「じゃあ、一緒にお風呂に入ろう」
「すごく誤解を招きそうな台詞だが、混浴じゃないぞ」






【3−D】







 第三展望台を見てから、弟子屈側の入口に戻り、車で国道に戻ってまた北上。
 多和平で昼食を取り、摩周湖まで移動し、戻ってきたときには既に午後三時。このまま移動すれば一時間半ほどで網走に到着するので、午後五時にはチェックインができる。
「そういえば」
 ふと気になったのか、真央が尋ねてくる。
「摩周湖にはどうして第二展望台がないんだ?」
「ああ。昔はあったそうだぞ」
「昔?」
「確か、第一展望台から一キロくらい北に行ったところにあったはずだ。ただ、途中の道があまりに細くて移動しづらいから閉鎖になったらしい」
「ふうん」
「おそらく摩周湖に近い絶景なんだろうけどな。行けないのならどうしようもない」
「跡は残っているのか?」
「ない。だからもし第二展望台跡に行ったとしたら、そこは単なる断崖絶壁」
「詳しいな」
「あらかじめ調べておいた」
「さすが」
 真央が上機嫌で褒める。
「悠斗は私の知りたいと思ったことを、いつも先に調べていてくれる」
「いや、ただ俺が知りたかったから」
「照れない照れない」
 なんでも都合よく解釈するのはいいところなのか悪いところなのか。
 ともかく、そうしてひたすら移動すること一時間半、予定通り五時前には旅館に到着した。
「海だよ、悠斗」
「そりゃ海だな。海の傍を選んだんだから」
「オホーツク海?」
「太平洋と何が違うのかは知らんが、そうだ」
 到着した旅館は、網走駅から車で五分のところにある渚亭。ここを選んだのは非常に単純な理由で、全室、オホーツクの朝日が見えるからだ。その朝日を見るためにわざわざ遠距離ドライブをしてきたのだ。
「早く朝日が見たい」
「落ち着け。まだ夜にもなってない」
 だが気持ちは分かる。自分も楽しみにしているのだから。
 駐車場に車を停めると、入口から従業員が出てきて荷物を預かっていく。
「あ、よろしくお願いします」
 あまり重くもない荷物を預けて入口に向かうと、そこに日の出の時刻が書かれていた。
「明日は日の出、四時四十分だって」
「起きられるか?」
「楽勝」
 そう言ってチェックインをすませ、従業員に連れられて部屋に入る。
「わあ、絶景」
 真央は真っ先に窓に駆け寄り、オホーツクの海を眺める。
「それでは、どうぞごゆっくり」
 従業員がいなくなって、運転で疲れた足を投げ出す。ふう、と一息ついたときには真央が何か言いたそうにこちらを見ている。
「じゃあ、一緒にお風呂に入ろう」
「すごく誤解を招きそうな台詞だが、混浴じゃないぞ」
「分かってる。でも、広いお風呂って初めてだから、楽しみで」
 本当にいろいろなものを楽しみにここまで来たということが、その言葉から分かる。
「では先にのんびりとしてくるか」
 クローゼットを開けると、予想通りそこには浴衣が何着か入っている。
「ほら、これに着替えろ」
「これは?」
「浴衣。こういうところでは雰囲気を楽しむのも醍醐味だからな」
「浴衣? でも、花火のときと違って、なんとなく地味だな」
「旅館はそういうもんだ。渋いのが風情なんだろう」
「ふうん」
「お前はここで着替えろ。俺はバスルームで着替えてくる」
「分かった」
 そうしてバスルームに入り、てきぱきと着替えて真央を待つ。
「終わった」
 声がかかるのを待って出ると、ちゃんと帯を締めた浴衣姿の真央がいる。
「どうかな」
「お前は何を着ても似合うが、長い黒髪に浴衣はいっそう似合うな」
 すると真央が少し顔を赤らめて「ありがとう」と答えた。
「じゃあ、行こうか」
 タオルや着替えを持って大浴場へ移動する。
 渚亭の大浴場は一番上の七階。オホーツクの海を眺めながら入浴することができるのが売りだ。
「じゃ、後で」
 真央と別れて一人、風呂に入る。
 大浴場はけっこう人がいたが、それでも充分すぎるほどの広さがあった。体を洗い、風呂につかり、ふとここまでのことを思い返す。
(改めて思うと、妙なもんだ)
 真央と共に行動している自分が、過去にないほどしっくり来ている。
 今までの人生の中で、自分が対人関係で満たされたことなどない。
 それなのに、どうしてこうも真央と話しているときだけは、安らいでいられるのか。
(随分と俺も変わったもんだ)
 乃木の策謀で恋人も会社も奪われた自分だが、真央と共に暮らしていけるのはありがたいと心から思う。
(あまりのんびりとしていられるわけでもないが)
 大浴場から出て、服を着て、髪を乾かし、湯上りラウンジへとやってくる。まだ真央は上がっていないらしい。
 自販機でビールを買い、椅子に腰掛けてプルトップを開ける。
 アルコールが体に染みていく。ここ二ヶ月味わっていない感覚だ。真央と一緒に生活してから酒は一滴も入れていない。もともとアルコールが好きな方だというわけではなかったが、相手がいるのなら飲むのは楽しい。
 だが、さすがに子供を相手に一緒に飲むわけにはいかない。
(まあ、今日くらいは大目に見てもらおう)
 ずっと運転し続けてきたおかげで疲れているというのもある。それに、何故だか妙に気分がいい。
(真央のおかげか。認めたくはないものだが)
 そうして、缶が空くころになってようやく姫の登場だった。
「悠斗、待ったか」
 まだ湿っている長い黒髪が揺れながら近づいてくる。白い肌が上気して赤く染まっている。
「それほどでもない」
「ビールか。どうせこの後、食事のときに飲めるのに」
「お前と一緒なら飲まないが」
「今日くらいかまわないのだろう。たまには酒でも飲んで、ゆっくりするといい」
「相手が酒を飲まないのに、一人で飲むのは気がひける」
 ふむ、と腕を組む。
「まさか飲みたいなんて言うなよ」
「言わない。初めて酒を飲むときは十八歳の誕生日に悠斗が祝ってくれるときと決めている」
 そんな将来設計をしていたとは驚きだ。
「悠斗は私の前だと少し禁欲的すぎる」
「俺はもともとこうだ」
「いや、明らかに私の目を意識している。贅沢をしないように気をつけている。それは私の教育ということが一つの目的だからだろう」
「否定はしない。だが俺の性格がもともとそうだというのも事実だ」
「なら、今日くらいゆっくり酒を飲め。酌くらいしてやる」
「魔王に酌をさせるってのもすごいな」
「おそらくあらゆるゲーム、小説でも初の試みだろう」
「えらく小さい試みだな」
 すると真央はきょろきょろと周りを見て、売店で目を止める。
「ソフトクリームが食べたい」
 そういえば真央はソフトクリームを食べたことがない。夏の暑いときにアイスクリームだけは食べているが。
「買っていいぞ」
「いいのか。間食になるが」
「今日くらい好きなものを食べろ。金くらい出してやる」
「ありがとう」
 お金を受け取った浴衣姿の真央が、売店でソフトクリームを買ってくる。味はミックス。
「美味しい」
「それは良かった」
「こんなに美味しいものが食べられて、楽しく過ごせるのも、全部あなたのおかげだ。感謝している」
「ソフトクリーム一個で盛大な感謝を受けられるのか。随分と安上がりだな」
「甘味は女の子の急所だ。覚えておけ」
「ラジャー」
 比べるようで真央に悪いが、朋絵はそういった甘味を嫌う人間だった。いったい何が違うのか。
「さて、部屋に戻るぞ」
「まだ食べ終わってない」
「食べながらでもかまわんだろう。落とすなよ」
「はーい」
 空き缶を捨てると真央と隣同士で歩く。
「悠斗はこういうところに結構来ていたのか?」
 こういうところ、というのは旅館とかホテルとかいう意味だろうか。
「それなりに」
「やっぱり女泣かせ」
「……旅館に泊まるのは女連れじゃなきゃいけない理由はあるのか?」
「じゃあ一人で?」
「いや、彼女と一緒に」
「なら否定するな」
 ソフトクリームを食べながらくすくす笑う。
「悠斗は面白いな。そんなに昔の女性のことを聞かれるのは嫌か?」
「抵抗はあるな」
「何故?」
「俺は前の彼女とお前を比べたいわけじゃない」
 すると、真央は挑戦的に笑った。
「今に見ていろ。私の方がずっといい女になってやる」
「期待している。五年後、別れるときに俺を泣かせるくらいの女になってみせてくれ」
「何その投げやりな言い方」
 挑発的かと思えば、また子供っぽい仕草。
(大人と子供が同居した女か)
 魅力的なはずだ、と納得した。
 そうして二人が部屋に戻ってくると、待っていたかのように食事が運ばれてくる。予約時に食事は運んでもらうように頼んであった。
 てきぱきとテーブルに並べられていく料理。それを二人は窓側の椅子に座って、景色と食事を交互に見る。
「おいしそう」
「そりゃあもう、オホーツクの海の幸ですから」
 従業員が笑顔で言う。名前も知らない相手とのやり取り。今の真央には必要なものだ。
「さ、準備できましたよ」
 お造りはホタテ、紅トロ、サンマ、ウニ、ボタンエビ、そしてキュウリウオの姿造り。
「キュウリウオ? 何それ」
 真央が知らない魚だというふうに尋ねる。
「オホーツクの方で取れる魚だな。キュウリの香りがするからキュウリウオ」
「ふーん。あ、ほんとだ」
 それから焼き物はホタテ。煮物はコマイ。珍味はフグの甘露煮。もずく酢、茶碗蒸し、サラダ、鉄砲汁、鮭親子丼という食事。
「たくさんあって食べきれないかも」
「もう少し量が多い方がいいかと思ったが、お前にはちょうどいいか」
「うん。量は少なめにしてって言ったんでしょ?」
「ああ。お前からのリクエストだからな」
 そんなに量が多くない食事、とリクエストをしたらこれだった。まあ、味がよければ文句はない。
「はい、それじゃあどうぞ、お一つ」
「お前、どこでその言葉習ってきた?」
「そんなのネットで調べればいくらでも」
「そんなことまで調べてたのか」
「だから言ったでしょ。今日くらい飲んでもいいんだよって」
「つまり、酌をしてみたかったんだな」
「正解」
 いい笑顔で頷く。
「それじゃあ、乾杯しようか」
「ああ。とりあえず二人の初旅行に」
「あなたと一緒に旅行できた幸運に」
 ビールとジュースで、二人はグラスを合わせた。






 夜が明ける。
 早めに就寝した二人は、午前四時には目を覚まして、窓の外をじっと見ていた。
 徐々に東の空が明るくなり、ゆっくりと、日が出てくる。
「綺麗」
 窓辺に立つ二人の視界。はるか遠くから今日も太陽が昇る。
「悠斗」
「どうした」
「少しだけ、気分、出してもいいかな」
「ああ」
 頷くと、浴衣姿の真央がそっと腕を絡めてきた。
「あなたに甘えることができるのは、嬉しい」
「甘えんぼめ」
「悪い?」
「いや、お前なら何をされても気にしない」
「ありがとう」
 そうして、二人はしばらくの間、昇る朝日を見つめていた。







【3−E】

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