「もしあなたが望むのなら『お兄ちゃん』と呼ぼうか」
「お前のそのマニアックな知識をどこで手に入れたか説明してみろ」






【1】・B







 それから二人はJR駅までの道のりを確認して移動する。徒歩十分というのは多く見積もった言い方で、実際には五分少しでつくことができた。バスもたくさん通っているし、交通の便は悪くなさそうだった。
「乗り方は分かるか?」
「失礼だな」
「いや、失礼でも何でもないぞ。お前は生まれたばかりだからな」
「私は一般常識をきちんと身につけている。ただ、それを実践する機会がなかっただけだ」
 そう言って先に駅に入ろうとする真央だったが、ぴたり、とその足が止まった。
「どうした?」
「大きな問題があった」
「何だ?」
「私はお金を持っていない」
 当たり前だ。
「何のために保護者がいると思ってるんだ、被保護者」
「だが、あなたの世話になってばかりでは」
「じゃあこれから五年間、働いてお金を稼ぐつもりか? 安心しろ。お前を育てるのにはきちんとお金が出ている」
 まだ口座からお金をおろしていなかったので、とりあえず手持ちのお金を渡す。
「さ、まずは一人でやってみろ」
「なるほど。これがお金というものか。人の絵が描かれているというのは知っていたが、商品との交換材料にこんな絵を入れることに何の意味があるんだ?」
「いろんなこと知ってるのに、そういうことは知らないんだな」
「常識は教わっているけれど、その理由までは教わってないもの」
 少しむくれたように答える。
「簡単だ。紙幣はコピーすればいくらでも偽造できるから、その防止のためだ」
「少しでも複雑な方がコピーしづらいということ?」
「そういうこと。他にも紙質とか、透かしの技術とか、不正コピー防止の技術がいろいろと使われている」
「なるほど」
 頷くと真央は千円札を丁寧に持って、券売機にそのお金を入れる。
「いくらだ?」
「三八〇円」
「これか」
 迷わずに【380】と表示されているところを押す。
「なるほど」
「なんだ?」
「いや、お前の様子を見ていて、本当に常識は分かっているんだな、と思った」
「何故?」
「数字がきちんと分かっていた。つまり、文字が読めるということだろう」
「当たり前だ。とはいえ、私の知っているものはそれほど多くはない。せいぜい初等教育レベルだ」
「いやいや、それだけ分かっていれば充分。これから先、お前には勉強を教えないといけないからな」
「勉強? 何故」
「学校に行ってもらうからさ」
「学校?」
 真央がきょとんとする。
「当たり前だろう。十代のうちはきちんと勉強をするもんだ」
「いや、そうではなくて。私はこの世界では戸籍がないはずだ。この国では学校に行くにも戸籍が必要だろう。私の入学は無理ではないか?」
「それが分かっていて紙幣の偽造防止のことを知らないんだから、お前の知識は偏りすぎだな」
 何が分かっていて何が分かっていないのか、それをまず確認することが急務だな、と判断する。
「戸籍なしでも入れる学校を、乃木に調べさせているところだ。ただ、問題はお前が入学試験に合格できるレベルでなければ困るが」
「それこそ難しい話だな。さっきも言ったが、私が教えられた知識は、基本的に初等教育までだ。それ以上のことは勉強していない」
「だから俺が教えると言っているだろう。入試まであと半年。休まずしごくから覚悟しろ」
「ふむ」
 真央はじっと見つめてくる。
「私は邪魔か?」
「は?」
「私はあなたと一緒にいられるのならそれでいいと思っていた。きっと楽しい五年間になるだろうと。あなたはそうではなかったのか? それとも私と五年間いることによる報酬が目当てなのか?」
「お前な、その目覚めたばかりの鈍い頭をもう少し使え」
 ため息をつきながら言う。
「学校に行かせるのはお前にとって必要だからだ。だいたいな、その進学費用は俺が出すんだ。報酬が目当てなら報酬を減らす必要はないだろう」
「理にはかなっている。でも、あなたは私を学校に入れることで、あなたにとって自由な時間が手に入る。それが目的ではないのか?」
「自由な時間はともかく、離れている時間は正直必要だ。それはお前が邪魔だとか一緒にいたくないとかじゃない」
「何故」
「そりゃ学校に行けば分かる。お前は学校で生き延びるために必要な知識をさらに手に入れるだろうし、俺が自由に動ける時間があった方がお前にとっても良い」
「言っている意味が分からない」
「だろうな。俺も分かってもらおうとは思っていない。ただ、これだけ理解してくれればいい」
 そう言って安心させるように、その髪をなでる。
「俺は自分の五年間をお前のためだけに使う。たとえお前が学校に行こうが何をしようが、俺の五年間はお前のためになること以外には使わない。そう決めた」
「それは必要なのことなのか?」
「必要だ。五年後、お前が死ななくて済むようにするためにはな」
「そうか」
 真央は少し考えてから頷く。
「あなたを信用しよう」
「そうしてもらえると助かる」
「いや、きっとあなたは私が何故信用すると言ったのか、分かっていない」
「?」
 そう言われてもどういう意味かなど分からない。
「気にしないで。私はきっと、初めて私の世界に入ってきた人物を、少し独占したいと思っているだけなのだから」
 なるほど、独占か。
「一つだけはっきりさせておきたい。あなたにとって私は何?」
「被保護者」
「それだけ?」
「それ以上に何か必要か」
「綺麗な美少女を前に、欲情はしないのか?」
「欲情してほしいのか?」
「いいや、その反対だ。信頼しようと思っている相手が自分をそう見ているとしたら、私は人間を信じられなくなるだろう。ただ、同時に私は女だ。まったく魅力を感じてもらえないというのは、それはそれで癪だ」
「どうしろと」
 頭が痛い。
「いや、混乱させたようですまない。あなたが私をそういう目で見ていないから信用する、と言ったのだ。私の女のプライドはあまり気にしないで」
「分かった。それについては気にしないことにする」
「そうだな。兄が妹を守るような気持ちでいてくれるのがいいのかもしれない」
 こんな生意気そうな妹を持ちたくはないものだが、まあ話があう相手が家族=妹だと、それは気が楽なのかもしれない。
「俺は兄弟姉妹がいなかったからな。どんな風に接すればいいのかは分からない。だが、お前のために何かしてやりたいと思う気持ちに偽りはない」
「安心した」
 そして微笑をたたえる。
「もしあなたが望むのなら『お兄ちゃん』と呼ぼうか」
「お前のそのマニアックな知識はどこで手に入れたものか説明してみろ」
 だが、この話を通してようやく真央は少しリラックスしたらしい。
 そうしてようやくJRに乗る。昼間のJRはあまり人が多くない。この地域の社会人は、ほとんどが東京に働きに出ている。
「揺れるぞ」
 椅子に座っているにも関わらず、発車するときの揺れで上体がバランスを崩す。
「あ、う、うわ」
 珍しく戸惑った声と表情。
「お前、そんな顔もできるのな」
「自分でも驚いている。知識と実践は違うというが、本当だな」
 少し興奮しているらしい。顔が上気している。
(面白い奴)
 まあ、もともと知識が多いだけに、こういう反応は最初のうちだけだろう。しばらくゆっくりと観察させてもらおう。
「なるほど、速いのは知っていたが、なかなかスピードが出るんだな」
 TPOはよくわきまえているらしく、話す声は小声だった。いくら人が少ないとはいえ、椅子はほとんど埋まっている。会話の内容はあまり他人に聞かれたくない。
「もっと子供みたいにはしゃいでもかまわないぞ」
「ふざけろ。常識はわきまえていると言っただろう」
「分かっている。ただ、お前はまだ十四歳、いやもう十五だったか。それだけ若ければ多少は子供っぽいところがあってもいいかと思うが」
「そうだな。確かにこの世界での十五歳はまだまだ子供だ」
 そう言って頷く十四歳。
「ただ、やはりあまり目立ちたくはない。心の中でゆっくりと楽しませてもらうことにする」
「分かった。聞きたいことがあったらすぐに言え」
「ああ。頼りにしている」
 自分より小さい女の子が大人びた声で言う。こういうふうに頼られるのは悪くない。
 その彼女を観察していると、意外に表情が豊かだ。いや、表情はぱっと見るとあまり変わっていないのだが、何かを見て驚いたり、気づいて感心していたり、考え込んでいたりと、その表情を見ているだけで何を考えているのかはすぐに分かる。
 根が素直なのだろう。
「どこまで行くの?」
 駅表示を見ながら尋ねてくる。
「あと五駅」
「なるほど。いいところに住んでいるんだな」
 そう言われて顔をしかめる。
「その根拠は?」
「駅の表示に小さい丸と大きな丸がある。大きいのは快速が止まる駅、小さいのは止まらない駅なんだろう。快速が止まる駅の近くの方がきっと地代は高い。違うか?」
 はじめて電車に乗ってそれだけのことが分かるのか。なるほど、確かに知能は高そうだ。
「賢いな」
「考えれば分かることだろう?」
「考えればな。だが、普通はそんなことまで考えない。大きな丸と小さな丸の違いは何か、で終わりだ。そこから思考を発展させられるお前の知能は高い」
「褒めているのか?」
「そのつもりだが」
「だったら真剣に言ってほしいな。あなたの言葉は上辺だけに聞こえてしまう。あなたの方が知識があるのだから、からかわれているようにすら聞こえる」
「それは失礼。こういう言い方しかできないからな」
 ふう、と息をつく。
「お前を連れて東京見学したらいろいろと面白そうだな」
「東京か。人が大勢いるんだろう?」
「まあ、そっちに向かってるんだが」
「噂に聞く『通勤ラッシュ』というものを見てみたい」
「やめておけ。死ぬぞ」
 本当に、あのラッシュの中、きちんと毎日出勤していた自分は偉いと思う。というか世の中、もう少し人が分散されていていいと思うのだが。
「でも、いろいろと体験した方がいいんだろう?」
「世の中には知らなくてもいいことがある」
「むぅ」
 膨れる、というより、唸る。女の子っぽい仕草をしたわけではなさそうだ。
「まあ、今日はあなたの家に行くのが目的だから仕方ないけど、そのうちに」
「傍で見るだけにしておけ、呑み込まれたら生きて戻ってこれないぞ」
「でも世の中の人たちは生きて目的地にたどりついているのだろう?」
「明確かつ強靭な意思を持った人間だけがたどりつけるんだ。観光気分で行くもんじゃない」
 一度見てみれば早いのかもしれない。まあ、新宿あたりの混雑時を見せるだけで充分な気もするが。
「そろそろだな」
「ああ、立って止まっても大丈夫か」
「多分」
 ひどく不安そうに答える真央。
「そこの棒に捕まれ。とにかく体を安定させろ」
「分かった」
 扉付近に立って、横の棒に一生懸命に捕まる。
「なんだ?」
 と、真央が突然尋ねてきた。
「何がだ?」
「いや、私の方を見て笑っていただろう」
「そんなつもりはなかったが──ああ、そうか」
 一生懸命にしている真央が可愛らしくて、思わず表情に出てしまっていたのだろう。
「お前を育てるのが楽しみになってきたってことかな」
 優しく撫でるのではなく、ぽんぽんと頭を叩く。むぅ、とまた唸る。
「あまり子供扱いしすぎるな。精神が子供に逆戻りしそうだ」
「お前は充分子供だ」
「分かっている。だが、今に見ていろ。誰もが目を引く立派な女性になってみせる」
 力を込めて言う。なんだか魔王らしくない台詞だったが、真央らしい台詞だった。
(まあ、現時点で既に目を引く存在ではあるんだがな)
 何しろ綺麗で可愛いのだから、目を引かないはずがない。
「そろそろだぞ」
 話をそらす。と同時に電車がブレーキをかけて、真央の体が進行方向へ流れていく。その自分の体を両手で必死に棒をつかんでこらえている。
(面白い奴)
 表情に出さないようにするのが大変だった。







【C】

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