「寝ている子を襲ったら駄目だよ」
「貴様はその腐った頭を今すぐドブに捨ててこい」






プロローグ・C







 さて、ようやくこれで決心がついたわけだが、その前にいくつか説明を聞いておかなければならないことがある。
 まずは住所。それからこの実験を行う上での問題点。その他もろもろだ。
「じゃあこちらを渡しておくよ」
 女の子ということで、カプセルから出して準備をする作業は環が行うこととなった。その間、男二人は一階の談話室で打ち合わせを行う。
 まず渡されたのは通帳とカード、それに印鑑だ。
「この口座に毎月五十万ずつが振り込まれる。これを自由に使ってくれ」
 契約にあたって、すっかり口調が変わった乃木を相手に、一つずつ確認をしていく。
「了解。暗証番号は?」
「そこに書いてある。覚えたら消しておいてくれ」
 目を走らせる。通帳の一番上にうっすらと鉛筆で書かれている。
「家はどうしようか。一軒家か、それともマンションか」
「物件を両方教えてくれ」
「一軒家だと庭つきになるね。ここみたいな高級住宅街じゃないけど、治安のいいところで、交通の便もいい。悪くない物件だよ」
「マンションは?」
「集合型住宅だね。A棟からG棟まであって、F棟の五階から八階までは全部僕の個人財産だ。そこの六階ワンフロア、全部自由に使ってくれ。やはり治安に問題はないよ」
「戸数は?」
「ワンフロアに四戸。全部十二階建てで、A棟からG棟までコの字型に建物が配置されている。中央は子供の遊ぶスペースになっているよ。ボール遊びができるスペースと、遊具がある」
「間取りは?」
「一軒家の方が二階建て、4LDKに庭つき。マンションの方は2LDK。もちろんリビングはそこまで広くないけどバルコニーつきだ。二人で暮らすには充分な広さだよ。それに、別に一戸で足りなければ二戸でも三戸でも使えばいいわけだし。あと、信頼のおける人を隣室に住まわせることもできるよ」
「部屋はそれぞれ一室あれば事足りる。一戸を物置に使わせてもらえればそれで充分だ。マンションをくれ」
「了解。これが鍵。ワンフロア全部のマスターと合鍵を二つずつつけてある。一応私がもう一セット合鍵を持っている。ひとまず六〇一号室に彼女の荷物は全て運んでおくよ。あなたの荷物はどうする?」
「これから荷物をまとめないといけない。今の賃貸は六月一杯で解約する」
「だったら、不要な荷物はこちらで処分するよ。あなたはできるだけ彼女と一緒にいてあげてくれ」
「もちろんだ。引越しを手伝わせる」
 乃木はそれを聞いて驚いた。
「ああ、なるほど。確かにそうだね。そうなるか」
「目を離せないなら一緒に動いた方がいい。どれだけ使えるかは分からないが、話は通じるのだろう?」
「もちろん。カプセルの中にいる間も教育ができるようになっているから。年相応の知識を持っているよ」
「なら手伝わせて問題ないだろう。俺が保護者になるわけだしな」
「ええ。彼女もきっと、断ることはないでしょう」
 金銭と住宅。ここまでの問題は片付いた。
「連絡はどうすればいい?」
「インターネットで連絡が取れるよ。私からメールを送ろう」
「俺のメルアドを教えておいた方がいいのか?」
「そうだね、そうしてもらえると。あと、マンションの方は光が入っているので、パソコンはすぐにでも接続できるようになっている」
「それは好都合。ここに足を運ぶ必要は?」
 メモ用紙にメルアドを素早く記入して渡す。
「ないよ。二十歳になる誕生日の一日前、つまり五年後の明日、ここに来ていただければそれで充分」
「了解した。緊急連絡先は」
「さきほどの名刺に、ここの住所と電話番号、それから私の携帯ナンバーが全部書いてある」
「途中で嫌になってやめたくなったらどうすればいい?」
「ここまで連れてきてくれ。その場合は成功・失敗に関わらず契約不履行ということで報酬はなし。ただし、ここまでにかかった費用を請求することはないので安心してくれ」
「いつでもやめていいということだな」
「そして、それが彼女の命日となる。きちんと心得ておいてくれ」
「どうせ俺がやらなければいつかは死ぬんだろう」
 乃木は不機嫌そうな顔をする。たまにはそういう顔をしてくれないと不公平だ。
「本気かい」
「嘘を言うつもりはない。嫌になればやめる。もちろん、命を一つ背負っているんだ。ただ気にくわない程度のことでやめるつもりはないさ」
「なら、安心した」
 少し機嫌が直ったか。だがこちらからわざわざ機嫌を取る必要はない。
「あと、先ほども言いましたが学校に行くこと、海外に行くことは無理。戸籍がないから」
「こういうときは『役所に不正侵入して戸籍を改竄しておいた』とかいうものじゃないのか?」
「そうできればよかったんだけど、さすがに民間企業が手に出せるレベルじゃないから」
「私立学校も無理なのか?」
「さあ、そこまで調べたことはないけど」
「私立高校に入れる。なるべく女子高がいい。手配してくれ」
「ちょ、ちょっと待って」
 さすがに乃木もあわてた。仕方のないことだとは分かっているが、ここは譲れない。
「待たない。悪いが、俺一人で魔王を人間好きにさせるのは無理がある。そうは思わないか」
「それは確かにそうだけど」
「俺以外の人間との付き合いを覚えさせる。それくらいのことはあんたが手配しろ」
「なんとかコネを当たってみることにするよ」
 乃木は困ったような表情を浮かべた。
「そのかわり、不正入学はできないよ。きちんと学力点を取って合格してもらわないと」
「それはいいが、中学卒業の証明が取れなくなるが、それはどうする」
「あなたが言い出したんでしょう。そうだね、本来なら夜間中学にでも通うしかないけど」
「中学の間は駄目だ。とりあえず半年、俺が手元で様子を見る。その上で社会生活ができると思えば受験をさせる」
「難しい問題だね」
「金さえ払えば私学は書類上、どうとでもできるだろう」
「無茶言わないでくれ。中学卒業の認定がないものを入学させたら、いくら私学でもあとで大きな問題になるよ」
「バレなきゃ問題ない。ああ、それから修学旅行で海外に行くような高校を選ぶなよ」
「難しいことばかり要求するね」
「それから高校の費用は、俺が将来報酬で受け取るはずの金をさっぴいて、そちらで払っておいてくれ」
「いいのかい?」
「別に年間一千万もするわけじゃないし、気にしねえよ」
「こちらで費用を負担しても問題はないよ。むしろ手続きより費用の方が問題としては楽なんだが」
「いくら報酬とはいえ、自分で金を出さないのに保護者面できんだろう。自覚の問題だ」
「分かった。そういうことなら。でも、その年で十四歳の子持ちか」
「俺が十歳のときに生まれた計算になるな。いや、もう十五になるのか。なら九歳だな。若い父親だ」
「それにしても、二十四歳とは思えない落ち着きぶりだね。普通、これだけ非常識なことが続いたらパニックを起こしそうなものだけど」
「非常識を押し付けている奴が言うな」
 ため息をつく。今さら何を驚けというのか。
「さて、あと聞いておきたいことはあるかな」
 気前のいい相手なので、金に関するトラブルは起こらないだろう。それこそこちらが不当にもっとせびらない限りは。
「何かあったらそのときに聞く」
「分かった。携帯はよほど深夜じゃない限りはつながるようになってるから。私はほとんどここの研究所から出ることはないし、環もいてくれるから」
「あの子はあんたの何だ?」
「環? そうだね、仲間、というのが一番しっくりくる呼び方だと思うよ」
「異世界の研究をする仲間か」
「そういうこと」
 まあ、あまり深く関わる相手でもない。
「じゃあ、そろそろ眠り姫に会わせてもらおうか」
「分かった。これだけ時間が経っていればもう大丈夫だと思う」
 そうして二人は立ち上がると、研究所の二階へ向かう。カプセルから出た少女は二階へ連れていくことになっていた。
 部屋をノックすると、環が「どうぞ」と答えるので中に入る。中は病院の診察室のようなところだった。ベッドの上に服を着た少女が横たわっている。
「話はお済みですか」
「ああ。彼女は?」
「もう準備はできています。ただ、目が覚めるのがいつになるかは分かりません。そうですね、できれば私と先生は席を外した方がいいと思います」
「何故だい?」
「インプリンティングの可能性があります。最初に見た人を保護者だと認識してしまうかもしれません」
「ああ、それはいけないね。では、私たちは席を外すから、ゆっくりしていくといい」
 口調がすっかり元に戻った乃木が楽しそうに言う。
「目が覚めるまで、どれだけ時間がかかるか分からないのにか?」
「そんなに時間がかかるわけじゃないんだろう?」
「ええ。どんなに長くても、あと一時間もないと思います」
「というわけだ。ゆっくりしていってくれ。ああ、一つだけ言っておくことがある」
「なんだ」
「寝ている子を襲ったら駄目だよ」
「貴様はその腐った頭を今すぐドブに捨ててこい」
 睨み付けると肩をすくめて乃木が出ていく。同時に環も一緒にいなくなった。
 やれやれ、と息をつく。そして少女を見つめた。
(肌が白いな。そのくせ、透き通るほど黒い髪だ)
 磨きぬかれた造形美、というやつだ。
(美しいというのはこういうのを言うんだろうな。整っている。見ているとほれぼれする)
 じっとその顔を眺める。
(同年代の男子なら確実に惹かれるところだな)
 自分はどうだっただろうか、と思い返す。確かに好きな子もいただろうが、あまり記憶に残っていない。
(この子は五年間で、どう成長するのかな)
 人間として生きていけるのか。それとも魔王として処分されるのか。
 いずれにしてもこの子の未来は自分が背負っている。せめて人間として安らかに生きてほしいと思うが、どうなることやら。
 じっと見つめ続けて約十分。
 ようやく彼女に変化が表れた。
「う……」
 かすかな呻き。どうやら深い眠りから浅い眠りに移ってきたようだ。
(このまま放っておけば目が覚めるのか、それとも起こした方がいいのか)
 判断がつかないままじっと少女の寝顔を見つめる。やがて、その目が少しずつ見開かれていった。
 彼女の目に、自分の顔が映る。これでインプリンティングされたのだろうか。
「目が覚めたか」
 彼女は何も答えない。
 というか、先ほどの鋭い視線はどこへいったのか、ぼうっとしている。まさに典型的な寝ぼけ眼。
「聞こえていたら返事をしろ」
 言うと、眼球だけを動かして自分を注視してくる。
(こいつが魔王、か)
 こちらを値踏みでもしているのだろうか。
 とにかく最初の邂逅で間違えるわけにはいかない。じっと見つめ返すと、やがて彼女の口が開く。

「スケベ」

 第一声がそれか。
「初対面の相手をののしる理由を聞きたい」
「寝顔、ずっと見てた」
「そりゃお前がいつまでも起きないからだ」
「でも、見ている必要はないでしょ」
 表情が乏しい。そういえば知識はあるが感情はあまりない、ということを乃木が言っていた。
「俺が誰だか分かるか?」
「天野悠斗。私の保護者」
「正解。で、お前は自分が誰だか分かるか?」
「魔王」
「よく分かってる。魔王は何をするものだ?」
「世界征服よ」
「単純明快だな。お前さんはそれがしたいのか?」
「分からない。私は──」
 言いながら、彼女は体を起こした。それからゆっくりと自分の手を見て、それから正面に座っていた自分を見つめてくる。
「今の私は魔王としての意識が表面化しているわけじゃないもの」
「魔王の意識の上に、お前さんの意識をかぶせたみたいなもんか?」
「だと思う。正直、自分がよく分からないの」
 首をひねっている。本当にどういう状態なのか分からないのだろう。
「記憶喪失みたいなもんか」
「私は記憶喪失になったことがないから分からないわ。でも、近いんだと思う。自分が魔王だってことは分かってるけど、後から植えつけられた知識にすぎないから」
「記憶喪失者が自分のことを教えられた状態ってわけか」
「それが一番近いと思う」
 少女は自分の感情を表に出さないので、現状をどう思っているのかが分からない。
「不安か?」
「どうかな。私、まだそういう感情もよく分かっていないみたいだから」
「生きたいか?」
 その言葉に対して彼女は少し考えてから、しっかりと頷いた。
「あなたが私を育てることを承諾してくれて、本当に感謝してる」
「それも分かっているのか」
「そうでないと、私が目覚めているはずがないもの」
「なるほど」
「私は生きたい。魔王も同じだと思う」
「そうか。なら俺が手伝おう」
 自分も表情を変えずに相手に正直に言う。
「別に俺も酔狂でお前に付き合うわけじゃない。お前が本気でこの先、生きていきたいと思っているのなら、俺にできることをしてやりたいと思った」
「ありがとう」
 彼女は小さく頭を下げる。
「あなたのおかげで、少なくとも今、私は目を覚ましていられる」
「自分のこと、どれだけ分かっている?」
「二十歳になったら魔王が目覚めることは分かってる。それまでに魔王が人間を好きになっていないといけないということも」
「本当にきちんと伝わってるんだな」
 そうして、自分はゆっくりと手を伸ばす。
「少し、動くな」
 彼女は言われた通り、動かない。そしてその手で、ゆっくりとその頭をなでた。
「いい子だ」
 何度も、優しく、なでる。
「お前は長生きするよ。俺が保障する」
「本当に?」
「ああ。俺は今までに嘘を言ったことがない。できないことはできないとはっきり言うが、できることは自分の手で実現させてきたからな」
 その言葉が伝わったのか、彼女は少し顔を赤らめた。
「ありがとう」
「挨拶はコミュニケーションの基本だ。よくできている。偉いな」
「でも、あまり、なでなくてもいい」
「照れるな」
「スケベ」
「殴るぞ」
 だが彼女はその手を振り払おうとはせず、そのまま身を任せるようにして目を閉じた。
「真央」
「……?」
「真央。お前の名前だ」
「……魔王?」
「ま・お。真の中央と書いて真央。俺は、これからの五年間を、お前のためだけに使う。だから真央」
「あてつけ」
「いい名前だと思ったんだがな」
「うん、悪くない」
 彼女はそれから、ようやく少し微笑んだ。
「よろしく頼む、悠斗」
「ああ、よろしくな。真央」



 こうして。
 ちょっと変わった人間と若い魔王の物語は、めでたく幕を開けた。







【1】

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