拾壱:キュドイモス





 2人とも、剣を構えながらそのままの体勢で暫くの間対峙していた。
 リックにしてみると、いくら中身が悪魔キュドイモスであるとはいえ外見がレティアだというのは戦いにくいところがあった。それにレティアの姿で戦われるかぎり、自分の中でのレティアの実力をそのまま反映させてしまう。
 この間戦って分かったことだが、キュドイモス本体はレティアよりもはるかに強い。自分が最後にレティアと剣を交えたのは6年も前の話である。その時で既に互角の実力であった。自分はあの時よりはるかに強くなっている。それなのにレティアが自分より強いというのはおかしな話だ。
 だが逆にこの事実は、リックがキュドイモスの実力を正確につかみきれない、ということを意味している。前に剣を交えた時、あれでもしも手加減されていたとしたら、自分はおそらくキュドイモスには勝てない。
「キュドイモス」
 リックが呟くと、レティアの姿をしたそれはにっこりと微笑んだ。
(レティア……)
 レティアと過ごした6年間。今まで生きてきた中で最も充実し、そして幸福だった6年間。レティアがいたから、自分は今生きている。レティアがいたから、今の自分がある。
 だが。
「行くぞっ!」
 自分は、戦う。レティアの姿を借りて、レティアの魂を冒涜した罪を贖わせるために。
「はあっ!」
 リックは神剣イアペトスで『レティア』に斬りつけた。『レティア』もそれを受けようと剣を繰り出してくる。
 バチッ、と火花が飛んだ。『レティア』の剣と、神剣イアペトスが反発するために生じた火花である。
「キュドイモス。お前は俺の大切なものを傷つけた」
 力比べの体勢のまま、リックは声を振り絞った。
「その罪、贖ってもらう!」
 素早く剣を受け流して『レティア』の喉元に神剣イアペトスを突き出す。しかし『レティア』はひらりとかわし、リックの頭上から剣を鋭く降り下ろしてくる。
「ちいっ」
 リックはステップを踏んでその剣をかわすが、『レティア』の返した刀がリックの首筋に迫っていた。リックはなんとか防ごうと神剣イアペトスを構えようとする、が。
〈伏せろ!〉
 突然、頭の中に指示が飛んできたので、リックは慌ててその通りにする。直後に頭の上を『レティア』の剣が通りすぎる。リックは一旦引いて、体勢を立て直した。
「イアペトス?」
〈馬鹿者。あの体勢では我とても防げるものではない〉
 つまり、キュドイモスは場合によっては神剣イアペトスの力を凌駕しうるということを意味しているのである。
〈我が力に頼ろうとするな。汝は汝の意思で、キュドイモスを倒すのであろう〉
(了解)
 神剣イアペトスがあることで、どうやら自分は少し余裕を持ちすぎてしまっていたようである。リックは深く反省し、改めて『レティア』と対峙した。
 だが、その分を差し引いてキュドイモスは強い。今も全力でぶつかっていったはずなのにキュドイモスは常に紙一重の差でかわしていってしまう。
(どうすれば)
 キュドイモスに確実にダメージを与えるには、どうすればいいのか。このままでは自分の体力ばかりが削られ、やがてはやられるだろう。無駄に体力を使いたくない。だが、何かしなければキュドイモスを倒せるはずもない。ならば、やるしかない、か。
 リックは気を入れなおすと、今度はじりじりと『レティア』と間合いを詰めた。両手で剣を握り、右足を半歩前に出して、少しずつ近づいていく。『レティア』は右手で剣を構え、自然体のまま一歩ずつ近づいてくる。
 異様な威圧感を、リックは覚えていた。『レティア』の構えを見ていると、何をしても通用しないのではないかというような錯覚に陥る。自然体であるがゆえに、どんな攻撃にも対処できるという様子がありありとうかがえた。
 やがて、2人の剣先が触れ合うほどに間合いが詰まった時、2人は稲妻のごとく互いの剣を繰り出した。『レティア』の剣はリックの右肩をかすめ、赤い血を滲み出させていた。また、神剣イアペトスもまた『レティア』の右肩をかすめていた。傷口からは黒い煙がしゅうしゅうと音を立てている。
〈上出来だ〉
 イアペトスから褒め言葉が聞こえてきた。リックは『レティア』に向かって構えながら、頷く。少なくとも今の勝負は互角であった。
 逆に『レティア』はその表情を著しく歪ませていた。左手で右肩を押さえているが、黒い煙は収まる気配を見せない。
〈キュドイモスは未だ半分は精神体だ〉
(精神体?)
〈普通の剣で傷つけることは不可能ということだ〉
(神剣イアペトスなら?)
〈我ならば、やつを傷つけることができる。人間が傷つくのと同じ感覚でな。つまり、汝とキュドイモスとは同じ土俵に立っているということだ〉
 なるほど、とリックは頷いた。つまり、あの黒い煙は人間の血と同じだということだ。自分の右肩から血が流れているのと同じ意味で『レティア』の右肩から煙が吹き出しているということだ。
〈だが、これでキュドイモスを怒らせたようだな〉
 イアペトスの言葉通り『レティア』怒りの形相で、傷めている右腕で剣を握り、わずかに前かがみになってリックに向かって突進してくる。
 斬りかかってくるか、それとも突いてくるか?
 リックも腰を深く構えて『レティア』が突進してくるのを待ち構えた。目を見開いて、しっかりと『レティア』の一挙一動を見逃すまいと集中する。すると『レティア』はにやりと笑って思い切り地面を蹴りつけ、リックの顔に土を当ててきたのだ。
「くっ」
 リックは目を細め、土が目に入らないように左腕でカバーしながら、相手がどう動くかをしっかりと見極めていた。『レティア』は自分の左側に回り込み、剣を振り上げようとしている。自分は土に惑わされることなく、右足を軸にして左足を引き、その攻撃をかわした。
 その攻撃で『レティア』の体が完全に浮き上がっていた。隙が生まれたのだ。以前はここで自分は体当たりをしかけたのだが『レティア』はバランスを立て直して自分の後頭部に強烈な蹴りを入れてきた。今度は同じ轍を踏むわけにはいかない。
 リックは隙だらけになった『レティア』に向かってイアペトスでなぎ払おうとした。だが『レティア』にダメージを与えることはかなわなかった。『レティア』は空いていた左手で、強烈にリックの右顎を殴りつけたのだ。
 しかし『レティア』も浮き上がっていた体勢だったために、いくら強烈に殴りつけたとしても限界があった。リックのダメージは最小限に抑えられ、リックは体勢を立て直すために2、3歩後方へ下がる。口の中に、血の味が広がった。
(口を切っただけですんだようだな)
 もし『レティア』が万全の体勢で殴られていたら、歯が折れるどころではすまなかったかもしれない。それがこの程度のダメージですんだのは、運が良かったとしかいいようがない。
(それにしても、強い)
〈あまり、相手を過大評価しないことだ。汝の攻撃は、後一歩のところまできている〉
(じゃあ、今やられたのは?)
〈それは、汝が最後にキュドイモスにダメージを与えられると過信して、集中を切らせたからだ〉
 なるほど、とリックは頷いた。確かに、さっきは自分が攻撃をすることに意識が集中してしまい、防御の方は全く考えていなかった。
 ほぼ、5歩分の距離にいるキュドイモスは、レティアの顔でにやりと笑っている。どうやら、今の攻撃で完全に冷静さを取り戻してしまったようだ。
 それにしても、レティアの姿でそのような態度を取られることには、リックはなかなか我慢がならなかった。いらいらとしてくるのを必死に押し止め、冷静に、と自分に言い聞かせる。
(どうやって、攻める)
 リックは自然体で構えている『レティア』に向かって、しっかりと中段に構える。
 イアペトスは同じ土俵だというが、こちらはイアペトスで攻撃しなければダメージを与えられないのに対して、キュドイモスは打撃でもダメージを与えられるのだ。この差は大きい。
〈汝、忘れるべからず。キュドイモスの半身はなお現世にあり〉
 どうやら、こちらの考えはイアペトスには筒抜けであったようである。リックはその言葉に対して反発も覚えたが、同時に納得も言った。イアペトスの考えていることはリックにも理解できた。
 だが、それをどうやって実行するかとなると、また別の問題が生じる。なにしろキュドイモスは常に自然体で攻めてくるのだから。
 ままよ。
 リックは『レティア』に向かって駆け寄っていった。何とか相手のバランスを崩さなければ一撃を加えることなどできないのだ。
 リックは今まで以上に集中力を高めていた。そして、両腕で『レティア』の喉元を目掛けて、突く。
 かっ、とリックは目を見開いた。『レティア』は、自分の右側へ回り込んで、剣を降り下ろす体勢に入ろうとしている。そして、リックが一番注意して見ていたのは、その足さばき、ステップを踏む位置。リックは『レティア』が右足を踏むその地点を目掛けて、足払いをかけたのだ。
『──!』
『レティア』の驚愕の表情がしっかりとリックの目に焼きついた。相手の右足は完全に宙に浮いている。左足はそれでもバランスを保とうとしっかりと大地を踏みしめている。右手に握られている剣は向かう場所を失い彷徨っている、左手もバランスを取るために地面についている。
 反撃の余地は、ない!
 リックは自らも体勢を崩しつつ『レティア』の浮いた右足めがけて神剣イアペトスを右手1本でなぎ払った。確かな、手応え。
『ぐはっ!』
 どれだけのダメージを与えたかをすぐには確認せず、体勢を立て直しつつリックは間合いを取ることに専念した。幸い、反撃はなかった。そして、改めて『レティア』の負傷の具合を確認する。
 しゅうしゅう、という黒い煙が右足のふくらはぎから吹き上がっている。どうやら、かなりの重症のようだ。『レティア』は右足を抱えてうずくまり、ぎらり、とリックを睨み付ける。
 そして、次の動作はリックの予測をはるかに凌駕したものだった。傷ついたはずの足でリック目掛けて全力で駆け寄り、これまで以上の鋭い突きを放つ。リックは全力でその突きをかわそうとするが、剣はかすかに首筋をかすめていった。
 くっ、と思ったのも束の間、今度は『レティア』の怪我をしている右足が高々と──月の光を浴びて輝かしく──振り上げられ、リックの頭をめがけてかかとを落としてくる。それも何とかかわそうとしたものの、これは避けきることができなかった。『レティア』のかかとは左耳をかすめてリックの左肩に直撃した。
「があっ!」
 鎖骨に激痛が走る。完全に折れはしなかったようだがひびが入ったのは間違いない、とリックは冷静に分析した。それでも何とか間合いを取り、さらに次の攻撃を阻んだところはさすがに『SFO』のA級ファイターだけのことはあった。だが、リックが受けたダメージはおそらく『レティア』に与えたダメージの比ではなかっただろう。額はおろか、体中に脂汗が浮き出てきて、一呼吸ごとに左肩にずきん、ずきんと痛みが走る。
〈まだくるぞ!〉
 ここにきて、集中力をほとんど低下させなかったことが、リックの優秀性を示す恰好の物差しであっただろう。リックは左肩の激痛をこらえつつ、次の『レティア』の斬り払いを見切っていた。何とか右手だけで神剣イアペトスを構え、しっかりと『レティア』の剣を受け流す。
 だが、さらに二度、三度と攻撃を繰り返してくる『レティア』に対して、リックは完全に防戦一方となった。
(このままでは)
 イアペトスと『レティア』の剣とが何度目かの火花を起こす。
(どうにかしないと)
 右手が、鉛のように重たくなっていた。両手でなければ押さえきれない『レティア』の力を片手で押さえているのだ。当然の結果である。
(やるなら、早い方が)
 覚悟は、決まった。リックは『レティア』の剣を受け流しつつ、大きく左足を後ろに引いた。それは『レティア』の剣を呼び込む形となった。ここぞとばかりに『レティア』はリックの心臓めがけて剣を突き出してくる。
 かかった。
 ズブリ、という剣が肉を突き抜ける音。身体中をかけぬける激痛。剣の先からぽたり、と落ちる血の雫。そして、戸惑っている『レティア』の表情と、苦痛を感じさせながらも不敵に笑うリック。
 無論『レティア』の剣が貫いたのはリックの心臓ではなかった。リックは、左腕そのものを盾として使って『レティア』の動きを封じたのだ。
「もらったぞ、キュドイモス!」
 リックはこの隙を逃さず、右手で『レティア』の心臓目掛け、神剣イアペトスを突き刺す。しかし『レティア』は必死の形相を浮かべつつもそれを回避しようと努力した。
 イアペトスは『レティア』の左肩の付け根の辺りに深々と突き刺さった。
『うがああああっ!』
『レティア』はもがいてリックの体から離れた。リックは激しい痛みにその場にとうとう倒れてしまった。完全に封印することができなかった、という後悔と共に。
〈まだだ!〉
 イアペトスの叱咤する声が聞こえるが、リックはそれに応えられるだけの体力が残っていなかった。左腕と左肩の激痛は完全にリックの行動の自由を奪い取っていた。
『き、さ、ま』
『レティア』の目が、紅く染まった。リックはそれでも立ち上がろうと努力を試みた。しかし、足に力が入らなかった。よろよろと、何とか立ち上がりかけた時『レティア』の拳が激しくリックの頬を打った。
「がはっ!」
 神剣イアペトスがリックの右手を離れて、遠いところへ転がっていった。しまった、とリックは後悔するものの、もはやこうなってはどうにもならない。
 同時にリックは、今度こそ歯が折れたか、と口の中に奥歯が1本転がっていることに気がついた。口からは、だらだらと赤い血が流れだしている。ぜえぜえ、とは肩で息をしているが、体力が回復する見込みは全くなかった。
 何故なら、目の前にレティアの姿をした悪魔が立ちはだかっているからだ。
『楽しかったよ、人間』
 その時、レティアの声がリックの頭の中に響いてきた。やるべきことはやった。自分の願いが達成されなかったことには悔いが残るが、それも仕方のないことだろう。
『レティア』は剣を逆手に持ち替え、リックの心臓に焦点を定めた。その姿を見て、リックは不思議と、笑った。
(レティアに殺されるなら、本望かな……)
 そして、リックは目を閉じた。



 リックが何を思って目を閉じたのか、その場にようやくたどりついたリーシャにはよく分かっていた。そして、その願いを達成させるわけにはいかなかった。
(レティアさんになら殺されてもいいなんて)
 リーシャは目の前に転がっている神剣イアペトスを握った。
(レティアさんにリックを取られるなんて)
 リーシャは父『ヴァリア』との間合いを一気に縮めた。
(そんなの、駄目っ!)
「キュドイモス!」
 リーシャは、今まさにリックに止めをさそうとしている『ヴァリア』に向かって剣を繰り出した。『ヴァリア』は完全に不意をつかれたのか、それを回避することはできなかった。背中から腹に、白銀の刀身が突き刺さった。
『があっ、がああああああっ!』
 父親の声で響いてくる悲鳴は、リーシャの体をびくんと震わせた。
 リーシャは神剣イアペトスを抜くと、その場に崩れ落ちた『ヴァリア』には目もくれず、こちらをしっかりと見つめているリックのところへと駆け寄った。
「リック……リック!」
「だい、じょうぶだ」
 リックはリーシャの叫びが聞こえた時、はっ、と目を開けていた。そして、目の前で絶叫するレティアの姿を見た。そして、自分に駆け寄ってくるリーシャの姿を見た。
「……すまなかった」
 自分は、何を甘いことを考えていたのだろう、とリックは自らを叱咤した。自分は、このリーシャのためにも、どんなことをしてでも生き延びなければならなかったのだ。それが、レティアのことを一番大切に思っている自分にとっての、リーシャに対する償いでもあり、新しいリックの望みでもあったのだから。
「バカ……バカバカバカ! ボク、リックがいなかったらっ」
 それ以上、リーシャは言葉を紡ぐことができなかった。これから先、自分はずっとリックと暮らしていくのだと心に決めていた。そのリックがもしもいなくなったとしたら。そんな未来は、自分にはあってはならないことであった。いつまでも、リックと2人で暮らしていくのだから。それ以外の未来など、自分にはいらないものなのだから。
 そして、リックは立ち上がり、リーシャから神剣イアペトスを受け取った。
(イアペトス)
〈九死に一生を得たな。汝の妻に、魂の半身に感謝するがいい〉
(ああ)
 リックは倒れてもがき苦しんでいる『レティア』の姿を見た。必死に、それでもなお生きつづけようと、この場から逃れようと這いつくばって行こうとしている。
「キュドイモス」
 リックは、ふらつく足取りでその『レティア』の傍により、右手で神剣イアペトスを逆手に持った。
『リック』
『レティア』は、懇願するような目をリックに向けてきた。
 それを見たリーシャは吐き気を催した。『ヴァリア』がリックに対して懇願しているのだ。理屈では、リックの目にはレティアの姿として映っていることは分かる。だが、その姿は父親の哀れな姿を見ることは、リーシャは心苦しかった。
『助けて、私』
 リーシャはリックの側に駆け寄り、これは『レティア』なのだということを改めて注意しようとしたが、リックはリーシャに向かって微笑みを返した。
「リック?」
「リーシャ、下がっていてくれ」
 どうするつもりなのだろうと、リーシャは不安に駆られた。まさか、このままキュドイモスを逃がしてしまうつもりなのか。
『リック、助けてくれるの? この私を助けてくれるの?』
 リックは、レティアに向かって優しく微笑んだ。
「レティアは、そんな潔くない死に方はしなかったよ」
 リックは、自分に懇願してくる『レティア』を見て、過去自分が覚えたことのないほどの怒りを感じていた。キュドイモスは、最後の最後まで気高いレティアの全てを踏みにじろうとしている。これをリックは絶対に許すつもりはなかった。
「さよなら、レティア」
『リック、リック!』
「『封印!』」
 リックはキュドイモスの心臓に、神剣イアペトスを突き立てた。断末魔の悲鳴が封印の地に響きわたる。
 リーシャは、父親の姿をした悪魔が最後の悲鳴を上げた時、身体中に鳥肌を立ててその最期を見つめていた。不思議と涙が流れていた。これは父親ではないはずなのに、何故か父親が死んでしまったような気持ちにさせられていた。
 リックは自分の手でレティアに止めをさしたことにさほどの感慨を持たなかった。最後の最後で、キュドイモスはレティアでなくなってしまったからだろうか。少なくとも、レティアは強く、気高く、美しかったが、人に媚びるようなことをしたことは一度もなかった。だからこそ、リックの中ではキュドイモスは『レティアと同じ顔をした別人』となってしまっていたのだ。
 しかしそれでも、リックの中で自己の行為が全く何も感じなかったかといえば、そういうわけでもない。だがそれは悲しいとか悔いが残るとかいうものではなく、何かレティアという影からある意味で吹っ切れたような。解放感とでもいうのだろうか、不思議な感情がリックの中に起こっていた。
 キュドイモスの姿は徐々にぼんやりと薄くなり、そして消えていった。精神を破壊されたキュドイモスは、この現世に実体を映し出すことができなくなり、精神世界に封印されてしまったのである。
〈汝ら、願いを果たしたり〉
 イアペトスの声がリックの頭の中に、そしてリーシャの頭の中に響いた。
「な、何これ?」
 突然自分の頭の中に響いてきた声に、リーシャは戸惑いを隠せなかった。そんなリーシャの姿を見て、リックは微笑む。
(ありがとうイアペトス。あなたのおかげだ)
〈我は契約を果たしたにすぎない。今後も、汝らが我を必要とする時はいつでも呼び出すがいい。汝らは我の正当なる所有者たちであるのだから〉
 そして、イアペトスは沈黙した。もはや、2人に語ることは何もなくなったかのように。
「リーシャ」
「え、何?」
 ぼんやりと、リーシャは今あったことを思い返していたが、リックに呼ばれて慌てて返事をする。
「お前のおかげで助かった。一応、ありがとうと言っておく」
「一応って何だよ。ボク、本当に、リックが死ぬんじゃないかって」
 また涙がこみ上げてきた。リックに礼を言われたのが嬉しいのか、リックが死ぬかもしれなかったという過去の恐怖からか、複雑な感情がリーシャを涙もろくさせてしまっていた。
「リーシャ」
 リックは、ぐらり、とよろめいた。
「お前が妻で、よかった」
 がくり、と膝が落ち、リックはリーシャにもたれかかった。よく見ると左腕にひどい出血がある。口からも血が溢れている。かなりの大怪我である。
「リック! リック! ちょっと、返事してっ!」
 リーシャはリックの体を揺すった。だが、リックの意識は既に闇に溶け込み、リーシャの呼びかけに応えようとはしなかった。






終:未来

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