これを行うには、心得ておかなければならないことがある。
 まず、お前の体に相当な負担がかかる。お前の体も仮死状態となるわけだから、しばらくの間は普段どおりの力を出すことはできないだろう。
 それだけではない。自分の魂が相手に飲み込まれて死ぬ可能性だってある。非常に危険な行為だ。いつでもやろうなどと考えてはならない。原則として行ってはならない行為なのだと心得なさい。
 それから条件がある。肉体と魂の双方が完全に保存されていなければ成功はしない。魂がどうなっているかは還魂を行わないかぎり分からないが、肉体の保存については完全に傷口が塞がっていることが条件だ。
 そして、最後に。
 この還魂で蘇る可能性は限りなく薄いのだ、ということを忘れてはならないよ、リディア。












PLUS.32

還魂の法







salvation






 還魂の法。幻獣界に伝わる秘儀である。ただ、いかなる死者に対しても必ず効果があるというわけではない。もっとも簡単なところでいえば、肉体がばらばらになってしまったものは無理だ。魂を戻しても肉体を動かすことが物理的にできないからだ。
 きわめて同じ意味で、精神が死んでしまっている場合も不可能だ。あまりにも強い衝撃を受けてしまい、生きることを放棄してしまった魂、それは肉体がばらばらになっているのと同じく、魂が粉々になってしまっている。それもまた不可能だ。
 カインの場合は魂は砕けていないが、問題が残っている。
 自分が生きることに罪の意識があり、たとえ生き返られるのだとしてもそうしてはならないのではないか、と考えている可能性がある。
 たとえ還魂の法を用いてカインに接触したとしても、彼がそう考えているのであれば還魂は成功しない。彼の魂が生きるということを強く念じなければこの法は不可能なのだ。
 だが。
 カインの精神世界に入り込んだ時、リディアは愕然とした。
 広大な宇宙空間のように上下前後左右が全く分からない。ひどく不安定で、どこまでも空虚だ。
 そしてここには、正の感情が全く見当たらない。
 友を裏切ったという罪の意識、そして嫉妬、欲望、後悔、憎悪、哀愁……ひどいものだ、これほど病んだ精神状態で、よく鬱にならないものだと思う。
 これだけ負の感情に支配されていながら、行動がきわめて理論的であるというのはどういうことなのだろう。
 本来ならば狂っているはずなのに、狂人となっていてもおかしくないのに。
(普通であることが、既に狂った状態なのかもしれない)
 負の感情に狂うこともできない……それが、彼の罰なのだろうか。あらゆる感情にしばりつけられて、普通であることを強制させられているのかもしれない。だとしたら、少しでもバランスを崩せばその精神はあっけなく崩壊する。そんな危うい位置で今までずっと行動していたのだ。
 いや、崩壊することすら許されず、彼はただ苦しむだけなのだ。
(……こんなことって……)
 まだ、前の世界にいた時はよかったのかもしれない。
 ゼロムスを倒すという目的があったから、全ての負の感情をそれに向けることができていた。だが、ゼロムスがいなくなってしまうと、彼の負の感情を向ける対象は、彼自身になってしまう。少しずつ精神が蝕まれてゆき、こうなったのだとしたら……。
(還魂は、もう無理かもしれない……)
 自分にカインを説得できるなど、到底思えなかった。
 せめてローザかセシルがいてくれたなら、生きる意思を与えてもくれただろうに。
 何故、自分だったのか。
 途中『後悔』の一部がリディアに接触しようとしてきた。
『どうして……』
『どうして、俺は……』
『俺は、あんな……』
『あんな、ことを……』
 それに触れるだけで、自分もまたその感情に引きずられて正気を保っていられなくなる。リディアは触れないように自らの魂を防護した。
 だが、その後悔を見て驚愕に目を見開いた。
 そこに映っていたものは、泣き叫ぶ子供の頃の自分の姿であった。
(……カインさん……)
 あのことを、彼はずっと後悔していたのだ。
 例え国王の命令だからといって。たとえゼロムスに操られていたからといって。
 あの行為は絶対に許されるものではない、と。
 リディアに対しては、どんなことをしても償わなければならない、償いきれるものではないのだ、と。
(私は……もう……)
 あのことを気にしたりはしていない。
 確かにあの日のことは今でも覚えている。でも、ゼロムスに関わって不幸な目にあっているのは自分だけじゃない。
 それに、母親は今でも、自分のすぐ傍にいるから……。
(カインさん)
 この人を。
 こんなに傷つきやすいこの人を、このままにしておくことなどできない。
 必ず戻ってきてもらうのだ。
 そして幸せになってもらうのだ。
(必ず、助ける……)
 リディアは、防護を解いた。すぐに、その『後悔』がリディアの中に押し寄せる。
 負の感情に、リディアは強烈な吐き気を催したが、それを必死にこらえて体内で『後悔』を浄化する。
『俺は……』
『すまない……』
『俺は……』
「大丈夫です」
 リディアは『後悔』に優しく話しかける。
「私は、恨んだりしていません」
 次第に『後悔』が小さくなっていく。
 やがてそれは、リディアの中で消滅した。
(……重い)
 カインの中にある負の感情はこの程度ではない。
 これはまだ、全然軽い方なのだ。
 それなのに、自分を狂わすほどの力を持っている。
(これ以上、浄化するわけにはいかない)
 本来の目的はそんなところにはない。リディアがしなければならないことは他にある。
 カインの魂の『核』に会わなければならないのだから。
 リディアはさらに精神の奥、中核へと向かっていった。
『かわいい虫ケラ』
 不意に、声が響いた。また別の感情が彼女に近づいていた。
 その感情とは、絶望。そして恐怖。悪意。
『お前は、永遠に私のモノ……』
 これは、ゼロムス?
 いや違う。これはなんだろう、ゼロムスに近いけど、ゼロムスじゃない。
『逃がさない。逃がさない。逃がさない。逃がさない。逃がさない。逃がさない』
 こんなモノを、彼は心の中に飼っているというのか。
 これは、彼自身の感情じゃない。何者かが、強引に入り込んで彼を捕らえようとしているのだ。
 そうはさせない。
 リディアは念をこめて、その感情を四散させた。
『逃がさない』
『カインカインカインカインカイン』
『裏切り者、逃がさない、私のモノ』
『逃がさない逃がさない逃がさない』
 だが、1つを散じても、すぐに別の似た感情が近寄ってくる。これでは、いつまでたっても終わらない。
 こんな感情をいくつも植えつけられていて、どうして彼は狂わずにいられるのだろう。
 それほどに強い意思で、この全てを統制しているのだとしたら……彼は、恐るべき魔物だ。人間じゃない。こんなことが人間にできるはずがない。
 とっくに理性が崩壊して欲望のままに動くか、そうでなければ廃人になっているはずだ。それが普通だ。
 このままではいけない。
 少なくとも、この感情たちだけでも消滅させておかなければ、カインはどんどん暗黒へと引きずり込まれていく。
 そうなれば還魂したとしても、時間の問題だ。生きることを放棄するか、全てのものを投げ捨てるか、いずれにしても彼自身のためにならない。
(できるかぎりのことはしないと……)
 再び念をこめ、その感情を消滅させていく。だが、いくら倒してもキリがない。次から次へとあふれてくる。
(はあ、はあ)
 さすがにリディアもそうなると疲労してくる。ただでさえ他人の精神に溶け込んでいるのだ。普段よりもはるかに高度な魔法を使っているため、消耗はいつになく激しい。
『……大丈夫です……』
 その時、声が聞こえてきた。
『大丈夫。こいつらは、あたしが抑えておきますから』
 それは、正の感情であった。安らぎ、という名前の。
(あなたは……)
 知っている女性だった。自分が雇った相手だ。
(イリーナ、さん)
『お久しぶりです、リディアさん』
 これはカインの精神であって、リディア本人ではない。本当ならばカインの意識の中のイリーナであるはずであり、カインは自分とイリーナが知り合いだとは知らないはずだ。ではいったい、何故こういう現象がおこるのか。
(イリーナさん、あなたは……)
『あ、大丈夫です大丈夫です。あたしは死んでませんよ』
(では、いったい?)
『カインさんが危険だっていうから、助けに来たんです。ちょっとある方の助けを借りて、なんですけどね』
(あなたは)
『私の話は後ですってば。とにかく今は、カインさんを助けることが先です』
(そう、ですね)
『とにかく、こいつらは片っ端からあたしがやっつけていきますんで、リディアさんはカインさんの本体の方、お願いします。あたしじゃ手におえないんで、はは』
(……それほどに?)
『さすがカインさんですねー。こんなに歪んだ心ってあるもんなんですね』
 さすがにリディアも苦笑した。それでも希望を捨てずにいられるというのは素晴らしいことだ。
『というわけで、本体はこの奥です』
(分かりました。イリーナさん、また近いうちにお会いしましょう)
『そうですね。まあ……しばらくは無理かもしれませんけど』
 最後に挨拶をかわすと、イリーナの姿は戦乙女の姿となって、影たちを次々と打ち消していった。
(私は……)
 リディアはその隙に本体へと近づく。
 さすがにそこへ近づけば近づくほど、彼のもっとも奥底にしまわれてある負の感情が見えてきていた。
 そして、壁に出会った。
 本体の周りを完全に囲んでいる、それは負の壁であった。
(イリーナさんが手におえないといった理由が、よく分かる)
 リディアはそれをじっくりと観察した。もっとも、観察しなくてもその感情が何かということはよく分かっている。
 それは、嫉妬。そして、絶望。
 ローザを手に入れることができないことへの絶望と、ローザと共にいるセシルへの嫉妬。それによってカインの本体が囲まれてしまっていた。
(どうやって……)
 近づいてみる。すると、その壁から暗闇の手が伸びて、リディアを捕らえようとした。
(!)
 慌てて距離を置くリディア。一定距離に達したところで、その手は溶けて消えた。
(……近づくと攻撃するシステム……)
 無差別に、遠慮なく。
 これでは近づくことすらできない。本体に話しかけることは遠い先だ。
(……どうしよう……)
 悩んでも答が出るものではない。方法は2つしかない。
 この感情から回避、防護しながらカインに近づく。
 この感情を消滅させて、カインに近づく。
 これだけの感情を消滅させることは不可能だ。これはもはやカインの根幹を成している。下手に消滅させては、彼が生きていく土台を奪うようなものだ。そうなれば還魂は不成功に終わるだろう。
(だからといって……)
 これだけの感情から自分を守りきる自信はない。リディアも自分の力がどれほどのものかということは知っている。
(なら、小細工をするしかないわけだけど……)
 この感情は確かに巨大だ。だが、カインの本当の感情というわけではない。
 これは、故意に巨大化させられ、彼の心を捕らえようとする何者かの意思が働いている。それを打ち消すことができれば、この感情はなくならなくてもある程度弱めることができるはずだ。
(どうやって……)






33.負の感情

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