七:影追いし者たち
「賊、だろうか」
昨夜の不審人物の話題はリーシャからリックに直接伝えられていた。また、フィラスからもその話を聞かされ、リックは改めて『今、この時期に王宮に不審な人物が入ってきたことの理由』について考えていた。
「リーシャ、その男の姿は全く見てないんだな?」
「う、うん。ちらっとしか……」
リーシャは自分の父親、ヴァリア・アドニスがその正体であったかもしれない、ということをリックに伝えてはいなかった。リーシャの中で、見間違いかもしれない、という思いがまだ残っていた。と同時に、父親がこんなところにいるはずがない、という気持ちがあった。
「しかし、近衛兵から逃げだしたということなら、やはり何らかの悪意を持った人物だと考える方が利口だろうな」
「やっぱり、そう思う?」
リーシャは、すがるような瞳でリックを見つめたが、リックは「ああ」と答える。
「まあ、リーシャも他に何か思い出したことがあったら言ってくれ」
ずきん、とリーシャの心が痛んだ。おそらく、リックは自分が何かを隠していることに気がついている。そうでなければこういう言い方をすることはない。
「どうして、そう思うの?」
「何のことだ?」
あくまでシラを切るリックに対して、リーシャは何かやり切れない気持ちになってしまい「ちょっと出てくるね」と言い残すと、逃げるように部屋から出ていった。
リーシャが何を隠しているのかは分からないが、今のところリックはそのことを追求するつもりはなかった。今は先にすることがあったのだ。
今日の午後にはディック・フォートンの逮捕令状が出る。警備隊からの資料によると、父親の証言では『娘は買い物に出かけてくる』ということだったが、昨日母親から証言を求めたところ『父親におつかいを頼まれて出かけた』ということである。これによって、どうやらリックの推測は正しいと判断して警備隊は令状を請求したようである。
逮捕の前に、父親から最後の事情聴取を行うだろう。その時にはリックも同行しなければならない。かなうならばレティアのことも尋ねておきたい。とりあえず今のリックにはそのことで頭が一杯だったのだ。
とはいうものの、リーシャのあの態度はやはり何かおかしいところがある。故意に不審人物がどんな容貌であったかを隠しているし、不審人物が悪人でないことを願っているような感じを受ける。
リーシャがかばわなければならないような人物、それも男となるとそうは多くないはずだが。
リックは1つの可能性について考えていたが、馬鹿らしくなってやめた。いったいどうして、この王都ヒュペリオンから徒歩で30日以上も遠くの町にいる人物がこんなところにいるというのだろうか。
午後になって、フィラスはリックとリーシャを伴いディックの宿屋へと向かった。もちろんディックをすぐにでも人身売買、及び卑属売買の疑いで逮捕することはできる。だが、なるべくなら自首という形をとりたい。自首であれば罪は減刑されることが一般であるからである。
宿屋に入ると、ディックの妻がフィラスの顔を覚えていたらしく、よくいらっしゃいました、と出迎えてくる。
「今日はディックさんにお話を伺いたいのですが、どちらにおられますか」
そうフィラスが尋ねると、妻は困ったような表情を浮かべる。
「どう、なされました?」
「それが朝方、ちょっと出かけてくると言って出ていったきり、主人が帰ってこないのです」
はっ、となってリックとフィラスは顔を見合わせた。
「奥さん、昨日あなたが証言なされたことを、ご主人に話されましたか?」
妻はきょとんとした顔で「ええ、それが何か」と聞き返してくる。
「分かりました。それでは今日のところは失礼させていただきます」
フィラスは丁重に辞し、リックと鋭く頷きあった。そして宿屋を出てフィラスは「しまった」と呟く。
「逃げられたようですね」
リックがいまいましげに言うと、フィラスも頷いた。
「ええ、ですが王都の中にいるのであれば問題はありません。すぐに四方の門を固めて人の出入りを厳しくチェックすると共に、ディックを捜索することにしましょう」
「すいません、昨日の段階で令状をとっていればこうはならなかったでしょうが」
リックはフィラスに言われた時に令状を取るのを遅らせたことを後悔して、謝意を表明した。しかしフィラスは別段気にしたふうではなかった。
「いえ、とりあえずこれでこの一件の犯人がディックであることは判明したようなものです。お気になさらず」
とにかく今は、逃げだしたディックを捕まえることが先決である。すぐに包囲網を整えなければいけない。3人は急いで警備隊本部へと戻った。
四方の門には朝方からディックらしき人物が通った形跡はないということであった。とりあえず、まだこの王都の中にいることだけは判明し、リックもフィラスもほっと胸をなでおろした。
リックたちは本部へと戻ってくると、すぐに四方の門へ伝令を走らせ、ディックらしき人物が通った形跡があるかどうか、そして今後ディックが門を通るようであれば拘束するようにと伝えたのである。
続けて手の空いている警備隊員を集めて、四地区に隊員を分けて捜索にあたらせた。同時にディックの宿屋にも2名派遣し、ディックが帰ってこないかどうかを見張らせてある。
こうしてじりじりと時間だけが経過し、夕方になってもまだ連絡は入ってこなかった。よほど巧妙に隠れているのか、それとも警備隊の裏をかいて逃げ回っているのか。
「フィラスさん。自分も捜索に行ってきます」
リックはディックの資料を読み終えると、フィラスに向かってそう進言した。
「容疑者の居場所が分かったのですか?」
「確証があるわけではありませんが」
フィラスはしばらく考え込んでいたが、やがて「分かりました。思うとおりにやってみてください」とリックの単独行動を許可した。
「じゃあボクも行くよ、いいでしょ?」
「ああ。好きにすればいい」
リーシャも気合を入れて立ち上がった。
「それで、リックはどこに容疑者がいると思ってるの?」
城門から出たところでリーシャが尋ねてくるので、リックはこう答えた。
「さあ」
「また誤魔化すの?」
明らかに誤魔化そうとしている、とリーシャは判断したのだろう。不満を声に出してくる。しかし、リックは実のところ全く見当などついていなかった。
「強いて言えば勘だな」
「カン? どういうこと?」
「今日出歩いていたら、何となく容疑者と出会えるんじゃないかと思った」
「本当に、それだけなの?」
「ああ」
リーシャは頭を抱えて「うーん」と唸った。
「リーシャはどこへ行けばいいと思う?」
リックがそうやって尋ねると、リーシャはしばらく考えてから答えた。
「西地区」
「根拠は?」
「カン」
リックは苦笑を堪えると「ではそうしよう」と言った。
王都は北、西、南、東の四地区からなる。王城があるのはそれらのちょうど中央部にあたる。城の東側には城門前広場が広がっており、そのせいか東地区が最も繁栄しているといえるだろう。逆に、容疑者ディックの宿屋のある西地区は、東地区と比べるとどことなく寂れた感じがうかがえる。王都内にいくつかある農場も、やはり西地区に多い。
「それなのに、大地母神の教会が西地区にないっていうのは、ヘンだよねー」
それはリーシャの言うとおりではあるが、もともと開発の遅れていた西地区には教会は建たなかった、というのが原因だろう。王都ヒュペリオンの人口が爆発的に増加したのは30年前からのことである。それまで開発が遅れていた地域である西地区に移住する者が増え、今では人口は西地区が最も高くなってしまっている。
「なるほどね、もともと人口が少ない所だったから教会をたてても儲からなかったんだ」
露骨な表現ではあるが、リーシャの言うことは正しい。教会といえど御布施を貰えなければ廃業しなければならない。だからそれまで人口の少ないところには教会を建てる必要がなかった。しかも西地区の人口が爆発的に増加してしまったため、いざ西地区に教会を建てようとしても、条件のいい土地は既に移住者に買い取られていた、という事情があったのであろう。
「リックって、本当に物知りだねー」
「人口の問題は、政治学、地理学、経済学、社会学など分野が多岐にわたる。学問をするなら非常に有意義な分野だ」
「でもリックの専門じゃないんでしょ?」
「まあな。ただヒュペリオンの人口増加の問題は関心があったから、学校に通っていた頃に勉強していたからな」
リックが学校に通っていた頃となると、6年以上は前だということになる。
「そんなに前から?」
「おかしいか? 社会情勢が変化しているのに、それに関心を持たないことの方がおかしいと俺は思う。俺が着手したのはむしろ遅いくらいだ」
「うーん。でも、普通の人は違う国の一都市にまで関心は持たないと思うよ」
ふむ、とリックは頷き、そんなものだろうか、と呟く。人口増加の問題は別にヒュペリオンに限ったものではない。人口が増加すれば当然に食料や生活必需品は不足する、また移住者に対して市民権を与えるのか、与えるとしたら以前からの定住者とどれだけの差を設けるのか、といったことが当然問題になってくる。こういう問題は単純に言えば故郷のレグニアにだって起こりうる問題であるし、そうだとすれば先例であるヒュペリオンの人口増加の問題を考えることは決して無意味とはいえないはずだ。
「そろそろ、暗くなってきたね」
リックが学問について考えていると、リーシャが空を見上げてそんなことを呟いた。
「最近は雨も降らず、いい天気が続いているな」
「そうだね。ここのところ毎晩お月さまが出ているし」
この地方では毎年この時期に、一定期間全く雨が降らないということがある。いかなる条件によってそれが発生するのかはまだ定かではない。リックもこれについてはいろいろと調べてみたのだが、やはり雨が来ない原因が毎年のように変わるので、調べきれなかったという経験がある。
「雨はいつ来るかな」
「雲だけなら、いくつかあるんだけど」
「まあ、調査に出ている間は雨に当たりたくはないな。服が濡れると体に張りついて非常に気持ち悪いし、動きずらい」
「同感同感。戦いの時もできれば雨、降ってほしくないんだよね。周りは見えなくなって大変だし、雨の音で敵の気配も分からなくなるし」
「ほう、少しは一人前の口をきくようになったな」
「うーん、この2年間でリックにみっちりと鍛えられたから」
へへ、とリーシャは照れ笑いを浮かべた。実力だけならとっくにA級ファイターになれるはずである。問題は、この性格の方にあった。
(お調子者で慌てん坊だからな。もう少し落ちついてくれれば)
もっとも、リーシャに本当にA級ファイターになってもらいたいか、ということになるとまた悩んでしまうリックであった。リーシャもA級になると、2人揃って任務に着くことが非常に少なくなってしまうだろう。できれば、リーシャとはいつも同じ任務についていたい。だとしたらやはりリーシャにはこのままB級に留まってもらっていた方がいいのではないだろうか。
「リック」
その時、リーシャが静かな声でリックの袖を引っ張った。そこ、と目線でリーシャが訴えると、暗がりでよく見えないが、確かに2つの人影がある。
(気付かれないように、近づくぞ)
(了解)
小声で確認しあうと、その人影にそっと近づいていく。しかし、あと少しの所まで近づくとその人影は突然逃げだした。
「リーシャ、追うぞ!」
「うん!」
本当に見つかったか、とリックは自分の運と勘に感謝した。そして全力でその人影を追いかける。T字路で向こうが二手に別れたので、こっちも二手に別れて追いかけることにした。
「リーシャは向こうを!」
「了解、まかせてよ!」
そうしてリーシャは人影を追いかけていった。普段鍛えているおかげか、足の速さはリーシャの方がずっと上だった。みるみるうちにその人影に追いつき「止まりなさい!」とリーシャはその人物に声をかける。
「ちいっ」
男はこちらを振り向くと、手にしていた短刀を構えた。その時、リーシャはその男の顔を確認した。リックから渡された人相書の通り、やはりディックであった。
「そこまでだよ、ディックさん。これ以上罪を重ねないで」
「うるさいっ!」
ディックは不慣れな手つきでリーシャに襲いかかってきた。リーシャは帯剣してはいたが、ディックのその手つきを見て抜くのを控えた。そして突き出される短刀を交わしつつその腕をきめて路上に押さえ込む。
「うがああああっ!」
リーシャが思わず本気で腕をきめてしまったので、ディックは腕が折れるかと思うほど痛かっただろう。短刀を落とし、何とかリーシャの束縛から逃れようとするが、しっかりと押さえ込んでいるリーシャの前ではその行動は無意味だった。やはり、こう見えてもリーシャはあくまで戦士であった。
膝と左腕を使ってそのまま男を押さえ込み、右手で警備隊から貸与されている紐を取り出し、後ろ手でディックを縛り上げた。
「これでよし、と」
完全にディックの身動きが取れないように両手両足を縛り上げると、リーシャはリックが気になったものの、このままディックを放っておくわけにもいかず、とりあえず事情聴取することにした。
「ディックさん。聞きたいことがあるんですけど」
ディックはここに至って観念したようであったが、リーシャとは視線を合わせようとせず、ただ黙っていた。
「エレクトラさんはどこに連れていかれたんですか?」
「……うるさい」
「ちょっと、ディックさん」
「うるさい! うるさい、うるさい、うるさい!」
こうなるとまるで駄々っ子である。リーシャからするととても38の男には見えなかった。どうしようかなあ、とリーシャが悩んでいると、その時運よくパトロールで通りかかった警備隊員を見つけた。
「ちょっと、そこの警備隊員さーん!」
大声で呼ばれ、警備隊員は慌ててこちらの方へ向かってくる」
「これは、ご苦労さまです」
リックとリーシャの顔は警備隊の中ではすっかり有名になってしまっている。それも無理はなかっただろう、この2人が来てから捜査は一気に進展しているのだから。
「これ、ディックさん。捕まえておいたから、本部に連行しておいてくれないかな?」
「こいつが、ですか?」
警備隊員は慌てて検分をした。人相書と見比べ、確かにディックであることを認めると、リーシャに向かって「分かりました、間違いなく連れていきます」と敬礼した。
「お願いします、ボク、まだ行かなきゃいけないところがあるから」
そう言って、リーシャはまた走りだした。リックともう1人の影は反対方向へ走り去っていったのだ。
はたして、その人物は誰だったのか。
リーシャは最悪の予想を考えてしまっていた。もしも、もしもディックの手助けをしたのが……自分の父親だったなら。
リーシャは頭を振ってその考えを否定し、リックの後を追いかけた。どこへ行ったかも分からないが、とにかくリーシャは走り続けた。
一方、リックはなかなかその人物に追いつかなかった。リックと同じくらいのスピードで逃げ去っていく。ここは何としても絶対に追いつかなければならない。リックはさらにスピードをあげてその人物に迫っていった。
「待て!」
その言葉に反応するかのように、その人物の動きが止まった。そして、暗闇の中、ゆっくりとこちらを振り向く。
リックの予想はあたった。やはり、ディックを裏で操っていたのは。
「レティア……」
鋭い碧眼が、リックの心を動揺させる。いったい、何故、レティアは若い女性を浚っていくのだろう。それから、それから。
リックの心の中でさまざまな疑問が渦巻いていた。しかし、レティアはそんなリックの心境までかまってはくれなかったようである。手にしていた長剣を構え、リックと対峙する。リックは顔を顰めたが、自分もゆっくりと腰の剣を抜いた。
しばし、2人は構えたままで時間が過ぎる。
リックはレティアの剣の腕前をよく知っている。そもそもリックが剣を教えてもらったのはレティアからだった。何度もレティアに叱られ、傷つけられ、そうして剣を覚えていったのだ。厳しい先生だった。それでも、リックはレティアに指導を受けてよかったと今でも思っている。そのレティアと剣を交えなければならない、というのは複雑な気持ちであった。
先に動いたのはレティアだった。ステップを踏んで、一気にリックとの間合いを詰めた。リックは心に迷いがあったのか、それに素早く反応することができなかった。左腕をわずかに切り裂かれた。かすり傷であろうが、完全にかわすことができなかった。それは、肉体が傷つくよりも、戦士としてのプライドを強く傷つけていた。
こちらが怪我を負う前に敵を倒す。それが戦いだと何度もレティアに教えられたではないか!
もう、手加減をするつもりはなかった。いや、手加減をしようなどと考えたこと自体、自分の中に油断があったのだ。自分はレティアの死後、十分に強くなったつもりでいたのだ。それは自惚れにすぎなかった。レティアは今でも、自分よりはるかに強い!
今度はリックから仕掛けた。レティアはリックの剣を自らの剣で受けた。そのまま力比べの体勢になった。この6年、しっかりと力をつけたはずなのに、レティアは自分と力まで互角にわたりあっていた。
「何故、お前は女性ばかり浚っていく」
決して力をぬかず、リックはリーシャに問いかけた。すると返ってきたのは、こういう答であった。
『私が完全に復活するのに、あと30人、51人の生贄が必要なのだ』
「なに?」
生贄、という言葉と、51、という数字の両方に、一瞬、その答に動揺して力がぬけてしまったのか、リックはレティアにはじき飛ばされた。そしてすぐに剣撃が襲いかかる。
「くうっ」
リックは転がってそれを避け、どうにか体勢を整える。間一髪だった。
「では、お前は生き返るとでもいうのか?」
その問いにはレティアは答えなかった。かわりに剣の舞を披露されることになる。
「……レティアッ!」
リックが斬りつけた剣は空を切った。しまった、と思った時には遅かった。レティアは自分の右側に回り込んで、必殺の一撃をたたき込もうとした。
やられる、とリックは覚悟を決めた。その時であった。
リックを追いかけていたリーシャは胸騒ぎを感じていた。この強大な嫌な感じは前にも感じたことがあった。それがいつのことかは、もうリーシャにはどうでもよくなってしまっている。今はただ、リックが無事であればいい。そして……そして、父親がその場にいなければ。
ギィン! と、剣と剣がぶつかり合う音が聞こえてきた。近い、とリーシャはさらに足を速めた。近くで、リックが戦っている。自分が行って助けなければならない、とリーシャは自分を急がせていた。リックが自分よりもはるかに強いことは分かっている。それでも、今、リックを助けることができるのは自分だけなのだ、という観念がリーシャの中に満たされていた。どうしてここまでそう思うのか、自分でもよく分からない。
そして、角を曲がったその先に見たのは、最悪の光景であった。
自分の父親が、今まさに最愛のリックを殺さんとしている。
リーシャは、考える間もなく叫んでいた。
「おとうさん、やめてっ!」
リーシャの叫びに、レティアは戸惑ったようであった。その隙にリックはレティアに体当たりをした。『ぐうっ』とレティアは声を上げた。そのあまりの体の軽さに、リックは衝撃を受けていた。これではまるで、中身のない人形のようではないか。
しかしそのようなことを考えているような余裕はリックにはなかった。レティアは跳ね飛ばされながらも体勢を立て直し、その透き通るまでに白く美しい足を振り上げて、リックの頭を強烈に蹴り付けた。
「ぐはっ」
リックは一瞬、目の前が真っ暗になったが、気力を振り絞って何とか立ち上がった。しかし、レティアは既に逃げだしてしまっていた。どうやら、取り逃がしたようである。
「リック! リック!」
まだふらついているリックの体をリーシャが抱き留めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「リーシャ……」
リックはリーシャにもたれかかった。そして何とか意識を正常に保とうとする。頭の痛みも徐々に引きはじめ意識が戻り始めると、リックは今までのことを整理しようと今度は逆に頭を活発に働かせ始めた。
「少し、休ませてくれるか」
リックがそう言うと、リーシャはよしかかることができる壁のところまでリックを連れていき、そこに座らせた。そしてリックがそれでもなお握りしめていた剣を取り、丁寧に鞘に収める。
「リーシャ、お前、おとうさん、と言ったな」
びくん、とリーシャが緊張したようにリックには見えた。
「うん……」
「お前には、あれが父親に見えたのか?」
リーシャは涙目になって、リックに抱きついてきた。
「そうだよっ! 昨日の夜に城に忍び込んできたのも、あれはおとうさんだったんだ。リックだって一度会ったことがあるじゃないか! あれは本当に、ボクのおとうさんなんだよ……」
ひっく、ひっくとリーシャは泣きだしてしまった。しかし、リックはその言葉の意味がまだ把握できなかった。
自分がレティアだと思って剣を交えていた相手が、リーシャには父親ヴァリアに見えた、というのか?
リックの頭の中で、慌ただしく今までの事象が整理しなおされた。
生贄と復活、レティアとヴァリア、レティアについて尋ねた時に異常なまでに怯えていた誘拐事件の犯人オーソン、そして──そしてこの王都。
「……何でこんな簡単なことに今まで気がつかなかったんだろう」
自分のあまりの馬鹿さ加減に思わず笑いたくなる気分であった。その可能性は、この都市にきた最初の日に既に考えていたではないか。それを今の今まで忘れているとは、自分は何と愚かで、間抜けであっただろうか。
「リーシャ、あれはお前の父親ではない」
「いいよ、慰めてくれなくても」
「人の話を聞け。本当に違うんだ」
リックはリーシャの顔を上げさせると、その涙で一杯になった瞳を覗き込んだ。
「あれは、俺にはレティアの姿に見えた。お前が父親だと思っていた人物が、俺にはレティアに見えていたんだ」
「どういうこと?」
「つまり、あれはレティアでもお前の父親でもない、ということだ」
「じゃあ……じゃあ、あれはいったい誰?」
リーシャが戸惑って尋ねてくる。リックは今度こそ自信を持って答えた。
「かつて、この土地を支配し、その姿は見る者にとって最も大切な者を映したと伝えられている、混乱を司る悪魔、キュドイモス」
「キュドイ、モス」
「考えれば、当たり前のことだったんだ。レティアは死んだ。それなのにレティアの姿が俺の目に映るということは、それはレティアではない存在であるはずだ。だとしたら、それがキュドイモスであると考える要因は揃っていたはずだ」
それが曇ってしまったのは、おそらくレティアが自分の目の前に現れて、自分自身が混乱してしまったからだろう。全く、混乱を司るとはよくいったものだ。
「じゃああれは、おとうさんじゃなかった?」
「ああ、間違いない」
するとリーシャはまたしてもボロボロと涙を零した。
「よかった……!」
リーシャは再びリックの胸に抱きついた。昨日からずっと父親のことで苦しんでいたのが晴れて、心から安堵していたのだ。
しかし、そのリーシャの喜びは、帰り道に既に消え去ってしまうことになる。
「ねえ、リック」
「どうした?」
リーシャはその時、どれほど顔が青ざめていただろうか。今が夜であることに、月女神に百も感謝の言葉を捧げなければならなかっただろう。
「手、つないでもいい?」
「ん、ああ」
するとリックの方からリーシャの手を取った。リーシャはその手の暖かさを感じながら、漠然とした不安が明確に形作られていくのが分かった。
「そういえば、もう1人の方はどうしたんだ?」
リックから尋ねられ、リーシャはびくん、と体を硬直させる。
「う、ん、だいじょうぶ、だよ。警備隊の人に連行して、もらったから」
「お前が捕まえたのか?」
リーシャはそれ以上、言葉にならなかった。リックの声はほとんど耳に入っていなかったが、とにかく頷くだけは頷いた。
「そうか、やはりディックだったのか?」
また頷いた。リックはそれを見て「よくやったな」と声をかける。しかし、その言葉に対してもまたリーシャは無機的に頷いていた。
(キュドイモス)
リーシャは自分の頭の中で、リックが言った言葉の意味を考えていた。
『見る者にとって最も大切な者の姿を映す悪魔』
それはつまり、見る者、すなわち自分たちにとって最も大切だと無意識のうちに考えている人物が、そこに見えるはずである。この時、リーシャが感じていた不安とは、次の2つであった。
『リックにとって、一番大切な人は自分ではなく、レティアさんであった』
もっとも、このことはあらかじめ覚悟はできていたのでそれほどショックを受けていたわけではない。さらにショックを受けたのは次のことである。
『自分にとって、一番大切な人は、リックではなく、父親であった』
自分もエリオットと同じく、生まれてすぐに母親を亡くしていた。だから、子供のころはずっと父親と2人だった。父親はレグニアの警備隊の人間で、あまり家にいる方ではなかったから、たまの休みになると本当に嬉しくてはしゃいでいた。
リックと結婚し、父親と離れなくてはならないと決めた時、自分は父親の胸で思いきり泣いた。一晩中泣き続けた。この地上でたった2人だけの親子。リーシャにとっては父ヴァリアは本当に大切な存在だ。だが、自分はそれでもリックのことが好きだったからこそ、父の下を離れたはずだった。それなのに──
(ボクは、今でもリックのことよりおとうさんのことを)
旅立ちの朝、一気に十は老けたような父親の姿を今でも覚えている。レグニアを出て2年、何度故郷に戻って、父親に会いたかったことか。もう数えることもしなくなっていた。
(ボクは間違いなく、誰よりもリックのことが一番大切だと思っていた、はずなのに)
リックのことが大切だと思ってきたからこそ、ついてきたのに。それなのに、自分が一番大切なのは実は父親だというのだろうか。それなら自分は何故リックについてきたのだろうか。そして──そして、自分こそリックの側にいることが許されるのだろうか?
リックと繋いでいるこの手。リックの手を握っている自分はいったい何だというのだろう。本当に、この手を握ることができる資格が自分にあるのだろうか。
リーシャは再び、絶望の中へと落ち込んでいった。
八:一番大切なヒト
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