生きること。
 生きているということ。
 それがこうまで苦痛を共にするということだと気づいたのは、いつのころだっただろうか。
 ゼロムス戦後か。
 ミスト事件後か。
 違う。
 俺が、苦痛を覚えたのは、あの時。
 ローザを初めて見た、あの時……。












PLUS.36

苦痛







euthanasia or worry along






 ゆっくりと目を開ける。
 元の世界に戻ってきたことが、分かる。
 時間にしてどれくらいたったのだろうか。おそらくそんなにたってはいないだろう。だが、リディアは3日は眠らずに動いていたような疲労を覚えていた。
「……ひどい……」
 開口、そう呟いた。
 傍にティナとエアリスがいる。彼女たちがいったいどうなったのかと、こちらを見つめているのが分かる。
「こんなの、ない……」
 涙がにじむ。
 悔しさともどかしさ。その他、さまざまな憤りが胸の中をかけめぐる。
 自分がこんなにもカインのことを思っているのに、彼はそれを聞かなかった。
 命をかけてカインを助けにいったのに、彼はまるで自分の言葉を聞かなかった。
 彼が聞いたのは、彼自身の中にいるローザの影の言葉だった。
 命をかけた自分ではなく、彼自身が抱く幻想に救われたのだ。
 では、私はいったい何だというのか?
 彼は私のことを仲間とも何とも思っていないのか。
 私はこんなにも、彼のことを思っているというのに。
 あんまりだ。
 これでは自分があまりに、滑稽だ。
「……あなたなんか、だいっきらい……」
 リディアはためた涙を零さないように、ぐっと目を閉じるとカインから飛び下りて保健室から飛び出していった。
 呆然と、その後をティナとエアリスが、そしてブルーとリノアが見送った。

「……すまない……」

 その、背後で。
 ゆっくりと、彼は身を起こした。
 ティナが振り返る。
 エアリスが振り返る。
 彼は、彼女たちに微笑んだ。
「心配をかけた。すまない」
「カ……カインさん……」
 ティナが、呆然と口にする。そして、
「カインさんっ!」
 わっと泣きだして、抱きつく。エアリスも涙を浮かべ、両手で顔を押さえてカインの肩に頭を預けた。
「……まさか、本当に生き返るとはな」
 ブルーが珍しく驚いた様子で呟く。そしてリノアに執務室に連絡を取るように告げた。
「気分はどうだ?」
「……体が鈍い……」
 ブルーに尋ねられ、カインはゆっくりと答える。
「鈍い?」
「説明が難しい。体が思ったように動かないんだ」
「短時間とはいえ、死んでいたわけだからな。少し時間が必要なんだろう」
「迷惑をかけたな」
「僕は何もしていない。それより、彼女たちに言葉をかけてやったらどうだ。ずっと心配して、泣いて、そうしていたのだから」
 ブルーはそう言うと、リノアを連れて保健室を出ていった。
「……ティナ」
「カインさん。申し訳ありません、私のせいで。でも、でも……」
「ああ。お前のせいじゃないから気にしなくていい。こうして無事だったわけだしな。心配させてすまなかった。もう大丈夫だ」
「カインさん、カインさん、カインさん……」
 また泣きだしたティナの頭を撫でると、もう1人の女性に声をかける。
「エアリス。君にも心配をかけてしまった。すまない」
「勝手に死んだら、駄目だからね」
 エアリスは涙で溢れた目でうったえた。
「私の知らないところで勝手に死んだら、許さない」
「それは怖いな。では死なないように努力しよう」
「うん。ずっと生きていて」
 カインは2人の女性に囲まれながら。
 それでもなお、生きることへの罪悪感に苛まれていた。
(……俺は、生きていていいのか……?)
 泣きじゃくる2人の顔を見ながら、そんなことを思う。
(……幸せに……か。なれるのか……なれるといいがな……)
 ひどく他人事のように、そう考えていた。






 一段落してブルーとリノアが出ていくと、保健室には奇妙な沈黙が訪れていた。
 カインを挟んで、両側に絶世の美女がそれぞれ座っている。それはカインにとっても落ちつかないものであったし、彼女たちにたってもまたそうであろう。
「……2人とも、とりあえず今日のところは戻ってくれ」
 沈黙に耐えられず、カインがそれを破った。
「俺はもう大丈夫だから」
「もう少し、傍にいさせてください」
 先に答えたのはティナだった。
「……怖いんです」
「大丈夫だ」
「怖いんです。カインさんがいなくなってしまいそうで……」
 だがいくら安心させたところでその不安が消え去ることがないことはカインにも分かっていた。だからそれ以上強くは言えない。言えない、のだが。
(疲れるな……)
 さすがにこのような状態の中にいるのは辛かった。
 これで体がまだ癒えていないというのならともかく、動きが鈍いだけでほとんど五体満足なのだ。ベッドで上半身を起こして座っている。それだけでも落ちつかないというのに。
(……風を受けたいな……)
 体が風を忘れてしまいそうだった。
 特に一度生命機能がストップしてしまったせいか、体の諸感覚が鈍っている。すぐにでも風を感じないと本当に忘れてしまいそうだ。
「……っく」
 カインは鈍い体を動かしてベッドから降りようとしたが、それを女性2人に押し止められる。
「まだ動かないで!」
「お願いですから、カインさん」
 だが、こうまで行動を規制されるのはさすがにカインも黙ってはいられなかった。
「……少し、風に当たりたい。1人にしておいてくれるか?」
 有無を言わせぬ迫力で言う。だが、彼女たちも歴戦の強者である。強引にカインを押し戻し、睨みつける。
「まだ無茶よ、カイン。もうしばらくじっとしていないと」
「そうです……お願いですから、ゆっくり体を休めてください」
「……やれやれ」
 仕方なく、黙ってその場に止まる。
(……まるで監視だな)
 実際そうなのかもしれない。
 ティナの場合、目の前でその命を投げ出したせいもあって自分の身に対して過敏になっているところがあるし、エアリスの場合だと2度のウェポン戦でどれだけ自分が無茶をする人間か悟られてしまっている。
 とても1人にはしておけないというのが、2人の共通した感情なのだろう。
(……ローザ……)
 ローザだったら、自分のことを束縛するだろうか。
(するだろうな、確実に……)
 ならばいい。
 今日のところは、彼女たちに面倒をみてもらっても、いいだろう。
 せめてイリーナくらい、気軽に話せる相手だったならもう少し気が楽だったのだが。
 だが、風を受けたいというのも正直な気持ちだ。竜騎士は風の中にいるときが一番安らぐ。原罪を背負っている自分にとっては、唯一の解放の時間なのだから。
「風を浴びたい」
 今度は2人に頼むような形で言った。
「だから、カイン……」
「頼む、エアリス、ティナ。体が風を忘れてしまいそうで、怖いんだ。体の方は動きが鈍いだけで問題ない。そんなに信じられないなら、ついてきてくれてかまわない。それでも駄目か?」
 カインが強引にではなく下手にでてきたことで2人の心境もわずかながらに変化したようだ。目を見合わせて、少し悩んでから2人同時に頷いた。
「すまないな」
 何とか許可をもらって、カインは立ち上がった。
 自分が思っているよりも体がついてこなくて、一瞬倒れそうになるが、大丈夫と2人に笑いかけた。






 明らかに顔色が変わっていた。そのことが2人には分かった。
 テラスに出たカインは、顔色も言葉もなくし、愕然としてその場に佇んでいた。
(風を……)
 思わず涙が零れそうになった。
 あまりに自分の体が空虚で、風の中に自分がいることを感じられなくて。
 風と戯れることができなくて。
(風を、感じない……)
 肌を吹き抜けていく風を、掴めない。
 風を捕らえて、この身を委ねることが、できない。
 動悸が早まり、体が震えた。
(俺の体は……)
 今まで。
 竜騎士となって、今日この日まで。
 こんなことはなかった。
(風を……忘れた……)
 なんと表現すれば、この寂寥感を説明できるだろうか。
『まるで、友人と離れ離れになってしまうかのようです』
 誰が言ったのだったか。そんな言葉では説明できない。
 友人が、自分を無視して駆け去っていく。
 自分は、ここにいるのに。
 まるでいないものであるかのように、風は過ぎ去っていく。
 一人、取り残されたかのような寂しさ。
 この広大な空の中で、自分だけが仲間はずれで、置いていかれて。
 自分の存在だけが無視されているかのような、苦しさ。
 それが自分の生命が1度停止してしまったことが原因であることは間違いない。そのことを責めることは誰にもできない。
「……頼む……」
 傍にいる2人に、小さく震えた声で呟いた。
「1人に……してくれ……」
 あまりにも様子が尋常ではなかったが、その迫力に2人は押された恰好となった。
 テラスに1人立っていても、感覚は変わらなかった。
 風が自分を無視して通りすぎていく。
 それがこんなにも寂しく、怖いものだとは思わなかった。
 竜騎士にとっては風を掴むという感覚は五感と等しい。簡単にいえば、突然目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりすることと同義だ。
 生活に必要な技能の1つを、突然奪われたようなものだ。
 とはいえ、本当に耳が聞こえなかったり目が見えなくなったりするのと同義であろうか。一般人が風を感じないことはそれほど生活に影響を与えているだろうか。
 いや、そうではない。
 竜騎士にとっては風を感じないということがどれだけの意味があるか、それは竜騎士でなければ分かるまい。
 その結果が、今の体だ。
(……俺の体の動きが鈍いのは……)
 風を感じなくなったからだ。
 風を忘れてしまったからだ。
(気持ち悪い……)
 何かを奪われてしまった。
 暗闇の中に閉じ込められたかのような閉塞感と、翼をもぎとられたかのような喪失感、そして失ったことから本能的に襲いかかってくる恐怖感。
(こんな、ことが……)
 こんなことをしてまで。
 こんなことになっても。
 生きなければならないのか。
 幸せにならなければならないのか。
(……俺には……)
(……俺は……)
(…………苦しい…………)






37.揺れる宿星

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