(……お……俺は……?)
男は朦朧とする意識の中、自らの存在を示そうとするかのように、必死に思考をこらした。これほど苦しい戦いは、過去に経験したことはなかった。それほどに、この感覚は男をひどく苦しめていた。
(……俺は……? ここは……どこ、だ……?)
ぼんやりと、金色の髪を持つ青年の姿が脳裏に浮かぶ。そして、その傍らによりそう女性の姿も。
(……お前……なのか?)
男の意識は、そこで途切れた。
(……セシル……)
PLUS.1
彷徨える旅人
"No Problem?"
──幻獣界。そこは精霊や妖精、そして幻獣たちの住まう地である。
この幻獣界にはかねてから一人の旅人が訪れている。近年、何度も幻獣界と複数ある人間世界との交信が活発になってきているため、幻獣界の時間の流れは人間界のそれと等しくなっている。しかし、そのことは別段幻獣たちを困らせるものではなかった。何故なら、幻獣たちにとって時間という概念は無意味なものであるからだ。
時間の流れが等しくなったのは、この旅人のためである。
存在自体が幻獣界に近いことを示す緑色の髪を持った召喚士の血を引く少女。いや、少女といっては失礼だろう。彼女は十分に魅力的な女性であった。
この幻獣界に住む唯一の人間。そして、幻獣たちにもっとも愛されている人間。
それが彼女、リディアだ。
「すう……すう……」
健やかで規則正しい寝息を立てているのには理由がある。昨夜、強力な召喚獣と三十五時間に及ぶ死闘の末に、ようやくそのマスターとなる契約をすることができたのだ。
それから十二時間、彼女は夢も見ずにただ眠り続けていた。その試練をリディアが行ったことを幻獣たちは誰もが知っていた。特に、彼女に協力した者たちにしてみれば当然のことだ。
氷の女王、シヴァ。
彼女はリディアにとって最も親しい友であり、頼れる仲間であった。人間界においては召喚獣として彼女の力となり、幻獣界においてはパートナーという立場にあった。
普段、表情を変えることのないシヴァは、同じ幻獣の間からも感情の乏しい存在だと思われている。だが決してそうではない。こと、仲間を想う気持ちは幻獣たちの中でも際立って強い。ただそれを表現することが、少し苦手なだけなのだ。
「……リディア……リディア、おきなさい」
静かで冷たい声。だが、優しい声。
そして、文字通り冷たい手が、彼女の身体を揺すった。
「……ん……もう少し……」
まだ大人とは完全に言いがたいのか、それとも単に朝が弱いだけなのか。リディアはようやく寝返りをうってそう呟く。
シヴァは気丈な性格だとか、冷たい女だとか言われるが、決してそうではない。ただ、言葉にすることが苦手なだけなのだ。だから、こうして起こしても寝つづけられると、次の言葉が出てこない。
従って、行動するだけなのである。
ゆさゆさ、ゆさゆさ、ゆさゆさ、ゆさゆさ、ゆさゆさ。
リディアが起きてくれるまでこれを繰り返す。もうこれは日課のようなものであった。
「うう……起きる、起きるよ、シヴァ……」
リディアはゆっくりと身体を起こし、枕もとの手鏡を取った。髪型をチェックするが、寝ている間一度も寝返りをうたなかったのか、ほとんど寝た時と同じ状態だ。我ながら寝相のよさに感服する。
必死にあくびを噛み殺してから、自分を起こしに来てくれた親友の顔を見つめた。
「おはよう、シヴァ……どれくらい寝てた?」
「十二時間」
「……う〜ん、あと三時間くらい寝たかった、けど」
昨日の試練の後だ。よほどのことがない限りはシヴァだってわざわざ自分を起こしにきたりはしないだろう。
「何かあったの?」
リディアの推測は見事に的中していた。
「……アスラ様が呼んでいるわ。すぐに行ってちょうだい」
幻獣界の王妃、アスラ。
リディアのよき理解者であり、この幻獣界に滞在するためにいろいろと便宜をはかってくれた幻獣である。幻獣界の時間の流れを人間界に合わせたのも彼女の尽力あってのことであった。リディアにとってはいくら感謝してもしきれない相手である。
ただ、アスラと会う機会は非常に限られていた。幻獣界に戻ってきてもう二年にもなるが、その間アスラと会ったのは数えるほどしかない。
それだけ、幻獣王の后という地位は多忙であるということだろう。
その王妃が呼んでいるというのだ。半日も寝ているのだから、これ以上寝てはいられないというものである。
「ありがとう、教えてくれて。すぐに行ってみるね」
「リディア」
静かに、シヴァはリディアの瞳を見つめた。彼女の顔は冷たく、表情がまるで感じられないが、それでもずっと親友を続けてきたリディアには分かる。
これは、自分を心配している目だ。
「……気をつけて」
よほどのことが起こっている。それが、シヴァの態度からも明らかだった。
「うん。ありがとう。あ、でも」
リディアはそっと自分の頭に手を重ねた。
「……髪型整えてから」
シヴァはその端整な顔をかすかに綻ばせた。
温かいシャワーを浴び、髪型を整えなおしてから、リディアはアスラの下へと向かった。
幻獣王の家は、幻獣界の中心に位置している。人間界のような二次元空間と異なり、幻獣界は三次元空間になっている。従って、球体の世界の中心へ向かうようなものととらえることができる。
幻獣界は広い。幻獣王が支配するテリトリーは世界のほんの一部にすぎない。そのテリトリーを囲うように壁を築き、外部と遮断するようになっている。
それは、凶悪な幻獣から住民を守るためであった。王が支配する領域の外側には、王ですらかなわないという強さをほこる幻獣が無数に存在する。その幻獣たちから身を守るために、この世界は球状に『閉じられて』いる。
もちろん、世界を広げようとする試みは昔から今も続けられている。昨日リディアが行った『試練』も、この球状世界の外側の幻獣と交信を行ったものである。そして、リディアやシヴァらの力によって、彼もまたリヴァイアサンの統治下に治まることになった。リディアの活躍でようやく世界がまた少し広がったのである。
いったい幻獣界の外側はどれだけ広がっているのか。その先にあるものは何なのか、それをリディアは見てみたいと思っている。だが、自分が生きている間には不可能なことだろう。だから、後に続くものがそれを成すためにも、自分にできることをリディアは続けていた。
リディアがアスラからの呼び出しを受けたのは、そんな折のことであった。
「おはようございます、アスラ様」
三面六臂、というのだろうか。闘神・阿修羅という別の名を持つ彼女が、実は処女の誓いを貫いていることはあまり知られていない。王リヴァイアサンを尻にしいているという噂もないではなかったが、夫婦円満、仲むつまじいところがある。
その彼女も、この幻獣界では人間と同じような姿を取っている。幻獣であれ妖魔であれ、最終的に生物はヒトの形を成すものらしい。王が王らしい格好をしていないので、アスラの方が女王というイメージが強い。
金銀の細工をちりばめた真紅の衣を身にまとい、王冠を頭に載せた姿ながら、それが少しも嫌味にならないだけの気品がある。両手には白い手袋をしているが、唯一肌が出ている顔はその白手袋よりも色が薄いアルビノ。ただ瞳だけが紅く輝いている。
「リディア、そこへ座りなさい」
テーブルの上に一枚の地図が置かれている。そのテーブルの向こうにアスラは座っていた。ここは王が使用する部屋の一つだが、他の幻獣たちとほとんど変わりない簡素なものであった。ここでの王という立場は、上下の位を示すというよりは、一つの秩序体系を生み出すための方便のようなものである。
リディアがそこに座ると、アスラは『世界地図』を目にして言った。
「世界が揺れています」
アスラはそう言い放った。その言葉の重みに、リディアは気がついていた。
世界が揺れている。それはつまり、ある世界の『崩壊』が近づいているということである。それも、一つではない。ある一つの世界を中心として、その周りの世界をも引き込むことになる。
「本来つながることのない世界と世界が密接にからみあっています。それも複数の世界が。リディア、あなたの故郷もそのように世界間で接触しているようです」
「それは、いったいどういう結果を引き起こすことになるのでしょうか」
「簡単に言えば、それらの世界は消滅します」
最悪の結論を提示され、リディアの体内を衝撃がかけぬけていった。そしてその言葉の意味が脳に浸透すると、今度は体が震えはじめてきた。
「何故、そのようなことが」
「分かりません。どうすればこの状況を止めることができるのか、それすらも定かではないのです」
「そんな」
アスラにすら分からないと言われ、リディアは身体を震わせていた。
(そんな、そんなことはイヤ……)
故郷にはリディアの大事な人がいるのだ。エッジ、セシル、ローザ、カイン、そしてたくさんの仲間たち。
「私は、どうすればよいのでしょうか」
拳をぐっと握り締めてリディアは尋ねた。もちろん、そのようなことをただ告げるためだけに自分を呼び出したのではないだろう。アスラはリディアの真剣な瞳を見つめ、そして『世界地図』を広げた。
『世界地図』とは、現存する十六ある世界を三次元空間で模写したものである。もちろん世界間が同一の三次元空間に存在するはずはない。これはあくまで簡易的に表したものにすぎない。
「揺れはじめている世界は全て、ここに集結しようとしています」
「第十六世界フィールディ」
それは、近年混乱を迎え、多くの幻獣がその世界を守るために呼び出された場所であった。
「リディア。あなたはこの世界で『代表者』たちを集めなさい」
「代表者」
「そうです。あなたになら、その代表者の見分け方が分かるはず」
「はい」
「八つの世界から選ばれし八人の代表者。必ず集めるのですよ」
「それが世界を救う鍵になるということですね」
「おそらくは。もはやあなた以外の代表者はこの地に集まっています」
自分が世界に愛されし『代表者』であることは、初めてこの幻獣界に来たときにアスラ直々に告げられていた。そして、代表者としていつか、旅立たなければならないことも、また。
それが、今、この時なのだ。
「リディア、あなたはここへ行きなさい。そして、どうすれば世界たちがこの危機的状況から脱することができるのか、調べるのです」
「はい」
リディアは即答した。当然である。愛する仲間たちを見捨てることなど、リディアにはできはしないのだから。
「では早速いってきます」
リディアは立ち上がり、アスラの間を辞した。
「気をつけて、リディア」
背中に投げかけられた声。リディアは振り返り、力強く頷いた。
「必ず戻ってきます。私は幻獣界の娘ですから」
「それじゃあ、本当にあなたはこの世界の住人ではない、とそう言うわけ?」
緑色の髪をした少女に向かって、リノアはもう一度尋ねてみた。少女は小さく頷いただけで、また黙り込んでしまう。
アルティミシアとの戦いのあと、スコールたちは一人の少女を拾い上げていた。あの戦いからちょうど一週間が過ぎた今日のことである。そしてその少女は不思議なことにこの世界の住人ではない、と主張し、目下のところスコールやリノアたちを悩ませている。
「困ったわねぇ。どうする、スコール?」
キスティスが後ろに控えていたスコールを見返した。すると、スコールはため息をついて、口を開いた。
「とにかく、名前は?」
そういえばまだ確認していなかった。二時間も経つというのに、すっかり誰もそのことを気にすらしていなかった。世界がどうのと言われたので、全員そのことに関心を向けていたようであった。
少女はか細い声で呟いた。
「ティナ」
彼女は、ティナは混乱していた。
崩壊したモブリズの村で子供たちとともに暮らしていた自分。それがある日、目が覚めたら突然見知らぬ場所にいた。何故ここにいるのか、そしてここがどこなのか。何もかもが分からない。
分かっているのはたった一つ、自分が異世界に来ているということだけであった。
「ティナね。あなた、どうして自分がこの世界に来たのかは、分かるの?」
「いいえ」
ティナは明らかに警戒していた。
スコールたちを信頼していないというのではない。ただ、見知らぬ人の間に放り出されるのはあの戦いで何人もの仲間を得た彼女とはいえども未だになれないことであった。自分が人見知りをする性格だということはわかっていたが、それ以上に異世界に来ているということが余計に他人に警戒心を抱かせていたのだ。
「問題は、どうすれば元の世界に戻ることができるか、ということだろう」
スコールは仕方なく口を開いた。
「この世界に来た理由が分からないのなら、帰る方法もまた分からないということだ。だとしたら、ティナさんはその理由が分かるまではこの世界にいなければならない、ということになる」
ティナはスコールを見つめ、はい、と答えた。
目の前の人物は表情こそ固いが、自分のことを心配してくれているというのが伝わってきた。もちろんキスティスやリノアがそうではないというわけではないのだが、この青年が自分には慣れない人助けを必死にしようとしているところが、ティナにとっては好印象だった。
「もし、ティナがこのバラム・ガーデンにいるというのならそれでもかまわない。このガーデンの中は自由に行動してもいい。また、このガーデンを出ていくというのなら、当座の生活費を用意する」
ティナはしばらく考えていたが、やがて答えた。
「まだこの世界のことがよく分かりませんので、しばらくここにいさせていただこうと思います」
スコールを始めとして、ここの人たちがどうやら自分のことを本気で心配してくれているということ、そして見知らぬ世界に放り出されるかもしれないという不安。それらが重なって、ティナはこのガーデンに残ることを選んだ。
「分かった。キスティスがティナの世話をする。こう見えても頼りになるから、何でも聞いてくれ」
「わー、スコールが他人を褒めてる」
リノアがからかうように口を挟むが、スコールに睨まれたので、舌をペロリと出して誤魔化した。
「それから、自己紹介がまだだったな。俺はスコール。一応だがこのバラム・ガーデンのリーダーということになっている。こっちはキスティス。こっちはリノア。それから、このガーデンの中には一つの町くらいの数の人間がいる。別に全員を覚える必要はないが、自分の身の回りにいる人くらいは覚えておいてくれ」
スコールは何だか命令口調になっている自分が気に食わなかった。ティナのように清楚で可憐な美少女を相手にすることが今までなかったからかもしれない。何とか威厳を保とうと無意識で勝手に口調を変えているのだろう。それに気付いてスコールは少し顔をしかめると、その戸惑いがティナに伝わったのか、微笑んで答えた。
(この人、優しくて、頼れる)
ティナは、この世界に来て初めて自分に優しくしてくれた人がスコールでよかった、と思った。
「それじゃあ、俺は忙しいから」
「あ、待ってよスコール」
部屋を出て行こうとしたスコールをリノアが追いかけた。そして、部屋にはティナとキスティスだけが残された。
それを見送ったティナは、突然放り出された寂しさを感じた。おいていかないでほしい、そばにいてほしい。そういう気持ちが急に昂ぶったのである。
「体は、動かせる?」
と、キスティスから尋ねられたのは同時であった、ティナは慌てて「は、はい」と戸惑ったように答える。その姿を見てキスティスは思わず笑ってしまった。
「別に緊張しなくてもいいのよ。多分、同年代なんだし、気軽に話していいわ」
「はい」と結局丁寧な言葉使いを聞いて、しばらくは無理ね、とキスティスは判断した。
「それじゃあこのガーデンを案内してあげるわ。ついてらっしゃい」
キスティスは立ち上がるとティナを誘導した。
そして、男は目覚めた。むせかえる程の花の匂いと、身体中の痛み。一体、自分の身に何が起こったというのだろうか。
「だいじょぶ?」
耳に、女の声が聞こえてくる。その声でようやく男の意識が覚醒する。
そして目を開くとそこに、不思議な緑色の瞳と茶色のおさげ髪をした女性が自分の顔をのぞきこんでいた。
「お花、クッションになったみたい」
女はさらに男に声をかける。男はようやく、自分が花の上に横たわっていることに気がついた。
「運、いいね」
何故運がいいのだろう、と男は考える。
「空から降ってきて、ほとんど怪我がないなんて」
「……空から?」
ようやく、男は口を開いた。すると、女は突然くすくすと笑いだした。
「何がおかしい?」
「だって、前に全く同じシチュエーションがあったから」
男は女の言っていることが全く理解できなかった。
「ね、私のこと、覚えてる?」
初めて会ったのに覚えてるはずもない。男は黙って首を横に振った。
「やっぱりそうだよね。君は、彼じゃないから」
女はにっこりと笑った。
「立てる?」
「ああ」
男はゆっくりと体を起こした。体中が痛んでいるが、特別骨が折れているとかはないようである。
「自己紹介、しても、いいかな?」
男が自分の体のことばかり注意しているようなのを見て、女は下から覗き込むような仕種をした。
「ああ、すまない。俺はカイン」
「カイン、か」
それは『裏切り』を意味する名前。
「いい名前だね」
カインは、少しだけ顔をしかめた。
「私は、エアリス。よろしくね、カイン」
天使のような微笑というのだろうか。全てを許す慈愛の笑みを向けられ、カインは無意識に頷いていた。
2.人のいる世界
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