二人は月の中にいた。
仲間たちとはぐれ、たった二人でいる。
気まずい空気が二人の間に流れていた。
今まではこんなことはなかった。常に誰か仲間がいて二人きりになることはなかった。
二人。
これほど重い空気が流れたことがあっただろうか。
『俺は幸せになどなれない。それとも、なることができるとでもいうのか?』
どういう会話の流れだったかなど、もう思い出せない。
ただ一つ、覚えているのは。
『いつか、幸せになれるから』
彼女が、そう返してきたことだけ。
彼女がいないと幸せになれないのに。
彼女がいてこそ幸せになれるのに。
『それなら──』
PLUS.45
誘惑の女王
must never forget guilt and memory
訓練施設。SEED候補生は無論のこと、ガーデンの生徒はここで技量の向上を図る。そのためここには常にモンスターが放し飼いにしてある。もちろん、ごくわずかの例外を除いてはほとんどが無害に近い弱小モンスターである。
だが。
(今の俺には、これですら手に余る)
無論、戦士としてのカインの技量は今なお一級以上のものがある。だが、常に風と共にある竜騎士は、それを失ってしまうとたとえ地上戦であろうとも普段通りの動きはできない。
今はエアリスとカタリナがいるが、もし戦闘になったなら自分は二人の足手まといになるばかりであっただろう。
(だが)
じっとしていられない。
焦り。それは分かっている。だが、元に戻るまでに長い時間をかけるより、戦いの渦中でそれを一気に取り戻してしまいたい。
不可能ではないはずだ。少数だが記録にも残っている。風を忘れた竜騎士が戦いの中で覚醒し、元の力を取り戻すということが少なからずある。
「カイン」
エアリスはカインの袖を引いて注意を促す。
「どうした、エアリス」
「何か、変……」
「変なのは分かっている。何があったかは分からないが……」
「もう。少しは乙女心を気づかってよね」
それには答えずカタリナの方を振り向く。
相変わらず鋭い視線を周囲に払っている。毅然とした物腰、元は国家に仕える近衛だということだったが、やはり、国仕えの気風がどことなく感じられる。
(腕はたつ。頭も切れる。だが……)
ブルーや自分と比べるとどうだろうか。やはり線の細さを感じざるをえない。ティナと比べても同じだ。
「……カイン」
どこからか、声が聞こえてきた。聞き慣れたというほどではないが、間違いなく知っている声だ。
「ジェラール?」
声を返す。だが、さらなる返事はない。
「気をつけろ、二人とも」
カタリナはそれに応じたが、エアリスはきょとんとした。
「どうして?」
「何か変だと言ったのはお前だぞ、エアリス」
カインはグングニルを構えて、二人と背を合わせた。
「ジェラール、どこだ?」
「……ここだよ……」
声のした方向に、カタリナとカインが進み出る。エアリスがその後ろだ。
「ジェラール」
ゆっくりと、その男は近づいてきた。
「……ジェラール……?」
確かに、その男はジェラールに相違なかった。姿形は。
「か……いん……」
その右手に握られている赤く輝く剣。見たことのない高貴な衣服。いや、黄金色の鎧。それはおそらく、皇帝ジェラール本来の姿であったのだろう。
だが、その中身はどうであっただろうか。
「ジェラール」
「カイン……」
その目が赤く光った。
「カイィイイイィンンンンンンッ!」
その剣を振りかざし、ジェラールはカインに襲いかかってきた。
「ジェラールさんっ!」
叫んだのはエアリス。だがカインには叫ぶこともできなかった。うまく動かない体で槍を持ち上げ、何とかその斬撃を受け止める。
「くうううっ」
線の細い人物のように思われていたが、意外どころかおそるべき膂力の持ち主だ。
「ジェラールさん、どうなされましたか」
カタリナが冷静に話しかける。だが、ジェラールは全く話を聞こうとはしない。
(……操られているな)
それが以前までのジェラールと同一人物であることは確かであった。ただ、意識だけがとらわれている。
カインには、それが分かった。
「カタリナ、エアリス! とにかく彼を眠らせる」
その意図を察してか、二人とも瞬時に行動を開始した。エアリスが大きく迂回して、大声を張り上げた。
「わあああああああああっ!」
腹の底から張り上げているということが分かる体勢で大声を上げる。それにはさすがにジェラールも反応したようで、一瞬意識が逸れた。
「もらった!」
それを狙ってカインが突撃した。だが素早くジェラールが立ち直り、カインの槍を受け止めた。が、その直後、カタリナが気配を消してその背後に忍び寄り、首筋に手刀を落とした。
「く……うっ」
ジェラールはあっさりと崩れ落ちた。念のため、縛り上げておいた方がいいだろうと、両手だけを後ろ手で括り付けておく。
「ジェラールさんは、いったいどうしたのでしょう」
「気にすることはない。操られているだけだ」
「だけ……って」
「それだけだ。操っている張本人を倒せば術は解ける」
カインは断定してジェラールをそのまま寝かせておいた。何にせよ、この場から動くわけにはいかない。ジェラールを殺されるわけにもいかないのだ。
(近くにいるだろう)
術のかかりかたからして、遠隔操作しているというわけではないだろう。恐らく直接洗脳し、行動させていたのだ。だとしたらすぐ傍に、隠れているはず。
「そこにいるのは誰っ?」
気づいたのはカインではなく、カタリナであった。素早くナイフを投げ、茂みに刺さる。そこから一つの影が飛び出してきた。
「まさか、気づかれるとは思わなかったわ」
女、か?
飛び出してきた者はまさに女であった。それも相当に魅力的であり、蠱惑的でもあった。だが、なによりもその人物には、この世ならざる者が放つ瘴気を感じた。
「何者だ?」
久しく忘れていた冷や汗を、カインは発していた。この世界に来てから恐るべき敵には何度か出会ってきたが、このように空恐ろしくなるのは初めてだ。
ただもしかするとそれは、自分の体調が原因であったかもしれないが。
「あなたはカインでしょ?」
悩ましく色目を放つ。だが、カインには通じなかった。
「そうだが」
「そちらはエアリス、それにカタリナ」
「それで、貴様は?」
女は、迫力を増して言った。
「ロックブーケ。七英雄の1人、と言ったら分かるかしら」
七英雄。
ジェラールから話は聞いている。ジェラールの世界で猛威を振るった者たち、世界を征服せんとし、争った強敵たち。
ジェラールはそこでその内の一人を倒し、後継者に国を託してこの世界へとやってきたという。
その中の1人、ノエルという剣の使い手の存在は確認されていた。
ロックブーケは、そのノエルの妹だという話だったが。
「七英雄か。まさか、一国の皇帝まで洗脳するとは思わなかったな」
「皇帝だろうが何だろうがかまわないさ。男ならね。男なら、みんなあたしの虜だよ。カイン、あなたもね」
「虜?」
カインはロックブーケを見つめなおし、吹き出した。それが彼女の自尊心を大いに傷つけたようであった。
「だとしたら、ジェラールは余程女に飢えていたとみえる。こんな性悪に引っ掛かるとはな」
「カイン」
言葉にしたのはロックブーケではなくエアリスであった。カインの言い方が気に食わなかったらしい。
「自分は特別だとでも思っているのかい? どうにしろ、あんただって男だろう?」
「まあ、男には違いないがな」
カインは苦笑した。
「女の色気で惑わそうというのであれば、不可能だ。諦めた方がいい」
「やってみなければわからないでしょう!」
何故かむきになっているロックブーケであった。
「お前には無理だ」
重ねて言うカインに対し、ロックブーケは念を凝らした。
「テンプテーション」
そのキィワードが発せられた時、カインの心に衝撃が走った。
ここは、どこだ?
気がつくと、見慣れない部屋。
青と碧のタイルがちりばめられた大ホール。
壁自体が光っているのか、明りもないのにはっきり周りが見える。
「来てくれたのね、カイン」
聞きなれない声に振り向く。そこに絶世の美女がいた。
「何者だ?」
警戒しながら尋ねる。
美女は金色の髪に白いローブ、そしてエメラルドグリーンの瞳を持っていた。ほっそりとした顔立ち。優しげな瞳。優雅な物腰。
誰かを、連想させる。
「私は、あなたに幸せをあげる者」
「幸せ?」
「そう。あなたの大切な人の変わりに」
「面白い冗談だ」
カインは笑った。
大切な人──ローザの代わりなど、誰にもできるはずがない。
「冗談ではないわ」
ふわり、と美女が宙に浮く。
「あなたは渇いている。幸せを求めている。幸せになることを夢見ている。だから、私がいる」
美女が足も動かさずにゆっくりと近づき、カインの頬に手をあてた。
「あなたを苦しめる者は記憶から封印してしまえばいい。それであなたは楽になれる」
「封印、だと」
「そう……苦しみを消し、私とともに幻想の楽園へ。さあ、行きましょう」
白い光とともに、意識が混濁する。
さまざまな記憶と感情が入り混じり、自分が認識できなくなっていく。
(あ、あ、あ、あ)
自分がぼろぼろに崩れていくのがわかる。
今までのことが、全て失われていく。
(ろ、ろー……)
「もう、その名もお忘れなさい」
──光が、消えた。
「そこまでのようね」
がくり、と崩れ落ちたカインを抱きしめていたのはエアリス。そしてその前にカタリナが立って剣を構えている。
「私を相手にするつもり?」
「敵であれば斬る」
「敵とは誰のこと? そこに倒れている男ではなくて?」
ゆっくりと、カインが目を覚ます。
「カイン」
エアリスは、その怪しい雰囲気に思わず身を引く。
カインはゆっくりと立ち上がり、虚ろな瞳でロックブーケを見つめた。
「目覚めたのね、カイン」
「……はい」
カインは緩慢に答える。
「カイン!」
エアリスが叫ぶ。が、カインの瞳に色は戻らない。
「くっ……ふふ、あはははは! さあ、カイン。最初の仕事よ、そこにいる二人を殺しておしまいなさい」
「……はい。ロックブーケ様」
カインはゆっくりと、グングニルを構えた。
46.金色の聖女
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