「もしもし、こちら天野──」
「やー悠斗くん、いよいよ明日は真央ちゃんの卒業式だね、もちろんぼくも」プツッ
「どうした、悠斗?」
「いやなんでもない。間違い電話だ」






【15−B】







 三月一日(木)。

 ついに、というべきなのだろう。ついにこの日がやってきた。過ぎてみると意外に早いものだったと思う。月日というのはあっという間に過ぎて、現在から未来へと人間を勝手に歩ませてしまう。
 もっともこれは単なる区切りの日であって、別に自分と真央の関係がなんら変わるものではないことはよく分かっている。
「いってきます、悠斗」
 朝、いつもの通りに真央はそう言った。この制服で登校するのはこれが最後だ。
「ああ、いってらっしゃい」
 そして真央が出発すると、自分も卒業式を見るために準備を始める。
(今日は俺も交通機関だな)
 いつもより強く、余計なことを考えないようにしようという意識が働いた。






 さいたま第一高校は新設されてまだ十年にも満たない。真央たちが四期生だ。私立の高校なので、学校立ち上げのときの職員がまったく変わることもない。したがって、理事長や校長もずっと変わっていないということだ。
 体育館で行われる卒業式の片隅の椅子に座る。まばらだった保護者席は、次第に人が増え始めた。
「隣、よろしいですか」
 初老の男性が話しかけてくる。どうぞ、と答えた。
「天野さんのお兄さんでいらっしゃいますね」
 あえて話しかけてくるのは、何の意図があってのことか。
「ええ、そうですが」
「私はこの学校の校長をしております。こうしてお目にかかるのは初めてですね」
「ああ、校長先生でしたか。真央がお世話になりました」
 小さく会釈。本当に世話になった。今日ここで真央は卒業証書を受け取るが、その証書は公式のものではない。何故ならここに『天野真央』と呼ばれる生徒が入学したという事実はないからだ。少なくとも教育委員会に対して真央が入学したという手続きをしてはいない。
「最初、乃木さんから話を持ちかけられたときはどうなることかと思いましたが、なんとかなるものですね」
「恐縮です。それも全て、学校側の配慮のおかげです」
「いえいえ。それにしてもこれで私も肩の荷がおりました。老体に鞭打ってなんとかやってきましたが、私もこれで引退です。六年間はなかなかに長かったですな」
「そうですか。お疲れ様でした」
 答えてから、何か違和感を覚えた。何だろうか、この正体の見えない違和感は。
「校長先生は乃木とはいつからのお知り合いですか」
「家同士の付き合いといえばいいですかな。定年退職したばかりの私を引っ張りだして校長に置くのですから、まったく強引な人で」
 強引、というのは乃木には似つかわしくないように思えたが、言われて見るとたしかにそうとも言える。いつでも乃木は強引なやり方をしていた。相手に選択肢を与えているようで、他の選択肢を選ばせない切り口は強引といってもいいだろう。
「今の校長先生のお話で、少し違和感が取れました」
「ほう?」
「確認させてください。乃木が校長先生にこの話を持ちかけたのはいつのことですか」
「もちろん六年前です。おや、もしかしてご存知なかったですか」
「何を」
「この『さいたま第一高校』の設立理由は、天野さんを入学させるための受け皿だったということを」
 表情には出さないが、全身に寒気が走った。
「初耳ですね」
「そうでしたか。そうすると、今の話はしない方が良かったですかな」
「いえ、乃木のやりそうなことですから。それにしても一人を教育するためだけに高校を作るとは、スケールの違いに驚かされます」
「ええ。もちろん、このことはごく一部の者しか知りません。理事長と私、それから学級担任。この三人だけが設立以前から乃木さんに協力しておりました」
「この学校の設立の資本金を出したのは」
「もちろん乃木さんです。目的が目的とはいえ、学校一つを作る資本を出せるのですから、さすがは乃木家ですな」
 乃木家とやらがどれほどすごいのかは知らないが、この話で分かったことがある。
(俺が、真央を学校に行かせるとあいつは見抜いていて、三年も前に学校を作っていたということだ)
 いや、もしかしたらこちらが何も言わなければ向こうから学校のことを提案してくるつもりだったのかもしれない。ああ、そうするといくつか疑問に思うことがある。
「一つ確認したいのですが、乃木から他に校長先生に指示されたことがあったら教えていただけませんか」
「たいしたことは何も。普通の生徒として扱ってほしいことと、ああそうだ、入学試験とクラス分けについていくつか指示を受けましたね。成績が多少悪くても合格させてほしいと言われましたが、まあ昨今の私立高校の経営を考えれば、受験していただければ合格させますけどね」
「クラス分け?」
「ええ。境麻佑子さんを一年生で一緒のクラスにしてほしいこと、それから二年、三年のクラス分けでも境さんと、あとは木ノ下笑美さんを」
「なるほど」
 仲良し三人組が三年間一緒だったのは意図的なものだった。まあ、それくらいは予想もできたが。
(となると境さんは何故だ? 入試のときに真央が唯一話した相手が境さんだった、それだけの理由か?)
 真央に友人を作らせるために、わざわざそんな根回しをしたということか。
(暇な奴だな、乃木)
 心配になる理由は分からないでもないが、それにしても過保護にすぎるのではないだろうか。真央はどこに出しても自分でやっていける、立派な人間に成長した。いや、
(そうでもなかったか。入学して最初の一ヶ月はずっと緊張しっぱなしだったな)
 麻佑子と仲良くなり、宿泊研修で笑美に助けられ、そうした人間関係を作りながら真央は成長してきた。
「さいたま第一高校は、この三年間、とても良い空気に包まれていました」
 校長が思い返しながら呟く。
「何かと話題に上るのは天野さんのことでした。教員からも人気で、本当に良い子でした。天野さんの卒業と同時に引退できて、ある意味ほっとしています。彼女を卒業させるのが私の人生最後の仕事でしたからな」
「ありがとうございます」
「なんのなんの」
 校長は笑って「では」と立ち去って行った。
(そういや、俺は女子高を最初に希望していたんだったな)
 それなのにあいつは共学の高校でOKが取れたと言ってきたのだ。
(はじめから女子高なんか眼中になかったんだな。この高校に入学させるつもりだったわけだ)
 もっとも、最初からそのためだけに高校を作ったなどと言おうものなら、ひねくれものの自分のこと、その高校だけは行かせないとでも言ったかもしれない。充分に考えられることだ。
「ここ、空いてるのかしら」
 空いた席に座ってきた女性がいた。どうぞと言う前に座るのだからいい度胸をしている。というより、その正体にアテがあるだけに今すぐ逃げ出したい。
「お久しぶり、お兄さん」
 自称“真央の姉役”のみやこだった。
「卒業式にわざわざ来るとはな。今日は平日だが、仕事はどうした」
「今日は午後出社。そのかわり夜十時まで仕事だけど」
「シフトを強引に変えたな」
「あたり」
 くすくすとみやこは笑った。
「北海道で会ったあの子が、もう卒業なのね」
「早いものだ」
「真央ちゃん、進路は結局どうするの?」
「どうもしない。フリーター兼花嫁修業だ」
「ふうん。真央ちゃんほどの人材なら、進学でも就職でも何でもござれって感じなのに」
 真央の学力は決して低くない。進路担当が何度も国公立大学を受験しろと勧める程度には。麻佑子は一橋に合格したが、真央も本気で勉強すれば狙えたのではないだろうか。
「それで、いったい何をさせるつもりなの、お兄さんとしては」
「とりあえず一年くらい、のんびりさせる。日本中旅行でもしながらな」
「日本中?」
「北は北海道から南は九州まで、延々ドライブの旅だ。面白そうだろう」
「真央ちゃんはそれでいいって言ってるの?」
「ああ。ある程度の予定も決まっている。楽しみにしていたぞ」
「どれだけかけるつもりよ」
「とりあえずは三ヶ月。日本中を回るのだからそれくらいの時間がなければな」
 三ヶ月、とみやこは呟いてから尋ねる。
「つまり、誕生日ごろには戻ってくるっていうこと?」
「ああ。今年の誕生日は連れていってやりたいところがあるのでな」
「へえ、珍しい。どこよ」
「ディズニーランド。来年は事情があって行けそうにないからな」
 今までは学校だの何だのがあって行けなかったが、今年は誰にはばかることなく楽しむことができる。真央もディズニーランドに行くのをわざわざ先延ばしにして、今年行くことに決めていた。
「私もご一緒したら駄目かしら」
「勘弁してくれ」
「そうよね。せっかくのデートなんだもの」
 まあ、傍から見ればそうなるだろうか。もっとも十歳も年の差があったらせいぜい兄妹にしか見えないだろうし、実際そういう役割なのだが。
「それにしても、夏じゃなくて春に行くのね。意外だったわ」
「そうでもない。真央は今年の夏をすごく楽しみにしている」
「どうして?」
「オリンピックがあるからな」
 真央がこの世界に来た最初の年の夏がそうだった。おかげで真央が最初に覚えた国がジャマイカだというのが今となっては笑い話だ。
「真央ちゃん、そういうの好きなんだ」
「スポーツはだいたい何でも好きだな」
「自分ではあまりやらないのよね」
「体があまり強くないからな。運動神経は悪くないんだが」
 そう、鍛えていない割に真央の体はよく動く。力もある。あれで病弱というのは何かの間違いではないかと思えるくらいに。
「毎朝のランニング、真央ちゃんも一緒にやればいいのに」
「そうだな。これからは暇も多くなるだろうから、真央が望めばそうしよう」
「まったく、このらぶらぶ兄妹は」
 はあ、とみやこがため息をついた。
「本当にあなたは、真央ちゃんに過保護よね」
「あいつが望むことは何でもしてやりたいとは思っている。もっとも、譲れないところは譲らないがな」
 タバコを吸いたいと言っても絶対に許可しないだろう。どんなことがあってもやめさせる。真央に知ってもらいたいのはそういうものではない。
『ご来場の皆様、大変長らくお待たせいたしました』
 在校生が司会を行う。いよいよ卒業式の始まりだった。






 卒業式は実に高校生らしい内容だった。
 卒業証書授与までは非常に厳かにしていたのが、在校生からの送辞や、卒業生からの答辞、この辺りで既に卒業生たちがはちゃめちゃに騒いでいる。もっとも、最初から仮装してくる生徒もいるくらいなので、それくらいで驚く必要はないわけだが。
 前生徒会長からの答辞の終わりが、卒業式でも一番の盛り上がりを見せた。
『なお、私事になりますが、この高校生活で僕が唯一、心残りなことがあります。今日はその心残りをなくして卒業したいと思います!』
 体育館が「おーっ!」と盛り上がる。
『この学校のアイドル、天野真央さん!』
 頭痛がした。
『入学したときから好きでした! もしよければ、卒業してからも会ってください、よろしくお願いします!』
 おーっ! と体育館が笑いの渦に巻き込まれる。が、真央は椅子に座ったまま両腕で×と返事した。また笑いが起こった。マイクまで使って、生徒全員の前でやることか。
『あえなく玉砕した僕ですが、これでもう心残りはありません! 大学に行っても全力でがんばります!』
 まあ、本人が楽しいのならそれでいいのかもしれない。付き合わされた真央やその身内にとっては傍迷惑だが。
『それでは、卒業生が退場します』
 クラスごとに体育館から出ていく卒業生たち。真央と麻佑子、笑美は三人そろっての退場だ。その笑美がこちらを見つけた。指さしてきている。麻佑子も会釈をする。
 真央と目が合った。
 その真央の足が止まった。
 麻佑子と笑美が気をきかせて一緒に足を止める。クラス全員が足を止めた。
 真央の目には、涙があふれていた。
(そうか)
 立派に成長したな、真央。
「ありがとうございました」
 真央がそう言って、頭を下げた。
『ありがとうございました!』
 そしてクラス全員が、大きな声で来場者に向かって頭を下げた。
「お兄さん」
 みやこが小声で言う。
「真央ちゃん、本当にいい子ね」
「ああ」
 この場合は、真央に合わせてくれたクラスメートにも感謝、だが。
「本当に、いい子に育った」
 思わず自分も、目端に涙が浮かんでいた。涙が浮かぶのはいつ以来のことだったかは、もう思い出せない。






 その夜、真央は卒業証書を手渡してきた。
「これは悠斗が持っていてくれ」
 その、三年かけて手に入れた卒業証書を渡してくる心境はどのようなものだったのだろうか。
「私が持っていても、向こうの世界に持っていけるわけではない」
「それはそうだ」
「身勝手だが、私は自分のことを悠斗に忘れてほしくない。だから、これが少しでも私を思い出してくれる鍵になってくれたらと思う」
 手渡された卒業証書を眺めてから「分かった」と答える。
「とりあえず、額縁に入れて俺の部屋に飾っておく」
「は?」
「俺がもらったものだから、どうしようと俺の勝手だろう」
「いや、普通、そういうものは筒の中に入れて保管するものではないのか」
「記念すべき賞状は飾るものだろ」
 そして、これほど記念すべきことはない。人間を滅ぼす魔王が、何の問題もなく三年間の高校生活を終えたのだから。
「真央」
「なんだ」
「卒業おめでとう」
 ぐ、とまた少し涙目になる真央。
「あ、ありがとう」
「珍しくしおらしいな」
「ばか」
 その言葉もいつもと違って弱弱しい。それが今までよりずっと女らしく、可愛く見えた。







【16-A】

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