正体




〜 1 〜




 闇の中、音もなく扉は開いた。ファーディルはそれに気がつき、ぱちり、と目を覚ました。闇の中から1つの影が部屋の中に入り込んでくる。かなり体格のいい男だ。おそらくは自分の知っている男なのだろう。静かに部屋の魔法灯をつけると、椅子から立ち上がった。
「兄上……」
 魔法の灯火に照らされたファザットの顔はかなり青ざめていた。たった今兄に命を助けられた夢を見たばかりで、こういう状況に陥るとは、なかなか運命も皮肉なものである。
「分かっていたのか……ファーディル」
 ファザットの声はかなり暗いものだった。やはり本気で自分を殺す決心はできていないということだろう。
「まあ、たった1人の兄上ですから」
 ファーディルはあくまで大好きな兄上という感情を捨てようとはしなかった。今部屋にいるのは本来ならば自分の命を狙う暗殺者である。それでも、兄には違いない。
「兄、か……いったい何故俺は兄なのかな」
 ファーディルは顔をしかめた。
 ……まさか、兄上が……?
 それは驚愕ですむような事件ではなかった。ファーディルにとってファザットとは、まさしく神そのもの。全て願うことは叶い、できないことはないという、まさしく人間離れした尊敬の対象であった。その兄上が、である。『いったい何故』と呟いたのだ。
「……兄上でも分からないことや悩むことがあるとは存じませんでした」
正直に答えた。今のファーディルはまさしく植えられた草花同然、何も考えられるような状況ではなかった。それほどに今のファザットの呟きは衝撃を与えていた。
 だがその言葉を聞くと、ファザットは何故か、ふっ、と笑いをもらした。
「俺だとて……悩むことはある」
 ファザットの姿はいつもの自信に満ち溢れたものとは大きく異なっていた。いつもの兄ではないことは、明らかであった。
 ファザットを悩ませているものがこの事件の黒幕だとしたら、ファーディルはその黒幕を憎みもしたし、尊敬もしただろう。弟から見た兄は、何をするにしても自信に満ち溢れ、何をするにしても失敗することはないというような安心感が得られた。悲しむものには励ましを与え、喜ぶものには共に喜び、誰からも尊敬され、やがてはこの国の王として長く治世を築くだろうと思っていた兄上。
 そのまさしく人間を超越した、まるで神のようなファザットが、ファザットでも悩むことがあると言うのだ。
「何故……何をそんなに悩んでおられるのですか、兄上」
 そのファザットを悩ませるものとはいったい何なのか。ファーディルは当然それを知らずにはいられなかった。
「ファーディル……」
 ファザットは長く息を吐いた。剣を抜くのだろうかと心配したが、どうやらそうではないらしい。少し安心すると、ファザットはベッドに腰掛けた。ファーディルも緊張を少し解くと、再び椅子に腰掛けた。
「お前……今日は何故起きていた? 俺が来ることを予測してのことか?」
 ファーディルはその問いに首を振った。
「いいえ、嫌な夢を見て、それについてここで考えていたら、知らないうちに眠ってしまったようです」
 ファザットは、ふん、と笑った。本当だと思ったのか、嘘だと思ったのか。それだけではファーディルには区別がつかなかった。
「しかしまあ……俺がここに来て驚かないということは、俺がお前を殺そうとしているということは知っていた、ということだな」
 今度は素直に頷いた。今さら隠すほどのことでもないだろう、と思いながら。
「いつ気付いた?」
 当然といえば当然の質問である。ファーディルは少し悩んだふりをすると「7月の14日。地下倉庫でサルヴァー宰相と話し合っているのを偶然聞いてしまって」と正直に答えた。
「あのときか……たしかに誰かがいたような気配はあったな。それで俺も逃げだしたんだが……そうか、お前だったのか。しっかり確かめておくのだったな。まさか殺そうとする相手に聞かれているとはな。馬鹿な話だ」
 2人は声を上げて笑った。こういう冗談めいた話はこういう状況でも全く変わらない。
「だが俺が何故お前を殺そうとしているかまでは知らないのだな」
 ファザットは冷たく微笑を浮かべた。
「ぜひ聞かせていただけますか」
 ファーディルも緊張した面持ちで尋ねた。
「鷲が何故1羽だけで飛ぶか、お前には理解できるか、ファーディル?」
 突然理解できない質問を浴びせられて、ファーディルは何とも答えられず、ただ首を横に振った。
「鷲はな……そのあまりの強さのために誰も怖がってよってこないから1人で飛ぶんだ。……ファーディル。お前はさっき『兄上でも分からないことや悩むことがあるとは存じませんでした』と言ったな。お前のその考えはお前にだけ特有のものじゃない。この城にいるみんなが思っていることなのだ。それを聞いたときは本当に驚いたがな。俺も人間だ。何でもできる神様とは違う。ただ神に少しだけ才能を与えられたただの人間なんだよ。だがそれを理解してくれるのは誰も──お前ですらも──いないらしい」
 ファザットはそこまで言い切ると、1度ふうー、と長く息を吐いた。
「……お前には分からないだろう。力を持ってしまった人間の孤独さを。気がついたら俺はずっと独りだったよ。父上も母上もお前もリアナも、誰も俺のことはかまってはくれなかった。そして言うことはいつもこうだ『お前はこの国の跡継ぎなのだからもっとしっかりしろ』でなければこうだ『さすがです、殿下』。俺はこの国の跡継ぎということだけで誰からも人間らしく扱われたことは子供の頃から1度としてなかったよ。お前やリアナはあんなに父上や母上に可愛がってもらったのに、な。今でもそうだな、特にリアナについては。あいつはいつまで経っても子供だ。どんなときでも愛されて育ったのだろうな。あいつの表情からそれが分かる。何の苦しみも知らないで育った顔だ。俺とは違う」
 ファザットは少し高ぶった神経を抑えようとして呼吸を整えた。
「15の頃には状況はもっと変わっていた。俺は父上や母上に愛されるためにどんなことでもしてきた。その結果俺は何でもできるようになった。そしてその代償が、今まで以上の隔離だった。『お前は何も言わなくても全て分かる』『本当に将来の国王らしい落ち着きを持っている』『さすが私の子供、よく立派に育ってくれた』。違う、違うんだ。俺はただ単に父上や母上に優しくなでてもらいたかっただけなんだ。子供らしく扱ってほしかっただけなんだ。だが父上も母上もそんなことは少しも分かってはくれなかった。『いつまでも子供じゃないのだから』『そんなあまいことを言っていて立派な国王になれると思っているのか』。俺はそんな立派なものになりたくて努力したんのではない。ただ愛されるために、それだけのために努力したというのに、父上も母上も、親として少しも褒めようともしない!」
 ベッドに腰掛けたファザットの表情はファーディルの位置からは見えることはなかったが、おそらくはよほど泣きそうな顔をしていただろう。親に見放された子供のような表情をしていることだろう。そう思うとなんだかやりきれない気持ちになった。
「そして、ファーディル。お前が俺にさらに追い打ちをかけたのだ。気がついていなかっただろう? お前は俺をずっと苦しめていたのだよ。その羨ましい性格でな」
 ファーディルの体がにわかに強張った。まさかそんな昔からずっと憎まれているとはつゆとも思わなかった。ファザットは気配だけでそのことを察したのだろう。ふっと笑い、話を続けた。
「気がついていない分、なお性質が悪いな。まあ、そのあたりがお前を憎みきれない理由の1つなのだが……。お前はな、ファーディル。俺なんかよりもずっと国王の資質があるよ。……そんなに驚くな。帝王学を幼いころから勉強し続けてきた俺にとっては痛いほどよく分かる。国王にとってもっとも必要な素質とは、人に愛される能力なのだ。俺にはない、お前だけの能力だ。お前は誰からも愛され、誰でも導いていける能力を持っている。気がついてはいなかっただろう? だが俺は子供の頃からずっと分かっていたよ。お前の周りにはいつも人が集まっていた。お前の仕種やちょっとした話で誰でも幸福感を得ることができた。──そう、この俺ですら、な。全てにおいて完全であろうと──親に愛されるために──していた俺をいともあっさりと引き込んでしまうほどの『愛される能力』。それが俺には死ぬほど羨ましかった。……分かるだろう、何故俺がお前を憎むのかが。俺は愛されたいのだ。お前のように、父上や母上はもちろんのこと、誰からも愛されたいのだ。だが俺の周りには誰も近づかない。それには幾つか理由があるだろう。『愛される能力』がないこともその理由の1つだろう。だが最大の理由は、俺があまりにも強すぎるからだ。完全であろうと、完全になろうとした結果、誰も俺を恐れて近づけなくなったのだ。では俺の努力はいったい何だったのだ? 俺は愛されるために努力をしたのではなかったのか? その努力の結果が誰からも愛されなくなるという皮肉な結果を導いたのか? だとしたら俺は何のために努力したのだ? だからこそ俺はお前が余計に憎いのだ。お前は何の努力もしてはいない。お前は反対するのかもしれないが、俺から言わせればお前など何も努力していないに等しい。そのお前が、だ。何故お前に『愛される能力』があるのだ? それを一番欲しているのは俺だというのに何故お前にその能力が渡ってしまったのだ? 俺はそれを考えるだけで夜も眠れなくなる。欲しい。その能力が欲しい、とな」
 ファザットは近くに置いてあった水差しに気がついてコップ2つに水を注いだ。その一つをファーディルに手渡す。
 ファーディルはそのコップを受け取りながら、ファザットの顔をしっかりと見つめた。そこに表情は全くといって浮かんでいなかった。憎い、憎いとは言いながら、おそらくは自分でも本当の気持ちは分からないでいるのだろう。だから何とも表情を出し切れていないのだろう。
 ファザットは再びベッドに戻ると、水を一気に飲み干し、コップを元の場所に戻した。
「もちろん、このように憎い憎いとは言ってはいるが、俺もお前のその能力に引かれた人間の1人。お前のことは弟としても1人の人間としても愛してもいる。だが……そうだな、俺とお前と、生まれてくる順番が違えばよかっただろうに、と思うことは何度かあったよ。当然といえば当然だな。後に生まれてくるというだけで親から愛されるのなら誰も長男に生まれたいなどとは思わんさ。お前は許容量が広いからな。俺のような何でもできる弟がいても全く疎ましく思うようなことはないだろう。それどころか俺を上手に利用して国家を安定させることができただろうな。帝王学では国王は自分が仕事をするものではない。他人に仕事をさせるものなのだ。俺のように臣下にやらせるよりも自分でやったほうがより効率がいいなどと考える人間では到底国王など務まりようがないさ。その点、お前ならばきっと良い国王になれただろう。臣下を上手に利用し、全ての収益を懐に収め、国をもっともっと発展させたに違いない……惜しいものだな。お前が先に生まれていたなら……全てがうまくいっていただろうに」
「それは違うでしょう、兄上」
 ファーディルはようやくファザットの話に口をはさんだ。
「もし僕が兄上のような弟を持ったとしたならば、1日でその国は壊滅ですよ。出来のいい弟を疑うあまり、国王派と王弟派に国がまっぷたつに別れるでしょう。ただ単純に国王に仕える者、私利私欲のためにどちらかにつこうとする者、英雄的な弟に仕えようとする者、たくさんの思惑が重なりあって、やがてはこの国は滅亡ですね。兄上が兄上でよかったのですよ」
「それは違うぞ、ファーディル」
 今度はファザットがファーディルの話を遮る番であった。
「もし仮にそのような状況に陥った場合、おそらく全ての臣下はお前のもとに集まるだろう。お前のその『愛される能力』のおかげでな。ためしに今臣下たちに聞いてみようか。もしも俺とお前とが戦うことになったらどちらにつくか。王太子であるはずの優位をひっくり返して、おそらくは五分になるはずだ。いや下手をすれば俺の方が分が悪いな。なにせ俺はお前と戦っても勝てる気がしない。その『愛される能力』のおかげでな」
 それは兄上の思い込みです……とはファーディルは決して言うつもりはなかった。そう直接的に言っては火に油を注ぐようなものだ。 たしかにファザットの言葉にはいくらかの思い込みは入っているだろう。だが全てが全て思い込みだというわけでもない。ファーディルはその思い込みを何とか解こうと努力することにした。





〜 2 〜







「兄上。鷲が何故1羽で飛ぶのか、分かりますか?」
結局問題は原点に戻るわけだ。ファザットはファーディルが何を言おうとしているのか分からないのだろう。全く動こうともしなかった。
「鷲は、みんなが自分と同じなのだろうと過信していたのですが、実は自分が他の鳥たちとは違うことに失望して、その失望を再び経験したくないからこそ1羽で飛びつづけるのです。傷つきたくないから……傷つきたくないがゆえに自らを傷つけ続けるのです」
ファーディルはファザットの様子に注意しながら話を続けた。
「兄上は誰からも愛されよう、愛されたいと思いながらたくさんの──それこそ僕では想像もできないほどの──努力をされたのでしょう。ですが、反対に誰かを、もしくはみんなを愛そうと思ったことはおありですか? 僕の知っているかぎりでの兄上にはそのようなところは見受けられませんでした。たしかに兄上は何でもお出来になる。悲しむ人がいれば励まし、嬉しい人がいれば一緒に喜んだでしょう。ですが、それらは全て僕が見たかぎりでは──優しそうには思われるのですが──決して愛しているからではないでしょう。何だか良い人を演じているようにしか見えませんでした。兄上はいつも良い人間でいたいと願うあまり、良い人間を演じていたにすぎなくなってしまったのです。兄上は帝王学を子供の頃から勉強していたとおっしゃりましたが、僕も帝王学は子供の頃から勉強しております。その折この城の書庫に古ぼけた1冊の本がありました。そこに人を治めるときの秘術が書かれていたのです。それは『人を愛すること』。まず自分が他人を愛することなのです。他人を愛することができれば次には自分も愛されるのです。兄上はただ愛されようとしたばかりに人を愛することを忘れていたのです」
ファザットは全く動こうとしなかった。今の話に何らかの躍動が起こったのだろうか、起こらなかったのだろうか。ファーディルの位置からはもちろん知る由もない。
「ですが兄上。あなたは充分に愛されていますよ。それは単に気づかれていないだけです。鷲は1羽で飛ぶのに何故みんなから愛されるのか御存知ですか? 強いからですよ。強ければ強いほど、そしてそれが味方・仲間ならばなおのこと、鷲は尊敬される存在になるのです。兄上とて同じこと。兄上は誰からも尊敬されておいでです。尊敬されることはすなわち愛されていることと同意なのです。それがただ単に兄上の強さに恐れて近づけないでいるだけにすぎません。もっと他人を愛してあげなさい。そうすれば兄上は僕などよりももっと誰からも愛される存在となるでしょう。誓って断言できますよ」
ファーディルはコップの水を飲み込むとさらに話を続けた。
「さっき兄上は、リアナについてもおっしゃられていましたが、リアナが何故みんなから愛されているか考えたことがありますか? 僕もリアナも『愛される能力』があるからというだけで他人から愛されるのではあまりに偶然すぎます。リアナにはリアナにだけの特徴があるからです。それは、もう何なのか分かると思いますが、誰をでも愛することです。リアナはそれこそ子供のように誰でも、みんなを愛しているのです。子供が何故可愛いか考えたことはありますか? 子供は差別なく誰でも愛しているからですよ。リアナもまだ成長してない子供同様に、全ての人を愛しているのです。だからこそみんなから愛される。どんな人間でも、愛してくれる人を嫌うことは余程のことがないかぎり、ありえませんからね」
ファーディルは立ち上がるとベッドの所まで行き、コップに水を注ぐとファザットに手渡した。ファザットは震える手つきでそれを受け取る。ファーディルは少し安心感を覚え、その隣に腰をおろした。
ファーディルは長く息を吐き出すと、自分もファザットと同じように、自分の気持ちを全て打ち明けるべきだろう、と思った。それは非常に勇気がいる作業だった。おそらくは兄上も同じだったに違いない。それは自分の内面をさらけ出すことである。それがどれほど恐ろしいことか。自分が愛する人に自分の醜い部分を見られることの恐怖。それは実際に自分でやってみなければ分かるものではない。それを今ファーディルはまさに実感していたのだ。
「僕が物心ついたころ……すでに兄上は全てを超越した存在でした。僕にしてみれば誰よりも何よりも一番大切な人でしたし、僕の理想像そのままでした。僕もいつか兄上のような英雄になりたい。そしていつか王位を継いでこの国を導く兄上の手助けをしたい……そう毎日願っていたのです。しかし、現実はそれほどあまいものではありませんでした。何の努力をすることも僕には許されていなかったからです。武芸・学問、その他あらゆる分野において、僕は一切の努力を禁じられました。どういうことだか分かりますか? 僕は何かにつけて兄上に比較され続けたのですよ。1つ行動を起こすたびに『ファザット様の弟なのに、こんなこともできないのか』。何か1つ発言するたびに『ファザット様の弟のくせに、その程度しか考えつかないのか』。僕は僕自身として見られたことは1度もありませんでした。何をするにつけても『ファザット様の弟』という言葉が四方八方から聞こえてくるのです。……それほど立派な兄上を持った弟がどのような気持ちになるか、兄上には理解できないでしょう。兄上の孤独を僕が理解できないのと同じように。僕はですね、全てのやる気が失われたのですよ。もう何もするつもりが無くなったのです。どうせ国は兄上が継ぐ。僕はこの国にいても邪魔な存在でしかない。だからこそあのとき僕はあのように言ったのですよ。覚えてらっしゃいますか、あの日のことを。『自分を他国へ婿養子にだしても全く構わない』と言ったあの日のことを。僕は兄上に協力してこの国を守ろうという、子供の頃に自分に誓ったことをすっかり忘れてしまっていたのですよ! それなのに兄上はいつもと全く変わらず、いやいつもよりずっと優しくこう答えてくださったのです。『弟を売るつもりはさらさらない』とね! 僕はあの言葉にどれほど助けられたか分かりません。誰よりも強い兄上が僕のことを愛してくださっていたのです。あの頃の僕は兄上にしてみればさぞかし出来の悪い弟だったでしょう。それなのに兄上は優しく僕を包み込んでくれたのです。僕はあの日以来、僕の全てをもって兄上にお仕えすることを再び誓ったのです。それまで心に抱いていた兄上への嫉妬は全て解消されました。いつもいつも比較され続け、兄上の近くにいることすら疎ましいと思っていたはずなのに。僕は、兄上。あなたに救われて今日まで生きてきたのです。あなたのために。そしてこれからも生きていくつもりです。あなたのために。そして、兄上。あなたが僕を救ってくれたように、今度は僕があなたを救う番です」
そこまで言い切ってから、ファーディルはコップの水を一気に飲み干すと、コップを放り投げ、ファザットの手を取った。
「兄上。僕の話でもう気がつかれているはずです。兄上に今足りないものが何なのか。僕があのとき努力することを兄上から教えられたように、今度は僕が人を愛することを兄上に教える番です。兄上。『愛される能力』と『愛する能力』は本来同意なのです。一方的に愛することも、一方的に愛されることも、どちらも不公平ではありませんか。兄上、人を愛するのです」
「…………」
ファザットは黙ったまま体を震わせている。ファーディルはファザットがこれほどまでに弱い面を見せるのはこれが最初で最後になるだろう、とその姿を目に焼き付けるようにした。
「兄上。……僕を……僕を信じてください。兄上はみなに好かれておいでです。あとは兄上がみなを好きになれば、みなは自然と兄上に近寄ってくるはずです。兄上、誓って、もう一度それを断言いたします」
だがしかし──ファザットはファーディルの手を払いのけた。ファザットのように普段は大人びているように見えても、それまでに精神的な悩みを持ったことがない人間は、完全に成長しきれていないものだ。人は誰しも悩みを克服して大人になっていく。だがファザットにしてみれば、ファザットの状況におかれてみれば、人間が最初に克服する壁としては、かなり大きすぎたのだろう。ファザットは正直になりきれなかった。自分のプライドを捨てきれなかった。あとはもう勢いだけで話は進んでいく。ファザットは自分のしたことの理由も分からないのだろう。泣きそうな顔で叫び声をあげた。
「それでも……それでもファーディルの方がいい!」
ファザットはファーディルを突き飛ばすと腰の剣を抜いた。
「兄上!」
「ファーディル!……俺は……俺は……俺は誰にも愛されてなどいない!」
「どうして自分で確かめてもいないことを自分の中で作り上げるのです! 僕もみんなも、ファザット兄上。あなたを愛しています!」
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
真実に目を背け、自分が世界で孤独だと思うことは青年期によく見られる特徴である。その意味でファザットはまだ大人になりきれていなかったのだろう。青年期に超えなければならない『壁』を今まで引き延ばした結果がこれである。それを考えると、ファーディルの『壁』は非常によい時期に克服されたのだろう。だがファザットは、すでに大人といってもよい時期である。その時期に超えなければならない『壁』としてはかなり幼稚なものであったに違いない。そのことを本人も理解しているからこそ認めたくないのだろう。その上みんなから『愛されている』と思い込んでいたファーディルまでが同じ『壁』を乗り越えている。それも自分よりもはるかに昔にだ。いろいろなことが混ざり合って、ファザットはもうファーディルを突き放すしか手段が残されていないと思わざるを得なかったのだ。
「お前なんか……お前なんか!」
ファザットは遂に迷いを断ち切るかのように叫び声を上げながらファーディルに突きかかった。
「兄上──」
しかしそれをファーディルは避けようとはしなかった。両腕を広げ……それこそ天使のように微笑み……ファザットの剣を心臓に受けた。
「な……」
ファザットは驚愕に顔色を失った。当然避けるだろうと思っていたのか、自分でしてしまったことの大きさに気がついたのか、いずれかは分からないが、ファーディルを突き刺したことに明らかに動揺していた。
「兄……うえ……」
ゴボッ、とファーディルは血を吐き出した。まだだ、まだここで死ぬわけにはいかない。兄上を救うのだ。兄上を救うまでは死ぬわけにはいかないのだ。
「兄……上。悲し……むことはない……です。僕は……兄上のために……生きて……兄、上……僕をか……なしむなら……ゴボッ、ぼ──僕の命……無駄に……しない、で……」
ファザットは震える体でファーディルの体を抱き留めた。いや、まだだ。まだ兄上は救われていない。……そうか、そういうことか。兄上もさっきの夢のグレースと同じ……。
ファーディルは、きっ、とファザットを睨みつけると大きな声で怒鳴った。
「兄上に取り憑いているのは何者だ! 姿を現せ! どうせこれもまた夢なのだろう!」
ふと、体が軽くなった気がした。胸の痛みは薄れ、次第に周りが暗くなっていく。
死ぬ、のか──?
しかしファーディルのその疑問は異なっていた。やがて暗闇の中に、ファーディルは迷い込んでいた。
「ようこそ我が国、暗黒空間へ。ファーディル第2王子。よく我が夢を見破った。たいしたものだ」
闇の中から声が響いてきた。その声はまさしく夢の中で何度も襲ってきたあの生理的な嫌悪感と同質のものであった。そのとき既に体の痛みは全て消え去っていた。それもこれも全てこの黒幕のせいであると気づきファーディルは怒りに燃えた。
「きさまが僕に悪夢を見せつづけ、兄上の悩みを増大させ、サルヴァーを操った張本人だな。姿を見せろ!」
ファーディルが叫びの直後に暗黒空間に1人の男が現れた。それは意外にも人の形をしていた。闇の中に浮かぶ1人の男。全身が薄白く、つかんだら折れてしまいそうに華奢な体つきである。
「この姿を我が姿とは思わないようにな。これは我が姿にあらず。我は姿など持ち合わせてはおらぬ。これは話をするうえでそなたが話しやすいように見せている幻影にすぎぬ。我が正体はこの暗黒空間に彷徨う1つの魂……それがこの私」
その幻影は赤く妖しい唇をにやりと笑わせた。
「夢魔ヒュープーン。それが我が名だ」





〜 3 〜







「ヒュープーン……」
 この男が。
 この男が、自分に悪夢を見させていた張本人。兄上をそそのかしていた黒幕。
 ファーディルは微かな高揚感を覚えはじめていた。ついに最終決戦なのだ。
「改めてようこそ、ファーディル王子。我が暗黒空間へ。歓迎いたします」
「聞いている方が具合の悪くなるような敬語は、使わない方がいい」
「それは失礼を」とヒュープーンは口調を一切変えなかった。
「夢魔の世界も結構上下関係が厳しいのでね、まあ、敬語のことは勘弁してください」
「笑えない冗談だね」
 嫌悪感を露にして答えた。
「それよりもヒュープーンとやら、答えてもらうよ。きさまの企みを。きさまの計画を。全てを、ね」
 その言葉に、ヒュープーンは苦笑を洩らすばかりで答えようとはしなかった。白い姿がくすくすと揺れる。その姿を現したのはおそらくは話しやすいようにするためではなく、ファーディルの気を高ぶらせようとするものなのだろう。
「まあよい。知りたくば教えてさしあげましょう。どのみち,もはやこの国を救う手段など残されてはいないのですし」
「……何だって……?」
 聞き捨てならない台詞であった。
 この国を救う手段? まるでこの国が滅びるかのような言いぐさではないか。
「その通りですよ、ファーディル王子」
 くっくっ、とヒュープーンは笑った。こちらの考えは全て筒抜けなのだろう。その嫌味な笑い声に怒りを覚えたが、それをぶつける前に話を聞くほうが先だと自らを押さえつける。
「計画、などというほど高尚なものでもないですがね。我が願いは単純なこと。この国が潰れること。それだけです」
「何故だ。国を潰すことに何の意味がある」
 ヒュープーンの唇がつり上がった。声に出さないで笑う分、怒りよりも不気味さがファーディルを襲った。
「簡単ですよ……人間が苦しむのがだぁい好きなんですよ……本当に面白いですね、人間という生き物は……少し夢を見たくらいで悩んだり……あげくのはてには弟殺しまでしてしまう……くくくくく、全く馬鹿な生き物ではないですか」
「兄上を愚弄することを2度と言うな」
 ファーディルは凄味を聞かせた声を発した。
「後悔するぞ」
「おお怖い!」
 かかかかか、とヒュープーンは笑った。
「では、ファーディル王子に免じてそれは取り消させていただきます。ですが人間を苦しめることが大好きだというのは取り消しませんよ。我はそのためだけに存在しているのですからねえ」
「ゲス野郎」
 その呟きはヒュープーンの笑い声によってかき消された。
「まあいい。きさまにはいろいろと聞きたいことがある。全て答えてもらうぞ、ヒュープーン」
「好きなだけ」
 ヒュープーンは笑みを絶やさずに答えた。
「なら聞くけど、どうしてこの国を襲ったんだ? この世界に国はいくらでもあるのに、わざわざこの国に現れたのはどうしてだ?」
「ほう! 王子、自分の国が何故存在しているのかも知らずに今日まで生きてきたのですか! 面白い面白い。時の経つというものは実に面白いものですねえ」
「質問に答えろ」
「はいはい王子様、簡単なことですよ。我はこの国に封印されていたのです。我が今ここに現れ出ることができたのは封印が解けたからですよ。我は封印を解かせるためにみなに悪夢を見させたのですよ」
「……さきほどは人間が苦しむのを見たいと言っていたけど」
「同じことですよ、封印が解ければ人間をいたぶることができる。順番通りではありませんか!」
 げらげら、とヒュープーンは笑いこけた。いちいち笑い声をいれなければ話すこともできないのかとは思うが、その苛々を押しとどめる。
「今きさまは封印が解けたと言っていたな。封印とは一体何だ? きさまはどこに封印されていた? 誰が封印を解いた? サルヴァーか?」
「そんなに1度に質問されても答えられませんよ!」
 ヒュープーンは相手をからかうという姿勢を崩そうとはしなかった。無論ファーディルもそれにむざむざと乗りはしなかった。こちらの平常心を崩そうとしていることくらいは、簡単に察しがついた。感情が激発しないように、自らを律する。
「封印のことが知りたければ王子、自分の胸をごらんなさい。それが封印石です。我はそこに封印されていたのですよ。それで今の質問には全部答えていることになっていますけどね」
 ファーディルは言われるまま自分の胸を確認してみた。そこにあったものは──
「メダルか……そうか、これに封印されていたのか」
「そういうことです。その石を壊すには余程のことがないとできないのですよ。まず充分に熟練した戦士が名剣でそのメダルを突き壊さなければならないのです」
「そうか。それで俺にメダルを持たせたのだな。ファザット兄上に突き壊させるために」
「くかかかかっ! それだけだと思ってもらってはこまりますよファーディル王子。我が夢は現実と表裏一体。いつどこで逆転するか分からないところがまた面白いのですけどね。王子は何回グレースに殺されたか覚えていますか? 数えきれないほど殺されたでしょう、毎晩のように夢を見せてさしあげましたからねえ。その度にそのメダルは傷ついていったのですよ。それに気づかないとはねえ……ファーディル王子」
「なるほど……だから殺されるときは必ずグレースだったのか。リアナや父上、母上は死ぬことはあっても殺されることはなかったし……」
 ファーディルは奇妙に納得している自分に少し腹が立った。それくらい考えれば気がつかなったのだろうか。そうしなければここまで事件がもつれることはなかったはずなのに。しかしヒュープーンは、ひょひょひょひょひょ、と笑うとその考えを否定した。
「無駄ですよファーディル王子。たとえメダルが何らかの意味があることに気がついたとしても、そこに何かが封印されていることなんて人間の思考力では到底およぶものではありません。もっともこの国の初代国王は我ですらそのメダルに封印するほどの力と知恵をもった魔法戦士でしたが」
「それは知らなかった。この国も歴史がけっこう古い方だから、伝承も知らないうちに忘れ去られたのかな」
「その通りです。そして長い年月を重ねていくうちに徐々に封印の効力は弱まっていった……そして我が夢を操りこの国の重要人物に関与していった……」
「その結果がこの事件というわけか。じゃあもう1つ聞くけどファザット兄上にも関与していたのだな? きさまが悪夢を見させていたのだな? 答えてもらうよ」
「怖い怖い。そんなに睨まないでください。これでも我は年寄りなのですから」
「夢魔の分際で年寄りも何もあるものか」
「ふぉふぉふぉふぉ、面白いことを言いますな。では、先程の質問ですが、我はファザット王太子にはたったの1度しか関与してはおらんよ。ファザット王太子は余程王子が気に入らぬとみえますな。もっとも本人が言っている通り王子を気に入ってもいます。悪意と善意との間で王太子の心はパンク寸前だったのですよ。そう考えれば我は逆に感謝されてもいいと思うのですがね。王子を殺すという命題に悩みを絞ることでなんとか心の平静を保ち続けられたのですから」
「親切にどうも。だが兄上はそんなことでくたばるほど弱くはない。きさまの思い違いだな」
 その言葉を聞くと、ヒュープーンは一番の高笑いをあげた。さすがにこれにはファーディルも怒りを抑えきれず、ついに怒鳴りつけた。
「何が可笑しい!」
「可笑しいも何も、王子は意外とファザット王太子のことを理解できてないようですからね。王太子はまだ子供ですよ。飼い主に捨てられた小犬同然、強くなど全然ありません。子供の魂が大人の体に入っているようなものです。そのうえ力も知恵も人並み以上に──それこそこの国の初代国王並についているのがまたいけない。自分の力を持て余して自分が歩きだす道すらも見えておりません。それに比べれば王子は着実に成長している。我はこの国の歴史を全て知っておりますよ。王子の気持ちも、王太子の気持ちもね。王太子はようやく青年期の目標を達成しようとしているところです。王子よりもはるかに遅れて、ですがね」
「…………」
「何も言い返せないでしょう? 王子も分かっているのではありませんか。さきほど現実であれほど話し合っていたのですから。本当に子供なのはリアナ姫や王子などではありません。ファザット王太子の方なのですよ」
「その口を今すぐ閉じろ。死にたくなければな」
 ヒュープーンは肩をすくめて話をやめた。当然、怒りを恐れたからではない。あくまでファーディルを馬鹿にしているのだ。
「今きさまは現実で、と言ったな。それは一体どういうことだ。僕と兄上が話し合っていたのは夢ではなかったのか」
「夢でもあるし現実でもある」
 その口調はやや謎掛けぎみであった。
「分かりやすく教えてさしあげましょう。我は夢を操ることができます、それも瞬間的に。例えば王子が最初に見た夢はリアナ姫が毒殺されるものですが──」
「いや、その前に1度グレースに殺される夢を見ているけど」
 ヒュープーンの目が見開かれた。
「それは本当かい!」
「嘘じゃないよ。だいたい、きさまが見させた夢だろう」
「いやいや、 それには我は関与していませんよ。何が起こったのかねえ。予兆とでも言うのかね。我が目覚め始めるという予兆が王子に夢を見させたのかもしれないねえ」
「話を続けろ」
「ふぉふぉ、ええかまいませんとも。あのリアナ姫が死ぬ夢を見てから、もう1つ大きな夢を我は王子に見せてさしあげました」
「フィナーレ・パレード」
「そうそう、それです。全ての夢はあれにつながるのですよ。今まで見た夢は現実になることもあれば夢のままで終わることもある。問題は何が夢で何が現実なのか、整理できないことにあるのです」
「きさまでも?」
「我にでも、ですよ。夢か現実かを決めるのは我ではないのです。我は夢を見せるだけ。現実にするかどうかは夢を見た人間次第ということです。夢は夢のままならば夢で終わる。だが夢を変えようとすればそれは現実となって時計の針が動きだすでしょう。だからあのフィナーレ・パレードの時王子がグレースに殺されなかったらあの夢は現実となって進んでいっただろう。王子は1度ならず何度もグレースに殺される夢を見ているのだからね」
「話が矛盾してはいないか?」
「そう聞こえるのは王子が人間だからですよ。夢魔の世界ではこれが当たり前なのです。人間に理解できるはずもありません。夢のシステムすら理解できるレベルにないのですから……とはいうものの、確かに我にしてもまだ夢の全てが分かっているわけではありません。夢を操ることはできても発生させることはできない。それはそれでまた難しいことなのですよ」
「……僕には分からないことだ。そのようなことは地獄でゆっくり考えてもらうことにするよ」
「ふぉふぉふぉふぉ、面白いことを言いますな。もう質問はございませんか?」
「まだ質問に答えてもらっていないさ。さっきの兄上との会話。あれは現実か夢か。一体どっちなんだ」
「現実ですよ。途中まではね」
 ヒュープーンは黒い目を輝かせた。
「途中?」
「そう。あれは間違いなく現実だったのですよ。我は何も関与してはいません。ただ問題は、夢でしかファザット王太子は王子を殺そうとはしなかったのに、切迫された結果、現実でも王子を殺そうとした。それが問題でした」
 ファーディルは理解できず目を瞬かせた。
「まあ理解はできないと思いますが……我は王子の夢とサルヴァーの夢をあれこれ操ったのですが、王太子が王子を殺そうとしたのは全てファザット王太子本人の夢なのです。我が王太子の夢を操ってから、王太子は何度も何度も王子を殺す夢を見た。我が操っていたわけではないですよ。王太子本人が見ていたのです。その真実の夢の影響が王子にも影響した。我は本来グレースの名剣リューネワントだけでメダルを破壊しようと思っていたのですが、ファザット王太子の夢の影響力があまりにも強すぎた。王太子は自分の夢を王子に送り込み、夢の中で王子を殺すことでフラストレーションを発散させていたのですよ。置換現象というやつでしてね。フラストレーションにより伴われた心理的緊張を一時的に解消するために行う適応機制の1つで、到達しやすい別な目標を設定して代理的に満足する方法なのですが、この場合王子を現実で殺せないから夢の中で殺してしまおうと思ったのですな。夢の中ならば何度殺したって現実では傷1つついていない。自分の夢が王子の心を傷つけているとも知らずにね……馬鹿な男ですよ。おおっと、これはまた失礼を」
 ファーディルにとってはまるで理解のできない話であったが、何とか話についていこうと必死だった。
「ですがついに王太子は現実でも王子を殺そうとしてしまった。王子を殺されるわけにいかない我としては充分に困ってしまったわけです。しかし現実での事態だけに我には手をだしようがなかった。八方塞がりだったのですよ。たまたまうまい具合にファザット王太子の剣が王子を突き殺す前に、ちょうど胸のポケットの入っていた封印石のメダルを壊してくれたおかげで、我は封印を解かれ、現実にも影響力を持つことができたのです。もちろん封印が解かれた今となっては王子を助ける必要はなかったのですが、せっかくですからねえ。ここらでもう1つ、我を楽しませるために協力してもらうことにしたのですよ」
「協力?」
 ファーディルは結局よく理解できなかったが、何とか雰囲気だけは伝わってきた。どうやら殺される瞬間にヒュープーンが現実から夢に切り換えてくれたということらしい。
「そう。我に協力してほしいのですよ。というよりもこれは王子にとっては強制に違いはありませんし、また王子もやらずにはいられないでしょう」
「もったいぶらずに早く言ったらどうだ」
「その前に、もう何も質問はないのかね?」
「ない──はずだ。それにあったとしてもどうせ知ってもこれ以上必要なものはないだろうし」
「それでは教えてさしあげましょう。我が何を王子に求めているかを──」





〜 4 〜







「簡単なことですよ、王子。王子がしなければならないことと、我がもとめていること、2つが重なることとは一体何だと思いますか?」
「…………」
 気にくわない──!
 ファーディルは心底そう思った。今ヒュープーンは全く表情を変化させてはいないが、内心は自分の否定感情をあざ笑っているに違いないのだ。
「もうお分かりですね……そう、王子の国、ゼルヴァータ王国を救うことですよ。ゲームといってもよいかもしれないですねえ。いいですか、我は最後の夢を王子に見せることにします。その夢をどう行動するかは王子の自由。ですがこれにはゼルヴァータの命運がかかっていることをゆめゆめお忘れなきよう。王子が一体どのように動くかでこの夢の結末も変わります。正しい解答は1つだけ。その夢を選ぶことができれば現実は正常に作動するでしょう。ですが誤った夢を選んだ場合は……」
「ゼルヴァータが滅びるというのか。フィナーレ・パレードの夢のように」
「ひょっひょっ、いかにもその通りです。場所はさっきも言いましたが、全ての夢が収縮する場所、フィナーレ・パレードへ王子をお送りします」
「拒否したら?」
「ゼルヴァータが滅亡するだけのことですよ」
「なるほど──」
 だが、ファーディルはこの時既にこの暗黒空間の性質に気がつきはじめていた。だからこそ、強気な態度で接することができた。
「もう1つ選択肢があるんじゃないかな」
 ファーディルの言葉は非常にヒュープーンを困惑がらせた。それもふりなのかもしれないが、ファーディルにとってはそんなことはもうどちらでもよかった。
「もう1つ……とは?」
「簡単なことだよ、ヒュープーン」
 真似をして言ってみた。ヒュープーンは顔を、きっ、としかめた。ファーディルはそれがとても心地よくにやりと笑った。
「ここで我を倒すこと……かい?」
「その通り」
 ファーディルは右手を暗黒空間に突き出した。その手に名剣リューネワントが現れる。
「なんと!」
「思った通りだ。夢というのはなかなか便利なものだな、ヒュープーン」
 暗黒空間=夢魔の世界だとするならば、おそらくこの世界は夢の世界であるとファーディルはにらんだ。そして夢ならば通常で不可能なことも当然のようにできるという性質を利用し、自分の手にグレースの名剣リューネワントを呼び寄せたのだ。
「ここで決着をつけてやる!」
 そしてヒュープーンが身構える間もなく一気に斬りかかった。
「なんと!」
 暗黒空間に光が一閃し、ヒュープーンの体を左右真二つに割った。
「くうっ!」
 だが、手ごたえはなかった。割れたはずのヒュープーンの体はぼんやりと空間に溶けてなくなり、声だけが響き渡る。
「ひょーひょーひょー! これが幻影だということをお忘れですか、王子。この空間では我を倒すことはできないのですよ」
「いや、できるさ」
 ヒュープーンの嘲りにも全く動じずに答えた。ファーディルは自分が優位に立っていることに気がついていた。
「どうやって……くっくっ」
 ヒュープーンの笑い声をかき消すかのようにファーディルはリューネワントを一閃した。
「こうやってさ」
 その笑い声が収まった。戸惑いを感じていることは明らかだ。
「まさか王子……」
「なるほどな、夢を操るというのはたしかに便利なようだ」
 そしてファーディルが力を込めると、その暗黒空間に光が溢れだした。その光がファーディルに影を作りだす。そしてもう1つの影も。
「それがきさまの正体か、ヒュープーン!」
 そこに1つの影が生み出された。この暗黒空間に存在する夢魔ヒュープーンの正体が、まさしくそこにあった。
 形状的にはあまり人間と変わらないような姿をしていた……ただしその姿は決して人間ではありえないものであった。
 まず最も目につくのは翼、である。夢魔とはどうやら有翼類であるらしい。そして額に生えた一本の角。ほんの親指大の大きさしかないが、いびつに歪んでいて禍々しい感じを与えている。そして全身の色。深い蒼色と黒の2色刷りであった。
「さすがは夢魔だね。それらしい恰好をしている」
「夢魔の世界では美形で通っているのですがね」
「一生分からないだろうな、きさまらの美的感覚は。だいたい、きさまの姿などおぞましくて、とても長い間見ていられないよ」
「ふん、よかろう。王子が決闘を所望ならば、望み通り受けてたってさしあげましょう」
 ヒュープーンはそう言うなり──少々憤りが見受けられた──額の角から電撃を放った。
「くらえっ!」
 だが、ファーディルは冷静にリューネワントを振るうと、その電撃を避雷させて受け流した。
「リューネワントにはこういう使い方もあるのさ」
 言いながらファーディルは斬りかかったが、ヒュープーンはそれを左手で受けとめ、右手をファーディルの顔に向けた。
「くっ」
「“爆炎”」
 ヒュープーンの短い呟きで右手に炎の球が生まれた。まずい、とファーディルは剣を手放してその魔法の攻撃を避けた。
「ははっはっはっ、剣を取り上げられて、それで本当に我に勝つつもりですか」
 リューネワントはヒュープーンの手に握られたままだ。だが、それでもなおファーディルは冷静でいられた。
「簡単さ。リューネワントにはいろいろ使い方があるからね」
 ファーディルは左手をヒュープーンに向けて怒鳴った。
「光れ!」
 その瞬間、リューネワントは強烈な閃光を辺りに撒き散らした。「ぐおおっ?」とヒュープーンが叫ぶ。その隙をついてファーディルは一気に近寄ると、ヒュープーンの腹を殴り、剣を奪い返すとヒュープーンの首を一刀のもとに切り捨てた。
 ──やった──!
「ば……かな……」
 飛び跳ねた首が信じられないように呟く。
「きさまの最後だ、ヒュープーン」
 ファーディルの言葉に、しかしヒュープーンの首は、にいっ、と笑った。
「これで勝ったとでも思っているのですか……くかっかっかかかっ! 大きな間違いですよ!」
 飛び跳ねた首が、スローモーションで巻き戻っているようにゆっくりと体と接合を始めた。
「なっ?」
 これにはファーディルも声を失った。首を跳ねても倒せないのならば、何をしても倒すことはできないのかもしれない。
「その通り……察しがいいですね、ファーディル王子」
 ヒュープーンは完全に接合したのか、首を右左に倒して首の付き具合を確かめているようであった。
「この暗黒空間ではどんな技を使おうとも我を倒すことなどできないのですよ……仮にこの空間を光で満たしたとしても、ね。だからこその暗黒空間よ。暗黒とはただ暗いにあらず。精神の領域に属しているからこその暗黒空間なのです」
「精神の領域……」
「そういうことですよ、王子。つまりは我と王子が戦おうとも2人とも死ぬことはない。決して決着はつかないのだよ。無意味な戦闘ということさ」
「きさま、知っていてわざと勝負を受けたな。そこまで僕を愚弄するのか」
「ひょーっひょっひょ! 人間の苦しみを見ることこそ我の楽しみだと言ったではないですか。王子がこのことを知ったらどれほど嘆くだろうかと思って茶番につきあうことにしたのですよ。残念でしたねえファーディル王子!」
 ぎりっ、と歯をくいしばるが、そうと分かってしまってはファーディルにもどうすることもできない。ヒュープーンを倒すことが、この場においては事実上不可能なのだから。
「それじゃあこれでお別れということにしましょうか、ファーディル王子。最後の勝負はフィナーレ・パレードでつけることにいたしましょう」
 ヒュープーンの角から奇妙な光線が発射された。その光は真っ直ぐにファーディルを捕らえ、強烈に締め上げる。
「なっ……これは?」
 ファーディルの体が徐々に締め上げられ、やがて体が少しずつ消えていった。
(……そうか、これが夢魔の力……夢を見させる力の正体……!)
 だが、時は既に遅かった。もはやこの力から逃れることは不可能であった。ファーディルは自分の体がどこへいこうとしているのかを理解し、そしてこの暗黒空間での最後の意識を全てヒュープーンに集中させた。
「さあお眠り、ファーディル王子。次に目覚めるときは幸せな現実か、それとも不幸な夢の続きか……それを決めるのは我ではなく、王子だということを忘れないように。ひょーっひょっひょっ!」





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