始動
〜 1 〜
翌日、ファーディルはいつも通り朝早くに目覚めた。昨日はかなり寝過ごしたが、今日はきちんと時間通りに目覚めることができたようだ。そしてこのままいつも通りならば、もう少ししたらグレースが今日の日程を知らせにやってくるはずだ。
そのような雑業は小姓にでもやらせればいいのに、と苦笑する。どうもグレースはいつも人の世話をやきすぎる性質があるようだ。それに仕事を他人任せにせず、自分1人で行おうとすることもある。少しは他人を信用することも覚えてほしいものだ。
いつものようにカーテンを開けた。昨日のような晴天ではなく、今日は曇り空であった。すぐにも雨が降りだしそうなどんよりとした雲が空全体を覆っている。
「いやな天気だな……」
まるで、昨日の夢のようだ。
水を1杯飲んでから寝巻を脱いで服に着替えた。今日の予定は国祭のフィナーレ・パレードにおける現場の視察がまずあったはずだ。
『花火』の打ち上げは当初、城の中庭でのみ行う予定だったが、それでは王都全域から見ることはできないと判断され、『花火』を打ち上げる場所は城を含めて5箇所に急遽増やされたのだ。その5箇所の『花火』打ち上げ現場の視察と検証を今日明日中に行わなければならない。もちろんあらかじめ打ち上げ台の設置場所のリストはグレースから教えられている。あとは安全性・範囲などを考えて残りの4箇所を決めるだけだ。
さてその本日の行動予定表を持って、そろそろグレースがここに来る時間なのだが……。
どうしたのだろう。
「遅い……な」
ファーディルはそわそわしはじめた。何となく落ちつかず、目はちらちらと扉の方を見てはまた別のところに移動し、すぐに扉の方に戻ってくる。
いつもならもうこの時間にはグレースはここへやってくるはずだ。いったいどうしたのだろう。
しばらく待ってから、何かの事情で遅れているだけだろう、と結論づけた。気にはなるが、いつまでたっても来ないものをただ待っていても仕方がない。
そして枕元に置いてある小物入れを見つめた。昨日手に入れたメダルはこの小物入れの中に入っている。自分でしっかりとしまい、しっかりと鍵を掛けた。
このメダルは、サルヴァーと兄上が密会をしていたことの証拠……。ファーディルはそれを厭わしく思ったが、今後のことを考えて一番安全な場所にしまっておいたのである。
慣れた手つきで鍵を外し、小物入れを開けた。
「ない!?」
だが、その中には昨日手に入れたはずのメダルはどこにもなかった。たしかに昨日この小物入れにいれてきちんと鍵を閉めておいたはずなのに、メダルだけがなくなっているのである。
いったい、どういうことだろう。
……まさか、昨日メダルを手に入れたこと事態が夢だったのだろうか……?
いや、そんなことはない。自分は昨日、確実に地下倉庫でメダルをこの手に取ったのだ。メダルのデザインも細工も全てしっかりと思い出せる。間違いなく、あれは現実だったはずだ。
ということは、誰かがメダルを盗んだ……? しかも自分が寝ている時に忍び込んで……? そんなことが可能だろうか。
「ありえない」
思わず呟いていた。ファーディルは剣の腕は1流とは言いがたいが、並の剣士よりははるかに使える方である。例え自分が寝ていたとしても、自分の部屋に誰かが入って来たのならば、その気配だけで起きることができる。そのように訓練されている……。だとするとメダルが盗まれたと考えることは難しい。だが、そうなるとメダルは一体どこへ行ってしまったのだろう。
やはりメダルは盗まれたと考える方が正しいと思われる。まずはこっちの方を考えるとしよう。
……とすると、いったい誰が盗んだのだろう。自分に気配を感じさせず、枕元の小物入れの鍵を開けて、メダルを盗み取り、また鍵を閉め……そんなことが人間に可能なのか。自分はずっと傍で寝ていたのに気がつかなかったのか。そんなことがありうるのか。
いずれにせよ、これは緊急事態とみてよいであろう。自分が寝てる間にメダルを盗まれたとなれば、あのメダルが単に密会の証拠となるだけではなく、何か他に用途があったからに違いない。しかもファーディルが入手したその日に盗まれた……ということはよほどあのメダルは重要なものだということであろう。
そしてもし……メダルを盗んだのがサルヴァーの手の者だとしたら、おそらくメダルの用途はファーディルの殺害に関わってくるのであろう……。
ぞくり、と震えた。もしかしたら、自分の命は風前の灯火ということになっているのかもしれない、と考えたからだ。
だが最終的には、仕方ないか、と諦めざるをえなかった。ないものはないのである。メダルがどこへ行ったか、誰が取っていったのか、それはいくら考えたところで全て仮説にすぎないのだ。
……そうだ、グレースに相談することにしよう。このまま1人で考えても、何も分かりはしないだろう。それよりは今は1人でも信頼できる協力者がいるほうがいい。……もっとも、自分と兄上が本気で対立することになったら、グレースがどっちにつくかは分からないのだが……。
「グレース、グレース!」
ファーディルはグレースの名を呼んだが、昨日のようにグレースはすぐに現れることはなかった。この時間で、しかもグレースを呼んでも来ないというのは、ここ数年間で1度もなかったことだ。一体どういうことだろう。
手を叩いて小姓を呼び「グレースにここに来るように伝えろ」と命令すると、もう1杯水を飲む。
……何だかまた何かありそうだな……。
それは予感に過ぎないものであった。だが、その予感はすぐに的中することになった。
「ファーディル様」と先程の小姓が扉の外に立っている。小姓が帰って来たということは、グレースは見つからなかったということなのだろう。
「グレースは?」
「それが」小姓は言うなり黙り込んでしまう。ファーディルは苛立ちを隠せず、小姓を厳しく詰問した。
「グレース様は……今朝から、どこにもいないんです」
やっとのことで得られた情報は、ファーディルを沈黙させるのに充分であった。
「どこにも?」
長い沈黙の後でようやくそれだけを発すると、小姓もようやく落ちついたのか「はい」と少し元気が戻ったように答えた。
「夕べから、グレース様はどこにもいないそうです」
「夕べ、というと……」
2人で地下倉庫に探索に行ったあとくらいから、ということになる。
「分かった、ありがとう。下がっていい」
小姓が出ていってからもファーディルは頭を悩ませていた。
一体、グレースはどこに行ってしまったのだろう……。
とりあえず服を正装に着替えることにした。今日は週1回の会議日である。王都に住む伯爵以上の貴族と将軍クラスの武官が勢ぞろいするのだ。当然グレースもそれに出席しなければならない立場にある。もしかしたらそこで会えるかもしれない。
ファーディルはドアをけたたましく開けると、一目散に会議室へと向かっていった。
「おはようございます。兄上」
ファーディルはまだあまり人数の集まっていない会議室の自分の席に座ると、隣にいるファザットといつもの挨拶を交わした。
「ああ、おはようファーディル。どうした? 急いでいたみたいだが」
その時、ファーディルの中で打算が働いた。いったいどこまでを兄上に話してもよいものだろうか、話して何か自分に不利にはならないだろうか、と。
「実は、グレースが行方不明なんです」
「グレースが……?」
ファザットも当然グレースのことは知っている。いつもファーディルの傍にいて、宮廷中に噂まで流れているのだ。知らない方がめずらしいといって違いはないだろう。
「何だ、恋人がいないと不安で仕方ないのかファーディル」
兄の言葉に,がくりと頭を落とす。
「兄上までそのような……僕とグレースはそんな仲ではありませんと、何度申せば気がすむのですか」
「だが、先日はお前とグレースが一晩を共に過ごしたと私は聞いたぞ、ファーディル」
ファーディルの顔がひきつった。当然のことであるが、今の兄の言葉が自分には全く覚えのないものであったからだ。
……どうしてそんな噂が流れてしまったんだ?
「だ……誰がそのようなことを……?」
「誰でも知っているさ、この宮廷の者ならな。何だ、事実だったのか」
「事実無根ですっ。ああああ、たかだかあの程度のことで一体何でこんなに噂が誇大されて流れているのだろう……」
「たかだかあの程度、ということはそれに近いことはしたということかなファーディル」
「だから兄上、僕はグレースとは何もありませんって言っているではありませんか。昨日はちょっと夢見が悪かっただけです」
「夢?」
「ええ。何だかよく分かりませんけど、グレースに殺される夢を見て、起きるときにどうも叫んでしまったようでして。それから噂が広まってしまったようですね」
「何だ、真相はそんなことか。つまらないな、せっかく弟の結婚式も間近かと期待したのだが」
「しないでくださいっ。僕はまだしも、グレースに迷惑がかかります。彼女にはちゃんと他に好きな人がいるのですから」
「ほう、それは初耳。一体誰のことが気になっているのかな。武官のアーレイか文官のルーザか。あと彼女に相応しい人といえば……そうだな、近衛兵長のサイラスとか」
この鈍感、と心の中で毒づく。兄上ですよ、彼女の好きな人というのはね。
「ということは、今までの噂も全部嘘ということか。残念だな、全く」
「今までの噂……と申しますと?」
あまり聞きたくない気もするが、と思いながらも好奇心に負けて聞き返してしまっていた。
「そうだな例えば……2人が始めてキスをしたのは3年前、ファーディル16歳、グレース17歳の時。場所は城の南に広範囲に広がっている樹海の中。誰もいない樹海で2人は将来を誓い合ったと……」
「兄上っ! 妙にナレーターぶるのやめてくださいっ! 何度も言いますがそんなことは事実無根ですっ! だいたい僕は」
そこでファーディルははっと気付いた。南の樹海で、というと昨日の夢の状況にそっくりではないか。
「南の樹海になんか、行ったことはないんですから」
「ストップ。今少し間があったぞ。ファーディル、お前何か隠しているな」
「隠すだなんて何も」
「正直に言わないと……」
「どうなるんですか?」
「明日にはグレースとの噂がもっと広まっていることになるぞ」
……こともあろうに、何ということをいうのか、この兄は。
「……ひょっとして今までの噂を流していたのは兄上なんですか?」
「まさか。冗談だよ」
2人はそこで思わず吹き出していた。いつもと変わらぬ会話。
その兄が……。
何故兄上が僕を殺すなどと……?
「どうした、ファーディル。何かあったか」
「いえ、別に。それよりも何だか今日は人の集まりが遅いですね」
「うん、そういえばそうだな。そろそろ会議が始まる時間だが……」
「おはようございます、ファザット様、ファーディル様」
その時ちょうど後ろから声が聞こえてきた。何度聞いても馴染むことができないだみ声が2人の脳に響く。
「おはよう、サルヴァー宰相。いつも会議の時は誰よりも早く来ているのに、今日は随分とゆっくりと来られたのですね」
ファーディルがそう言いながら、ちらり、とファザットの様子を伺った。しかしファザットの様子は前と全く変わりがないように見えた。
本当に兄上は僕を殺そうとしているのだろうか。それにしては全く変わりがないように思えるが……。
「ちょっと今日は寝過ごしてしまいまして。どうやら昨日の仕事の疲れが出たようなのです」
フォフォフォ、とサルヴァーは笑い、自分の席へと向かっていった。
「サルヴァー宰相も大変だな。毎日夜遅くまで仕事があるのだから」
ファザットが今更のように呟いた。たしかに宰相という地位は名誉なものではあるが、その分仕事が他の職に比べて圧倒的に多い。朝は日が明けないうちから、夜はみんなが寝静まるまで、ほとんどひっきりなしに働かなければならない。宰相職は激務であるため、たいていの人間はすぐにまいってしまうのだが、サルヴァーは父上が国王位に就いたときからずっとその職にある。サルヴァーが並の人間でないことだけはたしかだ。
「あれくらい働ける宰相がいるからこそこの国ももっているのだ」
その意見は、決して多くはなかった。だからといって皆無というわけでもない。サルヴァーが実際に国王を助け、この国を守り通したという実績は数知れない。
もっとも、最近は年のせいかあまりはかばかしい仕事はしていない。やはり人間、老いには勝てぬといったところであろうか。
「国王陛下、御出座にございます」
会議室にその言葉が響きわたると、会議室中の武官・文官たちが一斉に立ち上がった。当然ファザットもファーディルも立ち上がる。それがこの国での礼儀であった。まだ全員が集まっているわけではないが、会議はいつも全員集まるわけでもないので、会議は時間通りに始まることとなった。
「皆の者、ご苦労」
そう言って国王ブロージットが席につくと、一同はそろって席についた。
……そういえばまだグレースは来ていないようだな。……それに、リアナもか。一体また今日は何だっていうんだ。
「本日の議題を申し上げます」
宰相サルヴァーが立ち上がり報告書を手に取った。そのとき、
「緊急事態にございます! 国王陛下、並びに皆々様方、緊急事態にございます!」
叫び声を上げて入ってきたのは近衛兵長のサイラスであった。
「何事だ、騒々しい」
「ご無礼を、緊急事態にございます」
「緊急は分かった。一体何だというのだ」
「これを」
サイラスは懐から1通の書を取り出すと、恭しく、しかし迅速に国王ブロージットに差し出した。
「これは……?」
ブロージットがその書を読んでいくうちに次第に顔が青ざめていくのを、臣下の誰もがはっきりと分かった。
「いったい何事ですか、父上」
ファザットが立ち上がり、ブロージットの傍へ寄った。ファーディルもそれに続き、ファザットの反対側へ寄る。
「これは?」
思わずファザットとファーディルは声を上げていた。そこにはこう書かれていた。
『ご機嫌麗しゅう、国王陛下。さて唐突だがご息女、リアナは預かった。残念ながらそのお命頂くことにした。リアナ殿下には毒を飲んで頂いた。助けたいのならば、本日正午までにリアナ殿を探しだし、同じくこの城のどこかに隠されている解毒剤を飲ませることだ。それでは、健闘を祈る』
〜 2 〜
「急げ! 何としてもリアナと解毒剤を正午までに見つけるのだ!」
ファザットとファーディルは状況を認識すると、すぐにその場にいた者を2、3人ごとにグループ分けし、それぞれ範囲を定めて捜索させた。さすがに両王子とも国の要である。緊急事態とはいえ、その対応は冷静をきわめていた。
「しかしまさかこんな事になるとは……」
ファザットが苛立たしさに唇を噛んだ。ファーディルも当然気持ちは同じであった。
いったい何故リアナが……誰のさしがねで……?
ちらり、とサルヴァーの顔を盗み見る。しかし、サルヴァーが計画していたことは──夢ではないとしたら、自分の暗殺である。リアナに危害を加える必要はないはずだ。
しかし、こうしている間にもリアナに残された時間は徐々に削られていく。いかなる事態においても沈着冷静をきわめよ、とは父の教えであるが、さすがにこの時ばかりは彼もついにその教えを守ることはできなかった。
「父上、兄上。ここは任せます」
真剣な表情で言うが、父も兄も渋い表情である。
「ファーディル、我々が動いて何になる。我々は指揮・統率をせねばならない役目、それを放棄するつもりか」
静かな口調である。父がリアナを心配していることは百も承知している。それでも、こうして冷静でいなければならない。
王族とは、なんと不自由なものか。
「自分の家族が命の危険に遭っているというのに、じっと待っているなどできません。ここには1人か2人いれば充分でしょう、僕はリアナを探しに行きます」
そう言って室から出ていこうとすると「待てファーディル!」とファザットが有無を言わせぬ迫力で叫んだ。
だが、彼も引くつもりはなかった。リアナを助けるために、自分が動いていたかった──それが、王族としての責務を放棄することになったとしても。
「……分かった」
答えたのは父ではなく、兄であった。
「お前の気持ちももっともだ。私とて気持ちは同じ。ここには1人か2人いればよい。父上、サルヴァー宰相。ここは頼みます。私はファーディルと共に探索に参ります」
「兄、上」
ファザットの言葉にしばし呆然としていたが、すぐにファザットに叱責される。
「何を惚けている、リアナが危ないのだぞ、急げ!」
そう言うとファザットは先に室を飛び出していった。
「かなわないな……兄上には」
そう呟いたが、悪い気分ではない。苦笑し、兄の後を追った。
「リアナの部屋……ですか」
ファザットの後を必死に追いかけて、やっと辿り着いたところはさらわれたリアナ本人の部屋であった。
「リアナはああ見えて結構賢い。もしここでさらわれたのなら、何か痕跡を残しているかもしれない。それに小姓に聞いたところでは、昨日リアナは夕方頃からずっと部屋にいたという話だからな」
……もの凄い情報収集能力である。あることないこと、どんな情報でも集めてしまうのはさすがだ。
「痕跡……と言われましても」
ファーディルはリアナの部屋を隈なく探していくが、これといったものは全く見つからない。
リアナの部屋はいたって女の子らしい普通の部屋だった。どこで買ってきたのやら、マスコットが置いてあれば、綺麗なワンピースが飾ってあったりもする。同じ女性とはいえ、グレースの剣や鎧ばかりの部屋とはえらい違いだ。
「残念だが何もないみたいだな」
悔しそうにファザットは呟いた。しかし、ファーディルは少し目の付けどころが違った。
「おかしいな……」
以前、リアナはグレース愛用の剣を譲ってもらったと言っておおはしゃぎしていたことがあった。その剣はリアナの宝物といっても過言ではないだろう。そのような大切な品が、この部屋にないということがあるだろうか。
「兄上、ここをもう少し調べてみて下さい」
そう言って、リアナの部屋を飛び出す。
「おい、どこへ行くんだファーディル」
ファザットは当然追いかけようとしていたが、手を上げてそれを制する。
「兄上はその部屋にショートソードがないかどうか、調べてください。気にかかることがあるんです」
「ショートソード?」
ファザットが聞き返したが、既にファーディルは走り去っていた。
……もしかしたら、グレースとリアナが剣の稽古をしているときに事件が起こったのではないだろうか。だとすると、怪しいのは稽古場ということになる。だがここからでは稽古場は遠い。まずは近くのグレースの部屋を調べてみれば何か分かるかもしれない。もしもグレースの部屋からも剣が1本足りなかったならば、僕の推測はおおよそ当たっているのだろう。
バタンッ、とファーディルはグレースの部屋の扉を乱暴に開けた。ファーディルの目にさっきのリアナの部屋とはうってかわった殺風景な光景が映る。必要以外のものは何も置かれていないかわりに剣や鎧の類がところせましと並べられている。いつもながら、武器庫を思わせる部屋である。
「本当にこれが女の子の部屋かね……」
ファーディルは短くぼやくとグレースの剣を調べて回った。グレース愛用の剣は6本。その中で、国王ブロージットから直接頂戴した名剣リューネワントがなくなっている。
「推測はほぼ当たりか……」
ファーディルは自分の推測をファザットに伝えるため部屋を飛び出ようとしたが、グレースの机の上から何かが光ったのに気付くと、ぴたりと足を止めて、ゆっくりと視線を移した。
「まさか……」
どくん、と体が脈打った。少しずつ動悸が早くなる。そして再び、いや3たび起こり始めたこの生理的嫌悪感。
「メダル……? 何故ここに……?」
それは今朝部屋で何者かに盗まれたメダルであった。……いやもしかしたら似たような別のメダルなのかもしれない。ファーディルはそう考えると、昨日のメダルとどこか違うところがないか、傷1つまで調べた。
「間違いない。これは僕の部屋から失われたメダルだ。だけど何故ここに……」
ファーディルはそのメダルを無造作にポケットに突っ込むと、今何が起こっているのか考えながらゆっくりと扉の方へと歩きだした。
……何故メダルがグレースの部屋にあったんだ……可能性は2つだ。まず1つは誰かが僕の部屋から盗んでグレースの部屋に置いたということ。何のために? グレースに何らかの罪を着せるために──かもしれない。もしかしたらそれはリアナ誘拐と何か関係があるのかもしれない。そしてもう1つの可能性。それはグレースが僕の部屋から盗んだという可能性だ。
これはある意味でかなり信憑性があった。彼も剣の習練は積んでいる。夜に寝た隙に、傍に置いてある小物入れからメダルを盗んでいくなどという芸当は、武芸がよほど達者なものにしかできないだろう、という自負はある。その武芸達者な者というのは、この国だけに焦点を絞るならば、かなり少ないといえるだろう。そしてその少ない人数の中にグレースがいるのは間違いないことなのだ。
だからといって、すぐにグレースを犯人──少なくともここではメダルを盗んだ犯人──だと決めつけることはできない。なぜならグレースは僕がメダルを手に入れたことを知らないはずなのだ。メダルを手に入れたとき、僕はあの地下倉庫に1人だった。もちろんグレースは僕が地下倉庫に行ったことすら知らない。
また、グレースがメダルを盗む必要性も分からない。いったい何のために盗まなければならないのか、グレースがメダルを盗んだところで何もいいことはないはずだ。
だがもちろんその2つの理由でもグレースを犯人でないと決めつけることもまたできないのだ。確かに僕は地下倉庫に1人で行ったけれども、グレースは昨日の夕方からずっとアリバイがない。つまり僕に気付かれないように、そして誰にも気付かれないように尾行することは彼女ならば可能なはずだ。そして彼女は何といっても兄上ファザットを愛している。ファザットが疑われているのならその証拠を隠滅しようとする心情も理解できなくはない。
ではもう1つの可能性、誰かがグレースに罪をきせようとしている場合はどうなるのだろう。その誰かとは? もちろんサルヴァー宰相に決まっているだろう。サルヴァーがファザット兄上に命じて僕の部屋からメダルを盗ませたのかもしれない。
ぶんぶん、と頭を振った。
いずれにせよ今はそんなことを考えている場合ではない。リアナの命がかかっているのだ。まずはリアナを見つけることに専念しなくてはならない。
ではリアナは何処へ? まずグレースと一緒であるという可能性が高いということは、2人の剣がなくなっていることからいえるだろう。2人が剣を持って何処へいくのか? もちろん稽古場だ。だが2人は本当に稽古場に行ったのだろうか。昼頃リアナと会ったとグレースが言っていたが、それから会う約束でもしていたのだろうか。とすると、グレースが行方不明になった夕方頃に2人は剣の稽古をしていたということか。だが兄上の話によると、リアナは昨日の夕方からずっと部屋に居たということだ。もしそれが本当なら2人は夕方からは会っていないことになる──グレースがリアナに会いに行かないかぎり。だがそのグレースも行方不明。とするとグレースとリアナに何らかの関係があったということは実証できないということだろうか。
「おい、ファーディル。ファーディル!」
突然名前を呼ばれて、跳び上がらんばかりに驚く。いつの間にかリアナの部屋に戻り着いていたらしい。
「ああ、兄上。どうでした、剣は見つかりましたか」
ファザットは首を横に振った。一体何のことだか、全く理解できていない様子だ。
「ファーディル、そんなものがあるかないか調べていったい──」
と、その時、部屋の中を強い風が吹き抜けていった。髪を押さえ、呼吸を整える。
「ふう、凄い風でしたね」
「今日は嵐だな……まあこれが過ぎれば国祭は晴天だろうが」ファザットがそう言いながら窓に歩み寄り、ぴしゃり、と閉めた。そして鍵を掛ける。
……何だ今の違和感は……。
ファーディルは何かが気にかかった。窓の外を眺めてみると向こうに大きな建物が見える。あそこは一体何の建物だっただろうか。
「兄上。あそこには何があったか、覚えてらっしゃいますか」
ファザットは呆れ顔で答えた。
「おまえなあ、よく稽古をさぼったとよく怒られただろうが。稽古場だよ。なるほどな、ここから稽古場はこう見てみると結構近いな。廊下を通っていくと凄く遠くに思えるが」
「それだ」
思わず声を上げていた。
「兄上。この窓は最初、鍵が掛かっていましたか?」
ファザットは突然ファーディルが目を輝かせて問いかけてきたので、思わず1歩後ずさって答えた。
「いや、鍵は掛かっていなかった。窓から侵入されたのかと思ったが、それらしい痕跡はなかった」
「やはりそうか。兄上。稽古場です。稽古場にリアナは行ったんですよ。間違いない」
そう言うと鍵を再び開けて窓から飛び出した。
2人はやはり再び会っていたのだ。昨日の夕方以降に。あの稽古場で。秘密に。この窓から移動して。
ファザットは呆気に取られながらも、続いて窓から飛び出た。そして当然のように尋ねてくる。
「ファーディル。どうしてリアナが稽古場にいるんだ?」
ファザットが分からないことを自分が知っているということがたまらなく嬉しかった。謎解きで兄上に勝てるとは夢にも思わなかった。
「とりあえず到着してから説明します。それよりも急ぎましょう。さすがですね兄上。リアナの部屋には見事に痕跡が残っていましたね」
ファザットはますます眉をひそめた。
「おいファーディル。きちんと説明しろ、ファーディル!」
しかしファーディルは説明しようとはしなかった。ぽつり、とファーディルの頬に雨の滴があたる。どうやら兄上の予想は再び的中しそうだった。雲がもの凄い速さで動いている。
黒い雲が。
どうやら嵐になりそうであった。
〜 3 〜
「ファーディル、ここから入れそうだ」
ファザットが通用口を見つけ、2人は急いでそこから建物に侵入した。もはや2人はかなり雨に打たれていた。たいした距離ではなかったのだが、思ったよりも雨がはやく降り始めたのだ。もはや外はざあざあと音を立てている。
「11時か……あまり時間がないな」
リアナの命を助けたくば、正午までに解毒剤を飲ませること。つまりリアナ自身を見つけ出すこと。解毒剤を見つけること。やらねばならないことはいくらでもある。今頃は城中でリアナの探索が行われているだろう。だが様子からするとまだ見つかってはいないようだ。
「本当に稽古場にいるのか、ファーディル」
ファザットは確認してきたが、ファーディルは首を横に振った。
「分かりません。でもここに来たことは間違いないはずです。全ての状況がそう物語っていましたから」
「そうか……だが時間はもう残り少ない。急がねばなるまい。リアナの命がかかっているのだから」
「もちろん」
2人は駆け足で稽古場の入口に辿り着くと、その扉を開けた。稽古場の中は今も稽古中の兵士たちがたくさんいる。
「兄上」
「分かっている」
ファザットはファーディルに促されてその稽古場全体に響きわたる声でこう言った。
「みんな、稽古中とは承知しているが、しばし私に力を貸してほしい。実は妹のリアナがこの稽古場に来たあとで誘拐されたようなのだ」
「リアナ姫が……」
稽古場は一気にざわついた。それをファザットは片手を上げて止める。
「実はもうあまり時間がない。みんな昨日の夕方ごろからのリアナの行方について知っている者がいれば教えてくれ。またそうでないものは、この稽古場の中に何らかの痕跡が残っているやもしれぬ。それを探してほしい。繰り返して言うが、あまり時間がない。実はリアナの命がかかっているのだ。みんな迅速に動いてくれ」
そこまでファザットが言うと、兵士たちは一斉に動きだした。稽古場は広い。とても1人や2人では探しきれるものではない。だがこれだけの人数がいれば、何らかの情報がつかめるかもしれない。
「兄上。ここは頼みます」
「どういうことだ。ファーディル」
稽古場を出ていこうとしたところをファザットが引き止めた。
「気にかかることがあるのです。ここは兄上に任せます。こちらも情報を入手しだい戻ります」
「分かった。急げよ」
物分かりのいい兄で助かる、と思う。どうやらファザットは何も謎を解くことなく全てをファーディルに任せてくれたようだ。
兄に信頼されている。
それだけで充分に幸せであった。だが,今はその感動を味わっている場合ではない。
「すぐに戻ります」
もう1度言い,稽古場を飛び出す。
先ほどから,何だか妙な感覚があった。
それはあの生理的嫌悪感に似ていながらも、どこか微妙に違う焦燥感であった。
それを確かめたかった。
「たしかこのあたりで右に曲がると……」
ファーディルが不鮮明な記憶を頼りに急ぎながら廊下を進んでいく。やがて、よく見知った廊下に出くわした。もちろんそれは、あの場所である。
「ここか……やっぱりあのときリアナは稽古場からの帰りだったんだ」
ファーディルは地下倉庫の階段の前で息を弾ませていた。2人の見張り番が王子の突然の来訪に戸惑っている。ファーディルは呼吸を整えると、見張り番から記録簿を受け取った。そこにはこう書かれていた。
Fardil & Grace 7/14 17:12-17:48
Fardil 7/14 23:14-23:52
Grace 7/15 8:05
「今朝グレースがここに……?」
しかも退出時刻が記されていないということは、まだこの中にいるということだろうか。
「すまないが、今日は間違いなくグレースはここに入っていったのか」
見張り番は戸惑いを隠そうと努力しながらそれに答えた。
「はい。ですがまだ出ていらっしゃらないのです。何をしているのか1度確認しておこうかとも思ったのですが……」
「いや、僕が直接見てこよう。ありがとう」
そういって記録簿に記名すると階段を下りていった。
「グレース……グレース。いるのかい、グレース。いるなら返事をしてくれないか」
ひんやりとした空気がファーディルの肌にまとわりついて流れていった。この感覚はいつもの嫌悪感とは違った。たしかに嫌悪感もあるには違いないのだが、それ以上に体にのしかかってくる心理的な圧迫感──というのだろうか。重大な秘密──事実──を打ち明けられる時の感覚によく似ている。
「グレース……いないのか?」
人の気配はない、全く。だが、何かがいる。誰かがいる。そんな気がしてならない。そしてきっとそれは、見ると驚愕するものに違いない。だからこその圧迫感なのだろう。
「グレース……?」
倉庫の物陰に、誰かが倒れていた。わずかに足先だけが見える。ここからではそれが誰なのか、男か女かそれすらも分からない。
圧迫感が一気に強まった。
動悸も心拍数も否応なしに上昇する。
1度、唾を飲み込んだ。
「グレース……なのか……?」
悪寒が走った。手も足も震えながら、ゆっくりとファーディルはそこに近づいていった。
1歩、1歩、少しずつ近づくにつれ、ゆっくりとその姿が目に映るようになってきた。すね当てがファーディルの目に入った。見たことのある赤いすね当てが。
「グレース……嘘だろうグレース……グレース……」
祈るように呟き続けた。徐々にその姿が全貌を見せ始めた。赤い鎧に身を包んだ女騎士。……そして紺色の髪がはっきりと映った。
「グ、グレース……」
死んでいた。一目で分かった。心臓に短剣が突き刺さり、両手でそれをしっかりと握っていた。あたりはどす黒い血の色で汚れている。目はしっかりと閉じられ、少しの苦痛もなく旅立った気すら起こさせる表情であった。
「グレース! う、嘘だ!」
ファーディルは金縛りが解けたようにグレースに近寄るとその体を抱き寄せた。
「グレース……グレース! グレースッ!」
グレースの体は冷たく硬くなっていた。しっかりと短剣を握っている両手を解こうとしたが、硬く固まっていて、自分の手が震えていて、なかなか思うようにいかない。あまり力を込めては折れてしまいそうなほど、グレースの体は硬直していた。
「どうして……こんな」
溢れる涙を堪えきれず、グレースの頬にぽたり、ぽたりと雫を落としてしまった。血の色がまるで失せたかさかさの頬に、その涙は哀しく染み通っていく。ファーディルはそのグレースの頬に自分の頬を重ね合わせた。
「グ、グレ、ぐれー……」
声が声にならず、ファーディルはただ泣きじゃくった。
「……、……」
もはや声も出てくることはなく、ファーディルはグレースの体を力一杯抱きしめた。
カサリ。
と、その時、その衝撃からか、グレースの髪から何か封書のようなものが落ちた。
「何……?」
遺書だろうか、とファーディルは思った。グレースの血で汚れたその手で、ファーディルはその封書を手に取り開けていった。すると最後に一粒のカプセルが封書の中から現れた。
「これは……リアナの?」
それはひらめきに近いものであった。だが、理解ができない。
何故,グレースが……?
理解が困難なまま、グレースの遺書を読み始めた。
『……勝手なことをして申し訳ございませんでした。今回の一連の騒ぎは全て私が仕組んだことにございます。……おそらく私を最初に見つけて頂けるのはファーディル殿下であると信じ、この書をしたためることにいたします。
私が殿下にお仕えすることになってから長い年月が流れました。私はその間、可愛いファーディル様と、素敵なファザット様のお傍にいられただけで幸せでした。私は、殿下。あなたの言うように、たしかにファザット様を愛してはいましたが、殿下。私はあなたもまた同じほど愛しておりました。神かけて、それは言明いたします。ですが私はそのお2人を裏切る行為をしなければならなかったのです。
殿下、私は裏切り者だったのです。私はある事情からあなたを裏切らねばならなかったのです。それをこの封書で教えるわけには参りませんが、もしこの私を正午以前に見つけることができたなら、この解毒剤をリアナ王女に飲ませてあげてください。あの方は無関係なのです。無関係な方を巻き込んでしまい、心苦しいとは思った……すが、これしか方法はありませんでした。もし叶うならば、殿下。リアナ王女だけ…お救い下さい。それが私の本当…願いです。
どう…殿下がこ…に正午ま……着く………祈っ……グレース』
最後はもはや涙で字が滲んでしまい、読めなくなってしまっていた。ファーディルはあまりのことにその封書を握りしめた。ぐしゃりと封書が潰されるが、もうファーディルにはそんなことはどうでもよかった。床に落ちたカプセルを拾うと、急いでその場を駆けだしていった。
あのグレースが遺書を作ってまで僕を騙そうとすることはありえない。
解毒剤はついに手に入れたのだ。あとはリアナの居場所だ。どこにいる、リアナ。グレース、グレースのためにも──。
そこでまた涙が溢れそうになるのを堪え、ぐっと歯を食いしばった。
グレースの気持ちに応えるためにも、リアナだけは絶対に死なせはしない。待っていてくれ、リアナ。きっと助けるから。
ファーディルは見張り番に、下に絶対に下りないように釘をさしておくと、一目散に稽古場の方へ走っていった。
〜 4 〜
「兄上、どうですか何か分かったことは?」
ファザットは軽く「ああ」と頷いた。どうやら何かは分かったことがあるようだ。
「どうやらリアナはグレースとここで剣の稽古をしていたようだな。昨日の9時頃にはそれも終わって自分の部屋に戻っていったようだが」
「自分の部屋の方に、ですか」
「ああ。だがなファーディル。リアナは夕刻からずっと部屋にいたと小姓が証言しているということは、昨日リアナが部屋から抜け出して稽古場に来たと考えるとすると……」
「自分の部屋に戻る前に誘拐されたか、部屋に戻った後に誘拐されたことになる」
「そうだ。だが、部屋にはそれらしい痕跡は残っていなかった。ということは部屋に戻る途中で誘拐されたとみる方が無難だろう。いずれにせよ、部屋の方へは向かったということは、ここから部屋に至るルートを隈なく探せばリアナ、もしくは何かしらの痕跡があるやもしれぬ。兵士たちにも協力してもらい部屋に戻るルートを全て探してもらっている最中だ」
「待ってください、兄上。部屋に戻るルート、とおっしゃいましたが、外の方は調べているのですか。リアナが窓から抜け出して稽古場に来ているとするならば、やはり外から部屋に戻ることも考えられるのでは」
「安心しろ、ぬかりはない。外も中も、全て探索中だ。それよりもファーディル、お前がここに戻ってきたということは、お前の方も何か進展があったのだろう。それを聞きたいのだが……」
兄は、そこで少し間を置いた。相手の思考を探るような視線が痛かった。
「目が赤いなファーディル。泣いていたのか? 何があったんだ?」
一瞬、血まみれで横たわっているグレースの姿が頭をよぎる。だがそれを振り払い,兄に握っていた右手を開いてみせる。
「これです。これが解毒剤です。あとはリアナを見つけて飲ませるだけです」
「よし」
兄は何も言わなかった。聞きたいことが山のようにあるだろうに、それをこらえて今は何も聞かないでくれている。それは、ファーディルがあまりにも辛い目にあったということを分かってくれているからだろう。
そして兄は稽古場から出ていこうとした。「何処へ?」と尋ねる。
「決まっているだろう。リアナを探すんだ。お前はここで待っていろ。何か情報を見つけしだい、兵士たちはここに連絡することになっている。解毒剤を持っている者がここに残るのは道理であろう?」
「そ、それはそうですが」
「だったらおとなしくここにいろ。必ずリアナを見つけて戻ってくる」
兄はそう言い残すと稽古場から走り去っていった。
「…………」
ファーディルはカプセルを握りしめながら兄が駆けて行くのをずっと見つめていた。と、その時。
ゴーン……
半刻を告げる鐘が城中に響きわたる。すなわち現在11時半。あと30分のうちにこの解毒剤をリアナに飲ませなければならないということか。
……僕はこれほどまでに無力なのか? 解毒剤を見つけ、リアナのいる場所まであと一歩に迫っているはずなのに、僕にはただ待っていることしかできないのか? いや、何かできることはあるはずだ。
……そうだ。考えることはいくらでもできる。グレースがリアナを連れ去ったのなら、グレースが何処にリアナを連れて行ったのか、それを考えることくらいはできる。
ファーディルはその場にどっしりと腰を下ろし、左手で頭を押さえた。
……いいか、まずグレースの行動を考えるんだ。グレースは昨日の夜9時までずっとリアナと稽古をしていた。そしてそれからリアナは行方をくらましている。グレースにしても同じだ。つまりその時点でグレースはリアナを連れ去ったと考える方がいいだろう。
……グレースは翌日朝8時5分に地下倉庫に現れ、そこで自害した。ということは、その時間には完全にリアナを何処かに捉えたということになる。もう自分の監視もいらないというような場所に、だ。
……まてよ、8時5分というと、ちょうど会議が始まって……そうだ、あの殺人予告の書をサイラス近衛兵長が持ってきたころだ。
……偶然だろうか?
……そんな偶然があり得るのだろうか。いや、偶然と考えるよりは、その時間でなければならなったと考える方が正しいのではないだろうか。例えば重役が全員会議に出た隙を見計らってリアナを何処かに隠した、とか。
……そう考えるとすると、7時30分には皆会議室へ向かう時間だろう。それからリアナを何処かに隠し、地下倉庫へ向かう……30分もあれば充分に実行可能だろう。
……ということはこの考え方はおそらく正しいのだろう。ひょっとしたら、リアナを助けるためにグレースはわざわざあの地下倉庫へ行ったのではないだろうか。ファーディルにヒントを与えるために。
……しかしなぜグレースがそんな──いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。リアナの居場所が先だ。
……でも、そうなると……
ファーディルは懐からメダルを取り出した。
……これも何かのヒントだろうか。そもそもこれは僕の部屋にあったものだ。グレースがこのメダルを盗み出したとすると、何のために……。
……もしかすると、リアナはそこにいるのか? リアナはまさか、
ファーディルは、ごくりと唾を飲み込んだ。
……僕の部屋に?
……グレースのことだ。いまさら自分があまり知らない場所にリアナを隠そうとはしないだろう。グレースがよく行く場所といえば、最近では国祭実行委員会本部。いつも行く場所ならば、稽古場か自分の部屋か、残るは僕の部屋か、だ。とするとさっきグレースの部屋にも稽古場にも何もなかったのだから、あとは僕の部屋に隠したということだろう。
……なるほど、つまりグレースは僕が会議室に向かったその直後に僕の部屋に入り込み、そこにリアナを逃げられないようにしておいたに違いない。時間的場所的にみて、そうに違いない。
ファーディルは立ち上がると全力で走り出した。ここから、自分の部屋まで、廊下を通っていったならば、30分はゆうにかかってしまう。
外から行くか……? たしかに外から行けば10分から15分で着くだろう。だが、この天気だ。風も強い。前へ進めるかどうかすら分からない。
だが、城の中を通っていっても間に合わないのは分かりきっている。それならば……。
ファーディルは手頃な窓を見つけると、それに体当たりして外に飛び出した。外は正午になるというのに真っ暗で、飛び出した直後にファーディルの体はずぶ濡れになってしまっていた。
「嵐なんかに……」
嵐などに、リアナを奪われてなるものか。
風は正面から強く吹きつけてきた。ファーディルはカプセルを落とさないようにしっかりと握りしめて走り続けた。
「リアナ……リアナ!」
滝のような雨がファーディルを打ち続けた。ただでさえさっきのグレースで精神的にショックを受けていたのに、ぬかるみを走り、正面からの風を受け、強烈な雨に打たれたのであっては、ファーディルの体力もそう持つものではなかった。
じゃあっ、と水しぶきが上がった。ファーディルが足元の石につまずき倒れたからだ。だがそれでも決して右手を開いたりするようなことはなかった。ファーディルは打ち続ける雨に負けじと立ち上がる。雨に対抗するだけでもかなりの力を必要とした。ファーディルは立ち上がると、はあはあと呼吸を整え、再び走り出した。
カッ、とそのとき空全域が光輝いた。そしてすぐに、
ガラガラガラッ!
強烈な音がファーディルの鼓膜を打った。一瞬ファーディルは耳が麻痺し、突如聴覚を失ったためにふらつき、再び倒れてしまった。
「ちく……しょう……」
ファーディルはもう一度、ゆっくりと立ち上がろうとした。風に阻まれ、雨に阻まれ、雷に阻まれ……だが何故か、ファーディルはそれでも立ち上がることができた。その一瞬、ファーディルは風も雨も雷も、何も苦とはならなかった。
何故──?
しかしそれを考えているほどファーディルは余裕がなかった。ようやく見えてきた自分の部屋近くの非常口まで、あと少しの距離だったのだ。
急げ──急げ──。
ぜえぜえ、とファーディルは息を吐き出していた。すでに体は先程のグレースのように、冷え切ってしまっている。
ガシャーン!
ファーディルはガラスを叩き割って侵入した。押したり引いたりするよりも、ガラスを叩き割った方が楽だったのだ。もはや歩くのも精一杯であった。それでもなんとか自分の部屋の扉を開ける。
自分のベッドに1人の少女が横たわっているのを見つけた。ようやく笑みをこぼすと、濡れた体を引きずりながら、その少女のもとへと近づいていく。
「リアナ……僕が分かるかい、リアナ……」
かすれた声でリアナの耳元に囁いた。ファーディルは握ったまま固まっている右手を左手でこじ開けた。そしてカプセルを取ると、リアナの口許に持っていく。
「おにい……ちゃ……」
リアナもまたかすれた声でファーディルに応えた。ファーディルは右手で頬を触り、左手でリアナにカプセルを飲ませようとした。
──間に合った──。
と思った刹那のことであった。
「ごめ……」
がくり、……とリアナの体から力が抜けていった。ファーディルは何が起こったのかが分からず、そのままの体勢で固まってしまった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン…………
鐘が12回鳴った。
「リアナ……? 嘘だろ……おい、目を開けろリアナ。おい! 目を開けろ、リアナーッ!」
かすれた声で叫び声を上げたファーディルはそのままがくり、と力が抜けていった。
……リアナ……
……リアナ……
ファーディルが目を開けたとき、ファーディルの右手は筋肉が硬直していたのか、握ったまま全く動かなかった。そして全身汗だくで、そのせいか身体中が冷えきっていた。それはまるで雨に打たれたかのようであった。そしてファーディルはゆっくりと起き上がると、手鏡を取って自分の顔を眺めた。ひどい顔だった。疲れきってげっそりしている。泣いていたのだろうか、涙の跡もあった。
ファーディルは再びどさり、とベッドに身を横たえると、呆然としたままようやく現在の状況がつかめてきた。
夢、……だったのか。
そう理解したとき、脱力感がファーディルの全身を襲った。夢によって完全に力尽き果ててしまったようだ。
そのままの体勢でファーディルは窓の外を眺めた。カーテンは開いてあった。なんだか怪しい雲行きであった。風水士の予測通り、今日から3日程天候は崩れるようだ。
ファーディルは固まってしまった右手をマッサージした。少しずつ筋肉がほぐれ、徐々に右手が脱力していく。
一段落つくと、ファーディルは小物入れを開けてみた。夢ではここから全てが始まっていた。この中に入れたはずのメダルがなかったことから全ては始まったのだ。だが今度はきちんとメダルが納まっていた。ファーディルは一安心すると、再び小物入れを閉じた。
ファーディルはそれ以上、何を考えていいのか分からず、ぼんやりとしていた。一体何があったのだろう。何も考えたくない何も……考えるのが面倒だ。疲れた……
コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。ファーディルはその瞬間、がばっ、と跳び上がり、全力で扉に向かうと勢いよく開けた。
「グレース……」
ファーディルは次第に顔が紅潮していった。グレースが目の前にいる。ちゃんと生きて目の前にいる。それがどれだけ嬉しいことか。あの夢を見なければそんなことは気にもとめなかったに違いない。
「ど、どうなさいましたかファーディル様。また悪い夢でも──」
グレースはおそらく驚いた顔を浮かべただろう。
ファーディルはあまりの嬉しさに、グレースをおもいきり抱きしめていた。また涙が溢れてきた。
「グレース、よかった。本当に、グレース。グレース。グレースぅ……」
最後は涙声であった。
「ファーディル様……? 一体どうなさったのですか? 今度は私を殺す夢でもごらんになったのですか?」
グレースの声はとても優しいものであったが、ファーディルはグレースをきっ、と睨み付けると大声で「バカッ!」と叫んだ。
「生きているな……? お前は生きているんだな、夢じゃないんだな……グレース。グレース、答えてくれグレース……」
ファーディルはがっくりと膝をついた。自分がこんなに涙もろいとは思わなかった。ファーディルは自分の流した涙の量に驚いていた。
「ファーディル様。大丈夫です。私はここにいます。あなた様の傍に。ちゃんと、生きてここにいます」
グレースの声がファーディルの心に響いた。ファーディルは声を上げて、泣いた。
暴走
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