拾:神剣イアペトス
翌日。国王崩御の報が正式に発表された。確かに前々から国王陛下の病状は思わしくなかったとはいえ、突然の訃報であった。王宮はこの報に大騒ぎとなった。その中で、さほどその影響を被っていなかったのは、王都警備隊であった。それは警備隊の隊員が右往左往しなかった、とかそういう意味ではなかった。単に、本部の中にほとんど人がいなかっただけのことであった。
国王崩御の報が王都に悪い影響を与えていないか、都市で混乱は起きていないか。そういった王都の状況を知るためにも警備隊はパトロールをさらに強化しなければならなかったのである。彼らは国王が崩御したということで混乱する余裕を与えられなかった。各々が自分のするべきことを上官から伝えられ、その職務を果たすことで国王崩御の報から自らの組織を守っていたのである。
国王崩御という事実が王都に巻き起こした影響というものは、それまで王宮が考えていた事態をはるかに上回っていた。王都住民のほとんどが王城東門に集まっていた。ある者は国王のために涙を流していた。またある者は国王の後を追って自殺をはかった。もちろんそのような者は少数であったが、前国王カルロスは確かに国民からの信頼を得ていたことの証明であった。信仰の対象であった、といっても過言ではない。
王都のほとんどで、住民たちは自主的に店を閉めて喪に服すようにしていた。この点について、宮廷から喪に服するための営業停止を命じるようなことは決してなかった。あくまで住民が自分の意思でそのような行為に及んだのである。
もちろん、この騒ぎに乗じて犯罪を企むものも皆無ではなかった。このような者のほとんどは警備隊によって現場をおさえられ、本部に連行された。
このままいくと『カルロス2世の6都市』から大量の住民たちが王都にやってくるのは時間の問題であった。そうなると混乱はさらに増大することになる。しかし彼らを追い返すわけにもいかない。彼らはカルロス2世の崩御に立ち会うために来ているのであり、彼らのほとんどはカルロス2世によって土地を与えられ、商売を始めることができた人々であったからだ。
このように、カルロス2世は王国を発展させただけでなく、国民からの絶対的な支持を得ていた点においても極めて稀な君主であったといえるだろう。
「すごい騒ぎですね」
リックはある意味で、この時この場所にいられることを喜んでいた。カルロス2世が名君であることは理解していたつもりであった。しかし、これだけ民衆からの支持が得られた国王というのは、過去に例がないのではないだろうか。この王都の混乱は政治的に非常に検討に値する出来事であった。この混乱を直接目で見ることができることに、リックは感謝すらしていたのである。
「ええ。まさか宮廷でもこれだけの騒ぎになるとは思っていなかったでしょう」
フィラスはリックの言葉に沈鬱な表情で答えていた。昨日、国王カルロス崩御の報を伝えられた時のショックからまだ立ち直っていないのだろうか、とリックは心配する。
フィラスは確かに昨日、凄まじいショックを受けていた。その報が伝えられた時、フィラスはまず立ち上がり、そしてがっくりと膝を着いた。そのまましばらくフィラスは動けなかった。その場を収拾するだけの冷静さを完全に失ってしまっていた。仕方なくリックがフィラスの代わりに簡単な指示だけはだしておいたのだが、この様子ではもしかすると昨日からずっとこのままなのかもしれない。
「リックさん」
フィラスは表情を曇らせたまま、リックに話しかけた。
「実は、お願いがあるのです」
「伺いましょう」
こちらの方が頼み事があるのだが、とリックは内心思う。しかし、今はフィラスの話が先だろう、とフィラスの話を聞くことにした。
「実は今日の夜、エリオット王子がヒュペリオン大神殿に伺うことになっているのです」
「どういうことでしょう」
リックは我が耳を疑った。この時期に、何故エリオット王子がわざわざ王城から出て、ヒュペリオン大神殿まで出かけなければならないのだろう。
「ファブリア王国の成分法に王位継承法があるのですが、王国を統治する者はヒュペリオン神の承認を得ることを要する、というのがあるのです」
「ええ、知っています。戴冠式はその条文を根拠として行われていますから」
「はい、そうなのですが、この王位継承法に施行規則というものがありまして、ここでは国王不在の折り、王国を代理して統治する者もヒュペリオン神の承認を得ることを要する、というように定められているのです」
リックは驚いた。そのような規則があるというのは初耳であった。
「それは知りませんでした、勉強不足ですね。つまり、代理統治者となるエリオット王子はこの百日間、王国を預かるためにヒュペリオン大神殿に行って承認を受けなければいけないということですね」
「勉強不足ではありません。この施行規則は一般に公布されていないのです。何しろ、王位継承者がわざわざヒュペリオン大神殿まで出向かなければならないのです。公になっては混乱を生じますし、暗殺を企てる者も出てくるかもしれません」
それはその通りだ、とリックは納得した。
「それで、頼みとは」
「はい。実はそのエリオット王子の護衛をお願いしたいのです」
「ちょっと待ってください。我々は正式な警備隊ではありません。それに、こういう任務は近衛隊の役目ではありませんか」
「ああ、すみません。少し説明を省きすぎました」
フィラスは顔の汗をハンカチで拭った。
「仰るとおり、護衛には近衛隊があたることになります。王都警備隊はその間も王都の警備にあたらなければなりません。しかし、王都警備隊から2名の随員が認められたのです。それを、お願いしたいのです」
「2名の随員ですか」
リックはこの突然の展開に戸惑っていた。
まず、この事態をキュドイモスはどうとらえるだろう。おそらくクレメント宰相からその情報は伝わっているはずだ。となると、おそらくキュドイモスは絶好の機会とエリオット王子を狙ってくるのではないだろうか。
次に、このような重要な任務をわざわざ自分たちに振り分けるフィラスの真意である。いったい、彼は何を自分に期待しているというのだろうか。単純に『SFO』として、傭兵としての力量をかわれたのか、それとも他に理由があるのか。
「それから、護衛の対象はエリオット王子だけではありません。クレメント宰相も王子に随行されます」
フィラスの次の言葉は、リックの心に大きな波紋を引き起こしていた。
「どういうことですか」
「これは王国摂政法施行規則によるものなのですが、百日の不在期間に摂政の位について国王代理の補佐をする者は国王代理と共にヒュペリオン神の承認を得なければならない、とされているのです」
「摂政法施行規則? 聞いたことがありませんね。それも、公布されていないのですか?」
「はい。この百日の不在期間に関する法については一般に公布されている法典のどこにも明文規定がありません」
(これだから王国の法律学は勉強する気にならない!)
内心、リックは怒りを覚えていた。ファブリアでの百日の不在期間において国王代理が統治することの法的根拠の有無については、リックが学校にいた時代にレティアとよく議論したことがあった。何のことはない、単に公布されていないだけだったのだ。
とにかく、エリオット王子とクレメント宰相とがヒュペリオン大神殿に行くということは既に決定事項のようである。これが何の事件を引き起こさないはずがあろうか。
「分かりました。護衛の任、承ります。ですが、自分は別の用事があるので行くわけにはまいりません」
「と、言いますと」
「我々はここに連続誘拐事件の犯人を捕まえるために来ました。王族の護衛は契約外です。あくまで自分は犯人を捕まえるために行動させていただきます」
「ですが」
「ええ、ですから自分の優秀な部下2人を護衛につけます。2人とも腕は確かですからご心配なく」
はからずも、エリオット王子とクレメント宰相に近づくきっかけができた、ということである。この時点で既に、リックは完全にこの件をリーシャとルシアに任せることに決めていたのだ。そしてあとは2人の裁量で何とかしてもらおう、と半分投げやりに、半分2人を信じて、自分はキュドイモスに専念しようと決めたのである。
「ということだ。後は頼むぞ2人とも」
リックの言葉を聞くとリーシャは頭をおさえて、うーん、と唸った。
「ボ、ボクがエリオット王子の護衛? 冗談キツイよ〜」
「でもお兄ちゃん。まさかその場でクレメント宰相にあれこれ聞くことなんかできないよね。そしたら、私たちは何をすればいいの?」
「簡単だ。エリオット王子を守ってくれればそれでいい」
リックはルシアの質問にいとも簡単そうに答えた。
「ここまできて、まさかこの機会を見逃すキュドイモスではあるまい。必ず何かしかけてくる。後はお前たちに任せる。しっかりと、エリオット王子を守れば何とかなるだろう」
「すごーく、いいかげんに聞こえるんだけど」
「まあ『SFO』の誇る優秀な傭兵2人だ。護衛くらいなら当然にこなせるだろう」
「アタシは傭兵じゃなーい!」
「元、傭兵だろう。事務の仕事ですっかり腕がなまった、などとは言わせないからな」
「はあ、肉体労働は嫌だって言ったのに」
ルシアがぶつぶつとなおも文句を言うが、リックは無視した。
「とにかく、事態がこうなった上はエリオット王子の無事を最優先に考えるべきだ。2人とも、護衛しっかり頼むぞ」
「もし何も起こらなかったらどうするのさ」
リーシャの質問にリックは目を細める。
「それなら俺がキュドイモスを封印して終わりだろう。別に問題はない」
「呆れたな、呆れただろ、リック」
「呆れるようなことを言うからだ」
しかし、とリックは思うことがあった。何故フィラスはこのような重要な任務をわざわざ自分たちにわりふったのだろうか。どれだけ忙しくとも、こういうことは隊長であるフィラスかその直属の部下たちが行うことではないだろうか。
「お兄ちゃん。それじゃあ、アタシたちはどうすればいいの?」
「ああ。4時まではここで待機していていい。俺は儀式の準備をしなければならないからでかけてくるが、お前たちは4時になったらフィラスのところへ行け。あとはフィラスが案内してくれることになっている」
「4時だね。分かった」
「他に何か質問は」
2人とも別に何も言わなかった。リックは2人を見てしっかりと頷く。
「では、今日をもってこの事件を解決することにしよう」
そして、夜がやってきた。2人はフィラスに案内され、宮廷の中庭へとやってきていた。今日にかぎって月は雲に隠れてしまっている。ルシアはそんな曇り空を見上げ、ため息を1つついていた。何か、悩みを抱えているのだろうか。リーシャは心配になってルシアにそっと尋ねてみた。
「どうしたの、ルシア」
ルシアはびくっと反応して、それから小さなため息をついた。
「お兄ちゃん、キュドイモスを倒せるのかな」
混乱を司る悪魔、キュドイモス。以前、リックとキュドイモスが実際に剣を交えたところをリーシャは目撃している。その時は明らかにリックの劣勢であった。確実に勝てるとは言いがたい、だが。
「リックは悪魔が相手だからって簡単に負けるとは思えないけど」
それがリーシャの正直な感想であった。あの時は、レティアの姿をしたキュドイモスにリックの方が本気を出すことができなかっただけではないのか、そう思えてならない。
「でも、お兄ちゃんにはキュドイモスの姿が、レティアさんだっけ? その、昔の恋人の姿に見えるんでしょ。いざとどめをさすっていうときに、手加減して逆に……ってことにならないかなあって」
「うーん、リックのことだから、あるともないともいえないのがつらいなあ」
確かに。リックがどれほどレティアに傾倒しているか、すぐ近くでその様子を見てきたリーシャには痛いほどよく分かる。中身がキュドイモスであると分かっていながら、外見がレティアでは最後まで本気を出すことはできないのかもしれない。
「リーシャはさ、どうしてそんなに落ち着いていられるの?」
突然尋ねられ、リーシャは何を言われているのか理解できなかった。だがすぐに、リックのことが気にならないのか、という趣旨の質問をされているのだと気づき、改めて考えてみる。
ボクが落ち着いている。確かにそうなのかもしれない。どうして自分は落ち着いていられるのだろう。リックのことが心配じゃないのだろうか。それとも。
答は、簡単だった。そのことに気づいたとき、あまりにも簡単すぎる答にリーシャは思わず笑ってしまった。
「やっぱり、リックを信じてるから、かな?」
「そっか」
ルシアはぼんやりと何事かを考えているようだったが、やがて笑顔を浮かべてにっこりと微笑んだ。
「やっぱり、お兄ちゃんにはリーシャがお似合いだね」
「え、ええっ?」
突然不意打ちをくらって、リーシャはまたも顔まで真っ赤になる。本当に、いつまでも恋人気分が抜けきれないと自分でも思うのだが、それでもリックとの仲を冷やかされるとどうしてこんなに照れてしまうのだろう。
「あ、来たみたい」
ルシアが言って、リーシャは落ち着く暇もなくその場に畏まった。
宮廷から出てきた人数は10人といったところか。そして、その中央に見慣れた、綺麗な顔だちをした少年の姿。リーシャは思わず微笑みかけてしまうところであったが、それを必死に押し止める。
「警備隊の方ですね、話は伺っています。そんなに畏まらないでどうぞ立ってください」
エリオット王子はいつものように優しげな微笑みを浮かべ、リーシャとルシアに語りかけてきた。しかし、その背後に控えた中年の男性、クレメント宰相が視線も厳しく王子に話しかける。
「殿下、そのような」
「クレメント宰相」
しかし、クレメント宰相が話しかけた瞬間、エリオット王子はくるりと振り向き、そして笑顔を向けた。
「これが、僕のやり方です」
先制を受けた形となったクレメント宰相は、仕方なく引き下がったという形になった。そのような2人のやり取りを実際に目の当たりにしたリーシャは、2人の仲の悪さというものをつくづく実感した。
(クレメント宰相を、摂政に置かなきゃならないんだ)
ぼんやりと、エリオット王子のことを考えていると、当のエリオット王子はにこやかに笑って、2人に話しかけてきた。
「それでは、まいりましょう」
そのころ、リックは封印の地へとやってきていた。どうやって忍び込もうかと思っていたのだが、何故か見張りの兵士はどこにも見受けられなかった。何故、と思わないでもなかったが、とにかく今はそれに構っている暇はなかった。
『悪魔キュドイモス、ここに封印せり。ヒュペリオン』
目の前にある、巨大な石碑に書かれた文を読み上げ、リックは腰の剣を抜いた。神剣イアペトス。この剣をもって、キュドイモスを再び封印しなければならないのだ。
「神剣イアペトスよ、その霊力を解放したまえ」
リックは『儀式』を開始した。
香の立ち込める中、リックは神剣イアペトスを両手で掲げた。そして、その刀身を石碑に向ける。
『古き力と新しき契約の下に、きたれ、神の息吹』
リックは古代語で儀式の祝詞を口にする。
『神の力もて、混乱を司る悪魔を封印させたまえ』
すると不思議なことに、リックの身体中の力がまるで神剣に吸い取られていくかのようにな感覚を受けた。
これが、神剣イアペトスの力──
リックは改めて、この剣を完全に使いこなせていたというヒュペリオンを尊敬していた。しかし、ここに来ていまだリックはヒュペリオンもイアペトスも、それが神々であるということを疑っていた。それを信じることになったのは、この次の瞬間である。
〈……汝……〉
声は、直接頭の中に響いてきた。どこから話しかけられているのか、リックには判断がつかなった。しかし、確かに聞こえてくるこの声。
〈汝……この剣の正当なる所有者にあらず〉
(誰、だ……?)
リックはかつてないほどの疲労感を覚えていた。それでもなお立って儀式を続けられていたのは、ひとえにリックの精神力が卓越していたからにほかならない。
〈我、イアペトス也〉
(イアペトス神?)
まさか、実在していた、というのか?
〈……汝、何条もって、我が力を得ようとするか〉
(俺は)
リックは気力を振り絞り、さらに力強く剣を握った。
(混乱を司る悪魔、キュドイモスを封印するために)
〈キュドイモス。久しい名前だな。前に我が呼び出された時も、キュドイモスを封印するためであったが……復活しているのか〉
(完全にではない。だが、完全に復活させる前に、何としても封印しなければならない)
〈汝、何のためにそれを為すのか〉
何のために?
自分はいったい、何のためにキュドイモスを封印しようとしているんだ? 任務だからか? そんなことではない。人々の平和な暮らしを守るため? そんな大層な目的ではない。では何故?
〈汝、何のためにそれを為すのか〉
……そうか、そうだったのか。
自分の誇りを傷つけたものを許さないために。
大切なレティアの記憶を悪用したものをこらしめるために。
そして、レティア自身を冒涜した罪を贖わせるために。
(俺は、キュドイモスを許せない)
〈よろしい。では汝、何をもって我が剣の正当な所有者とするか〉
(自分の大切な、レティアの記憶をもって。自分がレティアのことを忘れないかぎり、俺が正当なる剣の所有者だ)
これは、リーシャに対する裏切りだろうか。だが、リーシャはそれでもいいと言ってくれたのだ。自分の一番大切な人がレティアであっても、リーシャはそれでもついてくると言ってくれたのだ。それならば、その言葉に甘えよう。どのみち、自分は過去を、レティアを忘れることなどできはしないのだから。
〈よろしい〉
沈黙の後に、イアペトスは答えた。
〈これより、汝は我の正当なる所有者とみなす〉
気がついたとき、リックは剣を掲げた体勢で気を失っていたようだった。知らないうちに夜空に星が散りばめられている。雲は1つも見えなくなっていた。かなりの時間が過ぎてしまっているようであった。
(今のは、いったい)
リックは自分の手の中に収まっている神剣イアペトスを眺めた。
(そういうことだったのか)
そしてリックは、先程までの疲労感がうそのようになくなっていることに気づいた。そのかわり、気力、体力ともに呆れるくらいに充実していることが理解できた。これもすべて、イアペトス神の恩恵だろうか。
がさり、とリックの背後で音がした。リックは、ついにきたか、と思って音のした方に振り向いた。
そこにいたのは無論、レティアの姿をした悪魔キュドイモスであった。
リックがそうしてキュドイモスと対峙する少し前。リーシャは不可思議な緊張感を背負ってエリオットのすぐ後ろを歩いていた。なにしろ、2人の要人を護るのにわずか10人強しか護衛の数がいないのだ。緊張の度合いも強いというものだろう。
ましてや、今はカルロス2世が崩御されたばかりである。王族の2人ともがこの場にいるということは、ここを襲われて全滅してしまうと、王家の血が絶えてしまうことになるのだ。
さすがに自分があまりそわそわしているわけにもいかず、リーシャは目線だけきょろきょろとせわしなく動かし、怪しい人物がいないか注意する。もっとも、本職の近衛兵の方で既に周りに不審な人物がいないかを注意深く見張っているので、リーシャの行為はほとんど意味はなかったといえるだろう。
その時、エリオットが振り返って「リーシャさん」と呼ぶので、リーシャはびっくりした顔をして「はい」と答えた。するとエリオットは「こちらへ」と言うので、リーシャは1つ礼をしてエリオットの側まで寄った。
「まさか、お姉ちゃんが来てくれるとは思わなかったよ」
エリオットはリーシャにだけ聞こえるように、小声で話しかけた。リーシャは近衛兵やクレメント宰相の視線が痛かったが、それにどうにか応えることにした。
「まあ、ボクも最初にこの話が来た時は驚いたんだけど」
「警備隊の人が護衛につくって聞いたからもしかしたらとは思ったけど、嬉しいな。お姉ちゃんがいてくれたら僕も落ち着いていられるし」
「そう言ってくれると、嬉しいよ。ボクもしっかり警護の役、引き受けたからね」
と、その時である。
前方に、何10人かの集団が現れた。どうやら武装しているらしく、明らかにこちらに対して敵意を持っているように見えた。近衛兵たちは一斉に武器を構えた。
「何者だ!」
先頭に立っていた近衛兵が相手に向かって言うと、相手はこちらに向かって一気に近寄ってきた。どうやら、話し合いの余地はないらしい。当然といえば当然なのだが。
「失礼ながら、王子と宰相は後ろへ。近衛兵! 全力で敵をくい止めろ!」
路地は、乱戦の場と化した。近衛兵たちは狭い路地を有効に利用し、何とか敵を食い止めてはいたが、それもやがて限界が来た。敵は数で圧倒的に上回っていた。近衛兵たちの隙をついて、あるいは近衛兵を打ち倒して、王子と宰相に向かってくる。
「止めるよ、ルシア」
「うん」
エリオット王子とクレメント宰相の側にいたのは、リーシャとルシア、そしてもう1人の近衛兵だけであった。2人は王子と宰相を背に、向かってくる敵を次々と打ち倒した。さすがにこのあたりは『SFO』の誇る傭兵と元傭兵である。剣の腕前では、はるかに男たちを、そして近衛兵をも凌駕していた。
「王子、下がって!」
リーシャが叫び、3人目の敵に止めを刺して、2歩ほど後退した。倒れた敵のおかげで、戦うスペースが狭くなってきていたのだ。ルシアもそれにならってリーシャと同じくらい後退する。
近衛兵たちもよく頑張ってはいた。しかし、さすがに人海戦術をとられると何人かはリーシャとルシアのところまでやってくる。その数は時間とともに徐々に増えつつあった。近衛兵たちも少しずつ人数が減り、敵をおさえられなくなってきているのだ。
「もう、こういう時の王都警備隊は何をやっているんだ!」
そう、リーシャが愚痴をこぼしつつ敵の1人を打ち倒した時であった。敵のさらに背後から、多数の人影がやってきたのだ。
「エリオット王子とクレメント宰相を守れ!」
その声は確かにフィラスのものであった。どうやら、リーシャの願いは通じたようであった。これで、どうにか王子と宰相を守りきることができそうだ。
ふう、と一息ついてリーシャが王子を振り返った、その時であった。
最後まで、王子の側についていた近衛兵が、剣を振りかざして今にもエリオット王子の背後から斬りつけようとしている!
「王子! 危ない!」
リーシャは思わず叫んでいた。同時に駆けだしていた。だが、剣が振り切られるより早くリーシャがそこにたどり着くことはありえない距離であった。
「王子ーっ!」
鮮血が、夜の路地に流れた。
その場面を、リーシャは、ルシアは、呆然とした目で見つめていた。何が起きたのかが理解できなかった。
王子に斬りつけた方の近衛兵も、何が起きているのか分からないように戸惑っている。
そして何より一番驚いていたのは、当の王子本人であった。
「クレメント……宰相?」
王子の盾になって凶刃から救ったのは、他ならぬクレメント宰相であった。クレメントは左肩から胸にかけてばっさりと斬りさかれており、もはや一命を取り留めることはありえなかった。
「このっ!」
ルシアが疾風のごとく近衛兵に近寄って、その剣を叩き落とした。そして顔面と鳩尾に打撃を与え、地面に押さえつける。リーシャはその男の様子を見て、はっと気がついたことがあった。
「そいつ、連続誘拐事件の犯人!」
ルシアもはっとなって、改めて悔しそうに顔を歪めた。とにかく、事情聴取を後でしなければならないので、御用の紐を取り出して縛り上げる。
リーシャはその間に、凶刃に倒れたクレメント宰相の下に駆け寄っていた。エリオット王子も心配そうにクレメント宰相の顔を覗き込む。
「エリ、オット……」
まだ息はあるものの、もはや先が長くないことは明らかであった。何故、クレメントは命懸けでエリオットを庇ったのだろう。
「クレメント叔父上」
エリオットは信じられないものを見たかのような表情で倒れたクレメントを抱き上げる。心なしか、青ざめているようだった。
「僕を憎んでいたのではなかったのですか?」
リーシャは助からないと分かっていながらも、処置をしないわけにはいかなかった。目の前で、こんな、こんな場面を見せつけられるとは思ってもいなかった。ずっと犯人だと思い込んでいたクレメントが、エリオットを庇うだなどと──
「いい。処置は、不要だ」
そして、がふっ、とクレメント宰相は血を吐いた。
「エリオット。すまなかった」
「叔父上」
「従兄カルロスとお前を殺そうとしたのは確かにこの私だ。あの聡明な従兄……カルロスは、私の持たない全てのものを持っていた。王座も、子も、そして、そして──あの、麗しいヘレネも」
「叔父上……」
「お前のことは憎んでいた。憎んでいた、はずだった。だが、お前は」
クレメントは弱々しく、その血で汚れた右手をエリオットの頬に当てた。
「ヘレネの息子」
その瞳には涙が浮かんでいた。
「憎みきれなかった。それが、こんな結末を生むとは、私も、つくづく愚かな……」
「死なないでください、僕を、僕の宰相として、摂政として働いていただかなければなりません」
「お前はあの聡明な従兄カルロスと、麗しきヘレネの1人息子……。私などがいなくとも、私などいない方がはるかにいい国を作るだろう」
「叔父上!」
「よい国を、作れ……」
そして、クレメントは事切れた。リーシャは顔を伏せた。エリオットは、叔父の遺体を抱きしめてむせび泣いた。
「申し訳ありません。我々が到着するのがもう少し早ければ」
事態がどうにか収拾すると、王都警備隊を率いていたフィラスがリーシャとルシアのところへやってきた。リーシャは簡単に事件の顛末を話すと、フィラスは顔を顰めた。
「それで、クレメント宰相を手にかけたという男は」
「こちらです」
ルシアが縛り上げておいた男をフィラスに引き渡した。フィラスは部下を呼びつけると、王都警備隊で一時預かっておくように指示する。
「フィラス警備隊長!」
その時、エリオット王子がこちらへ向かってきて、フィラスに声をかけた。フィラスは畏まって膝をつく。リーシャとルシアもそれにならった。
「こういう状況だ。礼はいい。それよりも頼みがある」
「頼み、ですか?」
「そうだ。僕はこれからヒュペリオン神殿に行って、ヒュペリオン神の洗礼を受けなければならない。近衛兵はほとんど倒されてしまっているから、警備隊に護衛を頼みたい」
「王子」
フィラスはしっかりと、だが優しく語りかけた。
「失礼ながら、王子はわが国を統べるお方でございます。頼むだなどと仰らず、命令なさいませ。それが君主というものなのですから」
エリオットは先程までの優しげな表情が嘘のように消え去り、厳しい顔つきでフィラスを見つめた。
「では命令です。僕は──余は、これよりヒュペリオン神殿へ参る。護衛せよ」
「はっ、了解いたしました」
その様子を見ていたリーシャは、自分が今どうすべきかを考えていた。このまま護衛の任を続けるべきか、それとも、自分が思う通りに行動すべきなのか。
リックはよく言っていた。任務の目的を忘れるな、と。それならば、リーシャはこのまま護衛するべきではない。自分たちの任務は決してエリオット王子の護衛そのものにあるわけではない。王都で起きている連続誘拐事件の犯人を捕まえることだ。
「エリオット王子」
決心はついた。今は、自分の思ったとおりに行動しよう。
「ボク、自分も、エリオット王子の警護の任務につきたいと思うのですが、自分にはどうしても行かなければならないところがあります。行動の自由を許可ください」
リーシャはしっかりとエリオットの瞳を見つめて言った。するとエリオットは、あの微笑みをもってリーシャに応えてくれた。
「ご自由に。それから、あなたの想い人によろしくお伝えください」
かあっ、とリーシャは顔を赤くしたが、はっきりと「はいっ」と答えた。
「ルシア、ここはお願い」
「うん、がんばってねリーシャ」
ルシアが頷くのを見て、リーシャは走りだしていた。
今、行くからね、リック。
いよいよ、最後の決戦である。
拾壱:キュドイモス
もどる