「異議あり!」
「お前、学年末の期間はゲームするなとあれほど」






【13】







 学年末試験も終わった日曜日、彼は真央とその友人たちのお守りで東京へ出てきていた。もちろん埼玉から東京などさほどの距離ではなく、別に何もなくても行くことはできるのだが、ずっと真央の相手をしていると東京まで出てくる理由もなくなる。こうしてたまに出歩くのは真央のためというよりも、むしろ自分のためではないだろうかと思えてくる。
 向かった先は代々木スポーツセンターだ。今日、ここでいくつかの高校の陸上部が集まり、合同練習をすることになっていた。もちろん参加するのは真央ではなく、陸上部のエースである木ノ下笑美だ。
 真央と麻佑子は笑美が練習しているところを見ることはあっても、実際の競技を見ることはまずない。そのため、自分たちが休みの日くらいは、ということで足を延ばすことにしていた。
 どうせなら車を出そうかと提案したのだが、帰りは渋谷であれこれ買い物がしたいという三人の希望により、保護者同伴で電車の移動となったのだ。
「がんばれー!」
「いけー!」
 真央も麻佑子も、全力で走っている笑美に声援を送る。彼女の種目は女子八百メートル。四百メートルトラックを二周だ。
 対戦校の生徒と激しくデッドヒートになるも、僅差の二着。
「うーっ!」
「おしい」
 見ると、笑美と対戦校の生徒は健闘をたたえあって軽く手を合わせたりしている。こういう光景はすがすがしくてよいものだ。
「タイムはなかなかいいようだな」
 場内表示できるほどの設備はないが、タイムが発表されたのか大きなどよめきが起こっている。
「まあ、笑美だからな」
「笑美さんは本当に我が校の誇りですもの」
 真央と麻佑子が続けて答える。
「笑美は二年でインターハイ二着の実力者なんだぞ」
「ほう。ということはその木ノ下さんに僅差で勝ったあの選手」
「ああ。去年のインターハイ覇者だ。名前はなんていったかな」
「木戸春香、よ」
「ああ、そうだ。だからあの人と笑美は、現在の高校女子八百メートルの一位と二位だ。笑美はあの人が走るというから今日の合同練習に参加したんだ」
「でも、去年のインターハイでは五秒も離されていたということでしたから、差は縮めたということですね。笑美さんの日頃の練習のたまものです」
 麻佑子は我が事のように喜ぶ。そうして女子八百の練習は終了となった。
 笑美が着替えに行っている間に、その女子八百の勝者がなぜか自分たちの方に近づいてきた。
「あなたたち、木ノ下さんの学校の人?」
 ショートカットで、真央と同じくらいの身長、つまり笑美よりかなり低い身長だった。
「そうですけど、何か」
「いや、マネージャーとかっていうわけじゃないのね」
「今日は単独で参加しただけだから」
「そう。じゃあ、伝えておいてくれるかしら。夏までに足は完治させておきなさい、って」
「え」
「それだけ。失礼したわね」
 そうして立ち去ろうとしたところに麻佑子が言う。
「それが本当なら、足を治した笑美さんに、あなたは勝てるのですか?」
 にっこりとほほ笑む。だが、その挑発を春香は軽くいなす。
「さあ。木ノ下さんが本気になったら私じゃかてないかも。でも負けるつもりはないわ。木ノ下さんは私にとって一番のライバルよ。最後の夏だけは絶対に負けないわ」
「だけ、って、笑美はこの前の夏、負けてるはずじゃ」
 真央が言いかけると、春香は笑った。
「あのレース、本当なら勝っていたのは木ノ下さんよ。私じゃない。聞いてないの?」
「何をだ?」
「木ノ下さん、あのレースのとき他の選手と接触したのよ。もちろん彼女は何も悪くないわ。他の選手が強引にコースに入ってきて接触したのよ。そのときにバランスをくずして足をひねった。さすがにもう治ってると思ったのだけど、癖になってるのかもしれないわね」
「そうなのか。笑美、そういうことは何も言わないからな」
「接触したのも自分の技術の問題だと思っているんでしょうね。あのレース、お互いに全力でやるつもりだったのに」
 春香は本当に悔しそうな表情だった。
「だから今度は正々堂々と戦って勝つわ。そのためにも今日みたいな不完全な状態で出てこられては困るのよ。木ノ下さんを倒さないと本当の意味で一番になんかなれないんだから」
 最初は笑美を負かせた相手だったので憎らしく思っていたが、こうして話してみると誠実な人だった。嫌いになれる相手ではない。
「あなたは立派な人だ」
 真央が素直に言う。麻佑子が隣でくすっと笑い、言われた春香の方も困ったように目をそらした。
「それじゃ、失礼するわね」
 顔を背けて行ってしまった。照れているのだろう。
「さて、そうしたら悠斗。あなたの出番だ」
「何が」
「笑美を元気づけてやってくれ」
「何故」
「笑美はあなたのことを気に入っている。好きな人からなぐさめられれば元気も出るだろう」
 なんだその理屈。
「あのな、真央」
「いいから行ってこい。無理に元気にしている笑美は見たくない」
 やれやれ、とため息をついて建物に向かう。着替え終わって出てくるとすれば、出口のあたりで待っていればいいのだろうか。
「あ、おにーさん」
 と、ちょうどタイミングよく笑美がそこにいた。
「あ、もしかしてなぐさめに来てくれたんですか?」
「気分を害さないでほしいが、真央にそう言われてね」
「やっぱりそーですか。真央、ちょくちょく私や麻佑子におにーさんのことを言ってくるんで。ま、おにーさんになぐさめられるならうれしーですけどね」
 はー、と笑美はため息をついた。
「やっぱ、あの人は強かったです。全力でいっても勝てなかった」
「それは足が原因なんだろう?」
「あれ、気づいてましたか」
「まあ、朝から。対戦相手の子も分かってるようだったぞ」
「やっぱり。少し表情おかしかったんですよねー」
 それを聞いて余計にため息をつく。
「自分が全力を出し切れないのがつらいんですよ。自分はもっと走れるのに、足がうまく動いてくれない。痛んだりすることはないんですけど、違和感があってちゃんと走れないんですよね」
「夏までにきちんと治してこいと言ってたよ」
「一生懸命やると周りが見えなくなるんで、もう一生モノのつきあいになるかもしれないですねー」
 ぽん、と笑美は自分の左足をたたく。
「でも、まだ何か月もありますからね。大丈夫ですよ」
「真央が、木ノ下さんの無理に元気にしている顔は見たくないそうだ」
 う、と笑美は表情が強張る。
「真央や境さんがいないときくらい、感情を見せてもいいのではないか?」
「やさしーっすね、おにーさん」
 はは、と笑美は笑って、その頭を胸にうずめてくる。
「少しだけ、すみません」
「いや」
「ほんと、おにーさんがカレシだったら、何の不満もないのに」
 さすがに女子高生を相手に本気にはなれない。何しろ年が十も違うのだ。
「おにーさん、真央のこと好きですか」
「それはもちろん」
「妹じゃなくて、女として」
「それは考えたこともなかったな」
「なるほど。じゃ、まずは真央より大切な存在になってもらうところから目指していくか」
 ぱっ、と笑美は離れる。するともうすっかりいい笑顔に戻っていた。
「ありがとうございました。すっきりしました」
「どういたしまして」
 気持ちの切り替えの早いことだ。まあ、こういうのは慣れていないので助かるのだが。
「それじゃ戻りましょうか。真央がしびれを切らせないうちに」
「了解」






 四人は近隣の幡ヶ谷駅まで戻り、そこで軽く何か食べてから移動することにした。手近なハンバーガーショップに入る。いらっしゃいませ、と男性の元気な声が響いた。
 ハンバーガーやポテトを買って(もちろんおごりで)店内で食べる。今日のレースのことや、今年のバレンタインのことなど、女子高生たちの話題は尽きない。
「悠斗は今年も麻佑子と笑美からチョコレートをもらったんだよな」
 真央が覗き込んできて言う。ちょうどこの間の日曜日がバレンタイン前日で、学年末試験の勉強会を兼ねて真央の家に二人がやってきていた。そこで一日早いバレンタインをいただいていた。
「ああ。ありがたくいただいた」
「それで、今年は三人の中でどれが一番おいしかった?」
「そういうのは甲乙つけるものではないだろう」
 と、逃げ口上をうつと「それもそうか」と真央が答える。
「ダメですよ、お兄さん。真央ちゃんは自分のものが一番美味しいと言ってほしいんですから」
「そうそう。ほんと、真央はおにーさんのことが一番好きだもんなー」
「それは当然だが、なんだか二人に言われるのは納得がいかない」
 真央が腕を組んでむくれる。
「今年は自分チョコも流行りということで、私も自分用にいくつか買ってしまいました」
 チョコレートが好きなのか、麻佑子がうれしそうに言う。
「そうだよなー、この時期のチョコレートって何でもおいしそうに見えるんだよな」
「実際よい食材を使ってますから。コンビニで売ってるものですら美味しく見えます」
「一番おいしかったのは?」
「今年はブルガリかしら」
「そりゃ一個千円もするチョコレートなら美味しいだろうさ!」
 笑美がお手上げというふうな仕草をする。
「ブルガリのバレンタインチョコは本当に高くて大変なのよ。あまりたくさんは買えないのだけれど」
「ほら、そこはおにーさんに頼んでおけば三倍返しで」
「そうですね。というわけでお兄さん、よろしくお願いします」
 にこにこ笑顔で言う麻佑子。
「まあ、期待に応えられるようにはしておくよ」
「去年は何を返したんだ?」
「ゴディバでしたね。少し苦いですけれど、チョコレートの風味があって美味しかったです」
「私は甘い方が好きだったから、今年は違うのでお願いします」
 笑美が頭を下げる。まあ、そこまで言うのなら今年はブルガリでそろえてあげようと思うが。
「私には手作りだったよな」
 が、そのセリフは対面に座る二人の女子高生を凍りつかせた。
「お兄さん」
「おにーさん!」
 なぜか怒っている。いや、二人が怒る理由もないはずだが。
「ぜひ私にも手作りで」
「私もお願いします!」
 せっかく高級チョコレートを買ってもらえるチャンスだというのに、それよりも手作りの方がいいのだろうか。謎だ。
「まあ、考えておくよ」
「真央ちゃんいいなあ、お兄さんのチョコレート」
 うらめしそうに真央を見る麻佑子。
「確かにおいしかった」
「うがあ! 何この妹の余裕! うらやましすぎるっちゅーの!」
「これほど大胆にのろけられると、何も言えないわね」
 笑美は頭をかかえ、麻佑子はため息をついた。
「悠斗。私はそんなにおかしなことを言ったのか?」
「お菓子だけにおかしなこととはうまいこと言ったつもりか! いや美味いんだろうけどな!」
 いきなり笑美から突っ込みが入る。しかも突っ込みボケとは高度な技を。
「それで、今日はこれからどうするの?」
 麻佑子が尋ねる。もうすっかり日も傾いてきている。渋谷に出て練り歩くといってもそれほどの時間はないだろう。
「まっすぐ帰宅するならそれでも」
「異議あり!」
「お前、学年末の期間はゲームするなとあれほど」
「してないぞ! 学年末が終わったのは金曜日。二日もやる時間があった!」
 と主張しているが、実際のところは怪しいものだ。
「それで、異議があるなら代案があるの?」
 麻佑子が真央に尋ねる。
「二人さえよければ、今日はこの後食事をしていきたいと思ってる」
「軽食食べた後だけどナー」
「大丈夫。悠斗が選んだ店だ。美味しいに決まっている」
 なんだその基準。だが、麻佑子と笑美は目を輝かせた。
「それではぜひご一緒させていただきます」
「ごちそうさまです!」
「それなら、少し渋谷で歩いても大丈夫だろう? 店はどのみち渋谷なんだし」
「おう! ちょっと見たいところあったしな。ちょうどよかった!」
「ご迷惑をおかけします」
 気にしないでいい、と首を振る。真央と友人でいてくれるこの二人には心から感謝しているのだから。
 そうして店を出た。「ありがとうございました!」という店員の声を背にして。







【14】

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