六:解決。そして新たな呪縛
「話?」
リックは怪訝そうな顔をしたが、すぐに立ち上がるとカップを2つ取り出し、お茶を入れはじめた。リーシャはしばらくリックの様子を眺めていた。お茶を淹れている。それは分かる。それをいったいどうするつもりなのだろう、とリーシャはこの時真剣に悩んでいたのだ。
やがて、カップをリーシャの前に置くと、リックは自分も椅子に座った。その時、リーシャはようやくこのお茶が自分に出されたものだと理解することができた。
「リック!」
「な、なんだ突然、大声を出して」
「これ、ボクの?」
リックは2、3度目をぱちぱちと瞬かせ、お茶を一口すする。
「他に、誰が飲むんだ?」
「それもそうだね……って、ホントに?」
今度はリックは眉間に皺を寄せ、少し怒ったような表情を見せる。
「俺が茶を淹れるのが、そんなに不思議か?」
「そ、そうじゃないけど……やっぱりそうかも」
うーん、とリーシャが唸っていると、リックはため息をついた。
「それで、話とは何だ?」
「あ、そうか、そうだったよね」
リーシャはとりあえず出されたお茶を一口飲み、それから「えーと」と前置きしてから言った。
「今日はいい天気だね」
ごふっ、とリックはお茶を吹き出してしまった。
「リ、リック? 大丈夫?」
「お前なあ」
リックは口元を拭い、それから改めてお茶を入れなおした。
「ボク、そんなに変なこと言った?」
「変じゃないという証拠があったら見せてほしいくらいだぞ、俺は」
そしてようやくリーシャは、ほっ、と微笑んだ。その様子が不審に見えたのだろう、リックは憮然とした表情でリーシャを睨みつける。
「リーシャ、話があると言ったのはお前の方だぞ」
「あー、リック、ボクが『いい天気だねー』って言うのは、お話じゃないの?」
「本当に、それだけか?」
どうやら、リックはかなり怒っているようである。
「それだけだったら、駄目?」
「……」
リックは何を言っても無駄だと思ったのだろうか、再び資料に目を落とした。どうやら、リーシャのことは無視することに決めたようだ。これにはさすがのリーシャもカチンときた。リーシャは立ち上がると、右手をぐっと握りしめた。
ごっ、という鈍い音が部屋の中に響いた。少し遅れて、机の上に頭を抱えてうずくまっているリックの姿と、殴ってはみたものの自分の拳も悲鳴をあげてしまい痛がっているリーシャの姿とがあった。
「リーシャ」
どうやら、リックの怒りは頂点に達したようである。
「突然何をするんだ、お前は!」
声が低いだけに、よけいにリーシャの体は恐怖ですくみ上がる。だが、ここでリーシャも引き下がるわけにはいかなかった。
「だって、リックがもう『あの時』のこと忘れてるんだもん!」
リーシャは怒られて悲しいのと苦しいのと、どういものかはよく分からないけど、とにかく感情が激発してしまい、涙目になってリックに訴えかけた。
「湖で、釣りする時に、ボクが『いい天気だね』って言ったことなんか、すっかり忘れちゃってるじゃないか!」
「もしかして、それだけの理由で殴ったのか?」
「悪い?」
リーシャはぷくーっと頬を膨らまして、開き直ったかのようにリックを睨み付けた。しかし、リックももちろん黙ってはいない。
「あの時とは状況も何もかもが全く違うというのに、一瞬そのことを思い出せなかったことくらいで、お前は殴ったのか? 俺が本当に忘れているかどうか、確かめもせずに」
リックも右の拳を握りしめ、それをふるふると震わせている。もし、その拳がリーシャの頭を打ったとしたら、リーシャの命はなかっただろう。
「……覚えてたの?」
リーシャはおそるおそる尋ねてみた。
「お前、俺の記憶能力を相当甘くみてるな?」
「うそ……ホントに?」
「あのお前が言った台詞、1から10まで教えてやろうか?」
「う、そ、それは」
「よく覚えているとも。あのキャンプで馬鹿どもがレティアの話をした後で、お前が一大決心して『ボクじゃ、レティアさんのかわりになれない?』と聞いてきたこともな」
「あ……」
ほろり、とリーシャは溜まっていた涙を流した。
「覚えててくれたんだ」
あとからあとから涙が溢れてきた。リックはといえば、そんなリーシャの姿に動揺したのだろうか、それ以上何も言えなくなって困っている。
「ボク、レティアさんのかわりになること、できた?」
泣きながら尋ねると、リックはさすがに困った顔をした。答えられないということは、おそらく自分はレティアのかわりにはなれなかったのだろう。
「ボクね、ずっとリックと一緒にいたいよ。リックがレティアさんのこと忘れられないっていうことも覚悟してる。でも、それでも一緒にいたいんだ。リックが、ボクのことよりもレティアさんの方がずっと大事に思ってること、よく分かってる」
それは、とリックは何か言いかけたが、リーシャは人指し指をリックの唇にあてて発言を禁じた。
「リックは器用じゃないから、レティアさんのことを思っている自分にはリーシャを側に置いておく資格なんかない、とかそういうふうに思ってるんじゃないかな。これは、ボクの勝手な予想なんだけどね。でも、そういう気持ちだとしたら、そんなことには構わないでほしい。ボクは、何よりもまずリックの側にいたいんだ」
「リーシャ」
「そういうことをふまえて、もう1回聞くからね。ボク、これからもリックの側にいても、本当にいいの?」
リックは大きく息を吐いた。
「好きにしろ」
リーシャは言葉が欲しかったわけではない。欲しかったのはリックの気持ちである。リックが自分のことを必要としているという、その気持ちが欲しかったのだ。だからこの言葉を聞いたとき、本当にリーシャは嬉しかった。嬉しくて、涙が出た。それを見たリックは慌てていた。もしかして、リックは自分が間違ったことを言ったのではないかと思ったのではないだろうか。そう思うとリーシャは何だか面白かった。
「ありがとう、リック」
リックは何とも答えられず、ただ黙っていた。
「覚えてる、リック?」
「何を?」
「あのキャンプの時、朝までずーっと2人で話してたよね」
「ああ、そうだったな」
「本当に、あの時のこと全部覚えてるの?」
「多分」
「多分、ね。さっき言ったことは嘘だったの?」
「いや、自信はある」
「ふーん、それじゃあ全部言ってもらおうかな」
「とんでもなく時間がかかるぞ?」
「うーん。じゃあ、ボクが初めてリックに会った時、何て思ったかって言ったよね?」
「ああ。お前は『かっこいいけど、どこか怖い感じがしたんだ』って言ったな」
「それから?」
「それから『何となく、自分にとって大切な人になる感じがした』だな」
「実は、それウソなんだ」
「嘘?」
「そりゃそうだよ。最初にリックが教室入ってきた時は、すごくおっかなく見えたんだもん」
「あまり表情が豊かじゃなかったからな」
「それもあるけど、最初の授業が、アレ、だったでしょ?」
「あれは俺の教え方であって、今後も教育する機会があったらあのやり方でやるつもりだぞ。それのどこがおかしい?」
「みんなすごい迷惑してたんだよ。厳しい先生がきたー、って」
「やる気のないやつが学問なんかするな。したくともできないやつが世の中には何万といるんだ。それを考えれば、そういう環境にあって学問をしないやつなんか相手にしていられるか」
「うん、それってリックの持論だよね。そして自分でしっかりと実践してる。すごいとは思うよ。でも、学校ってそれだけじゃないから」
「というと?」
「ボク、学問はリックに会うまでその面白さが全然分からなかったけど、それでも学校は大好きだった。だって、友達に会って、いろいろ話して、そうやって人間関係っていうものを育てることができるんだ。そういうところって、大事だと思う」
「そうかもな」
「あ、納得してくれた?」
「まあな。俺はそうやって人間関係を大事にしたことはなかったからな」
「でもリックにも友達、いるでしょ?」
「あの馬鹿どものことか? あれはあいつらの方が変わってるんだ」
「ひどいこと言うなー。それじゃあボクも変わってるっていうの?」
「おや、自覚がなかったのか」
「う。リック、ひどい」
「冗談だ」
「あ、今、リック笑った」
「そうか?」
「笑ったよ、絶対、笑った」
「それならそうなんだろう」
「嬉しいな。リック、この事件が始まってから、あんまり笑わなくなってたから」
「そうだな、あいつのことを考えるとな」
「やっぱり、レティアさんのこと、大事?」
「大事とか、そういうレベルじゃないんだ。俺の人生の節目には必ずあいつがいた。15年前の両親の死、12年前の姉の死、それから6年前のレティアの死」
「言うなれば、レティアさんはリックの一部だ、てこと?」
「一部か。そう言えなくもないな。あいつがいなかったら、今の俺はなかったことは間違いない。それどころか、12年前に死んでいて当然のところだった。もっとも、レティアが死んだ時はこのまま自分も死のうとか思っていたがな」
「どうして、レティアさんは死んじゃったのかな」
「そればかりは、本人に聞かなければ分からないな。俺はあいつが死んでから3年間そのことばかりを考えて生きてきた。もう考えることもないと思っていたんだが」
「レティアさん、本当に生きてたのかな?」
「死んだのは間違いない。俺が見たレティアが本物なら生き返ったんだ。そうとしか言いようがない」
「なんか、不思議」
「何がだ?」
「ずっとリックと一緒にいたのに、レティアさんのこともずっと知ってたのに、リックとレティアさんのことを話すのは、今日が初めてだよね」
「そうだな。あいつのことは、俺もあまり話したくないんだ。また、苦しくなってくるから」
「やきもち、焼いちゃうな……なに笑ってるの、リック」
「すまない」
「何だか、眠たくなってきちゃった」
「明日も捜査だ。もう寝た方がいい」
「うん、そうする。お休み、リック」
「ああ、お休み」
「…………」
「…………」
「…………ねえ、リック」
「何だ?」
「久しぶりに、子守歌、歌って」
「子守歌?」
「ほら、ボクが初めて『SFO』に来た時に歌ってくれたじゃない」
「ああ、あれか」
「早く。あれ、前からずっと聞きたかったんだ」
「ふう、やれやれ。それじゃあ、1回だけだからな」
「うん」
「スゥ……、
『眠れ、我が愛しの子。
夢を見て、そしてまた明日、
素敵な笑顔を見せておくれ。
明日の楽しみのため、
今日はゆっくりと眠ろう。
さあ眠れ……愛しの我が子』」
「すう……すう……」
「リーシャ? 眠ったかい?」
「すう……すう……」
「お休み、リーシャ。俺、リーシャに側にいてもらって、本当に感謝している。大好きだ、リーシャ、お休み」
「……ありがと、リック……」
翌朝、フィラスの部屋から帰ってくるとリーシャが椅子に座って、大きく息を吐いた。
「まだ具合が悪いのか?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
リーシャにしてみると、リックがレティアのことを考えているということを認めたものの、それを肌で実感するのはやはり苦しい想いなのだ。リックもそのことが分かっていたので、それ以上はあえて追求することはしなかった。
「それじゃあ、この報告書を作成しておいてくれないか」
「うん、分かった」
簡単なやり取りをすませ、2人は別れた。
「さーて、てきぱきと仕事を終わらせるか」
リーシャは自分の部屋に戻ると、早速報告書を作成し始めた。今リーシャが作成している報告書は、21件目の事件の犯人について、というものであった。
リックは自分の推理がある程度真実をついているということを確信していた。
この一連の犯行の裏には、全てレティアがいる。そして、レティアは自らの手駒を使い、うら若い女性たちを集めては殺害しているのである。
おそらく、レティアの手駒は『これで3人』のメッセージの通り3人いるのだろう。そうなると既に捕まえたオーソン、残るは8人の女性を変則的に誘拐した犯人と、今回新しく生まれた犯人である。
捕まえるとしたらこの『3人目』であろう、とリックは判断している。というのは、事件が起きたばかりで捜査がしやすく、容疑者を調べることも容易だからである。
しかし、8人の女性を誘拐した犯人『2人目』については、おそらく被害者との関係は何もないのではないか、とリックは思っている。そうでなくてはこれほど変則的に犯行を繰り返すことはできないのではないか、と考えたからだ。だとするとこの『2人目』を見つけることは不可能に近い。
だが逆に、この新しい『3人目』と21件目の被害者エレクトラについては被害者と何らかの関係があるのではないか、とリックは判断している。というのは『1人目』のオーソンも最初は自分の片想いの相手を殺害していた。すなわち、最初は被害者と何らかの関係を持ち、それから犯行を重ねるようになるのではないか、と考えたのである。
そして今回の事件でもやはり被害者の周りにいる人物の中に怪しいと思われる人物がいた。それは、彼女の父親であった。
父親の名はディック・フォートン、38歳。宿屋の主人であるが、どうやら経営状態が悪く、借金を抱えているらしい。しかし、昨日の調査によると、その借金は娘のエレクトラの誘拐後、全額返金されていたのだ。
はたして、ここにはどういった因果関係があったのだろうか。ひょっとして、父親は娘を売ったのだろうか。おそらくはその可能性が高い。レティアに指示され、買い物と称して娘をある場所に送る。そこで待ち受けていたレティアによって連れさられた、とこんなところではないだろうか。
もっとも、報告書にはレティアのことまでを記述するつもりはない。宿屋の経営状況から、父親が娘の身売りを行ったのではないか、と推測をつけるだけのことである。問題は、どこからその金が入ってきたか、そのルートである。さすがのリックもそこまでは調べることができなかったのだ。
リックは部屋に戻ってくると、報告書と必死に格闘しているリーシャの姿を見て「まだ終わってなかったのか」と声をかけた。
「だって、今度の犯人は父親だっていうじゃないか」
「ああ。おそらくはな」
「また肉親同士なんだよ? リックだって少しは気分が悪くなるでしょ?」
「そうかな。意味もなく他人を殺すことができる人間の方が、俺は恐ろしい。自分と深く関係しているからこそ、利害関係が生じたりもするし、激しい憎悪にかられることもある」
「そうかもしれないけど」
リーシャは昨日とはうってかわって、頼り無げな表情を浮かべた。やれやれ、とリックは呟きリーシャの後ろから報告書を覗き込む。
「なんだ、できてるじゃないか」
「うん。でも、それでいいの?」
「悪くない。これだけ書けていれば報告書としては十分役に立つ。これをフィラスのところへ持っていこう」
「分かった」
2人は改めて、フィラスのところへその報告書を持っていった。フィラスはそれを一読すると、頬を掻いて「なるほど」と言う。
「逮捕令状を請求しても、かまいませんか?」
「ちょっと早いかもしれないですね。自分はこう推測しただけのことであって、本当に父親が娘を身売りしたかどうかはまだ決まったわけではありません」
フィラスは考え込むようにもう一度報告書に目を通す。
「分かりました。こちらでももう少しこの件について調査をすすめてみます。そしてこの事件の犯人が父親だという確証を探してみましょう」
「よろしくお願いします」
リックは一礼した。
その夜、リーシャはまた中庭に来ていた。今日は綺麗な夜空に少しだけ雲がかかっている。月が欠けているということははっきりと分かるところまで月齢が経っていた。これから10日余りかけて、ゆっくりと月が消えていくのだ。
「お姉ちゃん」
夜空を見上げていると、いつもの可愛らしい声が聞こえてきた。少年は今日も来てくれたのだ。
「待ってたよ、エリオット」
リーシャは笑顔で迎えると、少年ははにかんだような笑みを浮かべて、リーシャに近づいてくる。
「お姉ちゃんの言ったとおりだった」
リーシャの隣に腰をおろすと、少年はすぐにも報告したいというようにリーシャに話しかけてくる。
「僕は、他の人たちをみんな『他人』なんだって一括りに考えてた。きちんと向かい合って話してみたら、1人ひとり、みんな違う考え方を持っているのに。そのことに今まで気がつかなかった」
「みんな、エリオットのこと好きだったでしょ?」
「うん。何だか、こんなことで悩んでたのが馬鹿みたいだ」
「ボクも、どうしてこんなことで悩んでたのか、本当に分からないや。きちんと向かい合って話すだけのことだったのに」
もちろん、それがとても勇気の必要なことだということは、2人ともよく分かっていた。勇気は必要だったが、一度話しかけてしまうとどうしてこんなことができなかったのか、と自分に問いかけてしまいたくなる。
「ごめん、お姉ちゃん。実は今日、あまり時間がないんだ」
いかにもすまなさそうに、少年は言う。
「どうしたの?」
「うん、本当はあまり言ってはいけないことなんだけど、父上の容態が昨日からおもわしくないんだ。近衛兵の数も少なくなってるから、僕が父上の側についててあげないと」
「そっか」
そういえば、エリオットも母親を早くになくした人物であった。母親というものを全く知らずに育つと、自然と父親を大切に思うものなのだろうか。
「それじゃあ仕方ないね。明日も、来れないのかな?」
「うん、多分。父上の容態がよくなれば来れるかもしれないけど、難しいようだったら来れなくなるから」
「分かった」
「それじゃあ、また」
少年は、静かに茂みの奥の方へと消えていった。リーシャは、しばらく会えなくなるのかな、という残念な気持ちで満たされていた。
その帰り、いつもと同じ道を通っているはずだったのに、何故だか見たことのないところに来てしまっていた。いったい、ここはどのあたりなのだろう、と心底不安げにきょろきょろと辺りを見回す。
「こういう時に限って見回りの1人もいないんだから」
人がいれば場所を聞くこともできるのに、それをすることもできない。しかも月がちょうど雲に隠れてしまったため、周りの状況すら把握できないほど暗くなってしまっている。
「うーん、どうやって戻ろうかな」
リーシャはさすがに困りきって、どうしたものかと悩んでいた。その時、
「そこで何をしている!」
「うひゃあ!」
突然後ろから声をかけられ、リーシャは心臓が爆発するのではないか、というくらいに驚いて悲鳴を上げていた。息を乱し、心臓に手をあてながらゆっくりと後ろを振り返ると、そこには近衛の紋章をつけたまだ若い兵士の姿がある。
「助かった」
その声を聞いて、近衛兵は不審な表情でリーシャを睨み付けてくる。
「あ、ぼ、ボク、王都警備隊のものです。用事をすませて戻るところだったんですけど、道に迷っちゃって。お願いですから、王都警備隊の本部まで連れてってください」
「警備隊?」
近衛兵はリーシャの左腕につけられているワッペンを見ると、どうやら疑いが晴れたようである。
「ここはクレメント宰相の館の近辺だ。道に迷うにしても、このあたりに来ることはないと思うが」
「クレメント宰相の?」
「何だ、自分のいる場所も分かってないのか?」
「分かってたら自分で戻れますよー」
近衛兵は「仕方がないな」と呟く。
「自分は護衛の任務があるから、持ち場を離れることはできない。ただ、任務の時間がもう少しで終わるから、それまでここで待っていろ。そうしたら警備隊本部まで送ろう」
「ありがとうございます。よかったあ」
リーシャは心底、安堵のため息をついた。近衛兵もその様子を見てくっくっと忍び笑いを漏らす。
「しかし、君みたいな女の子が警備隊にいるとは知らなかった」
「うーん、それについては守秘義務があるので、あんまり喋れないんです。でも、警備隊っていうのは本当ですから」
「まあ、そのワッペンは警備隊長が直々に発布できるものだから、信用してはいるが」
「そうなんですか?」
「ああ、色でね。区別できるんだよ」
改めてリーシャはワッペンを見つめた。フィラスさんは随分と大層なものを自分たちに与えてくれたのだと思う。
「それで、用事っていうのは何だったんだ? それも守秘義務か?」
「まあ、そうなんですけど」
さすがにエリオット王子と密会していた、などとは口が裂けても言えない。そうやって守秘義務を口実になんとか誤魔化そうとした時、リーシャは茂みの背後に何者かの気配を感じた。
「近衛兵さん……そこ、誰かいる」
「何?」
近衛兵がそちらに注意を向けた時、ガサガサッと音がして何者かが向こうへと逃げ去っていった。
「待てっ!」
近衛兵はその影を追いかけた。リーシャもそれに続く。しかし、城壁の側まで行ったところで、もうどこにも気配を感じなくなってしまった。
「逃げられたか」
「ごめんなさい、ボクがもっと慎重に教えていればよかった」
「いや、あれほど巧妙に逃げきれるやつだ。どうあっても捕まえることはできなかっただろう。君が教えてくれなければ自分は気がつくこともなかったかもしれない」
「でも」
と、リーシャが近衛兵の顔を見上げた時、その後ろ──城壁の上に、1つの影を発見した。
「あそこ!」
城壁の上を指さすと、近衛兵もその姿を確認するために振り返った。
「あ、あれは」
リーシャは、自分の目を疑った。
年齢はおそらく50歳前後。ほとんど白髪だらけになってしまっている頭髪、鋭い眼光、たくましい体つき、そして、腰に下げた年代物の長剣。
(おとうさん?)
リーシャは自分の目を疑っていた。確かに、あれは自分の父親。しかし、故郷にいるはずの父親が何故ここに。
「お前は!」
近衛兵が叫ぶと、父親は城壁の向こう側へと姿を消した。その一部始終を見ながら、リーシャは目の前で起こっていることがどういうことなのか、全く分からなかった。
(何でおとうさんがここに?)
漠然とした不安を抑えることができず、リーシャはその場に座り込んでいた。
七:影追いし者たち
もどる