燃えている。
天が赤く染まり、大地に朱の輝きを落としている。
炎は全てを飲み込んでいく。
自分だけが取り残される。
ああ……
この世界はなんと、醜いのだろう。
ローゼンバーグ『炎の街』
PLUS.33
負の感情
despair & envy
問題はそこだ。理屈は分かっていても、いかなる存在がカインを縛りつけようとしているのかが分からない。それが分からなければ根本的な打開策にはならない。
カインの感情にはプラスの方向へむかうものが何もない。マイナスの、負の感情のみが日ごと、時間ごとに膨れ上がっていく。
だがそれは、何者かの意思がなければここまで異常に増幅することはないはずだ。
(そういえば、さっき……)
カインを捕らえようとしていた負の感情たち。
あれはいったい、何者が送り込んだ感情なのだろう。
(ゼロムスに近いけど、ゼロムスじゃなかった……)
は、と思い至った。あの月の地下迷宮、たしかにそういう存在があった。
(ゼロムスマインド──ゼロムスの影)
ゼロムスマインドは本体から離れて独自に行動する。いうなればゼロムスの精神の子供のようなものだ。それがカインにとりついているのだとすれば……。
(それが、この感情を膨らませている……)
では、本体はいったいどこにいるのか。
それはあまりにも明確であった。
(この中に……)
そう、カインに最も近いところに、その精神は存在している。そしてカインが魂だけの存在になった時を見計らって、絶望と嫉妬という感情を膨れ上がらせてカインを包み込んだ。最悪の場合、ゾンビーとして行動させることを考えて……。
(そうはさせない)
たとえ過去に何があったとしても、今では大切な仲間の1人。それを簡単に奪われるわけにはいかない。
(カインさんは必ず助ける)
彼の帰りを待っている人がいるのだ。
そして、自分もまたその1人なのだ。
必ず生きて、また再び話をするのだ。
(カインさんは必ず助かる)
リディアは集中した。そして、暗闇の壁に向かってよく目をこらす。
あそこだ。
あそこに、奴はいる。
(手段は、たったひとつ)
自分がそこまで行って、カインの精神に取り憑いている存在を滅ぼす。
無限に増殖している負の感情から自分を守りつつカインの魂を取り戻すのは容易なことではない。それは分かっている。
それでも、やらなければいけない。
ともにゼロムスと戦った戦友。
そして、故郷からやってきた、たった一人の仲間。
必ず、取り戻す。
(……行くよ、リディア!)
自分に叱咤し、全力で中心目掛けてつきすすむ。
直後に暗闇の手がのびてきてリディアを捕らえようとする。だが、そう簡単にはリディアは捕まらない。回避し、防護し、時には反撃もして暗闇の手を振り切る。
(ウィル・オ・ウィスプ!)
叫ぶと、暗闇の空間の中に光が広がった。そして一瞬だけ、その暗闇の手が侵攻を緩めた。その隙に、リディアは絶望と嫉妬の渦の中へと飛び込む。
(くううううっ)
さすがにその感情に全身を包まれると、いかに防護しているとはいえ不快感と虚脱感を強く覚えた。だがここで負けるわけにはいかない。ここで怯んでは、カインばかりか自分まで命の危険にさらすことになる。
だが。
(こんなに……っ)
1ミリ進むごとに圧迫感は強まっていった。絶望と嫉妬に押しつぶされて、流されてしまいそうだった。負けないために必死で精神を集中させても、2つの感情がそれを削り取っていく。
(そんな、いや、だ!)
自分の中に、負の感情が入り込んでくる。
防護幕の向こうから自分の精神に干渉してくる。
絶望が、入り込んでくる。
(わたしは……)
必死に抵抗する。
(絶望なんて、しない!)
自分は絶望などしない。
子供の頃から、そんなことは慣れっこだ。
いつも、何かに追われていた。
カインがお母さんを殺したとき、確かに自分は絶望した。
でも、その絶望があったからこそ今の自分がある。
仲間たちのおかげで、絶望に打ち勝つ自分になれた。
希望を信じて、前に進むことができた。
(絶望には負けない!)
リディアの人生は、確かに自分で切り開いたところがあったにせよ、環境の変化に流されていたというところも大きい。
だからこそ、目の前の事象に絶望することのない、許容量の大きい精神構造ができあがっているともいえた。
だが。
(……これは、なに?)
巧妙に自分の心に語りかけてくる負の感情。
それは、今まで自分が感じたことのない甘美なもの。
『それ』を欲しがっている自分がいることに、リディアは寒気すら覚えた。
(うそ)
絶望だけならまだしも、自分が。
(嫉妬……?)
自分が、誰かを嫉妬するなんて。
誰かを嫉妬する、なんてことが。
なんてことが、あるはずはない。
はずはない、のに……。
(これは……)
ミストの村。
赤く染まった。
炎で、そして──
血で。
母親。
真っ赤に染まった村と、母親……。
ローザ。
彼女の傍にいるのは……。
(嘘だ)
彼女の、両親……。
(違う)
自分は、1人。
(そんなことない)
彼女には……。
(いやだ。そんなこと、私、思っていない)
『同じ目にあわせてしまえばいい』
(違う。そんなこと思ってない)
『お前ばかり母親を殺されて、彼女にはまだそれがある。不公平じゃないか』
(そんなこと思ってない。あたし、違う!)
『焼け』
(いやだ! あたし、あたしそんなこと望んでない!)
『全てがなくなってしまえば、平等じゃないか』
(仕方ないよ。仕方のないことだったんだよ!)
『母親が死んだことすら、仕方のないこと、ですませられるのか?』
(そうじゃない。そうじゃないけど)
『この女はお前を哀れんだのだぞ。自分には両親がいるから、親を失ったお前を哀れんだのだ』
(それのどこが悪いの? 誰だって、親をなくした子供には優しいじゃない!)
『哀れむということが、優越感の裏返しだとしても?』
(そんなこと)
『この女が親をなくしていたら、お前を哀れんだと思うか?』
(そう、するよ。ローザは。きっとそうしてくれる)
『そうかな。お前に優しくすることで彼女が何を思っていたか、本当に分かっているというのか? 何故そこまで人を信用する? だいたい、お前は人など信用しているのか? あの日、全てが灰になったあの日に、お前は全ての事象を呪ったのではないか?』
(いやだ……やめて……)
『そして、その母親を殺した男の恋人は、ぬくぬくと両親の愛を受けながらお前に哀れみを送っている』
(いやあっ! やめて、もう、イヤッ!)
『この女の両親を殺せば、お前の母親の復讐になるのではないか? それ、試してみればいいではないか』
(こ……こん、な……)
嫉妬という感情。
そんなものを自分が持っているとは思ってもいなかった。
自分が誰かに嫉妬するなんて思ってもいなかった。
全てに満足しているなんて、これっぽっちも思っていない。
でも、ないものを羨んだことなどなかった。
たった1つのものを除いては。
(お母さん……)
涙が溢れた。
そこで、精神の集中が途切れた。
その隙間から、リディアの全身を負の感情が覆いこんだ。
(ひうっ)
衝撃は一瞬だった。
後は、黒い欲望にとって変わられた。
豊かに波打つ金色の髪。
家族、仲間、恋人……全てに恵まれた女性。
私の憧れ。
姉のような人。
でも……ローザは、自分をどう思っていたんだろう?
私に声をかけてくれたとき、ローザは何を思っていたんだろう?
(不気味な子)
私を抱きしめてくれたとき、ローザは何を思っていたんだろう?
(気持ち悪い)
そんなことを思っていた?
私のこと、嫌いだった?
(邪魔くさいのよね、あの子)
私……邪魔だった?
どうして?
私はずっと、ローザが好きだったのに。
ローザは、私が嫌いだった?
(嫌いよ)
嫌い……。
ローザは、私が、嫌い……。
『殺してしまえ』
「殺して……しまえ」
『焼いてしまえ』
「焼いて……しまえ」
『あの女を、殺すのだ』
「ローザを……殺す」
そうだ。
殺してしまえばいい。
私のことを好きになってくれないような人なら。
私を哀れむようなあの目。
あの目をくりぬいて、私のことを見られないようにしてしまおう。
異性を引き寄せるあの髪。
あの髪をむしりとって、誰にも見られることのないようにしてしまおう。
優しそうな父母。
あの父母を殺して、私と同じ想いを抱かせてやろう。
そう、あの女にはそれくらいがお似合いだ。
最後にあの女の顔を焼いてしまおう。
その醜さのまま、死んでしまえばいい──
『…………ダメよ』
だが次の瞬間、その負の感情は全て体内から追い出されていた。
(わたし、なに、を……)
今まで自分が考えていたことを思い出して、体が振るえた。
自分は。
自分は、なんということを考えていたのだ!?
『リディア……気にすることはないわよ』
再び、声が聞こえてくる。聞きなれた声。すぐ傍にある声。
(……おかあ、さん……)
霧が彼女を包んでいた。それは母親の別の姿。ミストドラゴン。
母親が、嫉妬という感情から自分を解き放ってくれたのだ。
『まったく……あなたは、いつまでたっても子供なんだから。あんな感情、吹き飛ばしてやらなくてどうするの』
(おかあさん……)
『あなたの中に嫉妬心なんてないわよ。だって、あなたの傍にはいつも私がいるんですもの……』
(おかあさん)
『さあ、あなたの友達を助けてあげなさい。敵の位置は……分かるわね?』
リディアは頷いた。そして、自分の意識を霧と同化させた。
(おかあさん、力を貸して!)
強く念じ、敵めがけて放った。
(ミスト・ブレス!)
その、一撃で。
ゼロムスマインドは完全に消失した。
(……おかあさん)
『よくやったわ、リディア。大丈夫。あなたにはいつだって私がついている。それを忘れないで……』
母親の意識が徐々に薄くなっていく。だが、もうリディアは悲しんだりしなかった。
何故なら、これからも母親はずっと一緒にいる。
そう、約束したのだから。
34.魂の彩
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