序章
ここは……どこだ……?
ファーディルはその風景に全く見覚えがなかった。深く暗い森の中。すでに太陽は沈み、辺りは一面の闇と化している。ホーホー、とフクロウの鳴く声が聞こえる。ザアアアアッ、と時折草が風に吹かれている音も聞こえる。それらの音が浮き上がってくっきりと聞こえる程この森の中は今、とても閑かであった。
その森の中を1歩ずつゆっくりと歩いて行く。土はやや湿っており、足音はほとんど聞こえない。音はあるのかもしれないが、少なくとも彼の耳にまで届くほどではない。
それから10歩程進んだ所で歩みを止めた。何となくこれ以上先に進むことがためらわれたのだ。
何だか、雰囲気が気に入らなかった。暗いだとか不気味だとか、そういう雰囲気とは違う、生理的な嫌悪感。1歩進むごとにそれを感じていた。この先に進んではいけない。だが引き返すこともできない。ただその場にじっとしていることだけが確実な行動だと、思えてならない。
しかしここがどこかも分からないのなら、このままじっとしているわけにもいかないことは確かだ。もっとも本来ならば夜が明けて日が昇ってから動くのが正しい選択であろう。だが今の彼には、この生理的嫌悪感を感じながらも、前へ向かって進まずにはいられない激しい衝動に駆られていた。
仕方なく、再び歩きはじめた。だが、自分は一体何故、どうして、このような場所にいるのだろう。そもそもここは何処なのか、それすらも分からない。今が何時なのか、それもまた分からない。
まず自分が何者なのか、基本的な所から思い起こそうとした。
自分はファーディル=アルマ=ゼルヴァータ=リオス。ゼルヴァータ王国の第2王子である。年齢は19歳。金髪で、碧眼。肌の色は白(国王家は典型的な白人種族である)。自分は今、ゼルヴァータの国祭の準備で毎日を忙しく過ごしていたはずだ。
だいたいの記憶は戻ってきた。あとは最初の問題を解くだけだ。
ここは一体、どこなのだろう。
森といってすぐに思い浮かぶのは、城の南側に広範囲に繁っている樹海である。城からあまり離れていない森といえばここしかない。十中八九、ここに間違いないだろう。だとするとここから北の方へ向かって歩けば城に着くはずだ。
しかし、自分は城に戻るべきなのだろうか。自分が何故城を出てこの樹海に入り込んだのか我ながら理解に苦しむ。少なくともこの樹海に用があるなどということは、今まで生きてきて1度もなかったはずだ。そう、1度も。
すぐ側に生えている木に付着している苔を調べてみる。自分が進んでいる方角を確認するためだ。
確認して、目を細めた。8割の驚愕と、2割の納得とが、同時に心の中に浮き上がってくる。
自分が衝動に駆られ進みたがっている方向、それは城がある方向とは反対の南側であった。
自分は一体何を考えているのだ?
自分は一体何故こっちに進みたがっているのだ?
まるで理解ができなかった。だがそれでも前へとまた進み始めた。この先に何かがあるのだ。自分の直感がそう告げている。
そしてその直感は全く外れていなかった。はっ、とそれに気がついて顔を上げる。30歩ほども先にぼんやりと浮かび上がる人影。その影は、おそらくファーディルが自分に気がついたのを察したのだろう、同じようにゆっくりと前に進み出てきた。そして彼のすぐ目の前まできて、歩みを止めた。
「グレース……」
深い闇の中に薄水色の瞳と紺色の髪が浮き上がった。鎧までは着ていないようだが、腰の長剣はいつも通りであった。だが彼女の雰囲気だけはいつもとは完全に異なっていた。
「ファーディル殿下」
殺気、であった。ファーディルはグレースの殺気に完全に圧迫されていた。何故かは分からない。だが間違いはない。グレースは、自分を、殺そうとしている。
「グレース、僕を……殺すつもりなのか?」
その問いに対し、グレースは静かに腰の長剣を抜く。その動作が答であった。
「待ってグレース、どうして僕を殺そうとしてるんだい?」
全く納得がいかなかった。それはそうだろう。突然自分の部下、しかも最も信頼のあついグレースから何のいわれもなく剣を突きつけられるなど、現実に起こりうる出来事であるはずがない。だがグレースはその問いに、ため息をもって返してきた。
「おとぼけに、なられるのですか。ファーディル様」
グレースは瞳に決意をみなぎらせると、素早く剣を振りかぶる。
「グレースッ!」
上からの強烈な攻撃を後ろに飛びすさってかわした。動悸と心拍数が一気に跳ね上がったのが、はっきりと分かった。心臓がばくばくと動き、血液は全力で体内を巡る。手足は震えだし、喉の中が瞬時に渇きを覚える。
「どうして……どうしてだい、グレース」
ファーディルの声は震えていたが、グレースはそれを全く無視するかのように、剣を真っ直ぐ中断に構えた。殺気が再びほとばしり、その殺気に右足を1歩引く。
グレースは、本気だ。
「天国へ、おいきなさい殿下」
そう言った後、森の中にフッと笑う音が響きわたった。
「いいえ……天国ではなく、地獄、でしたね。あなたは罪人なのですから」
グレースの瞳が、鋭くファーディルを睨みつけた。ファーディルはごくりと息を呑み込み、とにかくグレースを落ち着かせなければならない、と頭が回転を始めた。
「待て、グレース。君は何か誤解している。僕は誓って何も……」
「命乞い、ですかファーディル様。最後くらいは堂々となさればよろしいものを……」
だが、グレースは釈明を全く聞かずに動きだした。
ゼルヴァータ王国でも比類する者はいない、とまで言われた素早い踏み込みで、喉元を突いてくる。だが当然彼もただ黙ってやられるわけにはいかない。ここで死んでは自分にかかっている何らかの容疑をはらすことができないし、何より死にたくない。必死になってその剣をかわした。だがすぐにグレースの2撃目、3撃目が襲いかかってくる。ファーディルは体術でなんとかかわすが、それでも右腕と左脇腹に裂傷が生じる。だが恐怖と焦燥感からだろうか、不思議と痛みは感じなかった。
「グレース! 待ってくれ!」
だが、止めようとする意思はまるでないようであった。ファーディルはやむなくグレースの次の行動に集中した。
「?」
だが次のグレースの行動は理解できないものだった。突然、しゃがみこんだのである。
「!」
気付いたときには遅かった。グレースの絶妙な足払いに、ファーディルは受け身も取れずに仰向けに倒れてしまった。
「死ねっ!」
グレースが長剣を逆手に持って、自分に突き下ろしてくるのを、全く抵抗できないと悟り、ぐっと目を閉じた。そして、殺される、と思ったその瞬間、自分でも思ってもいないほどの大きな声で叫んでいた。
「グレースッ!!」
ファーディルはかっと目を見開いた。
ふかふかのベッド。あたたかい日差し。唯一汗だくになっている点をのぞけば、いつも通りの朝だった。かなり昼に近い時間ではあるが。
両手で顔をおさえた。汗ですっかり冷え切ってしまっている。
何が何だか理解できなかった。が、徐々に頭の中を整理していき、ようやく状況を把握すると、ふうー、と長い息を吐いた。
夢、か……。
なんとか気持ちが落ち着くと身を起こし、ゆっくりとベッドから下りた。そして窓の方に歩いていき、カーテンを勢いよく開ける。同時に射し込んでくる陽光の眩しさに目を細めた。雲の1つも見当たらない、とても澄んだ空であった。静かに落ち着いた時間がしばし流れた。
「ファーディル様! いかがなさいました!」
が、その時間はすぐにその澄んだ空へと吸い込まれていった。バタンッ、と扉が大きな音を立てて開き、その向こうから薄水色の瞳と紺色の髪を備えた美しい女騎士が息をきらせて飛び込んできた。
「おはようグレース。いい朝だね」
ファーディルは自分のために全力で駆けつけてくれた女騎士に最高の微笑みで出迎えた。だがそれとはうらはらに、グレースはその様子を見定めると、あきれたように、そしてまた少しだけ安心したように、ため息をついた。
「朝ではありません。もう昼になります。それよりも、それを言うためだけに私をお呼びになったのですか」
何と答えたものか、笑みをたやさずにしばし考えから「そうだよ」と答えた。グレースは再び、はあ、と先程よりも大きくため息をついた。何を言っても無駄とあきらめたのかもしれない。
「随分汗をかきましたね。悪い夢でもご覧になりましたか」
グレースはベッドの傍に掛けてあるタオルを手に取ると、近寄って髪を拭き始めた。それが冷や汗であることが、グレースにはすぐに分かったであろう。
「うん。すごく悪い夢を見たよ」
ファーディルはタオルを取り上げ、首筋から顔を拭った。
「君に、殺される夢をね」
それを聞いてグレースは「それはいい夢をご覧になりましたね」と短くため息をついて、水差しからコップに水を注いでファーディルに手渡した。どうやら今の話を本気としては受け取らなかったようだ。ファーディルはそのことに不満を覚えると、コップを受け取りながらむきになって言葉を続けた。
「本当だよ。その剣で君に斬り殺される、いや突き殺されるだったか。とにかく殺される直前で目が覚めたんだ」
言いきってから、ごくり、と水を飲む。からからに乾いていた喉に潤いがもたらされ,生き返ったような心地を味わった。
「なるほど。それで私の名前を叫んだのですか」
グレースもファーディルの性格は熟知している。ファーディルは嘘を好むような人間ではない。それで納得したように呟いたのだろうが、その呟きにはひどく不安を感じる。コップをテーブルに置くと、おそるおそる尋ねてみた。
「……そんなに大声で叫んでた?」
「ええ。かなり」
詳しく説明しないだけに、さらなる不安に苛まれることになった。また、あまり噂にならなければよいが、と。
グレースはファーディルの部下であり、護衛役であった。もともとゼルヴァータで1、2を争うほどの剣の腕前を持ち、貴族出身として識見の高かった彼女は、王子の補佐役・護衛役として常にファーディル王子の傍に寄り添うようにしていた。さらにグレースが美人であることも相まって、どうしても噂が発生してしまうのだ。すなわち、ファーディル王子とグレースが恋仲である、と。身分的には特に問題はないし、いつも2人で行動していれば自然と出てくる噂である。だが実際には当の本人たちは全くそのような感情を互いには持っていなかった。噂が立つことをそれほど気にはしていないのだが、ありもしない噂をいつまでも影で立てられるのは、やはりいい気はしないものだ。それにおそらくはグレースとしても大変迷惑であろう。何故ならグレースには、他に好きな人がいるからだ。
「グレース。今日の予定はどうなっているんだい」
聞きながら衣装箱を開ける。そしてその中に乱雑に寝巻を投げ込む。その動作にグレースは顔をしかめたが、つとめて冷静な声で答えた。
「今日は2時から国王陛下と国祭の最終確認を行います。その後は特に何もありません」
ファーディルは着替えを手に取って「国祭かあ」と人ごとのように呟いた。だが現実としては全く人ごとではなかったのだ。
毎年行われるゼルヴァータ王国祭の準備は、国祭が終了したその時から1年をかけて行われる。約8ヵ月かけて計画を練る。そして特に忙しくなるのは国祭の4ヵ月前からになる。つまりその時期になるといよいよ本格的に国祭の準備にとりかかるのだ。
だがそれがだいたい終了して残り1、2週間となると、ファーディルのような国祭最高責任者にはほとんど実際的な仕事はまわってこなくなる。もちろん何もないというわけではない。それどころか普通の役人よりはるかに忙しいであろう。だがそれまでに比べれば申し訳程度の量でしかない。
つまるところ、今のファーディルは暇なのである。人ごとのように呟くのも無理からぬことであった。
「うーん、それじゃあ父上に会う前に朝御飯食べるから、ここに持ってきておいてくれるかな、グレース。僕はその間に汗を流してくるから」
「その命令には従いかねます」
ファーディルは「?」と面食らった顔をした。何か気に障ることでも言ったのだろうか。だが次にグレースの口から飛び出てきた言葉はそのような不安とは全く無関係なものであった。
「もう昼になります。朝御飯を持ってくることはできません」
言ってニコリと微笑むグレースと対照的に、ファーディルは顔をひきつらせ、がっくりとうなだれた。
「……昼御飯をお願いします」
「了解しました、殿下」
グレースはクスクスと笑いながら部屋を出ていった。
予兆
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