」
「うん、しばらく」
 じゃあ、自分が月を見上げて変なことを口走ったのも、ひょっとして聞かれていた?
「それじゃあ、僕戻るから」
「ちょ、ちょっとっ!」
「また明日、来てもいい?」
 少年は、にっこりと笑うと暗闇の中へと消えていった。もー、とリーシャは言うと、微笑んで答えた。
「うん。また来るよ。ボクも」
 その時までには、リックとしっかり話し合って。



 部屋に戻ってくると、相変わらずリックが資料を読みふけっていた。ちらり、とリーシャの方を向く。
(ううっ、緊張するよやっぱり)
 リーシャは扉を閉めるとリックの側へと近づいていった。さて、どうやって切り出そうかと悩んでいると、先にリックの方が話しかけてきた。
「体の調子は、いいのか?」
 一瞬、リーシャはかあっと顔が赤くなったが、とりあえず今はその話をしようとしているわけではない。単純に「ちょっと疲れがたまってたみたい」と答えた。
「そうか、今日はもう休んでいいぞ」
「その、リック」
 だが、リーシャはリックの言葉に反抗した。リックが作業の手を止めて、リーシャを見つめてくる。
「……ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」






六:解決。そして新たな呪縛

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