愛する、とはどういう感情だろう。
 私はそういう感情を全く持ち合わせていない。私の中にある感情は、ただ人間へのつきせぬ好奇心。
 私が人間を好んでいるのは、その豊かな感情ゆえ。
 自分が持ち合わせていない感情を、数多くその体内に持ち合わせているがゆえ。
 何かに一途な人は、みな美しい輝きを放っている。
 綺麗な心の旋律を持っている。
 だから、私は高宮さんが好きだ。
 でもそれは、高宮さんが私に抱いている感情とは違う。
 恋愛、という感情を私は抱くことができないのだから。
 胸が痛む。
 高宮さんの好意にこたえることができない自分。
 恋愛という感情を抱くことができない自分。
 どうして自分は人間ではないのだろうか?
 もしも人間に生まれることができたら──などと、いったい何度考えただろうか?
 かなわぬ願いだということは分かっている。
 ただ、もしも自分が人間だったなら、人間と同じような感情をきっと抱くことができたはずだ。
 ──苦しい。
 どうして自分は、人間に生まれてこなかったのだろう?

『そう──確かにしがらみは多いでしょう。
 ですが、何でもないことで笑いあい、他愛もないことに心を惑わす。
 どんなに平凡でも、自分の感情に素直に笑い、泣き、戸惑う』







クレセントノイズ、外伝



ベレト、学校へ行く





第七翼

『それはきっと……素敵なことだと思いますよ』







 学校を欠席した。
 昨日の高宮さんと同じだ。私は、高宮さんに会う勇気を持つことができなかった。
 高宮さんがあのような感情を抱いているということに、私は全く気がつかなかった。
 気がついていても、よかったはずなのに。
(……高宮さんに自分の正体を隠そうとしていて、彼女の感情にまで気が回らなかった)
 そう言ってしまえばそれまでだ。
 でも、充分に注意していなければいけなかった。
 特定の他人から、自分に興味を持たれることがあってはならない。
 自分はラビリンスの住人なのだから。
(青い、空)
 なんとはなく、物悲しくなる空。
(少し、外に出てみようか……)






 動揺して、立ち上がる。そのまま、窓へと駆け寄る。
『如月くん!』
 その声に、びくん、と反応して立ち止まる。
『……迷惑、でしたか?』
 そんなことはない。
 この上もなく、光栄なことだ。
『私は……』
 その気持ちにこたえることはできない。
 なぜなら、私は。
『人間では、ありませんから……』
『私は、気にしません』
『駄目です』
 震える手で、窓を開いた。
『私には……』
 そのまま、窓から飛び降りる。
『如月くん!』
 後ろから声が聞こえるが、かまわずに、逃げる。
 私は、逃げ出したのだ。






(私の手に、ぬくもりが残っている……)
 公園のベンチに座って、重ねられた左手を見つめる。
(私の心はぬくもりを求めている。でも、それを人間に求めることは許されない)
 ラビリンスの住人である我々が、人間と深く関わることはできない。
 仮にできたとしても、それは悲劇しか生むことはない。
「私はただ、人間の傍にいることができればそれでよかったのに……」
 背もたれに体を預け、空を見上げる。
 ほのかに、銀色の月が浮かんでいるのが見えた。
(ラビリンス……)
 冷たい、何もない世界。
 あの中で、自分はただ人間の温かさだけを考えて生きていた。
 そして今、その温かさを感じ、人間の傍にいる。
 以前からずっと自分の中にあった感情は強まるばかりだ。
(人間に、なりたい……)
 力など、なくていい。
 純粋に、一途に、何かを追い求めることができる人間。
 それに、なりたい。
「あ、あの……」
 突然声がかけられる。全く気配に気づかなかったため、私はびくっとして声の主を確認する。
「羽崎さん」
 驚いたが、羽崎さんなら頷ける。玲微名の一族であれば、私の耳に心の旋律が届かないのは当たり前のことだ。
「こんなところにいたんですね」
 おずおずと周りを見てから、羽崎さんは私の隣に腰をおろした。
「私を探してくださったのですか?」
「はい。ベレトさんが欠席だと聞いて、でも家に誰もいなかったから」
「……ありがとう」
 病気すらかかることのない私を心配してくれている。
 優しい、優しい心の持ち主。
(高野さんやみなさんが羽崎さんのことを好きになるのが、分かる気がします)
 どこまでも純粋で素直で、そして優しく強い心の持ち主。
「今日欠席したのは、高宮さんのことで、ですか」
 あらかじめ話してくる内容を決めていたのだろう。はっきりとした声で尋ねてきた。
「ええ」
「高宮さんが、心配していました」
「はい」
「もし……」
 羽崎さんは、ぐっ、と手を握って私の目を見つめてきた。
「僕でよければ、力になります」
 私は少し目をふせて訊き返した。
「何故、私を心配してくださるのですか」
 羽崎さんは少し黙り込んで、首をひねった。
「分かりません。でも、そうした方がいいと思ったから」
「……そうですか」
 純粋に、私を心配している心。
 羽崎さんと会うことができたのは、私が人間界に来た中でも最大の収穫だったと思う。
「ありがとう」
 頭を下げる。羽崎さんが戸惑っているのが分かった。
「……高宮さんは、私に好意を持ってくださっています」
「はい」
「私は、彼女に会う勇気がないんです。高宮さんの好意は嬉しい。ですが、私は同じ感情を高宮さんに返すことはできません。私にはそういう感情を持つことはできませんし、何より人間ではありませんから」
 羽崎さんは、何も答えなかった。
 しばらく、そのまま静かな時が流れていた。
(……そう、私は高宮さんに会えない)
 会えば、お互いに辛くなるだけだ。
 だからといっていつまでも逃げているわけにもいかない。
「……僕は」
 しばらく何も言わなかった羽崎さんが、ようやく言葉を返してきた。
「そういう感情を持ったことがないから、どうすればいいのかということは分かりません。でも、今思ったことを、伝えてもいいですか」
「はい」
「言葉と、ベレトさんの感情が、少しずれていると思います」
 ずれている?
「ベレトさんは、高宮さんのことをどう思っているんですか」
「どう……」
「好きか、嫌いかということです」
 羽崎さんの顔が赤らんでいる。あまり、こういう話題は得意ではないようだ。
「私は、そういう感情を持ち合わせていないのです。それに、私は人間ではありません」
 羽崎さんは真剣な表情で、さらに切り込んできた。
「ベレトさんは、その言葉で自分を誤魔化しているように思います」
「誤魔化す……」
「ベレトさんが感情を持ち合わせていないなんて、誰が決めたんですか?」
 誰が?
 それは、自分にしか分からない。自分は喜怒哀楽、全ての感情を持ち合わせていないのだから。
「だって、ベレトさんはこんなにも人間を好きじゃないですか」
「好き?」
「人間に興味があって、人間の傍にいたかったんですよね。それは好きということだと思います」
「……」
 好意をもっている、というのは確かだ。羽崎さんの言うとおりだ。
 でも、それが恋愛感情となるかどうかは、別の問題ではないだろうか。
「僕は、ベレトさんはまだ恋愛という感情が分かっていないだけなんだと思います」
「分かっていない?」
「だって、向こうでは恋愛ということはないんですよね。だったら、この世界に来て日が浅いベレトさんは、恋愛をしたことがないということですよね」
「はい」
「だから、今、ベレトさんは高宮さんのことをどう思っているのか、しっかり確認しなければ駄目です。そうしないと、お互いに苦しくなりますから」
「私の、気持ち……」
 私が、高宮さんをどう思っているか?
 好意はある。でも、恋愛となるとどうなのかは全く分からない。
「ベレトさんは、高宮さんに嫌われたなら、どう感じますか?」
「嫌われる……」
「はい」
 高宮さんに、嫌われる?
 それはまさに、二日前の、あの出来事のときのこと。
 私は、絶望と同じ感情を抱いた。
 嫌われたくはなかった。
 一番に、嫌われたくなかった。
「苦しい、です」
「じゃあ逆に、好かれていたらどう感じますか」
「嬉しいです」
 羽崎さんは頷いた。
「じゃあ、もしも高宮さんが別の男性と一緒に、仲良く歩いていたら、ベレトさんはどう思いますか?」
 別の、誰かと?
 胸がちくりと痛む。
 でも、私は──
「余計なことは、考えないでください」
 余計なこと?
「今最初に、何を感じましたか」
「最初に……」
 別の誰かと高宮さんが一緒にいる場面を想像して──
「胸が、痛みました」
「それは、嫉妬です」
「しっと……」
「はい」
 羽崎さんは嬉しそうに笑った。
「恋をしているからおこる、感情です」

 恋?
 私が?

「……まさか」
「ベレトさんは、高宮さんのことが好きなんです。一昨日、一緒に登校したときに気づきました」
 一昨日? あのときから、すでに?
「この感情が、恋、だというのですか?」
「はい。はっきりと、分かります」
「そんなに、私ははっきりとしていますか?」
「はい」

 私が、高宮さんを、好き──

「それなら……余計に私は高宮さんに会えない」
「何故ですか?」
「私はラビリンスの住人です。人間と一緒に過ごすことはできません」
「もう、過ごしているじゃないですか」
「そういう問題とは……」
「僕は同じだと思います」
 羽崎さんはベンチから立ち上がると、青い空を見上げた。
「だって、ベレトさんはここにいるから」
 ここに、いる。
「ベレトさんがここにいて、一緒の時間を共有している。そして高宮さんのことを好きになって、高宮さんもベレトさんのことが好きで……それは、すごく素敵なことだと思います」
「そう……でしょうか」
「確かに、あとで苦しむことになるのかもしれない。でも、後のことを考えて何もしないでいるより、今自分ができることを考えた方が、いいと思います」
「今、自分ができること……」
 すると、羽崎さんは振り向いて、小さく舌を出した。
「僕も、響さんに似たようなことを言われたことがあるんです」
 一瞬呆気に取られたが、おかしくなって、くすり、と笑った。
「私を後押ししてくださっているんですね」
 にっこりと笑った羽崎さんの笑顔が、とても美しかった。
 人間はどうして、こんなにも他人のために動くことができるのだろう。
 やはり、私は人間が羨ましい。
「ありがとう」
 おそれていては、いけない。
 未来に怯えて、今の自分を否定してはいけない。
「……高宮さんに、会ってきます」
「がんばってください」
「はい」
 私は、急いで学校へ向かった。
 私の中に芽生えてきている、この感情。
 私の中に生まれるはずのなかった、この感情。
(私も、人を好きになることができる……!)
 この喜びをどう表現すればいいのだろう。
 おさえられない衝動が体の中を駆け抜けていく。
 思わず、涙が零れそうになった。






 ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪

 ベートーベン、ピアノソナタ第14番。
『月光』
 音楽室で一人、青年はピアノを弾く。
「……月が、満ちる」
 タルシュシュは、ピアノを弾く手を止めずに呟く。
「ベレト。急げよ……」




to be continued...











最終翼

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