『や。真央ちゃんに殺されてないみたいで何より』
「俺は今とてもお前を殺したくてたまらない」






【4】







 真央が眠りにつき、悠斗は日課としている『魔王レポート』の作成に入る。
 レポートといっても誰かに提出するわけではない。その日あったことを記録しておき、真央がどのように変化しているのかを自分で確認するために行っていることだ。
 旅行など、時間的な無理がない限り悠斗は欠かさずこの作業を行っている。真央が寝るのが十一時過ぎ。それからこの作業を始める。もっとも書く内容は多くない。せいぜい一日五行から十行。別に長々と書くまでのことはない。
 その日、どのような変化があったか。それを残しておくためだけのものなのだから。

『十月十二日(日)、晴れ。
 中二の数学、英語は終了。ここまでの理解もしっかりとされている。国語は中三までの内容は問題なく手に入っている。理科、社会は暗記までに時間がかかっている。
 今日はゲームをしていなかった。まだクリアしていなかったはずなのに珍しい。
 窓の外を見て考え込む様子あり。要観察。』

 と、この程度だ。
 もちろん書くことが多くなる場合もある。だが、大きな変化というのはよくあるものではない。その日、何もなく終わったのならそれでいいのだ。
(そろそろ一人で行動させる頃かな)
 世間で言うところの土日祝などを使ってできる限り真央を連れまわしてはいる。だが、これからは一人で行動ができるようにならないといけない。
(何かいいネタがあればいいんだが)
 一緒に買い物もしているのだから、ある程度は任せても大丈夫だろう。
 家事はある程度こなせる。洗濯、掃除、炊事。この四ヶ月で真央は普通の人並みの行動はできるようになっている。常識も自分とようやく合うようになってきた。
(買い物──そうだな、移動が徒歩というのは大変だな。自転車を買うか)
 そういえば自転車は乗れるのだろうか、と考える。
 やったことがなければ、乗れるはずもない。
「……十五歳で補助輪か」
 えらくかわいい構図が出来上がりそうだ。顔が緩む。
 まあ、高校に入ったら自転車で通学するようにもなるだろう。だとしたら早い方がいい。
 と考えて、そろそろ風呂に入って寝ようかと思っていたとき、ちょうどタイミング良く携帯がなった。
(あいつか)
 乃木。こんな夜中にいったい何の用か。
「俺だ」
『や。真央ちゃんに殺されてないみたいで何より』
「俺は今とてもお前を殺したくてたまらない」
 ノイズまじりの声に大きくため息をつく。
「何か用か。もう寝るところなんだが」
『そりゃ用がなかったらかけないよ。決まったよ、高校。さいたま第一高校』
「……もう一回」
『さいたま第一高校。一昨年できたばかりの新設の高校。真央ちゃんが受験するとしたら第三期生ってことになる』
「それは知っている」
 ため息をつく。
「だが、俺の希望はたしか女子高と伝えたはずだが。それは共学じゃないのか?」
『正解』
「何故」
『あのね、一言だけ言わせてもらえるなら、真央ちゃんが高校に行けるっていうだけでも感謝してほしいくらいなんだけどな』
「女子高もあたってみたのか?」
『ツテのありそうなところはね。総没。女子高のお偉いさんは、得たいの知れない人間を入学させたくないんだとさ』
「金ヅルをわざわざ手放すとはな」
『面倒が起きたら学校自体が経営できなくなる可能性もあるわけだからね。そんなリスクを侵してまで一名獲得には動かないんじゃないかな』
「さいたま第一が真央を受け入れる理由と条件は?」
『条件はたった一つ。入学式も卒業式も受けさせるし、三年間他の生徒とは一切差別しない。ただ、卒業後に卒業認定を高校側が出すわけにはいかない。つまり、入学という事実自体がなかったことにする、ということ』
「なるほど、そういうことか」
 つまり、面倒を起こさないために真央の入学という事実を作らないつもりなのだ。そのかわり学校に通い、一緒に勉強したり行事に出たりすることは最大限認められる。費用さえきちんと払えば。
「条件はそれだけか?」
『それだけ。費用は通常のもの。もちろん入学試験をきちんと受けて、合格者平均点より五十点以上高かった場合は費用特待有り。学年三位以内に入ったら、次の期間の授業料は免除。費用的には他の生徒の条件と全く同じ』
「どのみち大学入試や就職をさせるつもりはないからな。それでいい。というか随分破格の条件だな。助かる。それから学校側で、そのことを知っている者は?」
『一般教員にはいないよ。とにかく訳有りっていうことで押し通した。真央ちゃんが正式な高校生じゃないっていうことを知っているのも理事長、校長、教頭まで。もし対外に生徒数を公表するときは真央ちゃんは数えられないことになる。人数が合わないと不審がる人も出てくるかもしれないけどね』
「要するに教育委員会にバレないようにやるわけだ」
『そういうこと。学校側はかなりの冒険だね』
「進路指導とかもあるはずだが」
『君のおよめさん、って書かせなよ。それが一番だ』
「ふざけろ」
 ため息をつく。だが、確かに後腐れのない方法だ。思わず苦笑する。
『本当に、それでいいのかい?』
「何がだ?」
『真央ちゃんは確かに卒業証書はもらえる。校長印が押ささっていないものをね。確かに学校側は最大限配慮してくれて、真央ちゃんに不自由なことは感じさせないだろう。でも、真央ちゃんは正式に高校生というわけにはいかない』
「学校側が了承していればそれでいい。もし面倒になりそうなら退学すれば終わりだ」
『それでいいの?』
「うまくいかなければ真央が死ぬだけのことだ。覚悟はとっくにできている」
『冒険だな』
 そしてしばらく間が空く。
「それで全部か?」
『うん。受験票は直接僕がもらうことになっている。前日に渡しに行くよ』
「どうせ受験番号は一番最後になるんだろう? 追加しても問題ないように」
『そういうこと』
「助かった。ありがとう」
『どういたしまして。真央ちゃんのためだからね』
 そして電話が切れる。
 これで高校入試の件は何とかなった。といっても自分は何もしていないが。
(私立さいたま第一高校か)
 PCはまだシャットダウンしていない。ネットを立ち上げて高校の情報を検索する。
 新設校らしいことがあれこれと書かれてある。年間のカリキュラムや入学要綱、費用説明などがある。
(年間行事──修学旅行は沖縄か)
 悪くない。旅行は少しでも多くあってほしい。
 あとはこの家からの距離。まあ県内なら自転車でも通えるはず。
(となると、明日はやはり自転車の購入だな)
 明日が祝日でよかった。悠斗は息をついてパソコンを閉じた。






 悠斗は寝るとき、部屋の電気は完全に消す。
 そのかわり、ベッドの下にスタンドを置いてつけている。フットライトの代用だ。しっかりと睡眠を取ろうとするなら、たとえ豆電球であっても天井に灯りがあるのはよくない。まぶたに刺さる光が熟睡するのを妨げる。かといって完全な暗闇でもよくない。光のない状態は無意識に不安を生み出し、結果として睡眠を妨げる。適度な光量があることは睡眠に欠かせないのだ。
 悠斗は睡眠に落ちるのが早いと自覚している。それは子供の頃から寝る前に何をするかを完全に決めていて、それを変えることがない。同じ動作を繰り返し続けることによって睡眠導入の効果をはかっているのだ。
 そしていざ眠るときは毎日同じことを考える。別に羊が一匹……と数えることでも悪くない。そのかわり、毎日それを行っていなければ効果は生じない。羊睡眠で効果を生もうとするならば、最低でも一ヶ月は毎日寝る前に考えていなければ効果は表れない。
 悠斗が考えるのはたいてい、自分が読んだ小説のことだ。
 読むのは別に何でもかまわない。戦前の『文学者』の本は今と価値観が違うのであまり読まないが、村上春樹も読めば東野圭吾も西村京太郎も読む。最近は北方謙三が面白い。水滸伝は学生時代に色々と読んだが、今こうして読んでみると北方水滸伝が一番だと思う。
 真央と暮らすようになってから、読書の時間が増えたように思う。もちろん真央の教育が一番ではあるのだが、真央がゲームをやったりテレビを見たりしているときは自分の方が手が空く。そんな彼の格好の時間つぶしが読書になっていたのだ。
 そうして考え始め、ゆっくりと自分の思考がうつろい、混沌とし始める──

 コン、コン。

 ノックが二回。それで悠斗の意識は瞬時に覚醒した。時計は午前一時十三分。
「真央か?」
「あ……うん」
 扉の向こうで真央の声が聞こえる。
「どうした。話があるなら入ってもいいが──それともキッチンに行くか」
「いや、いい」
 様子がおかしい。というより、夜中にわざわざ自分の部屋に来ることなど今までに一度でもあったか。
 一度首を左右に振ってから扉を開ける。そこにパジャマ姿の真央がいた。
「どうした」
 真央がじっと自分を見つめてくる。何を悩んでいるのか、全く分からない。
「安心した」
「は?」
「あなたはどんな場合でも冷静で、変わらない。だから安心した」
 もちろん、真央が何の理由もなくここに来たということなどないだろう。今まで彼女はずっと自分の部屋で毎日時間通りに寝て、時間通りに起きている。それを変えたことは今までない。
「安心した、か」
 悠斗は相手の心の奥底を探る。
「何か、心配ごとでもあったか」
「あった。というより、できた」
「分かった。まず、こっちに来い」
 真央の手を取ってキッチンへ連れていく。
(──?)
 その手が、やけに冷たい。何か温かいものを与えた方がいい。少なくとも今の真央はどこか混乱していて、冷静さが失われている。精神安定にはホットミルクが一番だ。
 キッチンに明かりをつけて、真央を椅子に座らせる。牛乳を準備して鍋に火をかける。すぐに温まってカップに移す。
「まあ、飲め」
「ありがとう。あなたは優しいな、悠斗」
 ふうふう、と息をかけて冷ましてから一口飲む。
「おいしいな」
 それが気分の問題なのは分かっている。だが、そんなことをいちいち言う必要はない。
「嫌な夢でも見たか?」
「悠斗は鋭いな」
「お前が十一時半に寝たとして、一度深い睡眠に入ってから浅くなるまでに一時間半。夢を見る時間としてはちょうどいい」
「悠斗に隠し事はできないな」
 そんなことはない。今だって相手が何を求めているのか、完全に把握などできていないのだから。
「何の夢を見た?」
 これは後で、レポートに記録しておかなければならないだろう。
「私が魔王になる夢だ」
「お前はもともと魔王だろう」
「違う。私の意識がなくなって──というのとは、違うな。私は自分の意識があるのに勝手に体が動いて、この世界を支配しようとしているんだ」
「なるほど。魔王覚醒か」
「たくさんの人を殺した。自分に向かって、やめろと、何度も命令したのに全く聞いてはくれなかった」
「それで汗だくになって飛び起きたのか」
「誰もいなくなったんだ」
 真央がホットミルクから少しでも熱を取ろうというように、両手でカップを抱える。
「誰もいなくなって、悠斗もいないことに気づいた。気づいて、こんな世界は嫌だと願った。願ったら目が覚めて、それが夢だと分かった」
「そうか」
「あんな世界は嫌だ。私はあんなものになってしまうんだろうか。私は、自分が怖い」
「大丈夫だ」
 断定して答える。
「お前は少なくとも『こんな世界は嫌だ』と言った。その意識を持つことが魔王の無害化につながるんだ。この四ヶ月で、お前は生き残る確率がまた上がったってことだ。夢に感謝、だな」
「でも」
「お前の不安は分かる。いや、俺にはお前がどれほど不安を抱えているのかは分からない。でも、お前が不安を抱いているということだけは分かる。だから俺はお前の不安を取り除いて、安心させてやることしかできない」
「悠斗」
「まず、服を着替えてこい。パジャマも別のにしろ。寝汗をかいたままだとまた悪い夢を見る」
「え」
「行動は迅速にしろ」
「う、うん」
 言われて、機械のように動き出す真央。
(やれやれ)
 悠斗はそれを知って苦笑した。
(悪夢か。そうだな。子供は悪夢に弱い)
 もちろん、真央の不安が強いのはよく分かっている。今回はたまたまそれが夢という形で顕在化したのだろう。
「着替えてきた」
「随分早いな」
 確かに別の服に着替え終わっている。それを確認した悠斗は「部屋に来い」と真央を連れていく。
「何をするつもりだ? エッチなことか?」
「子供に興味はないから安心しろ」
 そう、子供なのだ。まったく生まれたばかりの子供だということを失念していた。
 真央を自分のベッドに寝かせると、その上から布団をかけてやる。そして自分は椅子を運んできて座る。
「今日はここで寝ろ」
「でも、悠斗は」
「ここにいる。安心して寝ろ」
「いや、それは寝にくい。悠斗が見ていると思うと緊張する」
「大丈夫だ。手を握っててやる」
 布団の外に出された手を握る。
「悠斗」
「目を瞑って、何でもいいから考えろ。そうだな、先月喫茶店に行って食べたケーキのことでもいいし、八月に行った北海道旅行のことでもいい。自分が今までに楽しかったこと、嬉しかったこと、そうしたことだけを考えろ」
「う、うん」
「そうしたらきっと楽しい夢が見られる。もしそうでなかったとしても不安にならなくていい。夢の中で嫌なことがあったら俺のことを思い出せ。俺は絶対にお前の傍にいる。お前が魔王になったら俺が止めてやる」
「悠斗……」
 真央は微笑んで、少し涙目になる。
「ありがとう」
「真央が安心できるなら、それでいい」
 そして、真央は言われた通りに目を瞑る。
 その顔が、楽しそうな笑みを見せて、そのまま──寝息に変わった。ほんの五分くらいのことだったろう。
(やれやれ、今日は大変な夜になりそうだな)
 椅子に座ったままの悠斗だが、さすがに隣に寝るわけにもいかなければ、このままの体勢で寝るのも大変だ。
(真央が幸せなら、それでいい)
 手を握ったまま、悠斗も目を閉じた。

 まったく、子供を育てるというのは、難しい。







【5−A】

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