「お兄さんには、こんな素敵な恋人さんがいらっしゃったのですね」
「激しく誤解されたようだが、完全な誤解だ」






【12−C】







 七月十八日(日)。いよいよこの日がやってきた。天野真央、初舞台。もちろんテレビとか映画とかではなく、学校祭のクラス発表だ。
 さいたま第一高校は金曜日の夜に前夜祭、そして本祭が土、日と続く。ちょうどいい具合に月曜日が祝日になるので、生徒も何も気にすることなくおおいに騒げる。
「人という字を三回書いて飲み込む。人という字を三回書いて飲み込む」
 と、登校前からがちがちに緊張している真央だった。そして掌に書いている字がどう見ても『人』ではなくて『入』なのは突っ込まない方がいいのだろう。
「何をそんなに緊張することがある」
 ライチジュースを飲みながら尋ねる。
「そんなの決まっている。ただでさえ“機関”に追われているというのに、私がこの演劇で目立つことになったりしたら」
「……今度は何のゲームをやったんだ?」
「大丈夫。必ずこの演劇は成功させてみせる。エル・プサイ・コングルゥ」
 おそらくもう、自分でも何を言っているのかよく分かっていないのだろう。分からない方が幸せということもある。
「まあ、楽しみにしている」
「悠斗はそうやって余計にプレッシャーをかける。よくない。とてもよくない」
「いいから行くぞ。今日は学校まで送ってやる」
 こんな前後も分からないような状態ではたして演劇ができるのか。というよりも真央はこんなにも心臓弱かったか。
「みんなが私に期待をしている」
「そうだろうな」
「だから怖い。私一人の失敗で、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれないということが」
「そうか」
 見れば、かすかに体が震えている。やれやれ、こんな一面があるとは二年間も付き合ってきてまったく気づかなかった。
「それなら、お前に二つだけアドバイスをやろう」
「アドバイス?」
「ああ。まず一つ目。お前にとっては学校祭の演劇はとても重く、大変なものだろう。だが、言ってしまえばそれは『たかが一高校の一演劇にすぎない』ということだ。重く考えすぎる必要はない。いつも通りでかまわない」
 真央が睨みつけるようにしてくる。これだけ一生懸命やってきたものを『たかが』と言われては腹も立つだろう。
「そしてもう一つ。緊張するというのは決して悪いことではない、ということだ」
「悪いことではない?」
「ああ。緊張するということは、精神が研ぎ澄まされて集中しているということだ。こういうとき、人はいつも以上の力を発揮することができる。この間のサッカーワールドカップだってそうだろう。活躍した選手にふざけているような選手はどこにもいない。緊張の中で、自分の力を存分に発揮していた。違うか?」
 もっとも、緊張は度をこせば『頭が真っ白』になってしまい、普段の半分も力が出せなくなってしまう。だが、今緊張している真央にそこまで言う必要はない。
「つまり、緊張しているお前は、今一番いい状態で演技に臨めるということだ」
「そう、なのか」
「そしてもう一つ。緊張するということは、すなわち『結果を出さなければいけない』という気持ちの裏返しでもある。結果を出したいと思わなければ緊張なんかしなくてもいいのだからな。その意味で今のお前は立派だ。クラスのために失敗できないという責任感が生まれている」
「うん」
「これだけの感情を身につけることができた。また一歩、人間に近づいたな。学校祭と演劇に感謝だ」
 そう言うと、真央は目に見えて肩の力が抜けた。
「悠斗は、人を落ち着かせる天才だな」
「落ち着いてくれたのならそろそろ行くぞ。遅刻しないうちに」
「うん」
 そうして二人で家を出て車に乗り込む。
 今日もまた少し風が強くなったようだった。気温は週末にかけて少しずつ上がってきたのだが、いかんせんこの風が大変だ。向かい風の自転車は正直大変なくらいに。
「到着する前にツイッターでも見ておいたらどうだ」
 助手席に座る真央に話しかける。
「だが、助手席で携帯を使うのはマナーに反する」
「今日くらい気にするな。昨日ツイートしたんだろ。何か反応があるかもしれないぞ」
 そう言われると真央も気になったのか、携帯を操作する。
「あ」
 そして言葉が出た。もちろん、自分はそのことを知っていた。
 今日の演劇に向けてとても緊張しているという旨のツイート。そしてそれに対する反応を。

『それはとても人間らしい感情で、貴重な経験だと思います』
『月並みですが頑張ってください。全てが終わった後には心地良い達成感を得ることかできると思います』
『人はいつも緊張と戦い、打ち勝つことで成長していきます。この舞台を終えた後、どのように成長しているのかが楽しみですね。がんばってください』

 応援のコメントが届いている。真央はそれを見て、少し涙が浮かんでいた。
「人間って、優しいな」
「そうだな」
「私、今日の演劇、全力を出してくる」
「ああ。めいっぱいがんばってこい」
 そうして車は、高校に到着した。






 この日は八時に学校集合、そして九時から一般客の来校が始まる。
 学校の近辺には駐車場がないため、少し離れたところにある駐車場まで移動し、そこからまた十五分ほど歩けば到着する。
 が、真央の発表は十時から。となると少し時間が空く。
 マクドナルドに入ってコーヒーでも飲みながら時間を潰し、九時を過ぎたところで出発。九時半には学校に到着した。
(演劇は発表ホールか)
 さいたま第一高校には、体育館の他に文科系の発表ホールがある。体育館ほど広くはないが、それでも五百人の客席数がある。
 他に興味がないわけでもなかったが、真央のクラスはどのみち演劇発表しかやらない。もしも喫茶店とかで真央が働いているというのなら、一度見に行ってもいいと思うが。
「遅かったわね」
 と、ホール入口で自分を待ち構えていたのは藤代みやこだった。
「待ち合わせていたか?」
「いいえ。でも、せっかく真央ちゃんの晴れ舞台、いい席で見たいと思わない?」
 どこでも見られればいいと思っていたのだが。
「というわけで最前列キープしたわよ」
「なんだか、自分よりも真央の家族みたいになっているな」
「あら、私、真央ちゃんみたいな妹がいると嬉しいと本当に思ってるわよ?」
 にっこりと笑うみやこ。
「真央も喜ぶだろう。真央はあなたが姉になってくれたらいいと本当に思っているみたいだ」
「あらやだ」
 くすくすとみやこが笑う。
「もしかして今の、プロポーズのつもり?」
「先に話を振ったのはどっちだ」
 頭が痛い。だが、確かに言葉だけを捕らえるとそう聞こえなくもない。日本語は難しい。
「楽しみね、真央ちゃんの晴れ舞台」
「そうだな」
 そうして二人でホールに入る。既に百人以上は入っていて、ずいぶんと賑わっていた。
「こっちよ」
「本当に最前列か」
 取り置きしておいた場所に悠然と座る。その隣に悠斗も腰掛けた。
「真央ちゃん、どんな役なの?」
「聞いていないのか?」
「ええ。演劇をやることになったから、もしよかったら見にきてほしいって電話で言われただけだもの」
 なるほど。演劇の内容は確かに伝えにくいものかもしれない。
「ライトノベルをモチーフにしたものらしい」
「へえ。高校生らしくていいわね」
「設定はかなり変えているらしい。どんな風に変わったのかとかは全く聞いていないが」
 それから近況などをお互い確認する時間が少し続く。と、そのとき。
「おにーさん!」
「どうも、こんにちは」
 自分に挨拶に来たのは、真央の親友二人、境麻由子と木ノ下笑美だ。
「こんにちは。準備はいいのかい?」
「はい。もう全部終わってて、さっき打ち合わせも終了したところです」
 笑美が楽しそうに言う。
「それで、お兄さんがこちらにいらっしゃると聞いたので、ぜひご挨拶をしておかなければと思いまして」
 麻由子も何かと嬉しそうだ。真央が言っていたが、確かにこの二人は自分に悪くない印象を抱いているようだった。
「こちらの方は?」
「ゴールデンウィークで真央と一緒に旅行した藤代みやこさん」
「よろしく。真央ちゃんのお友達?」
「はい。いつも一緒に遊んでます」
「そう。真央ちゃんをよろしくね」
 余裕をもった言い回しと、相手に任せるだけの懐深さ。これを見せておけば『親戚のお姉さん』くらいには見られるだろう。
「こちらこそよろしくお願いします。ご親戚の方でしたか?」
「いいえ。ただ、姉代わりっていうところかな。見ていて放っておけないから」
 放っておけない。おそらくは同学年のクラスメートからすると、真央にそんなところは露ほども感じられないだろう。だが、実際のところ、真央はまだ二年しか社会生活を営んでいない。悠斗にはそれがよく分かっているし、みやこもまた『真央が普通ではない』ということにうすうす感じているようだった。
「姉代わり……そうですか」
 麻由子が納得したように頷く。
「お兄さんには、こんな素敵な恋人さんがいらっしゃったのですね」
「激しく誤解されたようだが、完全な誤解だ」
 無論、みやこが嫌いとかいうわけではない。ただ、何度か会話した中では苦手な相手ではある。
「私もどちらかというと、お兄さんよりは真央ちゃんの方が好きね」
 みやこもまた大人の余裕で平然と答える。
 それにしても、どうして誰も彼も、自分のことは『お兄さん』と呼ぶのだろう。別にどう呼ばれたところでかまうものでもないが。
「そうしたら、もうすぐ開演なので、楽しんでいってくださいね」
 二人が一礼して立ち去っていく。相変わらずの二人だった。
「随分人気があるのね」
 みやこが素直に言う。
「何がだ?」
「あなたがよ。二人とも、あなたのことが気になってるみたい」
「真央の兄だからな」
「そうかしら? あの二人はそのつながりがなかったとしてもあなたに興味があるようだったけど」
「降参。あまりいじめないでくれ」
 軽く手を上げるとみやこが微笑む。
「だいぶ混んできたわね」
 ほとんど後ろの方まで満員になってきた。
「真央の晴れ姿、そんなに見たい奴が多いってことか」
「真央ちゃん学校でそんなに人気あるの?」
「バレンタインのときはチョコレートをダンボールに二箱」
 冗談のような話だが、なるほどとみやこが納得する。
「さて、始まるな」
 会場が暗くなり、クラス紹介が行われる。そして、劇が始まる。
(今、どんな気分だ?)
 幕の向こうにいる真央の気持ちを推し量る。
(緊張しているか? だが、それもお前にとっては大切な感情の一つ。めいっぱい、楽しんでみろ)
 そして、幕が開く。
 普通の教室風景。
 そこにやってくる転校生、という設定。
 題名は『涼宮ハルヒの転校』。

「さいたま第一高校に転校してきた涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、私のところに来なさい! 以上!」

 それが演劇の出だしの台詞だった。






 気づけばあっという間の三十分だった。
 内容は真央が扮するハルヒがさいたま第一高校のクラスに入ってきて騒動を起こすというもの。設定だけはライトノベルを使っているものの、騒動の内容は完全オリジナルのようだった。
 舞台をさいたま第一高校に設定したということもあり、高校の先生や人気のある生徒の紹介、新設されて四年目となるこの高校が今までどうやってきたのか、これからどうなっていくのかなど、第一高校の紹介を絡めたものになっている。
 去年初めて出た卒業生、すなわち第一期生も来ていたらしく、大学生風の男女も楽しそうに笑っていた。
 最後はハルヒが元の高校に戻っていくが、意味ありげな台詞で終わる。

「たとえ私はいなくなっても、いつだって私はあんたたちの心の中にいるわ。思いだしてくれればいつだって私に会えるのよ。だから、別れは言わないわ!」

 その台詞は、否応なしに三年後に迫った別れの時を思わせる。
 真央はどんな気持ちで、その台詞を言った?
 最後の台詞を言った後、真央は客席を見つめた。そして、自分と目が合った。
 真央にはハルヒの今の台詞の気持ちがきっと分かっていない。
 今の台詞は、本当の別れというものを知らない人間が──麻由子が──書いた脚本だからだ。
 別れは辛く悲しいものなのに、それをどうして笑って吹き飛ばせるのか。
 真央にはハルヒの気持ちが分からないだろう。
(後で教えてやらないとな)
 ハルヒは決して悲しくないわけではないのだということを。
 悲しいが、それを表面に出さず、最後の思い出に笑顔を残すためにそんな風に言ったということを。
(自分の台詞にどんな意味が込められているのか分からなければ、役者としてはまだまだだな)
 まあ、それでも初めての演劇でこれほど立派に演じられたのだ。観客も非常に喜んでいる。今の違和感は未来の別れを知っているからこそ生まれたもの。他の観客には何も感じなかったことだろう。
「面白かったわね」
 配役紹介が終わって休憩時間。もうホールにいる必要はない。
「私は真央ちゃんに挨拶したら帰るわ。午後からまだ仕事だし」
「忙しいな」
「ええ。ここのところ、全然休みが取れなくて」
 それを聞いて、少し感じるところがあった。
「まさかみやこさんが『fricule』というオチはないだろうな」
『fricule』。それはツイッターで真央をフォローしている人物。休みなく働いているという書き込みが多く、今日、明日の二連休も休みだと書いてあったが。
「なにそれ」
「いや、分からないならいい」
 まるで真央のことが分かっているかのような書き込みだった。

『人はいつも緊張と戦い、打ち勝つことで成長していきます』

 まるで真央が人ではないということが分かっているかのような。
 インターネットでのことをそこまで考える必要はないだろうが、もし精神的に真央がまいってくるようならツイッターはやめさせなければならない。
(まあ、楽しみにしている間はいいだろうが)
 しばらくは見守っていた方がいいだろう。何か問題が起きたときに対処すればいい。
「さて、それじゃあ真央ちゃんに会っていきましょうか」
 みやこに続いて自分も立ち上がる。この後はゆっくり、真央と模擬店を回ることにしよう。







【13】

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