「き、如月くん」
私の後ろで、高宮さんが、ぎゅっと服の裾を握り締めている。この異常な事態にパニックに陥らないでくれるだけでも、助かる。
それどころか、彼女の心の旋律は事態を冷静に見極めようと、非常に前向きなものになっている。高潔な心の持ち主。こんなときだというのに、素晴らしい、と思う。
「大丈夫です」
私は後ろを振り返って、高宮さんに笑いかけた。
「すぐに、すみますから」
とはいえ、後ろに高宮さん、そして観月先生まで危険にさらしている状態でどこまで戦えるか。
力を解放してしまえばわけなく倒せる。だが、それに観月先生を巻き込むわけにはいかない。
「ローファ、一つ聞きたい」
「なんでしょうか」
下品そうな男が、下品に笑った。
「あなたは何のために来訪したのですか?」
「何度も言わせないでくださいよ、人間の負のエネルギーを吸い取るためですよ」
「そんなことをして、何になるというのですか?」
そう。
私に理解ができないのは、そのことだ。
ラビリンスの住人は人間の負のエネルギーを吸い取るために人間界へ来訪していく。
それをして、何になるというのだ?
「決まっています」
そして、誰もが私には理解できない答を言うのだ。
「退屈、だからですよ」
クレセントノイズ、外伝
ベレト、学校へ行く
第五翼
『お互いに……争わずにすむ道を見出したいのです』
ローファの『風』が私たちに襲いかかる。畳と花をめちゃくちゃにしたが、私たちには傷一つ負わせてはいない。
高宮さんが、いっそう力強く服を握りしめた。
「ここでひくならば、今回のことは大目にみましょう」
私は気迫のこもった瞳で睨みつける。
「さもなくば……容赦、しませんよ」
「そいつはいいですね。本気のあなたを倒せば、ラビリンスでの私の階級は1つ繰り上がるかもしれない」
「愚かな」
そんなことで簡単に階級があがるのなら、過去に幾人も昇級者が生まれているだろう。
彼は何も分かっていない。それは下級纏司ならば仕方のないことなのかもしれない。あのニスロクですら、真実の一欠片も知らないまま眠りについたのだから。
「さあ……どうしますか、ベレト様!」
いっそう、風が強まる。室内は強風のせいですでにぼろぼろになってしまっている。
だが、それでも兄の風にはまるで及ばない。
私がまるで意に介していないようなのを見て、ローファの顔にも驚愕が浮かんでいる。
「……その程度で、私を倒せると思ったのですか」
「くっ」
ようやく、彼は1つの階級の差が、どれほどの力の差となっているのかを理解したようだった。
下級の纏司が上級の纏司を上回ることは絶対にありえない。
そんなごく当たり前のことすら、この纏司は知らなかったのだ。
「あなたにかまっている時間は、ありません」
土の力を、拳に溜める。
「己が愚かさを千年の眠りの中で後悔しなさい」
「ベレト様」
ローファはにやりと笑いながら、観月先生の背後にまわると手を首筋にあてた。
「この私を倒そうというのなら、この人間にも犠牲になってもらいますよ」
私の動きが止まった。
人質をとられることだけが心配だったが、現実のこととなっては対応のしようがない。
「私を脅迫しようと?」
「さすがに私も眠りにつくのは嫌なのでね」
どのみち、ここで自分を殺すようなら兄たちが黙ってはいないだろうに。そんなことも分からないとは、本当に愚かだ。
もちろん、やられるつもりはないが。
私は改めて力を込めなおす。そして、戦闘体勢に入ろうとする。
「まって、如月くん」
ぐっ、と後ろで高宮さんが自分を押し留めた。
「……高宮さん」
「観月先生を危険な目に合わせないで」
この女性は、このような非現実的な状況に置かれてもなお、自分を見失わずに常識を保とうとしている。
「高宮さん」
「私、何が起こっているのか分からないけど、でも、観月先生が危険なのは分かる。お願い、観月先生を助けてあげて」
「もちろんです」
もとより誰も殺すつもりはない。
ただ……無事ですむという保証があるわけでもない。
「観月先生、聞こえますか?」
私は力を全開にして『語り』かけた。
「高宮さんが、それほど憎らしいですか?」
宙に浮いたままの観月先生が、びくん、と撥ねた。
「確かに高宮さんの華は美しい。でも、観月先生も華を活けているときはすごくお美しかったですよ」
「憎らしい……?」
観月先生の口が動く。
「そうよ……私は憎らしい。望んでも望んでも望んでも望んでも手に入らなかった才能、センス。それをこの娘は、いとも簡単に手にしている。どうして、何故、私だって、その才能がほしかったのに!」
後ろで高宮さんが震えた。
「その娘さえいなければ!」
『負の感情』が一気に強まる。自分の力を押し返すほどの強いエネルギー。
このままでは、観月先生は10分ともたずに衰弱してしまう。
「観月先生は、何のためにその才能がほしいのですか?」
「何の、ため──」
「観月先生が華を活けているとき、とても心が澄んでいて、華と先生が美しく見えました。それ以上の何がお望みなのですか?」
「私、は……私は──!」
負の感情が力となって放出される。それを正面から受け止めた。
「くっ!」
あまりにも強い力。間違いなく、ローファが力を増幅させている。
「ベレト様、旗色が悪いようですね」
にやりとローファは笑った。
(このままでは、まずい)
防戦一方ではいずれはやられてしまう。観月先生が人質となっている以上、手のうちようがない。
せめて、催眠さえ解くことができれば。
「観月先生!」
後ろで、高宮さんが叫んだ。
「……そんなに、私が憎いんですか?」
そして次に、静かな声で語りかける。
「私だって、観月先生が羨ましかった。華に語りかけているような先生の活けている姿を羨ましく思ってた」
「うらやま……しい? あなたが?」
「だって私が華道部に入ったのは、先生の活けてる姿を見たからだもの!」
「……」
負のエネルギーが、一気に収束する。
「……観月先生、また、お華を教えてください。私、先生以外の誰にも教わりたくなんてない」
「……高宮さん」
すごい。
高宮さんは、たったの一言で観月先生の催眠を解いてしまっている。
私たち、あるいは高野さんたちと同じような力があるわけではないのに。
そして、完全に観月先生から負の感情が消え去った。
「ばかなっ! 人間ごときが、私の力を上回るだと!?」
「だから、人間は素晴らしいのです」
隙をついて、私はローファの傍まで近づいていた。
「たとえ負の感情に支配されていても、心を通わせることでそれを打ち払うことができる……」
「ああ、う……」
「そんな素晴らしいものを、あなたたちに壊させるわけにはいきません」
私はローファの額に掌を置いた。
「消えなさい」
瞬間、彼の体は無数の羽と化した。
「観月先生!」
完全にローファの呪縛から解かれた観月先生が宙から落ちてくる。それを、高宮さんがしっかりと受け止めた。
「観月先生! 観月先生!」
完全に意識を失っている先生に向かって、高宮さんはひたすら声をかけつづける。
「大丈夫です、ただ意識を失っているだけですから。明日になればいつもどおりに目覚めます」
私は、彼女の肩に優しく手を置いた。
「……如月くん……」
「だから、早く先生を休ませてあげましょう」
その場に観月先生を横たわらせる。多少衰弱はしているものの、命に別状はない。
「ねえ、如月くん……今の人、誰?」
私の目をまっすぐに見て、高宮さんは尋ねてきた。
「……」
「答えられないの?」
「高宮さんを巻き込んでしまって、申し訳ありません」
「……今のは、如月くんのせいなの?」
「それは──」
違う、と言いたい。
たとえ自分がいようといまいと、あの纏司は必ずやってきていただろう。自分が居合わせたのは偶然にすぎない。
でもそれを説明したとして、信じてくれるだろうか? こんな非現実的なことを信じる人はいないだろう。たとえ実際に事件に巻き込まれているのだとしても。
「──すみません」
「説明してくれないの?」
高宮さんの感情が変わった。
不審から、怒りへ。
「高宮さ──」
「ばかっ!」
涙を浮かべて、彼女は心から怒りをあらわにしていた。
「出ていって」
「……」
「出ていって、早く!」
「……申し訳ありません」
私は、言われるがまま和室を出た。
苦い痛みが胸の中に残った。
(……でも、私にどうすることができた?)
何を言っても、無意味な気がした。
仕方のないことだったのかもしれない。所詮自分はラビリンスの住人。人間と仲良くしていこうということ自体に無理があったのだ。
(……帰ろう)
とにかく、今日あったことだけは高野さんたちに伝えておかないと。
まだ、学校のどこかにいるかもしれない。私はとりあえず探してみることにした。
翌日。
傷ついた和室は高野さんの力で全て元通りに復元してもらった。観月先生の記憶は五十嵐さんに操作してもらった。
でも、高宮さんがその場にいたということを、私は伝えなかった。
羽崎さんはそのことを知っていたはずだ。それなのに何も言わなかったということは、私のことを信頼してくれているということだと思う。
……その高宮さんは、学校を休んだ。
「あっ、いたいたベレトくん!」
昼休み。新聞部の澤田さんが私を見つけて駆け寄ってきた。
「澤田先輩、こんにちは」
「こんにちは。ベレトくん、どう? 新聞部に入るかどうか、考えてみてくれた?」
「私が新聞部に……」
「そう。もう即戦力として期待してるんだから。ね、お願い! 前向きに検討してみて!」
正直、今の私にはその誘いを受けることはできなかった。
私の回りにいる人間は、私の戦いに巻き込まれることになるかもしれない。
……この学校にいること自体が、間違ったことだったのかもしれない。
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
「え、どうしても、駄目?」
「私は体も弱いですし、それに、共同で作業するということが不向きだということが分かったんです」
「そっか……」
澤田先輩は寂しそうに答えた。
「ん! じゃ、仕方ないね。でも気が変わったらいつでも来てよね、待ってるから!」
「はい」
「それじゃ、またね!」
来たときと同じように、澤田先輩は駆け去っていった。
(そう、私は……)
誰かと一緒にいるということが許されない。
私は、ラビリンスの住人なのだから。
……でも。
(……高宮さんに、誤解されたままでいるのは、嫌だ)
せめて今までどおり、高宮さんと普通に話せる友達になりたい。
でもそのためには、どうすればいいのか分からない。
真実を伝えることはできない。かといって、記憶を操作してもらうのは嫌だ。都合の悪いことだけもみ消して、いつもどおりの関係を続けるなんていうことはできない。
(どうすればいいんだろう……)
私は、時計を見た。
もうすぐ、五時限目が始まる。
(……)
どうすればいいのかは分からない。
でも、このままでいいはずがない。
(話してみよう)
それが一番だ。
何を言えるのか、何を言わなければいけないのかは分からない。
でも、誠実に正面から話してみようと思う。
高宮さんは、ずっとそうしていたのだから。
(……高宮さんの家に、行ってみよう)
to be continued...
第六翼
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