「女の人をとっかえひっかえ、泣かせているわけね」
「根も葉も実もないことを言うな」






【1】・C







 駅を出て徒歩五分。そこに悠斗のマンションはある。
 物件としては非常に良い。3LDKで日当たりもよく、快速の止まる駅までの距離が徒歩五分。これで家賃が通常の二分の一以下なのだから、掘り出し物もいいところだ。
 もっともその理由は、前の借主が自殺していたからだというオプションつきなのだが。
「なかなかいいマンションだな」
 外側から見て真央が言う。
「いいマンションの基準が分かっているのか?」
「駅から近くて、途中に坂も階段もなかった。行き来しやすいということだろう」
「ほう」
「まわりに高いマンションが少ないから見晴らしがいい」
「上の階はな」
「ワンフロアに二戸。北と南の両方に窓がある作りになっているから、風通しがいいはずだ」
「ブラボー」
 素直に賞賛する。実はその点がこのマンションに決めた最大の理由だったりする。
「中がどうなっているかは分からないが、外から見て悪いマンションではないと思う」
「俺もそう思ってこのマンションに決めた。もちろん中は確認したがな」
 鍵を差し込んで入口の自動ドアが開く。そのまますぐのところにエレベーターがある。
「ボタンを押してみろ」
「上の方だな」
 右手の人差し指を綺麗に伸ばして、一拍置いてから、ぽちっ、と押す。さっきのマンションでは何も言わずに連れて行ったが、今度は全部真央に操作させる。何事も経験。
 すぐに扉が開いて中に飛び込む。ぐらり、と揺れて一瞬ふらつく。
「八階だ」
 言うと頷いてまたボタンを押す。扉がゆっくりと閉まり、エレベーターが上昇を始める。
「さっきもそうだったけど、体が押し付けられる感じがする」
「そりゃ体を持ち上げてるわけだからな」
「下りるときも変な感じだった。軽くなるような」
「そりゃ下りてるわけだからな」
 そしてゆっくりと減速を始め、止まると同時に扉が開く。
「こっちだ」
 隣に住人は入っていない。802号室の鍵を開けて中に入る。
「お邪魔します」
 後に入ってくる真央が丁寧に挨拶する。
「さて、荷物はどれが必要かな」
 とりあえず持っていくものさえ決めてしまえば、大きなものは後で乃木に運ばせればいい。
 さっきの家には既に冷蔵庫とエアコン、洗濯機は設置されていた。問題はそれ以外。
「テーブルとパソコン。あまり使ってないがこのCDコンポか」
「CD? 音楽か。悠斗は音楽を聴くのか」
「人並みにな。これは持ち帰ったらお前にやる」
「いいのか? けっこう高そうだが」
「高いぞ。一式十万以上する高級品だ」
「そんな高いものを?」
「俺はあまり使わない」
 あまりどころかまるで使っていない。前の彼女が来たときに何回か起動したことがあるくらいで、音楽を聴くならPCで充分だった。
「でも、私も音楽のよしあしなんて分からない」
「音楽番組を見て、いいのがあったら買えばいい」
 それから、と中を見る。
「そうか、テレビが必要だったな。この42型は後で運ばせよう。それからDVDプレーヤー」
「これもあまり使っていないのか?」
「よく分かるな」
「あなたのことは少し考えると分かるようになってきた」
 真央があれこれ興味を覚えれば、あっという間に自分より知識を得ていくだろう。自分は無趣味な人間で、多感な少女の相手は務まりにくい。
「食器類をダンボールに詰めるか。新聞紙を持ってきてくれ」
「はい」
 素直に頷いて、居間に積まれている新聞紙を一束持ってくる。
「あまり多くはないから問題ないだろう。ワレモノは全部一個ずつこの新聞紙でくるんでいってくれ」
「割れないようにするということか。分かった」
「ダンボールは奥にあるから今持ってくる」
「じゃあ、先に始めてるね」
「ああ」
 その場を任せて空き室に積んであるダンボールを三つとガムテープを取る。広いマンションで全部の部屋を使っていたわけではない。空き室にはいつでも引越しができるように、前回使った道具などがそのまま放り込まれている。
「それからベッドとソファか。この辺りはさすがに自分では運べないから乃木にやらせるか」
 本やCD類はもともとあまり持っていなかったし、ゲーム機などもない。真央には後でDSでも買ってあげた方がいいだろうか。
「後、電話機か」
 これは今すぐにでも外していいだろう、と思っていたところに電話機のベルが鳴る。なんというタイミング。
「はい、天野ですが」
『悠斗?』
 おや、珍しい相手から電話が来たものだ。
「こんな時間に電話をかけてくるとは思わなかったな。それも携帯じゃなく自宅に」
『私もいるとは思ってなかったわ。昼間から家で何してるのよ』
「思ってないなら振った男に電話なんかかけてくるな。何の用だ、朋絵」
 佐々木朋絵。つい一ヶ月前まで付き合っていた女性。一方的に別れを告げられた相手だった。
 こちらとしても本気で付き合っていたわけではなかったが、決して相手をおろそかにしたことも不誠実だったこともない。気に入った相手だったのだが。
『仕事は?』
「辞めた」
『やっぱり』
「やっぱり?」
『辞めたんじゃなくて、辞めさせられたんでしょ?』
「自主退社だぞ?」
『そういう風に追い込まれただけ。悠斗は辞める気なんてなかったでしょ』
 自分を理解しているような口調。だが、ここまではっきりと言うからには、何か裏があると見ていいのだろう。
「何を知っている?」
『私も同じよ』
「同じ?」
『あなたと付き合うなって命令されたのよ』
 だいたい予想はつくが、なるほど、そういうことか。
「乃木か」
『名前は知らないわ。でも、いろいろと脅されたのよ。多分会社の方にも手が回って、あなたを辞めさせるように工作されたんでしょうね』
「脅された? そんなこと言わなかったな」
『そうね。これでも脅されてから三ヶ月は我慢してたのよ。悠斗が気づいてくれるかと思って待ってたんだけど、気づいてくれなかったわ』
「そうか。それは悪かった」
『いいのよ。もともと悠斗が私に興味なかったのは分かってたことだし。ただ、忠告だけはしておこうと思って電話をかけたんだけど、どうやらあなたはもうよく分かってるみたいね』
「そうだな。まあ、別に命の危険とかあるわけじゃないから心配しないでくれ」
『分かったわ。あと、一つ教えて』
「なんだ?」
『その小さそうな女の子は悠斗の新しい彼女?』
「見てたのか」
『たまたま見かけたのよ』
「彼女じゃない。被保護者だ」
『本当に?』
「俺が嘘を吐く理由もなければ、お前が疑う理由もないな。お前とはもう別れた。どういう理由だったにせよ」
『ひどい人』
 電話の向こうで、くす、と笑う。
『悠斗、私と一緒にいてもずっとつまらなさそうだったけど、その子と一緒にいるあなたは楽しそうだったわ』
「俺はお前と一緒にいても楽しかったが」
『違うわ。楽しいように演じてくれていただけ。あなたはずっと私に冷めていたから』
 そんなつもりはなかったが、相手にそう伝わってしまうような態度を取っていたのは事実だ。
『大事にしてあげてね』
「被保護者だからな」
『あなたは大切なものほど手を触れようとしない、臆病な人だから』
「それが分かっているのに俺を責めるな」
 やれやれ、とため息をつく。
『それじゃ。もう電話はしないわ』
「ああ。俺も引っ越すからもうこの電話番号には出ない」
『そう。彼女と新しい家にお引越し?』
「そう思ってくれればいい」
『そっか』
 少し間があって、うん、と頷く声。
『さよなら』
 そして電話は一方的に切れた。
 やれやれだ。ここにきて蒸し返すような話でもないだろうに。
「誰?」
 気づけば後ろに真央の姿。どことなく寂しそうな表情。
「一ヶ月前に振られた彼女」
「そう」
 完全に表情を消した様子で真央が尋ねてくる。
「別れて後悔してる?」
「いや? 突然振られたときはどうしてかと思ったが、そこでこだわりもしなかったから、別に本気でもなかったんだろう」
「女の人をとっかえひっかえ、泣かせているわけね」
「根も葉も実もないことを言うな」
 相手に対しては常に誠実だったのに、そんなことを言われる筋合いはない。
「どれくらい付き合っていたんだ? 名前は? どんな人だったんだ?」
「そんなことを聞いてどうする。もう終わった話だ」
「あなたのことは、何でも知っておきたいから」
 それはまたすごい口説き文句だ。
「一年。佐々木朋絵。大人で美人だ」
「別れたのはもしかして、私のせいか?」
 そこで表情が曇る。
「俺にお前を育てさせるために乃木が仕組んだのは事実のようだ。だが、お互い本気だったわけでもないから別にお前が気にすることじゃない」
「自分に言い聞かせてる」
 真央は近づいてきて、右手を高く上げると、ゲンコツでコツンと俺の額を叩く。
「ごめんね、私のために」
「俺は別に気にしてない。彼女には悪いことをしたがな」
「そんなことを言うから女の人を泣かせるんだよ」
 やれやれ、と彼女は苦笑する。
「さて、こっちの作業は終わったけど、どうすればいい?」
「ああ。このダンボールにつめていく」
「分かった。他にも荷物があったらあなたはそっちを優先して」
「ああ」
 そう言って真央はてきぱきと動き始める。よく働く娘だ。
(あんな子供に元気づけられるとはな)
 そんなに自分は悲しかったのだろうか。まあ、一ヶ月前は悲しかったのだろう。時間が経てば勝手にそんな気持ちもなくなる。だが、悲しかった記憶は残る。今はたまたまそれが浮上しただけ。
(この電話機はどうするか)
 少し考えたが、結局持っていくことにした。モジュラーケーブルごと外し、ダンボールに入れる。
(さて、後は持っていけるものは運んでしまうか)
 テーブルにアイロンと台、CDコンポなどを玄関まで運ぶ。
「車を入口につけてくる。作業頼む」
「分かった」
 そう言ってエレベーターから下に降りる。一番大きいテーブルだけは先に下に持っていく。
 入口のところにテーブルを立てかけておいて、扉を出る。
 そのとき、ふと思った。
(何故、こんなにタイミング良く電話が来た?)
 それは天啓のようであった。扉を出た瞬間に何故そう思ったかは分からない。だが、外に出た、ということが自分の思考にどこかで働きかけたのだろう。
 彼女は自分たちを見かけた、と言っていた。いつ? どこで?
 タイミング良く電話がかかってきたのは、自分たちがマンションに入っていくのを確認したから?
 だとしたら、彼女は今──
(朋絵)
 向かいの大きな通りの反対側。そこに一台の車が停まっていた。
 その運転席に乗っていた女性がこちらを見ていた。
「朋絵」
 だが、口にした途端、その車は発進していった。
(そうか)
 彼女はきっと、自分に会いに来たのだ。
(馬鹿だな)
 彼女も、自分も。
 お互い相手を嫌ってなどいない。いや、こういう言い方はやめよう。好きだった。今でもまだその気持ちは残っている。
 だが彼女は自分と訣別し、自分はあの子の保護者となることを今日、選んでしまった。
 もし一日早ければ、もう一度やり直せたかもしれなかった。
(女の人を泣かせる、か。あながち間違いではなかったな)
 自嘲した。だが、今日のこの出来事は自分にとってもありがたいことだった。冷静になればきっとそう思えるはず。
 彼女との電話と今の邂逅が、彼女への未練を完全に断ち切らせてくれた。
「さて、さっさと車を移動させるか」
 今はあまり考えないようにしよう。
 そして、部屋で待っている少女のことを考えなくては。







【D】

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