暴走
〜 1 〜
それから5日後のこと。
ファーディルはまたいつものように目覚めた。しかし、あれから毎日のように悪夢を見続けていたため、本当にこれが現実であるのか、それとも夢であるのか、その場で判断することができなくなってしまっていた。そして、現実なのか夢なのかを見極めなければならなかった。これは既に、毎日の日課と化していた。
その方法とは──メダルの確認である。
現実と悪夢との間に矛盾点を見つけた時、悪夢は終わる。そのことをここ数日の経験からよく理解していたのだ。つまり、この小物入れの中にメダルがあるかないか、それが現実であるか否かを探る鍵であったのだ。
「……またか」
だが、そこにメダルはなかった。とはいえ、このような展開は毎日の悪夢のパターンと化していた。この程度でもはや驚かなくに値しないのだ。そしてこの場合、必ずある行動を起こすことにしていた。
早速服を着替え、ファーディルは自分の部屋を出ていった。
「おはようございます、ファーディル様」
見張り番の兵士が気安く声を掛けてくる。何回もここに通ううちに、次第にここの見張り番の兵士たちとファーディルは仲良くなってきていた。もうだいたい誰が何時ごろの見張りなのかは把握しているほどだ。ファーディルはそしていつものように見張り番から記録簿を受け取るとその記録を調べた。
Fardil & Grace 7/14 17:12-17:48
「……なるほど。2人で入った時の記録しか残っていないか。とするとこれは間違いない。夢だな。もう騙されないぞ」
そう呟くと、次第に周りの風景がぼやけてきた。これもいつものことである。あとはその風景に自分を重ね、いつものベッドで起き上がるだけだ。
ファーディルは目を閉じるとその風景の中に溶け込もうとした。徐々に空間が色を失いはじめ、自己と周囲との区別がなくなっていく。これも全ていつものことであった。
「……朝か……」
7月20日。あのおぞましい夢を見てから5日が過ぎていた。いよいよ今日から7日間の国祭の開催である。オープニングセレモニーは午前10時から。もう会場は人の山でたいへんであろう。もう準備は完全に整っている。もうこれ以上ファーディルがやることは何もなかった。あとは国祭が逐次進行されていくかどうか、犯罪が行われないかどうか、監視統制するだけである。
ファーディルはこの現実が果たして本当に現実なのか、それとも夢なのか、まだ自信はなかった。ここ数日の悪夢は全く現実感が失われていない。夢が覚めたらまた夢だった、ということもあるかもしれない。深く考えていけば、もしかしたら今までのことが全て夢で、まだ国祭が始まる10日くらい前に目覚めるかもしれない。
だがもはや何度も眠りにつき、何度も悪夢を見、何度も目覚めていると、確実に時間が進行していて、そしてあのサルヴァーと兄上の密会が本当にあったことなのだということを──信じたくはないが──自覚せざるを得なかった。
これから7日間、サルヴァーや兄上はいったい何をしようというのだろう。
そう考えながら小物入れを開ける。そこにはきちんとメダルがしまわれていた。ふう、と一息つき、服を着替えてから、メダルをポケットにしまった。
「ファーディル様。もうお起きになられましたか、ファーディル様」
ノックと共に聞き慣れた声が聞こえてきた。間違いなくグレースの声だ。
「おはようグレース。もう起きているよ」
扉に向かって声をかけると、扉は内側に開いてきた。そして紺色の髪が緩やかに流れてくる。
「グレース……その、格好は……」
グレースはいつもの紅の鎧ではなく、正装であった。あまりに着飾ったものというわけではないが、清楚で上品な水色のドレスであった。とても、よく似合っている。
考えてみれば今日から国祭で、しかも今日は最初の式典の日である。グレースといえども正装をしないわけにはいかないのだろう。
「おかしい、ですか?」
グレースは少し照れているようだった。それがまた可愛らしくて思わず吹き出してしまった。
「なっ、笑うことはないでしょう。私だって好きでこのような格好をしているわけでは──」
「ごめんごめん。君が照れているのを見ると面白くて」
「……そうですか」
グレースは羞恥で顔を真っ赤にしてしまった。やれやれ、こんなことで皆の前に出たらどうなることやら。
「でも、綺麗だよ」
「……そう、ですか?」
「ああ、本当に。驚いた」
冗談ではなく、グレースは美しかった。普段、こういう姿を見ないだけに──というより、初めてグレースのドレス姿を見たのだが、余計に新鮮で印象強い。
「ファーディル様。今日の予定をお伝えします。これから──」
「その前に、グレース。話しておきたいことがあるんだ」
グレースは少しだけいぶかしむような素振りを見せた。あまりこういう調子で自分から話すことがないからかもしれない。
「君は、これが何だか分かるかい?」
ポケットからメダルを取り出してグレースに差し出す。グレースはそれを受け取ると鑑定するようにメダルを調べた。
「ゼルヴァータ王家の紋章が刻まれたメダルですね。これがいったい何でしょうか」
「君はこれをどこかで見たことがある?」
「いえ、このようなものは1度も拝見したことはございませんが」
「なるほど」
ファーディルはメダルを返してもらうとポケットにしまった。
「それで、話しておきたいこととは何でしょうか」
「1週間前のことだよグレース」
ファーディルは間を置かずにグレースに切り出した。グレースはもちろんすぐに思い出してくれたようだ。1週間前。あの日2人は地下倉庫へサルヴァーとファザットの密会の痕跡を探しにいったのだ。
「あのあと、僕は1人でもう1度地下倉庫に調べに行ったんだ。どうも胡散臭い気がしてね。そこで見つけたのが今のメダルだ。あのメダルは窪みにちょうどはまっていて、簡単には見つからなかった。同じ場所を何度も調べてようやく見つけたんだ」
「つまり……?」
グレースは蒼白な顔で呟いた。
「ファザット様がファーディル様を虐げようとしているとでも……?」
結論はそうなる。あれからずっと考え続けて、ようやく今では何とか平静を保てるようにはなった。しかし大好きな兄上を疑うことはファーディルにとっては苦痛であった。
「本当は君に知らせるつもりはなかったんだ。でもこのままでは兄上はともかく、サルヴァーからは本当に命を狙われかねない。僕は何とか兄上と話し合ってみるから、君には僕の護衛を頼みたいんだ」
グレースは目を瞑り、何事か呟いていた。そしてやがてゆっくりと目を開いたころには蒼ざめていた顔はすでに血の気を取り戻していた。
「分かりました。では私はこの件について、少し自分なりに調べてみようと思います。あ、ご安心下さい。護衛の任はきちんと行いますから。近衛兵長のサイラスにも協力させましょう」
「ああ、よろしく頼むよ。できれば事は明るみにしたくない」
「存じあげております。では今日の予定をお伝えしてよろしいでしょうか」
「ああ」
そしてグレースは手に持った用紙を読み上げていく。ファーディルはそれを聞きながら、兄ファザットのことを考えていた。
……だが未だによくわからないのはファザット兄上の動機だ。何故兄上は僕を殺そうと考えたのだろう。何も理由などないのに。邪魔ならば他国に売り渡してもいいのに。何故殺さなければならないのだろう。
「ファーディル様……聞いてらっしゃいましたか」
「うん。多分ね」
ファーディルは着替えるとゆっくりと部屋から出て行こうとする。グレースが不安に思ったのだろうか、何か声をかけようとした瞬間、ファーディルはにっこりと微笑んだ。
「信頼しているよ、グレース」
それだけ言い残すと、ファーディルは再び歩き始めた。
〜 2 〜
7日後、7月29日。国祭最終日。
既にフィナーレ・パレードは始まっていた。夜空に描かれる花火。それをファーディルは城のとあるバルコニーから1人で眺めていた。
それまでとくにサルヴァー宰相も兄上も何もしてはこなかった。本当に兄上は僕を……とは何度も疑っているが、現実にこの手の中にはメダルがある。サルヴァー宰相がこれを落としたわけではない、という可能性もまたあるのだが、それではこのメダルはいったい誰がどうしてあの場所に落としていったのかと考えると、他に納得のいく説明をすることができない。
「いったい僕はどうなってしまうのか……」
相変わらず悪夢は続いていた。夢の内容はさまざまであったが、悪夢の始まりの、あのグレースもリアナも死んでいく、あの夢以上におぞましいものは、1つとしてなかった。しかしいくらでも酷く苦しい夢はあった。グレースに殺される夢などしょっちゅうだ。ファザットに殺される夢ももちろんある。だが怖いのは夢そのものではない。その夢が現実と全く変わらない感覚があるということである。夢だ、と気付くまでにしばらく時間がかかる。夢だと分かったならば目覚めることはできるのだが、気付くまでが面倒だ。
「たまには幸せな夢でも見たいなあ……まあ、無理か。今のままでは。この悪夢の原因を突き止めなければ……」
何故このような悪夢を毎日のように見るようになったのか。今思えば悪夢の予兆はリアナが死ぬあの夢の前からあった。1度城の南の樹海でグレースに殺されそうになる夢を見た。あれから全てが始まったのだ。サルヴァーと兄上の密会を発見したのもあの日だ。
……もしかしたら、悪夢はあの日からずっと目覚めていないのかもしれない。あの日から、僕はずっと夢を見続けているのかもしれない。
だがそれにしては長い夢だ。あのグレースの夢を見てから、僕はいろいろなことを行い、考え、そしていろいろな夢を見た。こんなにたくさんのことを思い出せるのに、これが夢であるとはとても思えない。
だが何故だろう……何故、こんなにも毎日悪夢ばかり見るようになったのか。リアナの夢を見たのはそういえばこのメダルを拾って翌日のことだった。グレースもリアナも死んで、1人目覚めたあのベッドの居心地の悪さ。自分は一生忘れることはできないだろう。
花火が、ドーン、と鳴った。ファーディルと国祭実行委員会の思惑通り、国民は大満足しているようだった。1発ごとに歓声がファーディルの耳に聞こえてくる。花火はさまざまな芸術を夜空に描きだしていった。
王都にいる全ての者に、共通の感動を与えるような企画がほしい。ファーディルはフィナーレ・パレードについての最初の会議でまずこう切り出した。王都にいる全ての者、とは国民はもちろん、自分たち王族・貴族・武将。誰もが感動できるもので、誰もが理解できるもので、誰もが参加できるもの。そんな企画を考えてほしい。そうやって第1回目の会議は終了した。時間はわずかに10分。それ以上話し合うこともなかった。ファーディルはそのことを今でも思い出すことができる。
そして出てきたのがこの『夜空の芸術』である。火薬を用いて、火花によって絵を描くことはできないだろうか、と誰かの案が実行された。何度も施行錯誤して、ようやく試作品第1号ができたのが、今年の1月1日。その夜関係者全員で、王都を離れ、王都からは完全に見ることができなくなる場所まできたところで、全員でその花火を検証した。実験は大成功だった。一瞬全員が我を忘れ、これならばいける、と誰もが思った。これほど美しいものならば、国民が全員感動するに違いない、と誰もが思った。そして何度も実験し、火薬に混ぜる物質によって色が異なることを発見し、様々な芸術を生み出していった。このフィナーレ・パレードにはたしかに関係者全員の力が込められた最高傑作であった。
関係者でも役割は異なった。火薬を扱える者は花火の種類を増やし、打ち上げの際の安全面にも考慮し、そうでない者はフィナーレ・パレードを中心とした日程の作成、場所の決定を行った。フィナーレ・パレードに関わった者はファーディルやグレースを含めてわずかに15名。その15名の努力の結晶が、この夜空に描かれている芸術である。
「素晴らしいな、ファーディル。この『ハナビ』というものは」
突然後ろから声がかかった。ファーディルも半ば予期していたので、とくに驚きはしなかった。ファーディルはゆっくりと振り返ると、ファザットがとくに武器を所持していないように見えたことに安堵すると、再び夜空を見上げた。
ファザットも花火を見るため、ファーディルの隣へ行き、はるか天空を眺めた。
「……なあ、ファーディル」
ファザットが意を決したような声で話し掛けてきた。
「何でしょうか、兄上」
ファーディルもゆっくりと返事をした。ここまできてファザットもどうやらすぐにファーディルとどうこうしようという気はないらしい。兄上は地下倉庫で「まだファーディルを殺す決心がつかない」と言っていた。はたして決心はついたのだろうか。それともつかなかったのだろうか。いずれにせよ、今その話がされるのは間違いがなかった。
「……昔のことを、覚えているか。昔、お前は俺にこう言ったな。『自分を他国へ婿養子にだしても構わない』と」
「自分が邪魔になりましたか?」
ファーディルは少し突き放した言い方だった。しかしファザットは首を横に振る。
「そうじゃない。……どちらかといえば、お前が婿養子に出ていくほうが怖い」
ファザットは手すりに身をのせ、俯いたまま話を始めた。
「俺はな……ファーディル。つい昨日まで、お前を殺そうとしていたんだ。……あまり驚いた表情じゃないようだな。知っていたのか、まあ俺にとってはどちらでもいい。ともかく俺はお前が憎かった……憎くて仕方なかったんだ」
ファーディルが何か言おうとしたのを、ファザットは手を上げて制した。
「言いたいことはわかっているさ。だが先に俺の話を終わらせてくれ」
ふうー、とファザットは大きく息を吐くと花火を見上げながら話を続けた。
「俺が今ここでその話をしたのは、お前にどうしても謝りたかったからだ。すまない、ファーディル。俺はお前を殺そうとしていた。本当にすまない」
ファザットはその場に膝をついて頭を下げた。
「兄、上?」
「こんなことで許されるとは思っていない、だが何かしないと俺の気がすまないのだ。もし不服なら俺のこの剣で」と、懐から短刀を取り出した「殺してくれてもいい。とにかく何かしないことには俺はどうしていいか、分からないのだ」
ファーディルはあまりのことに驚きを隠すことができなかった。まず一番の驚きは、あの兄上が土下座までして許しを請うというこの状況。そして兄上が自分を何故かは分からないが憎んでいるということ。最後に兄上でもどうしていいか分からないという状況があるということ、であった。
「僕には……兄上のおっしゃることが理解できません」
ファーディルもまたその場に膝をついて兄の手を取った。
「兄上、人は自分の心の中で思っていることについては自由なのです。兄上が僕を殺そうと思うこともまた自由なのです。そして現実には兄上はそれを実行なさらなかった。僕は何も損害があったわけではない。では充分ではありませんか。兄上が謝ることなど何1つないのです。そして僕も兄上に謝らなければならないことがあります」
ファーディルはその場で土下座した。これは兄を見習ってのことであるが、兄は充分に驚愕を受けているようだ。
「僕は兄上が僕を殺そうとしていることに気付いていながら、それを兄上に確かめようともせず、兄上がいつ自分に襲いかかってくるか、そればかり気になって仕方がありませんでした。兄上を信じきれなかった罪をお許しください」
「ファーディル……」
ファザットもまた弟と同じようにその手を取った。
「それはお前が言ったことではなかったか? 思うだけなら自由なのだと。ならば私を信じないこともまた自由ではないか。お前が私を許してくれるように、私もまたお前を許そう。もともとは私が悪かったのだしな」
「兄上、それは違うのではないですか?」
ファーディルが口を挟んだ。
「兄上は僕が憎いと先ほどおっしゃいました。いったい僕の何が気にいらなったのですか。その解答しだいでは罪は僕の方にあります。答えていただけませんか、兄上」
ファザットはその言葉に何も答えることができず、沈黙してしまった。しかしファーディルは待った。兄から口を開かないことには、この問題が解決したことにはならないだろう。辛抱強く待った。
その、とき──
ゴウンッ!
2人ははっとなってバルコニーから外を眺めた。王都の各所で火の手が上がっていた。突然の大火事に、国民は右往左往するばかりで、上から見下ろす限りでは全く混乱しきっていた。
「ばかな。あんなところから火の手が上がるはずがない。火薬は全て現場に移送されているはずだ。これは火事じゃない。放火だ」
ファーディルは現場の指揮をとろうと、外に走り出そうとしたが、突然たくさんの兵士が後ろに控えていた。
──いつの間に!
放火のほうに気をとられ、ここまで接近を許してしまった自分が腹立たしかった。
それとも兄上に注意していた分、その他には注意を払えなかったということだろうか。
「ちょうどよかった……ファザット殿下もご一緒ですか……」
いつ聞いても聞き慣れないだみ声が響いた。その声の主は無論、宰相サルヴァーであった。
「さあ、ファザット殿下。今こそ願いを叶えるときですぞ。ファーディル殿下を殺し、自分の願いを叶えなさい!」
ファーディルは驚いて兄ファザットを見上げた。
まさか、兄上。僕を殺すつもりですか。
あなたがここにきたのは、僕を油断させるためですか。
兄上、お答えください。
兄上!
「サルヴァー。何故お前が俺に命令するのだ。お前はいつから俺より偉くなったのだ」
ファザットの声はひどく静かなものであった。
「俺は貴様などよりも大事な弟妹を守るぞ。貴様の命令など聞けるか。王族殺人未遂の罪で素っ首はねてくれる」
サルヴァーはくっくっ、といやらしい苦笑をもらした。そしてぎろりとファザットを睨むと、再びくっくっと笑う。
「ええ、いいですとも。私を殺そうと思うなら殺してごらんなさい。ですが、あなたはその短刀1本。私はたくさんの兵隊。どちらが有利かは目に見えて明らかですけどねえ……お前ら、2人とも殺してしまえ!」
一斉に、兵隊たちが動き始めた。ファザットはファーディルを庇いながら、短刀でそれに応じた。ファーディルも兄に守られてばかりではない。得意の体術で、兵士の剣をかわし、膝蹴りで相手を失神させると相手の剣を奪う。
「兄上!」
そして兄に向かってその剣を放った。兄はそれをうまく受け取り、自慢の武力で一気に兵隊たちを打ち倒していった。
「何をしておるか、馬鹿者共!」
サルヴァーの声が響いた。そしてその方向から一筋の銀色の光が真っ直ぐに伸びてきた。
投げ槍、か? まさかサルヴァーが?
しかしその投げ槍を避けられるほど体勢が充分ではなかった。槍は真っ直ぐにファーディルの胸元めがけて突き進んでくる。
「ファーディルーーッ!!」
兄の叫び声が聞こえた。だが回避できそうにもなかった。自分を心配する兄の声が心地よく、諦めてそのまま眠りにつこうと決めたまさにそのときだった。
…………痛みは襲ってこなかった。運命が生贄に選んだのはファーディルではなかったのだ。
「兄……うえ……」
ファザットの腹を突き破り、ファーディルの胸に触れるか触れないかのところで、槍は止まっていた。がたがたと震えながら、ゆっくりと兄の顔を見上げた。兄もまた震える身体で、弟を見つめると、にこり、と笑った。
「兄上!」
どさり、とファザットの身体が崩れ落ちた。
「ファ、ファーディル」
「兄上」
「ふぁ、ふぁー……」
ごぼっ、と喉から血が溢れだし、その血を、ファーディルは顔からまともに浴びた。
そして息絶えた。
ファザットの身体は全ての制御から離れ、自らの重さで、がくり、と大地へと向かった。
「う……ううう、う、ああ」
口がわなわなと震え、血まみれになった体で、兄の身体を抱きしめる。
「う、嘘だ。嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
ファーディルは涙をぐっと堪え、歯を食いしばってサルヴァーを睨み付けた。
「これも夢なんだろう! 目覚めろ! 兄上が亡くなるなど、夢に決まっている! これもまたいつもの悪質な夢なのだろう! いつものようにこの夢を終わらせろ!」
しかしその言葉は宮廷に響くばかりで、一向に目覚めの感覚は襲ってはこなかった。はあはあ、と呼吸を整えると、ファーディルはその場にゆらりと立ち上がった。
「兄上……兄……」
サルヴァーの命令が飛び、兵隊たちはようやく動き始めた。残ったファーディルに向かって。しかしそれは怒りに燃えるファーディルによって手痛い反撃を受ける結果となった。
「きさまらが兄上を……」
ファーディルは一番近くから襲いかかってきた兵士が剣を振り下ろす前に、利き腕を捕らえ、裏拳で相手のこめかみを打った。兵士は脳に強烈な衝撃をくらい失神する。
そしてその兵士の剣を奪うと、すぐに近寄ってきた兵士3人をまとめて首を跳ねた。さぼり癖があったとはいえ、ファザットと共に武芸を習ったのである。並の兵士よりはずっとファーディルの方が強い。しかし、やはり安物の剣。3人を切った時点で根本から折れてしまった。ファーディルは折れた剣を突進してくる兵士の左目を狙って投げつけると、今首を跳ねた兵士から剣を2本とり上げた。
「きさまらが兄上を……兄上……」
ファーディルは怒りに任せ、次々と兵士を打ち倒していった。首を刎ね、脳を貫き、心臓を突き刺し。わずかな時間のあと、ついにこの部屋に生き残っているのはファーディルとサルヴァーだけになっていた。
「王都に放火したのも貴様の仕業だな」
血に濡れた剣を投げ捨てると、ファーディルは無防備・素手でサルヴァーに近づいた。この男とならば、どんなハンデがあろうとも勝てる自身はあった。
「その通りだ。だがもはや手遅れよ。教えてやろう。この策略の全貌を」
「そんなものに興味はない。今すぐ死ね」
ファーディルはぐっと手に力を込めたが、サルヴァーは構わず話しだす。
「国王と王妃が心配ではないかね?」
ぴたり、と振り上げた腕を止めた。
「そう、素直に人の話を聞けばいいんだよ、ファーディル殿下」
しかし、そのサルヴァーのくっくっ、という笑いをファーディルは我慢できるほど人間ができてはいなかった。
ゴッ!
拳がサルヴァーの頬を強烈に打った。ぐはっ、と悲鳴をこぼすが少しの哀れみも感じなかった。そして近くに落ちていた剣を拾う。
「話すなら早く話せ」
ファーディルは剣を突きつけた。サルヴァーはニヤリと笑い、ファーディルの望みどおり話を始めた。
「この計画はな、ファーディル殿下。ファザット殿下がファーディル殿下を殺し、乱心したということで幽閉するという筋書きだったのだよ。ついでだから国王陛下も王妃陛下も皆殺してしまい、それも全てファザット殿下の責にしてしまおうとな……くっくっ」
「死にたくなければ笑わない方がいいぞ、サルヴァー。だがそのあとはどうするつもりだ。きさまが王位にでも就くというのか」
サルヴァーは、けひゃひゃ、と笑うと「その通り」と答えた。
「だがリアナが残っているな。リアナも殺すつもりか」
「まさか」とサルヴァーは笑った「可愛らしいリアナ姫はこの私の妻になっていただきますよ。せいぜい可愛がってあげましょう。一生ね」
「ゲス野郎」とファーディルは唾を吐きかけた「そもそもきさまごときが本気で王位に就けると思っているのか。少し現実味が薄いな。諦めた方がいい」
しかしサルヴァーはくっくっ……と笑うと「否! 断じて否!」と叫んだ。
「この儂が王位に就き、施政を牛耳る。そして明日からはゼルヴァータの暗黒時代が到来するという筋書きよ……」
「暗黒時代だと。馬鹿なことを考えつくものだな。そもそも何十年も父上に仕えた貴様が今更その年で裏切りを犯すということもいまいち理解できない。その馬鹿な考えを、いったいきさまは誰に吹き込まれた。きさまの裏に誰がいる。どうせ貴様は単なる傀儡、もしくは、体のいい捨て駒だったのだろう」
「捨て駒? 違うよ、この儂が全て企んだこと。全ては儂の思うがままに……」
剣が、サルヴァーの鳩尾を貫いていた。「が……」と声をもらし、ばったりと倒れる。
「この……」
そして、動かなくなった。
「……死んだか」
ファーディルの声は平静であった。何も話すつもりがないのなら、生かしておく必要などなかった。この男は兄上を殺した、憎むべき敵なのだから。
……だがサルヴァーの言い方だと、国王と王妃の命が危ない、ということだろう。
急がねば!
ファーディルは一瞬急いで部屋を飛び出そうとしたが、ぴたり、と止まると振り向いてファザットの死体に向かって1度深く礼をした。
そして急いでその場から走り去った。父上の命がかかっているのだ。もはや1刻の猶予もない状態であった。
〜 3 〜
「父上……?」
国王の間についたファーディルは国王ブロージットと王妃テレサの座っている玉座に近づいていった。
「父上……母上!」
いやな予感がして父王に駆け寄った。が、ブロージットは何も言わず、うつむいたままぴくりとも動かない。
「父上、起きてください」
ファーディルは涙声で、ブロージットの肩を揺すった。
「父上……起きて……下さい……父上」
そのとき、ずるり、とブロージットの白髪まじりの髪が落ちた。
「?」
そしてその下から眩い金色の髪が現れた。そして少しずつブロージットの体が起き始め、そこにあった顔は──よく見知った顔であった。
「ファーディル」
「あ、……兄う……え?」
下腹部に、熱い痛みを覚えた。ファザットが隠し持っていた懐剣で突き刺してきたのだ。
「俺はお前のせいで死んだのだ! お前のせいでな!」
罵声があびせられる。しかしその声はファーディルにはとどいていなかった。
……どうしてです、兄上。兄上……僕の大好きな尊敬する兄上……いったい何故……。
びくん、とファーディルの体が跳ねた。
国王の間の入口。重々しい扉がファーディルの目の前に立ちはだかっている。
いったい、今のは。
「……白昼夢か……まさかここまでやられるとは思わなかったよ」
例の悪夢。どうやらいよいよ症状が悪化してきたようであった。
しかし今、ファザット兄上はいない。もしもブロージット国王まで失ったら、国王とならなければならないのは、自分。
「しっかりしなくては」
頬をぴしゃりと叩くと、意を決して国王の間の扉を開けた。
「父上! 母上! ご無事ですか!」
国王の間は白昼夢同様にひっそりとしていた。玉座で父ブロージットと母テレサが俯いて座っている。
「父上! 母上!」
ファーディルはその光景を信じようとせず、2人のもとに走り寄った。今度は白昼夢と違い、兄ファザットなどではなかった。たしかにブロージット王なのだが──
「父……上……」
既に目が光を失い、口許から血がたらり、と一筋だけ流れている。体は冷たくなっており、もはや心臓が停止しているのは確認するまでもなかった。
「は、母上」
ファーディルはすぐ隣に座っているテレサも無事かどうか調べてみる。だが、結果はブロージットと全く異ならなかった。
「…………」
いったいこれはどういうことなのだ。
神は無情なのか。この僕を救っては、父を、母を、兄を、この国を救ってはくれないのか。
誰にいったいこのような非道な真似ができるのだろうか。サルヴァーなどではない。誰かがこの事件を裏で操っているに違いない。きっとそうに決まっている。そして自分の悪夢も──……?
ファーディルの思考が一瞬停止した。まさか、という言葉がファーディルの脳を満たし始めた。
……まさか、この事件の黒幕と自分の悪夢に関係があるのだろうか。
黒幕は、サルヴァー宰相? いや違う、あの男はたしかに野心家ではあるが、反乱をおこしたりする度胸などない。サルヴァーに吹き込んだ、真の黒幕がいるに違いない。だが……。
だがしかし、その真の黒幕と自分の悪夢とに関係などあるはずがない。もしそうだとしたら、その黒幕は夢を──操っていることになるではないか。
……だが、この事件の計画を知った時期と悪夢を見始めた時期は全く一致する。もしも何かしら関係があるとしたら……? そして今も自分をどうにか陥れようとしているとしたら……?
はっ、とファーディルは気がついた。もしそうだとしたら、黒幕はこの状況を利用して自分を犯人に仕立てようとするに違いない。いや、自分に国王、王妃、そして兄上の殺害容疑をかけるためにこの状況を作り上げていたのでは──
「ファーディル第2王子、反乱!」
そのときであった。自分の後ろで1人の兵士が叫び声をあげたのは。
遅かった。せっかく気付いていたのに、みすみす敵の思うがままに行動してしまった。この状況では何を言われても言い返すことができないだろう。死んだサルヴァーに罪をきせようとしても、それがおそらくは真実だとしても、他に黒幕が潜んでいるのだとすればそれが通ることはないだろう。
……どうする?
答が出るより先に体が動いていた。もはや言い逃れができる状態ではない。真の黒幕が動きださないうちにこの城から逃げ出すしかないだろう。
ファーディルは叫び声をあげた兵士の胸ぐらをぐい、と掴むと「この馬鹿!」と叫び、突き飛ばすと自分の部屋の方向へ向かって走り出した。
……まさかこんなことになるとは……。
このままではファザット兄上は無駄死にだ。自分を何とか生かそうとして自らを犠牲にしたというのに、自分がここで死ぬわけにはいかない。自分は何としても生き延びねばならない。
「こっちだ!」
どうやら兵士たちに見つかったらしい。ファーディルは走るスピードを上げ、追い付かれる前に城の外に逃げようとした。
「…………殿下…………」
そのとき、ファーディルの耳にかすかな声が聞こえてきた。それを察すると、声のする方向へと向かう。
「殿下、こちらへ」
「君は近衛兵長サイラス」
ファーディルは招かれるままにサイラスの部屋に入った。そしてすぐに部屋の隅に隠れ、そのまま追手が通り過ぎるのを待つ。
「サイラス……助かったよ」
追手がいなくなってようやく一息ついたところで、サイラスに話し掛けた。だが、
「まだあなたを助けたとは限りませんよ」
その言葉にさっと身構えた。まさかさっきの白昼夢のように、突然サイラスが襲いかかってくるのかと思ったからだ。
「……といっても、身構えられても困るのですが……」
その行動は、逆にサイラスを不審がらせる結果となってしまった。どうやらサイラスはすぐに自分に襲いかかってくるようなことはしないようである。一応警戒しながらも、構えを解いた。
「なるほど、まだ僕が本当に父上や母上や兄上を殺した犯人かどうか、決めかねているってわけか」
「正直なところはそうです。しかし、もしたとえそれが事実だったとしても、あなたの口からそれを聞いた以上、私はあなたを守らなければなりません」
「どういうことだ?」
「ブロージット陛下、ファザット殿下が亡くなられた以上、この国の正当な王位継承者は、殿下、あなたお1人です。あなたが誰かに陥れられたのならばもちろん、あなたが自分の意思でお2人を殺したのだとしても、私は王族を守ることが務め。今いる王族でもっとも守るべき方はあなたです」
ファーディルはあまりのことに、ぽかんと口を開けた。
「そんな……ということは、僕が何をしたかしないかはともかく、僕が王族だから守るよってことか」
「そういうことです」
ふう、とため息をついた。こんなところにも国の忠臣というのはいるものだ、と思いながら。
「だが僕はこの国にこれ以上いつづけることはできない」
「それは分かっております。この国はリアナ姫が王位を継ぐことになるでしょう。ですが私の務めはこの国の王族を守ること。あなたをお守りし、この国から逃せばあとはリアナ姫をお守りする。それだけのことです」
なるほど、と納得した。この男は自らの信念と国に仕える者としての責任を同時に行使しようとしているのだ。
「……君はよく話がわかる人だ。もう少し早く知り合っていたら協力を頼んでいたのに」
「光栄です。では、この部屋の隠し通路からお逃げ下さい。城の南の樹海につながっております。あそこからならばそう簡単には捕まることはありますまい。樹海の南の果てには小さな漁村があります。私の顔なじみがおりますので、私の名を出せば国を裏切ってでもあなたを助けてくれるはずです」
「何から何まで、すまない。それから幾つか頼みがある」
「リアナ姫にはあなたの潔白をきちんと伝えておきましょう。もちろん国家的にはあなたは犯罪者として扱われますが」
本当によく話が分かる男だ、と改めて感心した。
「ありがとう、それでいい。それからリアナに婿選びは慎重に行うように、と言ってくれ。この国の者はあまり信用しないように、とも。この事件には黒幕がいる。僕の言葉を伝えたこのサイラスすらも最終的には信用しないように、もしどうしても仲間が必要ならグレースを登用するように、と」
「全て畏まりました」
「そしてグレースに……僕は君を巻き込むつもりはなかった。すまない、と」
「グレース様にはそれだけでよろしいのですか?」
「ん、ああ」
「ですが……いえ、了解しました」
全く……この前僕がグレースを抱きしめたからまた変な噂が立ったな……。
「そしてサイラス。まさかとは思うけど、君が黒幕じゃないというのなら、君はリアナを守ってこの国を影から支えてくれ」
「仰せの通りに」
「よし。じゃあ僕は脱出するよ。サイラス、後は頼んだ」
「はい。こちらです」
サイラスは床の一部を刳り抜くと、ファーディルを素早くその中に落とした。
「そこからまっすぐ進んで行って下さい。そうすれば、城の南側の涸れ井戸にでます。あとは自分で何とか逃げてください」
「分かった本当にありがとう。サイラス。また会おう」
「ご命令とあらば」
「命令じゃないよ、サイラス。別れるときの挨拶だ」
「は……必ず」
「よし」
ファーディルは頷くと隠し通路を進み始めた。後ろから射し込む光は、やがて完全に消えた。
〜 4 〜
ホーホー、とフクロウの鳴く声が聞こえる。ザアアアアッ、と時折草が風に吹かれている音も聞こえる。それらの音が浮き上がって、はっきりと聞こえるほど、この森の中は今、閑かだった。
そうか、そういうことだったのか。
ようやく理解することができた、何故あの夢で自分が樹海にいたのか。
そしてその森の中を1歩ずつゆっくりと歩いていく。土はやや湿っており、足音はほとんど聞こえない。音はあるのかもしれないが、少なくとも彼の耳にまで届くほどではない。
それから10歩程進んだ所で、ぴたり、と歩みを止めた。
……ということはこの先へ進めば、この先に待っているのは……?
まさかとは思うが、もしかしたら……?
頭をぶんぶんと振った。まさか、そんなことがあるはずがない。この先に何が待っているかなど、予知夢でもあるまいし。
だが、あの夢と全く同じ状況──唯一異なっているのは、自分が何故この樹海にいるのかということだけ。それを除けば全てが、この森の雰囲気、木々の並び、フクロウの鳴き声から風の音まで、全てが同じ。
では、この先に待っているのは、まさか──
再び歩き始めた。徐々にその速度が上がる。早く確認したくて、それでいて自分のこの不安が解消されることを願って、ひたすら前へと進む。
そして、感じた。あの何度も襲ってきた、慣れることのできない感覚。この先に待つものは必ず悪事であると宣告されているような感覚。
──嫌悪感!
たしかにその生理的嫌悪感に気がついていた。リアナの夢以来感じたことがなかったあの感覚が、またしても体内に現れ出たのだ。
この先には、進みたくない。
だが、歩みは止まらなかった。全てを明らかにしたいという欲求か、それとも『血』がそう命令していたのか。いずれにせよ選択肢の中には「ここで引き返す」というものはなかったのだ。
そしてついに、その人影が姿を現した。30歩程先にある1つの人影。その影は自分が気がついたことを察したのであろう、同じようにゆっくりと前に進み出てきた。そして目の前まできて、歩みを止めた。
「…………グレース…………」
深い闇の中に薄水色の瞳と紺色の髪が浮き上がった。鎧までは着ていないようだが、腰の長剣はいつも通りであった。そして彼女の雰囲気だけはいつもとは完全に異なっていた。それどころか、あの最初の悪夢、あの時のグレースともまた異なっていた。
「……ファーディル殿下……」
違うものは、その雰囲気。グレースの体にまとわりついている『魔』的な気配。それが決定的であった。それは殺気などという言葉で表せるものではない。もっと異質な、人間ならざるものが発しているかのようであった。
いったいグレースに何と言えばいいのであろう。
悪夢の時は自分がどういう状況にいるのか分かっていなかった。だが今は何故自分がここにいるのかが分かっている。グレースが何故自分を殺そうとしているのかが分かっている。
「待てグレース。君は誤解している。父上も母上も兄上も、殺したのは僕ではない」
「まだそのようなことをおっしゃるのですか。そしてまたサルヴァー宰相に罪をきせるおつもりですか」
グレースは静かな動作で、すらり、と腰の長剣を抜く。その剣は兄ファザットが所持していた名剣リューネワント。かつてこの地上にいた『魔』を制したといわれる聖剣であった。
何故それを、グレースが持っているんだ?
疑問には思ったが、それを詮議している場合ではない。とにかく、グレースをとめなければならない。さもないと、殺されるのは自分だ。
「待って、グレース。君はそもそも誰からその話を聞いたんだ。僕が信じられないのか、グレース」
「話は全てファザット様からお聞きしました。ファザット様はファーディル様に命を狙われているとおっしゃっておられました」
「なっ……」
それはいったいどういうことだ。兄上はたしかに僕を憎んでいるとはいったが、僕と和解したはずだ。いや、和解したのは兄上がなくなる寸前。ということは、グレースはそれ以前に兄上からそう聞いていたということになるのか。
「グレースそれは本当に……グレースッ!」
上からの強烈な攻撃を後ろに飛びすさってかわした。動悸、心拍数が一気に跳ね上がったのが、はっきりと分かる。心臓がばくばくと動いている。両手と両足が震え始めた。
「グレース、それは誰に聞いたんだ。きちんとファザット兄上から直接聞いたのか」
しかし、グレースはその問いには答えず、少し哀しげな瞳を浮かべた。
「天国へ、お行きなさい殿下……いいえ、天国ではなく、地獄、でしたね。あなたは罪人なのですから」
この台詞は──まずい。このままでは悪夢の二の舞だ。何とかしなければ……何とかしなければ……。
「このままではファザット兄上は無駄死にではないか!」
その叫びで、森の中は一斉に活気づいた。眠っていた鳥たちが巣から逃げようと飛び立ち、ざざあっ、ざざざざあっ、と周りの木々が揺れた。
それと対照的に、グレースの動きは止まっていた。
──どうしたのだろう?
グレースの薄水色の瞳に戸惑いと困惑の色が浮かんでいた。もしかすると、自分の言葉の中に何かの真実性を感じたのかもしれない。
だが、それ以上にはっきりと変化したものがあった。それは、グレースの背後に横たわっていた異質な影、それがゆっくりとグレースの体に取り巻いていく。そして、徐々にグレースの瞳から自らの意思と呼べるものが失われ、うつろになっていく。
「これはいったい──そうか……ようやく見えてきたぞ……この事件の裏に、いったい何があったのか……」
ファーディルは静かにゆっくりとグレースに向かって語りだした。
「そもそも全てきさまの、そう全てを操っている黒幕の仕業だったのだな。ファザット兄上には僕を憎ませるように洗脳し、僕には現実感を失わせようときわめて現実的な悪夢を見せ、長年この国に仕えてきたサルヴァー宰相にはこの国を乗っ取るという夢を植えつけ、そして今またグレースには僕が全ての犯人であるように偽りを吹き込んだ。その全てを操ろうとしているきさまは誰だ! そこで何を企んでいる!」
そこまで言いきったとき、グレースの様子が変化した。薄水色の瞳は光を失い、闇色の光がそこから溢れだした。そして殺気よりも激しい闇色の気を体から溢れ出させると、凍りついたかのように表情を固め、ゆっくりと剣を構えた。
「くっ」
そしてグレースが動いた。
ゼルヴァータ王国でも比類する者はいないとまで言われた素早い踏み込みで喉元を突く。だが当然ただ黙ってやられるわけにはいかない。ここで死んでは亡くなった父上、母上、兄上に申し訳が立たないではないか。そうやって勇気を奮い起こすと、必死になってその剣をかわした。だがすぐに2撃目、3撃目が襲いかかる。体術でなんとかかわすものの、それでも右腕と左脇腹に裂傷を負う。
このままではまずい、このままでは──!
そしてグレースは突然しゃがみ込んだ。
これは、まさか──!
ためらわずに真後ろへ跳んだ。その足先すれすれをグレースの足が通りすぎる。グレースは足払いをかけていたのだ。
グレースが口惜しそうに顔を歪める。その隙になんとか体勢を建て直した。
今は一度夢で見ていたから動きも予測できた。だが──。
ここからは違う。ここからはグレースの……いや。
自分の考えが正しいのならば、と付け加えてから思いなおした。
ここからは『グレースに乗り移った黒幕』の動きを予測することはできない。いったい何をしようとしているのか……。
状況はきわめて不利であっただろう。『グレース』はお得意の素早い踏み込みからの斬・突・払で攻撃ができるが、自分はそれを防ぐ剣も盾も持ってはいない。そのうえ反撃をするにも相手は『グレース』である。攻撃をしたところでよほど不意をつかない限りはダメージを与えることなどできない。となれば、あとは何とか逃げきるしか手はないのだが『グレース』がそう簡単に逃がしてくれるとはとうてい思えない。
八方手詰まりであった。それでも内心の動揺を相手に見せまいとポーカーフェイスに努めた。
『グレース』が再び攻撃を開始する。水平に自分の首を斬り落とそうとしてくる名剣リューネワントを間一髪でかわしたが、次のみぞおちを狙った突きをかわしきることができず、脇腹を剣がかすめていった。ファザットの血で汚れた服が、さらに自分の血によって再び赤く染まった。
「とどめだ!」
『グレース』は叫ぶと真上から垂直にファーディルの頭に振り下ろしてきた。ファーディルは避けられないことを理解すると、その剣の軌道を見定め、素早い動きで両手をあわせた。
白刃取り!
ぴたり、と2人の動きが止まった。『グレース』は意表をつかれたらしく、戸惑いを隠しきることができなかった。しかしそれも瞬間的なこと。すぐに気を取り直した『グレース』はさらに力を込め、そのままの体制でファーディルを斬り倒そうとした。
「ぐっ……」
これはいつものグレースの力じゃない。どうやら『黒幕』の力が加わっているようだ。
「グレース……」
ようやく呟いた声も『グレース』には何の抑揚も起きなかったらしい。少しずつ名剣リューネワントは自分の左肩に食い込み始めた。
「ぐうっ……」
左肩から血が滲み出てきた。骨ごと一気に斬り落とされそうな気がした。だがそれでも剣を放さず、必死に堪えた。
「?」
突然剣にかかる力が抜けてなくなった。呆然としていると剣を手放した『グレース』が胸元を蹴りつけたのだ。
「がふっ」
受け身も取れずに仰向けに倒れる。
──まずい、この体勢は──
「死ねっ!」
『グレース』は予想通り長剣を逆手に持ちかえて、突き下ろしてきた。
「グレース、目を覚ませ。グレース!」
しかし『グレース』は全く動きを止めるようなことはしなかった。真っ直ぐに心臓を目掛けて名剣リューネワントを突き下ろしてくる。
「グレースッ!!」
だがしかし今度は目が覚めるようなことはなかった。『グレース』の剣はファーディルの胸元から背中へと、一筋の光のごとく突き抜けていった。
「あ……ぐれ……」
自分に何が起きているのか理解できなかった。わずかに残っている思考で「死ぬのだろうか」と微かに考えつくことが精一杯であった。
………………。
頭の中が徐々に白くぼやけていき、涙を流しながら、……目を閉じた。
そして、ゆっくりと目を開けた。暗い部屋の中。まだ朝日は昇ってきてはいない。
全身が汗だくで、しっかりと閉じられた瞼の内側から大量に涙が溢れていた。
何が起こったのか、何が起きているのか、まったく分からなかったが、ようやく意識がはっきりと戻ってきた。
「…………夢…………?」
あれだけ何度も夢だと思い込み、起きろと何度も念じ、それでも現実から覚めなかったフィナーレ・パレードは全部夢だったのか……?
そう理解を終えると、腹の底から笑いが沸き起こってきた。その笑いを止める術もしらず、大きく声をあげた。
「ふ……ふっふっ……ふっ、ふっ、ふっ、はっ、はっ……あははははははははははは!」
乾いた笑いが部屋の中でしばらく鳴り響いていた。だがそれでも笑いが止まるようなことはなかった。
「はははははははは、はっはあっははっ、はっ、はっ、はあ、はあ」
自分は狂ってしまったのだろうか。いや、随分以前からもうずっと狂い続けているのかもしれない。
汗だくになった寝巻を脱ぎ捨てると、小物入れからメダルを取り出し、普段着に着替え、椅子に腰掛け──そしてそのままグレースが来るまで、微かな眠りについた。
正体
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