「兄さん、聞きたいことがあります」
 それを予期していたのか、タルシュシュ兄さんはグラスを傾けながら私の方を見る。
「ああ──あの子のことだろう」
「織姫さんは、一度魅入られています。兄さんが、魅入ったのですね」
「その通りだ」
 自分の視線には、非難の色が混じっていたのかもしれない。
 でも、私はこの憤りを抑えることができそうになかった。
「何故……」
「それが必要だったからだ」
「何のためにですか」
「我々と人間の、絶対的な境目を調べるために」
 私は言葉に詰まった。
 兄さんが人間を研究していることは知っている。その理由は、おそらくは知的好奇心。
 形而上学でいう『我々はどこから来たのか、どこへ行くのか』という命題を解くことを至上の命題としている。
 そのために、人間に魅入ることも必要だったということなのだろうか。
「ベレト。お前は、お前の思うとおりにやりなさい」
「兄さん」
「私も、私の思うとおりにやる」
 それは、拒絶。
 たとえ弟の私であっても立ち入ることを許さない、結界。







クレセントノイズ、外伝



ベレト、学校へ行く





第四翼

『時として、負の感情を付け狙われることになっても?』







 翌日。私は登校途中で羽崎さんと出会った。
 軽くお話をしながらの登校。でも、あまり会話がはずんだというわけではなかった。
 もともと、あまり羽崎さんは話したがらない、内向的な性格だ。
 高野さんや五十嵐さんから話し掛けられればいくらでも対応できるのだけれど、自分から話すのは苦手なのだ。
 その原因が、あまりにも『聞こえすぎる』ことだというから、私たちのような力はやはりどこか呪われているのかもしれない。
「そういえば、部活はどこにするか決めたんですか?」
 だから、羽崎さんがそう尋ねてきたのは、けっこう勇気のいることだったのだと分かる。
「いえ、まだです。新聞部も天文部も面白かったです」
「うん、澤田さんも後藤先輩もいい人だから。でも、後藤先輩たちはもうすぐ卒業ですね」
「はい。残念です」
 後藤さんとはいろいろと話をしたかった。
 星に対する情熱。一途な想い。あの感情の傍にいられるだけで、人間の素晴らしさが伝わってくる。
「新聞部だと、いろいろなところに取材にいって、いろいろな人と話ができるからいいかもしれないですね」
「はい。私もそう考えていました」
「でも、新聞部に入るつもりはないんですか?」
「そんなことはないですよ。ただ、まだ決めていないだけです」
 穏やかな朝の登校風景。
 隣を歩く友人。
 流れゆく風。
 喧騒と、暖かな日差し。
(私の求めていた、学校生活……)
 それは確かに、ある意味では嬉しいことに他ならなかった。この機会を与えてくれた高野さんには心から感謝している。
 だが、それと同時に。
(どうして、人間は自分をおとしめるのだろう──?)
 高野さんが言っていた『呆れ返る』とはこのことだったのだろうか?
「あ、如月くん」
 後ろから声がかかって、羽崎さんと一緒に振り返る。
 そこには、もう既に見慣れた顔があった。
「高宮さん。おはようございます」
「おはようございます。えーと……」
 高宮さんは隣にいる羽崎さんを見て言葉を詰まらせていた。
「こちらは、2年の羽崎拓さんです。入院中にお世話になった方なんです」
「はじめまして。私は如月くんのクラスメイトの、高宮由梨絵です」
「こちらこそはじめまして。羽崎拓です」
 どちらかというと、羽崎さんの方が戸惑っているような様子だった。高宮さんはそれほど人見知りするというわけではないのか、それほど萎縮している様子はない。
「そうだ、如月くん。今日、放課後和室に来てくれませんか?」
 三人で並んで登校しはじめると、高宮さんがそのように誘った。
「和室にですか?」
「はい。如月くんに、花を活けているところを見てもらいたくて」
「私に。何故?」
「お花に興味がありそうでしたから。違いましたか?」
 確かに、この間の取材のときは高宮さんが花を活けているところをじっと見詰めていた。
 でもそれは、花を見ていたわけではない。一つの作業に没頭する高宮さんを見ていたのだ。
 花を愛する高宮さんの心の音色は、とても澄んでいて心地よかった。
 それをどうやら、高宮さんは勘違いしてしまったようだ。
「でも、私なんかが行ってお邪魔ではないでしょうか」
「そんなことありませんよ。見学はいつでもオーケーですから。それに、今日のはちょっと、如月くんに見てもらいたいんです」
「どうしてですか?」
「来れば、分かります」
 さすがにこういう言われ方をすると、好奇心もわいてくる。ちらり、と羽崎さんの方を見ると、優しく微笑んで頷いてくれた。
「分かりました。では、放課後に」
「よかった。もし断られたらどうしようかと思いました」
「私が行かないと、困るのですか」
「ちょっとだけ。でも、勘違いしないでくださいね。別に如月くんを強引に入部させようとかいうわけじゃないですから」
 苦笑した。さすがに、お花をやる男性はいないと配慮してのことなのだろう。
 こうしていろいろと誘ってくれるのは正直嬉しい。
 後藤先輩や澤田先輩、高宮さんのように、一途に何かを追いかけている人たちの傍にいるのは心地よい。
 だから、高宮さんと一緒にいられるのは私にとっても嬉しいことだった。







 そして、放課後。
 私は約束どおり、和室へと向かった。今日もそこでは華道部が活動しているはずだった。
 でも、行ってみるとまだ誰も来ていないようだった。高宮さんの姿も見えない。
「早く来すぎましたね」
 することもなく、とりあえず座る。
 ふう、と一息つく。
(……学校、という箱庭)
 ここで三日過ごしてみて、確かに高野さんの言うとおり、人間はすばらしいところばかりというわけではないことが分かってきた。
 人間というものはとても不思議だ。
 死せる魂を死せる器の中に閉じ込め、限りある命の中でせいいっぱいに輝こうとしている。
 その輝きはときとして、自分や他人を傷つける『負の感情』に変わることもある。
「不思議、です」
 欲望に忠実に生きているわけでもない。
 だからといって、理性だけで生きているわけでもない。
 悪くいえば、中途半端だ。
 でも、よくいえば──均衡が取れている、のかもしれない。
 少なくとも、自分の行動理念だけで動くラビリンスの住人とはまるで違う。
「人間と私たちは、共存することができるのだろうか……」
 それは、ささやかな疑惑の種。
 だが、この種は成長が──おそらく、早い。
「如月くん」
 扉が開いて、一人の女性が入ってくる。制服は着ていない。スーツ姿だ。
「観月先生」
 両手にいっぱいの花をかかえて、観月先生は和室に入ってきた。
「どうしたの、今日は。また取材?」
「いえ。今日は高宮さんに呼ばれて」
「高宮さんに?」
 観月先生は驚いた様子で私を見つめてくる。
「何か、不都合でしたか?」
「いえ、そういうわけじゃないけど。ただ今日は、とても大事な日だったから」
「大事な?」
「コンクールに出す花を活ける日なのよ、今日は」
「コンクール?」
 さすがに私も驚く。そんな大事な日に私を呼ぶ意味が分からない。
「じゃあ、私は邪魔ですね」
「いいえ、高宮さんがいいというのなら、問題ないわ。今日作品を活けるのは高宮さんだけだから」
「そうなんですか」
「きっと、如月くんに見ていてほしかったのね。惚れられたかな?」
「惚れる? 私に?」
 そんなことはありえない。私に向けられる高宮さんの意識は好意には違いないが、恋愛とは別のものだ。
「お待たせしました」
 そこへ、話題の主が到着した。
 高宮さんは着物姿に着替えてきていた。来るのが遅れたのはそのせいなのだろう。
「あ、如月くん。来てくれたんですね」
「約束しましたから。着物、似合っていますね」
 そう言うと、高宮さんは顔を赤らめて「ありがとう」と答えた。
「さて、それじゃあ始めましょうか」
 観月先生が道具と花を用意して並べる。その前に高宮さんが座った。
「あの、私はどうしていればいいんですか?」
「如月くんは、横で見ていてくれればいいわ」
 観月先生がやさしく微笑む。分かりました、と答えて高宮さんから少し離れて座った。
 そして、高宮さんの手が動き始めた。
 一本ずつ、花を丁寧にしらべて、鋏で茎の長さを揃えていく。
 切り口は少し斜めになっている。その方が植物の水揚げ量が増すからだ。とはいえ、あまりに斜めすぎると剣山に留めるときに不安定になってしまう。
 角度を考えるのも、鋏を使うときのポイントだ。
 剣山に留めるときは、まず一回しっかりと差し込んでから傾けていく。時には何本か、まとめて刺すこともある。
 そうして何十分かたったころ、作品は完成に近づいていた。
(やっぱり、高宮さんはすごい)
 これだけ長い時間集中が乱れないということ。さらに、その生け花の美しさ。才能、としか言いようがない。誰の目から見ても、この作品が人の目をひく『力』を持っていることは明らかだった。
(綺麗だ)
 花が。
 そして、高宮さんが。
(とても、綺麗だ……)
 花の色と心の音色が綺麗なハーモニーを奏でている。
 こんなに澄んだ音色は、久しぶりに聞く──
(!?)
 その音色を妨げるかのように、入り込んできた『負の感情』。
(観月先生?)
 気がついたときには、観月先生の顔色がすっかり変わっていた。
 一昨日も感じた負の感情が、今日はいっそう明らかになっていた。
(嫉妬)
 その感情はよく知っているものだった。大なり小なり、人間の世界にはびこっている感情。学校で数日暮らしていただけでもはっきりと分かるくらいに、その感情は何度も気づかされていた。
 だが、これはとびきりだ。
 今までにないほどの感情の渦。もし、これほどの『負の感情』を纏司に魅入られたら──





 ウラメシイ
 ドウシテ、コノコバカリ
 ワタシニハ、サイノウナンテナイノニ
 ニクラシイ
 ニクラシイ
 イッソ、コノハナヲ──





(来訪音!)
 窓の外を見る。天には、まだ昼間だというのにほのかに白く月が見えている。
「観月先生、それ以上考えてはいけません!」
 私が叫ぶのと同時に、観月先生の体が宙に浮いた。
「な、なに!?」
 高宮さんが驚いて立ち上がる。私は高宮さんを背にかばうようにして、観月先生に向き合った。
「下級纏司」
 観月先生の背後から、一人の男が現れた。
「これはこれは、ベレト様」
 男は恭しく一礼した。
「私は第七位纏司、ローファというもの。以後お見知りおきを」
「……何故、ここに?」
「決まっているでしょう」
 男の指が、観月先生の髪を弄った。
「人間の負のエネルギーを吸い取るために、ですよ」




to be continued...











第五翼

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