「本当に、私に下心はないのか?」
「五年後に出直してこい」






【1】・A







 二人は白坂環が運転する車に乗って、ひとまずこれから二人が住むマンションへと移動することになった。
 新型フォルクスワーゲンの後部座席に乗って移動。国道を走って北上し、県境を越えたところで県道にそれる。
「そういえば、名前は決まりましたか?」
 環が尋ねてくると、少女は「真央」とだけ答える。
「魔王?」
「ま・お。真実に中央で真央」
 先ほど本人とやったやり取りと同じことを行う。
「へえ、いい名前ですね。真央ちゃん、大切にしてね」
 人の良さそうな笑顔がバックミラーに映る。この女性は本当に純粋な善意でそう言っているのだろう。
「そういえば、天野さんは車、運転できるんですか?」
「今どき免許を持っていない奴の方が珍しいだろう」
「そうですね。車、ありますか?」
「ああ」
「そうでしたか。いえ、もし免許があって車がないんだったら、このフォルクスワーゲン、使ってもいいことになってたんです」
 なるほど、足の問題までは考えていなかった。
「三列の中型車だから、荷物を運ぶのとかはあまり問題ない」
「分かりました。あ、見えてきましたよ。あれです」
 あれ、と言われてもすぐには判断できなかった。というのも、似たような集合住宅がこの辺りには右にも左にも林立している。
「外壁がアイボリーのやつです。目立っているでしょう?」
 アイボリーなどの明るい色は汚れが目立つので、あまり建物の外壁としては相応しくないということを聞いた気がする。それでも綺麗に保っているのは、こまめに清掃をしているからか、それともただ単に新しいからか。
「このあたりは新興の住宅地になってます。ベッドタウンですね。JR駅まで約十分。そこから電車に乗って一本で山手線の池袋に入ります」
「痴漢が出ることで有名な路線だな」
 あら、と環が苦笑する。
「知ってましたか」
「こっち側を使う人間にとっては常識的な話だ」
「ええ。というわけで、真央ちゃんも気をつけてくださいね。年下を狙うヘンタイさんも世の中にはたくさんいますから」
 真央は何を言われているのか分からないといった様子だ。まあ、分からなくてもいい。
「こちらの六〇一号室になりますので」
 二階建ての立体駐車場に停める。部屋一つにつき駐車スペース一つを完備しているらしい。まあ、ワンフロア全て使えるということは、六〇一から駐車スペース四つ分も自由に使えるということだ。
「どうしますか? 部屋までご一緒しますか?」
「いや、ここでいい。不要な荷物はまとめて別の部屋に放り込んでおくから、後で引き取りに来てくれ」
「分かりました。何かありましたら研究所までご連絡ください」
「ああ」
「では、失礼いたします」
 と言って、環はもう一度真央を見てから言う。
「真央ちゃんをお願いします」
「言われるまでもない」
「いえ、その。私はずっと、真央ちゃんが目覚めるまで待っていましたから」
 環は少し寂しそうに真央を見る。
「しばらく会えなくなるけど、私は真央ちゃんの味方だから。このおにいさんに何か変なことされそうになったら、私に連絡して。やっつけてあげるから」
 ため息をつく。
「会いたければいつでも会いにくればいい」
「そうしたいのは山々ですけど、私にも自分の仕事がありますから」
 環は真剣な表情で言う。
「では」
 そうして環は車に乗って、再び行ってしまった。
「じゃあ、行くか」
 真央に声をかけると、彼女も頷いて後についてくる。
 これから始まる二人の生活。だが、二人の間の距離は随分と大きい。
「俺の荷物を取りにいかないといけないな」
 独り言のように呟くと、彼女は自分の顔を覗き込んでくる。
「部屋を見てから一度、俺の家に行く。お前も一緒に来い」
 しばらく考えた様子を見せてから真央が尋ねる。
「それもいいが、その前にいろいろと話しておきたいことがある」
 まさか真央の方から言ってくるとは思っていなかった。もちろん自分も話したいことは山ほどある。
「何だ?」
 だがこの場では何も言わない。部屋に入ってから、ということなのだろう。
 二人は何も言わず、F棟に入ってエレベーターで六階まで昇った。
 当然六階の他の家には誰もいないのだから、静かなものだ。
(そういや、五階から八階が誰もいないという話だったな)
 上下の部屋に誰もいないのはありがたい。騒音を気にせずにすむ。
「いたれりつくせり、という感じだな」
 真央は顔を少ししかめた。自分が何を言っているのか分からなかった様子だ。
「さ、着いたぞ」
 扉を開いて、真央を中へ入れる。
「ここが、私の家」
 真央は靴を脱ぐと、おそるおそる足を踏み出す。
 リビングに入る。荷物が全くなかったので、小奇麗に片付いている。
「ああ。これから五年間、お前が暮らす家だ」
「五年間……」
 真央はしばらく部屋の外からじっと見つめていたが、やがて中に入っていくと、自分の部屋になるはずの場所を覗き込んだ。
 既に荷物は運び入れてあると言った通り、普通の中学生の部屋に必要なものがそろっていた。ベッド、机、本棚、洋服箪笥。窓にはピンク色のカーテン。絨毯とおそろいの柄。
「私の部屋」
 中に入って、机の前の椅子に座る。
「悠斗」
 そして部屋の入口でその様子を見ていた自分に話しかけてくる。
「スケベ」
「もうその話はいい」
「年頃の女の子の部屋を覗くのは失礼だ」
「お前、自分で分かって言ってるのか。お前が自分で集めたものなんか、まだ何一つないだろう」
 やれやれ、と言うと指で相手を招く。彼女は立ち上がってリビングに戻ってきた。
 まだ何もない部屋に、二人で腰を下ろす。
「聞きたいことがあると言ったな」
「寝ている間にいろいろと知識を手に入れてはいたが、私にもまだよく理解できていないところがある。それをはっきりさせたい」
「ああ。俺もお前がどれだけ分かってるのか、確認をする必要があると思っていた」
「まず、私は五年間、何をすればいいんだろう」
 それはまた抽象的な質問だった。
「普通に生きて、普通に過ごす。それだけだろうな」
「普通というのは何だ? 私には分からない。いったい何をすればいいのか、見えてこない」
「そりゃ、知識と実践は違うからな」
「魔王としての意識が目覚めたらどうなるのか、私には分からない。私は自分が何者かもよく分かっていない。今考えているこの意識が、魔王のものなのか、全く別の人格なのか、魔王の人格を隠すために植えつけられた人格なのか。それすら分からない」
「それなら簡単だ」
「簡単? 何故?」
「お前の意識はお前のものだ。もっと分かりやすく言えば『真央』のものだ。お前は今、現実に、こうして生きて存在して考えている。考えているその意識は『真央』本人のものだ。真央が何者か、という話はまた別になるが、そんなものは考えても分からない。魔王だろうが、他の存在だろうが、かまうことはない。お前はお前だ。真央としてここにいろ」
「真央として」
 だが彼女はすぐに表情に見せずに機嫌を悪くする。
「でも、もしかしたら明日の私は今日の私と別人かもしれない。そうしたらどうする?」
「人間は毎日、前の日と次の日とで別人になるものだ」
「は?」
「人間に限らず、すべての生き物は昨日までの知識を糧として次の日を生きる。人間の意識は知識が連続しているから、変わらないように見えているだけだ。昨日と今日とで全く違う人間になることがあるとしたら、それは記憶をなくしたときだけだ。今日、ここで、こうして俺とお前が話していることを忘れない限り、お前はこれからもずっと真央として生きていける。それは保障する」
「忘れない限り、か」
 真央は何度か頷いて納得する。
「あなたの言うことは理屈によくかなっていて、私を安心させる」
「お前は顔に出ないから、本当に安心しているのかどうか分からん」
「と同時に、女性への扱いが上手ではない。たとえ嘘でも言ってほしい言葉を言えない性格というのはかわいそうだな」
「俺がかわいそうだと?」
「あなたもだが、あなたの恋人になる女性も」
 随分と視野の広い十四歳だ。
「それが理由かは知らないが、つい一ヶ月前に別れたばかりで、俺のせいで苦しむ女性はいないな」
「いるだろう、ここに」
「ここ?」
「私だ。こう見えても十四歳の女の子。確かに成人ではないが、立派な女性だ」
 自信満々に言われると、そうだな、としか答えようがない。
「嘘をついてほしいのか?」
「そうだな。安心はさせてほしい」
 彼女は少し首をかしげる。
「さっき、あなたが言ってくれた言葉は、心から嬉しかったと思う」
「さっき?」
「あなたは私に、長生きできると言った。そしてあなたがそれを実現してくれると言った。女の子はそういう強い男性に頼りたいと思うものだ」
「客観的に言われると気恥ずかしいが、お前もそう思うのか?」
「私も女性だと言った。二回目だ。あなたほど賢い人間が、何度も尋ねる理由が分からない」
「そいつは悪いな。お前があまりに年配の男性のような物言いをするから、精神的に女性なのかどうかはかりかねてるんだ」
 女性は納得したようにうなずく。
「なるほど。身体の問題ではなく精神か。確かに精神では私は普通の女子中学生ではないのは間違いないな。何しろ、五年後の生死を考えて行動している女子中学生がこの世の中にそうそういるとは思えないからな。自分の将来を真剣に考える人間は成長が早いとはよく言ったものだ」
 それだけではないと思うが。この少女の物言いは、悟りを開いた哲学者と同じだ。
「まあ、突然魔王が覚醒でもしない限り、ここまでの知識が突然なくなることはないと思う。その点では私は安心していいと思う」
「じゃあ、何が安心できない点だ?」
「無論、魔王だ。私の中にいる魔王が覚醒するとき、私の意識がなくなるのか、それとも留まるのか。それが分からない」
「明確な解がないものを断言することはできないが、それも心配しなくていいと思うぞ」
「何故だ?」
「さっきの研究所で、お前が人間のことを好きになれば魔王も無害になると言っていた。つまり、お前がこれから五年間で体験することはそのまま魔王に引き継がれる。お前の精神は確かに大きく変化するかもしれないが、お前自身が消えてなくなるわけじゃない」
「なるほど。変化はするが消失はしないか。確かにそれは一理ある。もしも私が消失することが前提なら、私を生かしておく必要がないからな」
「そういうことだ。お前が生かされている以上、お前はそのまま生き残る可能性があるということだ。だから思い切りこの世界を満喫しろ」
 真央はようやく苦笑した。
「あなたは本当に、女性の扱いが下手だな」
「年下の女に言われてもあまり何とも思わないが」
「あなたの物言いは、どこか相手を突き放している。まあ、期待を持たせるよりはその方が相手にとっていいのかもしれないけれど、傷ついている子にその言い方はないと思うわ」
 なるほど、と頷く。
「じゃあ、これならいいのか」
 近づいて、また相手の頭をなでる。
「あ」
「お前はこうされるのが気に入ったみたいだからな」
「私を子供扱いするの?」
「子供だろう。どこからどう見ても」
「なるほど」
 真央は少しだけ安らいだ表情になって目を閉じる。
「一つ、聞かせてもらえる?」
「なんだ」
「本当に、私に下心はないのか?」
「五年後に出直してこい」
 そう言うと、真央は微笑をもらす。
「そうね。もしも私が五年後、あなたのことを好きになっていたら、そうさせてもらう」
「五年後か」
 これから自分は、この綺麗な少女と五年間を過ごす。
 だが、もしも相手と別れたくないと思ったとしても、乃木からは最初に堅く念押しをされている。
『五年経ったらこの子はこの施設に引き取って、あとは元の世界に戻せるようにするだけだよ。君は二度とこの子には会えなくなる』
 つまり、真央が生き残っても、死んだとしても、五年から先に自分たちが共に過ごすという選択肢はない。
「生き延びることができたら、お前は元の世界に戻される。それは分かっているのか?」
「もちろん。この世界で五年間生きるための条件として、最初にインプットされた。好きになってもいいけど、別れが辛いよって」
「なるほど。その条件で人間を好きになるのは難しいだろうが、がんばれ」
「突き放した言い方だな」
「では言い直そう」
 真央の頭を軽く抱いてささやく。
「俺がお前を人間好きにさせてやるから、安心していろ」
「安心しよう。あなたは約束を破らない人だ」
 くす、と少女が笑った。







【B】

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