「ばかな……っ!」
「よく見る台詞だが、リアルで聞くことはなかなかないな」






【11−F】







 結局一時間ほど休憩をとってからようやく動き始めることとなった。
 途中、東藻琴で一分咲きの芝桜を見、美幌峠では名物のくまざさソフトクリームを食べ、あちこちを見学しながら西へ移動。
 そして夕方には最終目的地の旭川に到着していた。
「旭川にはね、美味しいカレー屋さんがあるのよ」
 うきうきした様子でみやこが言う。
「初めて食べてから、旭川に来るときは絶対に食べに来るのよ。もう病みつきになるくらい美味しいんだから」
 この旅の中でみやこがここまで食べ物について勧めてきたことはない。よほど美味しいのだろうと真央もわくわくしながら連れられていく。
「ここがそのカレー屋さん、インド本店!」

【2009年12月に閉店しました】

「ばかな……っ!」
「よく見る台詞だが、リアルで聞くことはなかなかないな」
 みやこが先ほどの真央のようにorzのポーズをとる。
「つぶれたのか」
 真央も残念そうに言う。
「まあ、こういうものは移り変わりが早いからな」
「二十年以上もやっているお店なのよ?」
「とはいえ、これが結果ということだろう」
「もう私、旭川来ない」
 それはまるで、カレーを食べるためだけに旭川に来ているようだった。いや、みやこの意識としてはその比重が一番大きかったのかもしれない。
「もうこうなったらカレーを食べるためだけに札幌まで繰り出すしかないわね。高速道路で片道一時間半。往復できない距離じゃないわ」
 現在午後五時。確かにできない距離ではないが、旭川のホテルに戻ってきたら軽く十一時になるだろう。
「それは素直に旭川市内で何か別の食事を取ることを考えた方がいいんじゃないのか」
「そうはいっても、旭川で食事なんてラーメンくらいしか美味しいものないわよ」
「ラーメン食べたいです」
 真央が手を上げて言う。
「そう? 真央ちゃんが言うなら仕方ないわね。それじゃあ、どこにしようかしら」
 うーん、と頭の中で考えるみやこ。
「ラーメンは味の好みが人によって違うからな。一番オーソドックスなところでいいんじゃないか」
「だとしたら蜂屋ね。移動しましょうか」
 再び車を発進させて旭川の街中へと移動する。街中の駐車場に停めて、歩くこと三分で【蜂屋】に到着。
「ただの食堂だな」
「ええ。でも味は保証するわよ。とりたてて美味しいわけじゃないけど、でも絶対に嫌われない味」
 三人でテーブル席について醤油ラーメンを人数分注文。それほど待たずに出てきたラーメンを食べて真央が一言。
「美味しい」
 同感だった。味も濃すぎず薄すぎず。麺にスープが絡んで味わい深い。
「いい店を知っているな」
「二人に喜んでもらえてよかったわ」
 と笑顔で言った後に「本当はもっと美味しいカレー屋さんに行きたかったんだけど」と表情を曇らせて言う。
 それほど時間もかからずに「ごちそうさま」となり、三人は支払いを済ませるとそのまま旭川の買い物公園通りに出る。とはいえ、小さめの百貨店が少しだけあって、それ以外は何もない。寂しい感じだった。
「でも、こうして商店街が全部公園になっているのって面白いな」
 公園通りはそれほど広いわけではない。逆に狭いから人がたくさんいるように感じる。その辺りは工夫されていると言っていいのだろうか。
「この町はけっこう好きだったんだけどね」
 みやこが言う。よほどカレー事件を引きずっているようだ。
「でも見所は少ないのよ。ここから少し行ったところに常盤公園ってあるけど、ちょっとまだ桜には早いかな」
 実際芝桜もほとんど咲いていなかった。北海道の春は遅い。
「けっこう時間の余裕もできたし、どこかでデザート食べてからホテルに入りましょうか」
 真央が嬉しそうに頷く。やはり女の子はスウィーツに目がないということか。






 翌日。朝から車で移動した先は予想通りの旭山動物園。GW中ということで混雑が予想されたが、朝一で移動してきたおかげか、まだまだ余裕があった。
 あざらし館、ほっきょくぐま館、ぺんぎん館と見て周り、真央が一番興奮したのはもうじゅう館だった。
「悠斗、トラだ、トラがいる!」
「ライオンのメスって鬣ないんだな! 綺麗だな!」
「豹だ! 斑点かわいい!」
「黒豹綺麗! 黒豹かわいい!」
 過去にない興奮ぶりだ。まさか真央がここまで動物好きだったとは。上野動物園とか連れていってやればよかったか。
「すごいはしゃぎっぷりね」
 黒豹に向かって無心に写真を撮り続ける真央を見ながらみやこが笑って言う。
「そうだな。意外だった」
「お兄さんでも真央ちゃんの知らないことがあるものなのね」
「人間は自分のことも分かっていないものだ」
「そうでしょうね。お兄さんは特に」
 雰囲気が変わった。
 真剣な表情になったみやこが自分をじっと見つめてくる。
「どういう意味だ?」
「思った通りのことを言っただけよ。あなたは自分のことをどれくらい知っているの? 人間、もう少し【自分】のことが分かっているものじゃないかしら」
「言っている意味が分からないな」
「分からないの? それとも分からない振りをしているの?」
「分からない方だな。俺は自分のことを確かに分かっているとは言い切れないが、あなたが何を言わんとしているかは分からない」
「そう。それならいいけど」
 みやこは吹いてきた風に髪を押さえる。
「私が北海道に来るのは、好きな人と出会った場所だから」
 突然ヘビーな話が始まった。
「でもね、死んでしまったの。いや、違うかな。私、死んだ人に恋をしてしまったの」
 それで自分にいったい何を言えというのか。
「それからずっと私はあの人を探しに北海道に来ている。北海道にいるとあの人が近くにいてくれるような気がするから」
「どんな男だったんだ?」
「知らない。会ったことないし」
「なんだそれは」
「だって、メールのやり取りと、チャットしかしたことがなかったんだもの。チャット仲間から突然訃報が入って、実家の北海道に来たのも亡くなって半年してからよ。写真を見たのもそこで一度だけ」
「どうしてわざわざ?」
「そりゃ友達がなくなったらお葬式くらい行くでしょ? ただ、埼玉から北海道は遠いのよね。当時は大学生だったから夏休みに旅行をかねてお墓参りに行ったの。彼の実家、釧路の方でね。物の貸し借りを郵便でやってたから住所だけは知ってたんだけど、そうしたら家族の方から日記を渡されて。お墓参りの後、車で多和平まで行ったんだけど、そこで日記を読んだのよ。私のことたくさん書いてあった。死ぬ前に一度会いたかったって。多和平って風が強かったでしょう? あの強風の中、私、日が暮れるまでそこにいた。ずっと繰り返し彼の日記を読み続けてた。今思えば、せめて車の中に戻って読めばよかったのにね」
 だからみやこにとっては多和平は思い出の地なのだ。そこで彼への想いを募らせ、高めたからこそ、今のみやこがいる。
「どうして俺にそんな話をした?」
「さあ、どうしてかしらね。別にあなたの気を引こうっていうわけでもないし、かといって忠告したかったわけでもない。ただ、あなたならこんな話を聞いてくれても問題ないと思ったのよ」
「行き場のない気持ちを勝手に俺に押し付けないでくれ」
「ごめんなさいね。こんな話、普通にはできないから。旅の中で出会ったあなたでなければきっと、他の誰にも言えなかった」
 他人の余計な感情まで背負うのはごめんだ。いい迷惑だ。
「もう十年にもなるのよね。年をとるはずだわ」
「そういうことを言わなければ二十代の前半で通ると思うが」
「ありがとう。美容には気をつけてるもの。もうすぐ三十になる身としては気を使うわよ。その点、真央ちゃんは肌がぴちぴちしてていいわよね」
「あまり生々しい話をしないでくれ」
「あのね、お兄さん。一つだけ忠告しておくけど、ずっと兄妹でいつづけるつもりなら、いつかは真央ちゃんだってお嫁さんに行くのよ?」
「そうだな」
「真央ちゃんがかわいいのは分かるけど、少しは妹離れしなさいな」
「それはできない」
 既に学校に行かせるだけでも離れすぎなのだ。
「あいつが二十歳になるまではな」
「体が悪いって聞いてたけど、本当なの?」
「ああ。二十歳になるまで生きていられればな」
 掛け値なしにそう思っているのだが、今の言い方だと相手が誤解するのは間違いないだろう。別に訂正する必要も感じてはいないが。
「そう。それならなおのこと、早いうちに結婚して子供を作った方が幸せかもしれないわよ?」
「真央が早く亡くなるかもしれないのにか?」
「ええ。もし血のつながりがないっていうのなら、お兄さんがそうしてあげればいいじゃない」
「無茶を言うな」
「あら。真央ちゃんなら嫌とは言わないと思うけど」
「確かに嫌とは言わないだろうが、俺があいつを女と見ていないように、あいつも俺を男だとは見ていない」
 確かにお互い気になる存在ではあるのだろう。だが、それ以上の存在になりたいかと考えると、お互いそんな気持ちはどこにも存在しない。おそらく真央も同じ気持ちでいるだろう。
「そう。それなら何も言わないけど、失ってから後悔しても遅いのよ」
 失ってから後悔している相手に言われると説得力がある。
「私があなたたちを気にしていたのは、それを感じ取っていたからかもしれないわね」
「それ?」
「ええ。タイムリミット。二人でいられる時間に限りがある。そんな雰囲気を感じ取ったの。だから初めてあの多和平で会ったときからずっとあなたたちのことを気にしていたんだわ」
「気にしていてくれたのはありがたいが」
「真央ちゃんがいなくなったとしても、独りで平気なの?」
「自信はない」
「素直なこと」
 くすくすとみやこが笑う。
「でも、それが聞けただけでも満足しないとね。あなたたちが恋人関係になるのが一番かと思っていたんだけど」
「それはない」
 仮にそんなことになったとすれば、絶対に別れることなどできなくなるだろうから。






 こうして、三泊四日の旅程は終わりをむかえた。
 みやこは旭川空港でレンタカーを返却し、三人が同じ便で羽田へと向かう。
 機内の真央の様子はいつもの通りで、ずっと真央の手をにぎってやらなければならなかった。
(温かい)
 手は震えていたが、そのぬくもりは関係なく伝わる。
(俺はこの手を離すことができるのか? もっとも、どのみち手放さなければならない運命ではあるが)
 みやこと旅行をしたせいで、これから三年間の自分の気持ちはもっと混乱していくことになると思った。
「悠斗」
 考え事をしていた自分に真央が話しかけてくる。
「どうした?」
「楽しい時間は早くすぎるものだな」
「ああ」
「もっと、悠斗と一緒にいたい」
 それがこの旅行のことだけを意味しているのではないことは、当然よく分かっていた。







【12】

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