「私……この問題が解き終わったら、ゲームするんだ……バロンに行って、国王に会うんだ……」
「二重の意味で死亡フラグ立てるな」






【3−A】







 八月も終わりに近づいた水曜日。高校受験のための個別特訓に明け暮れる毎日が続いていたある日、そろそろここまでの力試しをしておこうかと少し難しめの問題をやらせてみることにした。
 科目は数学。範囲は連立方程式。ちょうど中学二年生が勉強を行っている頃だ。たった二ヶ月でよく中一の範囲を終わらせたものだと思う。特に数学と英語、国語についてはどれだけ進んでいってもしっかり理解している。問題は暗記することの多い社会と理科。特に社会が苦手なのにはまいった。
 真央の一番の問題は、この十五年にわたる知識は全て与えられたものだということだ。たとえば何気なくニュースチャンネルなどをテレビでつけておけば、アメリカとか中国とかいう国名は頻繁に出てくるし、地図などを目にする機会も増える。だから中学校一年生がいきなり地理の勉強をしても知らない国ばかりということにはならない。
 だが真央は違う。真央の知識はあくまでも他人から与えられたもの。そんな国の名前を教えられても、今いる場所が日本だということ以外はほとんど区別がつかない。
 とはいえ、この夏はオリンピックもあったことだし、そうした国の名前を見る機会が多かった。一人前に日本の応援はしっかりしていたが、その中でも活躍していた国は少し頭に入ったようだ。特にアメリカ、中国、ジャマイカの三カ国が世界の重要国と考えているらしい。困ったものだ。
「できた」
「よし、採点してやろう」
 すらすらと丸付けをし、結果。
「九六点」
「よし」
 真央が小さな手をぎゅっと握る。右手は親指が出ていて、左手は親指が中に入っているのがポイントだ。
「はい次、社会」
「うー」
 突然唸る。得意科目から苦手科目になったとたんにこれだ。
「できるだけ簡単な問題を所望する」
「なんだその妙な言葉の使い方」
「苦手科目と得意科目では少し差があってしかるべきだと切に望む」
「そうだな。苦手の方がしっかりやってもらわなければならないから、少し難しめのものにしておこう」
 真央の顔色がさっと変わる。
「横暴! 鬼教師! タスマニアデビル!」
「……一つ聞くが、最後のやつは悪口なのか?」
 真央も本気で怒っているわけではない。彼女は自分が彼女のためにしているということをよく分かっていて、じゃれあうためにわざわざ怒ったふりをしているだけだ。まったく、たった二ヶ月でよくここまで成長したものだと思う。
 まあ、社会が嫌いというのは間違いない事実なのだが。
「私……この問題が解き終わったら、ゲームするんだ……バロンに行って、国王に会うんだ……」
「二重の意味で死亡フラグ立てるな」
 泣きながら社会のプリントに向かう真央を見て、心の中で苦笑した。
 そんな地理のプリントの結果は八九点と、決して悪いものではなかった。






「一つ質問がある」
 夕食前の団欒。というより、真央はただソファに寝転んでひたすらDS。自分はTVをつけてPCをチェックしている。ただ同じ空間にいるだけ。こうした環境にもお互い慣れた。
「なんだ」
「このゲームのヒロインは主人公のどこがいいんだ? 何だか煮え切らなくて、私は好きになれない」
「いきなりそんな話を振られても困る」
 今やっているのはファイナルファンタジーの四作目。ついさっき双子との別れに叫び声が上がり、しばらく放心していたようだったが、ようやく再起動して次の目的地であるトロイアにたどりついたらしい。
 まあ、双子はあとで蘇ってくるということはまだしばらく言わないでおこう。
「カインも操られて裏切るし、あまりいい男がいない」
「否定はしない。もっともゲームのキャラクターをそこまで気に入ってもらっても困るが」
「この間やった主人公みたいに、あまり喋らない方がいいのかもしれない」
 何の話かは分かっている。DQ5だ。
「それにしても、すっかりゲームが気に入ったか」
「うん。漫画や小説もいいんだけど、ゲームっていうのは自分がその登場キャラクターになったみたいに遊べるのがいいな。FF4は感情移入できなくて、外から物語を見てる感じになるけど」
「最近はそういう方が流行りらしい」
「そうなのか。あなたはゲームはしないのか?」
 言われて思い返すが、学生時代にFFやDQはやったものの、あまりやり込んだというほどではない。回りもやっているから自分も試しに、というくらいだった。
「もうここ数年はまったくしていないな」
「そうなのか。詳しいからてっきりやり込んでいるのかと思った」
「たまたま俺の知っているゲームをお前がやっているだけだ」
 それに、あまり内容はよく覚えていない。
「そうか。ところで、あなたはローザのように純粋な女性の方が好みなのか?」
「あまり印象に残っていないな。それほど気に入っていたわけではないと思う」
 そう言いながらPCでFF4を検索し、どういう内容だったかを簡単に思い出す。
「攻略要素の強くないゲームだった印象は強いんだが」
「ボスは結構強い」
「DS版はそうらしいな。そのうち魔王とかも出てくるんじゃないか」
「うん、期待している」
 真央が意味ありげに笑う。
「ミルドラースは正直、期待はずれすぎたんだ」
 はあ、と真央がため息をつく。
「私があんなのだったのかと思うと、かなり複雑」
「お前はもっと凛々しくて賢い魔王になってるだろうよ」
 DQ5をほとんど覚えていないが、ラスボスで苦労した記憶はないからそれほど強くはなかったのだろう。
「FF4の魔王こそ悪役に相応しい姿だと期待したい」
「期待するのは自由だ。それがかなうかどうかは別次元の問題だがな」
「悠斗は冷たい」
「それは世の中が冷たいからだ」
「むう」
 膨れたところで、そろそろ食事の準備に取り掛かる時間だ。
「さて、今日は何にするかな」
「私にも手伝わせてくれ」
 ゲームを断ち切って真央が立ち上がる。
「どういう風の吹き回しだ?」
「いつも作ってもらってばかりだからな。そろそろ自分でも何か作れるようになってみたい」
「殊勝な心構えだ。まあ、自分から言ってきたことに免じて、少し手伝ってもらうか」
「なんでも言ってくれ」
「じゃあまず米をといでくれ」
「了解」
 そうして二人の共同作業が始まった。






 真央には焼き魚を教えた。別に難しいことはない。グリルに魚を乗せて、弱火で焼くだけ。時折焼き加減を確認する。たったそれだけ。さすがにそれで間違いのおころうはずもないし、仮に黒こげになったとしても別に問題というほどでもない。
 それ以外の料理は全部自分で作っているため、言うなれば真央はただ見ているだけの状態だ。ただ、時と場合に応じて皿を取ってもらったり、調味料を取ってもらったりと役立ってもらっている。もちろん、自分で取った方が確実で早いのだが、真央が調味料を間違えずに使うことができるための、一種の訓練だ。
 役に立っているかとか、つまらないとか、そんなことは言わない。こういう下積みが必要だということを事前に言っているし、本人もそれを理解している。だから余計なことを言わずに自分が指示したことだけを的確にこなす。
「よし、米と味噌汁、盛り付けて」
 既に魚が焼き終わっている真央は手持ち無沙汰だったため、ようやく与えられた仕事に嬉々として飛びつく。このあたりはまだまだ子供ということか。
(包丁くらい、使わせても問題はないかもしれないな)
 怪我をしないように気をつけながらだが、いろいろとできることは増やしていかなければならない。それこそ高校に入ったら宿泊研修や修学旅行もある。一人でできることは多いにこしたことはないし、何しろ普通に育っているわけではないから同じ年代の子供たちに比べて圧倒的に経験不足なのだ。
「いただきます」
 両手を合わせて礼。こういうマナーもきちんと教えないといけない。
 食事中にテレビを見るのはいいか悪いか、それについては悩んだが、別にそれで手が止まるような娘ではないので基本的に可とした。別に食べている間も話をするほど、会話が多いわけでもない。もっとも、今日に限っては少し確認が必要だったが。
「明日の準備はできたか?」
「もちろん」
 そう言ってにっこりと笑う。
「何しろ、三泊四日の北海道旅行! 楽しみにしてたからね」
 顔が上気した。
 最初に旅行の提案をしたときは単に驚いていただけだったが、パンフレットを渡し、パソコンや情報誌で調べていくうちに行きたいという気持ちが強まってきたらしい。
「ここと違って雄大な自然、どこまで行っても地平線。そんな景色が見られると思うと、わくわくしてくる」
 北海道は雄大だとよく言われるが、それは正しいところもあるが認識不足のところもある。
 飛行機が到着する千歳から中心都市である札幌まではJRがつながっていて、特別自然が多いというほどでもない。札幌近郊の道央部については他の大都市とさほど変わらない。
 だが、これが道東や道北になってくると一変する。山に囲まれた盆地にできた都市もあれば、四方見渡す限り地平線になる場所もある。神秘的な湖もあれば、海産物で賑わう港町もある。
 つまり、雄大な自然を満喫したければ、中心部ではないところまで足を伸ばさなければならない。そして真央が求めたのはまさにその大自然だったのだ。
「まあ、観光名所のない地方都市じゃ遊び場もないからな」
 遊ぶだけならディズニーランドで充分だ。北海道に行くなら北海道でしかできないことをするのが賢い遊び方だろう。
 既に宿も決めてある。いくつかの観光名所をめぐりながら道東方面を回る予定ではいる。初日と四日目は移動が多くなるので、四日丸ごと使えるわけではないが。
「初日は網走で旅館、二日目は帯広で温泉、三日目は釧路でホテル。本当に楽しみだ」
 いつも家の中にばかりいるので、こうした外出はいつも喜んでいる。それでもこれだけ遠距離で、しかも長い期間の旅行となると本当に初めてで期待も大きいのだろう。
 もっとも、自分の中ではこれも教育の一環だ。
(飛行機に乗ることもできるし、現地に行かないと分からないこともあるからな)
 本当は船にも乗せたかった。だが、時間がかかることをこの短い旅程の中でするわけにもいかない。とにかく、いろいろな経験をさせることが目的だ。
「悠斗も楽しみにしているのか?」
「旅行は嫌いじゃない」
 そう言うと真央はくすと笑う。
「意地っ張り」
「そういう性格なんでな」
「美少女と二人っきりで旅行ができるんだから、もう少し嬉しそうにしたらどうだ」
「いつもお前と二人で生活しているんだから、今さら美少女がどうとか言うな」
「む。それもそうか。そうなるとこの旅行で恋愛関係に陥るとか、そういうのは難しいか」
「何を考えている」
 ため息をつく。
「前から思っていたが、恋愛に興味があるのか?」
「もちろんだ。たった五年しかないのだから、胸がときめくような場面に遭遇したいと思っている」
 その何でも理屈で考える思考形態を変えない限り無理だとは思うが。特に相手の方が。
「あなたは今まで、どのような恋愛をしてきたんだ?」
「そんなことを聞いてどうする」
「やはり実体験を聞くのが一番参考になるだろう。初恋はいつなんだ?」
 尋ねられても答えられる問題とそうでない問題がある。
「覚えていないな」
「初恋はひきずるものだと何かの本に書いてあった」
「なら俺は初恋はしていないんだろう」
 あっさりと切り捨てる。
「なんだ、まだ恋愛をしていなかったのか」
「そうかもしれないな」
「聞きにくいことを聞いてもいいだろうか」
 少しためらいがちに尋ねてくる。
「答えられることならな」
「この間までつきあっていた女性というのは、その、恋愛の対象ではなかったのか?」
 なるほど、確かに聞きにくい質問だ。普通は相手に遠慮して聞けない。
「違うんだろうな」
「恋愛していないのに、どうして付き合ったんだ?」
 佐々木朋絵。
 変わった女だった。本気で付き合っていたわけではないが、大切にしていたし誠実にしていた。少なくとも彼氏として落第ではなかったはずだ。
 もっとも、相手のことに本気でなかった時点で、既に落第だろうが。
「気に入っていたから、だな」
「気に入っていても恋愛とは違っていたのか」
「そうだな。恋愛ではなかった。それは向こうも同じだったんだが」
「だが?」
「多分、俺たちは似たもの同士だったんだろうな」
 真央が首をかしげる。まあ、分からないだろう。分からなくてもいい。
 一人でいるくらいなら、気の許せる相手と一緒にいる方がいい。そんな理由から付き合うこともあるということだ。
「きっと、あなたは誰にも似ていない」
 真央が真剣な表情で見つめていた。
「真央?」
「似ていると思っているのなら、それはあなたがそうだと思いたいだけ」
 手が止まっている。そこから会話すら続かない。
 真央が何を言いたいのか分からない。いや、分からなくてもいいのかもしれない。
 分かってしまうと、自分がどうなるか分からないから。
「悠斗はもっと、自分のことに興味を持つべきだと思う」
「自分に?」
「うん。自分のことを何も知らないのは、かわいそうだから」
 真央は何かを言いたげにしている。だが、その正体は分からない。
「そうか。お前の言うことなら大切なことなんだろうな」
「うん」
「少しでも考えてみるようにする」
「ありがとう」
 ほっとしたように真央が頷く。
(とはいえ──何を考えればいいんだろうな?)
 内心でどうしたものかと悩んだ。







【3−B】

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