──怖い。
これほどに、怖れというものを感じたことは今までに一度もなかった。
そして何よりも不可解なことは、何故私が怖れているのかが分からないということ。
自分の正体を打ち明けることが怖いのだろうか?
いや、別に正体を言う必要などない。最悪、五十嵐さんに記憶を操作してもらえばいい。
高宮さんを傷つけてしまうかもしれないことが怖いのだろうか?
……確かに、それはある。真実を知った高宮さんがどうなってしまうのか。私の力では彼女を助けることはできないかもしれない。
でも、それが決定的な理由というわけではない。
『出ていって、早く!』
……まだ、彼女の言葉が鮮明に残っている。
胸が、痛む。
彼女がそう言ったということに、私は胸の痛みを覚えている。
(……そう、か……)
何のことはない。
私はただ単に、彼女に嫌われることが怖いのだ。
既に嫌われているかもしれない相手に会いにいくこと、そのものが怖いのだ。
(……傷つく、から……)
こんな感情を私が持つとは思わなかった。
人間になれたら、とはいつも思っていた。
でも自分が人間になれるとは一度も思ったことはなかった。
『お前だけがそうした感情を持ち合わせない汚れなき存在だ』
兄の言葉が思い出される。
たとえ私が人間になったとしても、人間と同じ感情を持つことはできない。
喜びも。
悲しみも。
怒りも。
安らぎも。
そして、希望も。
(私には、何もない……)
クレセントノイズ、外伝
ベレト、学校へ行く
第六翼
『これが──人と触れ合うぬくもり……』
「ここが、高宮さんの住んでいるマンション……」
曇り空を背景に、その高層マンションがそびえている。
私は意を決して、そのマンションに入ろうとする──が。
(……鍵がかかっている)
入口の扉のところで足止めされてしまった。どうやらセキュリティがしっかりしているらしい。
(……困った)
だが困ってばかりもいられない。まずはどうにかして入らないと。
といっても、ここから呼び出しをかけても追い返されるだけだろう。
(屋上……)
中に入るだけなら、それで充分だ。
でもそれだと、高宮さんに余計不信感を与えないだろうか。
(迷ってても始まらないですね)
マンションの裏に回りこみ、充分に人の気配がないことを確認してから浮き上がる。
力を使うときは充分に気をつけている。自分が人と異なる存在であることが判明してしまったら、もうこの街で暮らすことはできない。五十嵐さんに記憶を操作してもらうことはできるが、余計な手をわずらわせたくない。今でさえ迷惑をかけているのに。
屋上に着く。まわりに誰もいないことを確認して、屋内に入る。階段を降りて、エレベーターのボタンに触れる。
ウィン……と音がして、エレベーターが上ってくる。
(……何を話せばいいのだろう)
ずっと迷っていた。
今も迷っている。
自分が高宮さんを傷つけている。自分のような非人間がどうしてこんな場所で安穏としていられるのか。高宮さんは自分を許すつもりはないはずだ。
きっと何を言っても無意味だと思う。
でも、何かを言わなければ気がおさまらない。
(……私は、無意味なことをしているのだろうか)
扉が開く。
中に入って、目的の階のボタンに触れる。
そして、ゆっくりとエレベーターが降下していく。
(人間でないものが、人間のフリをしている)
不気味に思われて、危険なものに思われても仕方がない。
事実、私は危険な存在なのだから。
そして高宮さんを巻き込んでしまったのだから。
(謝りたい)
まずは、謝りたい。
それで嫌われるのなら、それでも仕方がない。
自分がここにいること。人間の暖かさを感じてみたかったというただそれだけのために、自分がここにいること。
それすら許されないのであれば。
(……ラビリンスに、戻ろう)
世の中にどうにもならないことというのはある。それがたとえ我々、ラビリンスの住人であったとしてもだ。
3階。
扉が開く。
一歩踏み出すのに、少し躊躇いがあった。
(──怖い)
拒絶されることが怖い。
自分の存在を否定されることが怖い。
そして、彼女に嫌われてしまうことが、何より怖い。
306号室。
……手が震えている。
インターホンを押すだけのことなのに、ひどく勇気がいる。
私は救われたいと願っているのだろうか?
救われることがないと分かっているから、この先に進みたくないということなのだろうか?
だが、これは避けては通れない試練。
ここで逃げては、人というものに永遠に近づくことはできない。
これは、私がしなければいけない試練なのだ。
勇気を振り絞って、フォンを鳴らす。
声が聞こえてくるまでの数秒間が、ひどく長く感じた。
『……はい?』
高宮、由梨絵さん。
「失礼します。如月、ベレトです」
『……』
フォンの向こうで戸惑っている様子がわかる。
「どうしても謝りたくて来ました」
『……少し、待ってください』
カチャリと音がする。
そして待つこと、1分。
ドアが開いた。
「……こんにちは、如月くん」
私服だった。やはり、病気ではなかったのだ。
「こんにちは、高宮さん」
不思議と、言葉は自然に出た。
最初に何を言えばいいのか、それすら分からなかったのに。
「上がってください。誰もいませんから」
「はい。お邪魔いたします」
言葉に甘えて、中に入る。
中は小奇麗に片付いていた。
小さなテーブルの上にはティーカップが1つ。
水色のカーテンに、同じ色のカーペット。
壁際の戸棚には可愛らしい小物が所狭しと並んでいる。
(一人暮らし……だったのか)
今までそんなことは一度も聞いていなかったから知らないのは当然だ。
だが何故か、悲しい感じがした。
きっと自分がいつも、響さんやラグや五十嵐さんや弥生さんと、一緒にいるからだ。
(私はなんと、恵まれているのだろう……)
その報い、なのかもしれない。
「座ってください」
「あ、はい」
言われるまま、その場に座る。
(……心の声が、聞こえない)
自分に対して、ガードしている。心に壁を築いている。
(それほど、怒らせてしまったのか……)
自分がいるということ。
人間でないものがさも人間であるかのように生活していること。
(……謝ったら、ラビリンスに帰ろう)
新しいティーカップに紅茶が入る。
それが自分の前に差し出される。
無論、それには手をつけずに頭を下げた。
「申し訳ありません」
「……」
「私の不注意で、高宮さんを危険な目にあわせてしまいました。私は、自分のいる場所へ帰ります。もう2度とこのようなことはありません」
「……そんなことを言うために、ここに来たんですか?」
怒り。
ようやく聞こえた高宮さんの感情は、昨日のものと同じものだった。
「……どうしても一言、謝りたかったんです」
「謝って、どうするつもりだったんですか?」
どうする?
(……どうする?)
自分は、何かを考えていたわけではなかった。
ただ謝らなければいけない。そうしなければいけないと強く思っていただけ。
「許してほしかったからでは、ないんですか?」
「許して……」
そう──なのかもしれない。
許してほしかった。
ここにいてもいい存在なのだと言ってほしかった。
だからこそ、拒絶される可能性が高いにもかかわらずここへ来たのではなかったのか。
「そう……です」
「私は、許せない」
魂が凍りつく。
まさに、死刑宣告を受けたと同じ衝撃。
「だって、如月くんは私に何も説明してくれない」
「説明……」
「何も教えてくれないのに信じることなんてできません」
勘違いをしていた。
そのことに、気づいた。
「……高宮さんは、私が恐ろしくはないのですか」
「どうしてですか?」
「だって、私は……」
「如月くんは私を守ってくれました」
高宮さんは悲しげに言う。
「それで充分だと、思います」
「充分……」
「如月くんが私を傷つけるつもりがないことくらい分かります。恐ろしくなんて、ありません」
「私はあんな、人間とはいえないような力を使って──いえ、そうではありません」
それを言うことは躊躇われた。
でも、言わなければならない。
それを、高宮さんは求めているのだから。
「私は人間ではないというのに?」
言ってしまった。
絶対に、誰にも言いたくなかったことを。
一番、知られたくない相手に。
「……そうですか」
高宮さんはティーカップをゆっくりと口へと運ぶ。
一口だけ飲んで、また元に戻した。
「如月くんは、人間が好きですか?」
突然、突拍子もない質問が来た。
戸惑ったが、はっきりと、力強く答えた。
「はい。私は人間のことをもっとたくさん知りたい。そのために、ここに来たんです」
「私も、如月くんが好きです」
高宮さんは微笑んだ。
「……それで、充分ではありませんか?」
「……充分?」
先ほどから何を言われているのか分からない。
「つまり、如月くんが人間でなかったとしても、不思議な力を使えるとしても、関係ないということです」
「関係ない……」
「如月くんは如月くんです。そして、昨日は私を守ってくれました。それで私には充分だったんです。ただ……如月くんは、私に何も説明してくれなかった」
「……」
「正体を明かして嫌われるのを怖れたからですか?」
「……はい」
「そう……ですか」
高宮さんは目を細めた。
「私は、如月くんに説明してほしかった。危険な目にあったっていい。ただ、如月くんに信頼されていないのが、苦しかった」
「そんな」
「そういうことでしょう? だって、真実を知られたら私に嫌われると思っていたなら、それは信頼されていないのと同じです」
返す言葉がなかった。
確かに言われるとそのとおりだ。
「……でも、如月くんの立場を考えると、それも分かります」
高宮さんはまっすぐに自分を見つめてくる。
「……一度だけ、聞きます」
「はい」
「如月くんは、本当に人間ではないのですか?」
どうすれば納得してもらえるだろうか、と頭の中で考える。
(……仕方ないか)
学生鞄の中から、シャープペンシルを取り出す。
それを。
「見ていてください」
勢いよく、自分の手の甲に突き刺した。
「如月くんっ!」
高宮さんは慌てて立ち上がる。私はゆっくりとシャープペンシルを引き抜いた。
そこには。
「血が、流れないでしょう?」
そこにあるものは、穴。
無数の羽が詰まっている穴。
「私は、血を流すことのない、冷たい、人でないものです」
「つめ、たい……」
高宮さんは、おそるおそる私の手に触れてくる。
「……痛くは、ないんですか」
「痛いです」
「それなのにどうして」
「高宮さんに、説明したかったからです。私は人間ではないのだと」
高宮さんの瞳が、潤んだ。
触れ合う互いの手に視線が落ち、そして、涙を流した。
「……如月くんは、馬鹿です」
「はい」
「……馬鹿です」
「……はい」
高宮さんはゆっくりと私の手を自分の頬に当てる。
温かい。
これが、人の温もり。
冷たい私の体に、人の温もりが伝わってくる。
「好きです」
高宮さんが、言った。
「私、如月くんが好きです」
to be continued...
第七翼
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