『いつか、幸せになれるから』
 俺の幸せは、ただ彼女といることだけだったのに、彼女はその俺の気持ちを知っていてそんなことを言う。
 彼女を奪って逃げることができたら。今度こそ自分の意思でそうすることができたなら。
 きっと俺は幸せになれるだろう。
『それなら』
 だから、俺は言った。
『俺と来てくれないか、ローザ』












PLUS.46

金色の聖女







promised land






 カインはグングニルを構えたまま走る。
「カイン、目を覚まして!」
 だがその目はうつろで、まるで反応しない。
「仕方がない。動きを封じる」
 カタリナは投げナイフを構え、カインと向き合う。
 地を駆ける竜騎士があと三歩のところまで近づいたところでナイフを放つ。避けられない至近距離で、四発の連射だ。
 だが、カインはそれを全て弾いた。
 さすがのカタリナも目を奪われた。竜騎士としての力は失われているはずだが、まさか意識を奪われて元の力を発揮できるようになっているのか。
「くっ」
 グングニルの槍がカタリナを襲う。速い。想像以上だ。なんとか体を反らせてかわすが、一歩遅ければ殺されていた。
「……く、くく、くくくくっ、楽しいねえ。仲間同士で戦うのを見るのは……ねえ、カイン」
「はい」
 答えて、再び槍を構える。
「カインッ!」
「あはははは、無理無理。アタシのテンプテーションにかかったら、どんな男だって思うがままなのさ」
 カインは虚ろな目で、エアリスを睨みつけた。






 恍惚感。まどろみの中にいるかのような、落ち着いた、優しい、幸せな心地。
 それだけではない。体の奥から湧き上がってくるかのような快感と充足感。いずれも、今まで自分が感じたことのないものだ。
(これが、幸せ、か……)
 自分が求めていたもののような気もする。
 そうでないような気もする。
 だが、それはいずれも過去のものにすぎない。
 今の自分は、これを求めている。
(ここには、嫌なことも、苦しいことも、悲しいことも、辛いことも、何もない)
 負の感情の中でだけ生きてきた自分にとって、ここはまさに天国だ。
 もう、どこへも行きたくない。
 このまま、自分の殻の中にとどまっていたい……。






「カイン、やめて、カイン!」
 グングニルを振り回し、カタリナに襲いかかるカイン。カタリナはなんとか回避しつづけているが、次第に追い込まれていく。
「くっ」
 カタリナは横に飛んでかわす。カインは体を向き直し、じっと間合いを計る。
「……これで力が落ちているのだとしたら、あなたはとんでもない槍士だな」
 カタリナはマスカレードを構えて呟く。
「私も、本気でやらなければやられる」
 彼女の瞳が本気になった。
「くくっ……いよいよ、本気になったみたいね。さあ、どちらが勝つのかしら?」
 ロックブーケが楽しそうに笑った。






『どうして、そんなことを言うの?』
 聞き覚えのある声が聞こえてくる。
『あなたは、そんな人じゃないもの』
 どこかで聞いたことのある声。
『私は、あなたを信じているわ』
 ふと、この幸せの世界が気だるく感じた。
 この声を聞いていると、何か、心の中が熱くなってくる。
『必ずかえってきてね、カイン』
 誰だ?
 俺を呼ぶのは、誰だ?
『いつか、幸せになれるから』
 幸せ。
 それは、こんなまどろみの中で安穏としていることではない。
 狂うほどに焦がれ、身を焼き尽くすほどの想いに捕らわれていた、あの時のことを言うのだ。
 ここにあるものは幸せではない。
 それは、嘘だ。
『いつか、幸せになれるから』
 幸せは、この声。
 故郷にいる、金色の聖女。
 たとえ奪ってでも、手に入れたいと思うほどの女性。
 あの女性の傍にいられるのなら、何があろうと自分は幸せなのだ。
『いつか、幸せになれるから』
 カインは、笑った。
「お前は卑怯だ、ローザ……」






 カインはグングニルを思い切り振り上げる。カタリナは横に跳んで回避した。
 だが構わず、そのままグングニルを放つ。
「なにっ」
 カタリナがいた場所の向こう。
 そこに、ロックブーケがいた。
「しまっ」
 彼女が気付いたときには遅かった。グングニルはロックブーケの左胸を正確に貫いていた。
「がはっ」
 血を吐き、その場に崩れ落ちる魔女。
「馬鹿な、この私が……貴様、術にかかっていないな!」
 カインは光の戻った目でロックブーケを見た。
「ああ。おかげさまでな」
「カイン」
 エアリスがその右腕に抱きついてくる。
「よかった」
「心配をかけた。だがもう大丈夫だ」
「目覚めていたのか」
「カタリナも、すまなかった。目覚めたのはたった今だ」
 彼女は肩を竦めて、カインが操られていたことを許した。
「な、何故──」
 ロックブーケは驚愕のため息をついた。
「残念だったな。俺に、そのような小細工はきかない」
 たしかに間一髪くらいではあっただろう。だが、結局のところ彼にそのような小細工が通用するはずはなかった。本当に愛する者が心に住んでいるのであれば、偽りの快楽や幸せなど取るにたらない。
 真の幸せしか、彼は求めていないのだ。
 それ以外の幸せなど、彼にとっては罰でしかない。
 そのようなものはほしくない。
 カインは真剣にそう信じていた。ロックブーケのその魔力の高さを知らずに。
「ばかな」
 ロックブーケは自らの魔力を知っていたからこそ、カインが“誘惑”に耐えきったことが信じられないのだ。
 彼女の能力は、一国の男全てを魅了してもなお余る。
 だからこそ対象を一人にしぼった魔法が破れることなどあるはずがなかった。
 どのような男が相手だとしても。
「こんな、こんなことはありえない!」
 カタリナが動き、その名剣マスカレードを振るう。簡単に、剣はロックブーケの腹を貫いていた。
「あぐ……こ、こんな……」
 カインは近寄ると、グングニルを引き抜いた。そして、その喉を貫く。
「ば、ばぐっふ」
 間抜けな声であったが、現実は悲惨であった。血を吐き、力を失って前のめりに倒れた。
「これが七英雄ですか。意外に呆気なかったですね」
 カタリナが感じたことをそのまま口にした。誘惑の魔法を受けたのがカインだけであっただけに、彼女には全くその脅威が分からなかったのだろう。
 たしかに恐ろしい魔法だったことには違いない。あのジェラールを簡単に支配下に置き、自分をも操ろうとした。ただ、この場合はカインにしても、大した驚異とは考えられなかった。少なくとも彼にとっては、あのテンプテーションは何度かけられたとしても破る自信がある。
「どうして効かなかったんだろうね」
 エアリスが無邪気に瞳を向けてくる。少しだけ、カインは罰の悪い思いを抱いた。
(ローザ)
 一瞬でも、その名前を忘れていた自分がいることに苛立つ。
 決して忘れるはずのない名前。
 自分が覚えていなければならない名前。
 次第に、苛立ちが募った。
 何があっても覚えていたい名前を、この女が奪った。
 奪った。
 一瞬でも自分から奪い、それを利用しようとした。
「カイン?」
 彼は槍を引き抜くと、上からその死体にたたきつけた。
「ひっ」
 その表情には、何も感情は映し出されていなかった。
 それだけに、余計に気迫が感じられた。
「落ち着いたらどうだ」
 カタリナが声をかける。彼は目を閉じ、呼吸を整える。
「ああ、悪かった」
「とにかく戦いは終わった。一旦上に戻ろう」
「そうだな」
 そしてカインは寝かせておいたジェラールの気をさまさせた。
「ジェラール、ジェラール!」
「う……ん」
 ジェラールは虚ろげに眼を開く。
「……カイン? ああ、そうか、僕は……」
 ジェラールは目を逸らした。何が起こっていたのかは記憶に残っているようであった。
「気にするな。操られている時の行動は、誰の責任でもない。その敵ももう倒した」
「ロックブーケを倒した?」
「ああ。だからもう大丈夫だ」
 ジェラールは頷いて立ち上がった。そして、その死体に近づく。
「ロックブーケか……」
「知り合いか何かか?」
「いや、面識はないよ。でもまさか、ノエルに続いてロックブーケまでやってくるとは思わなかった」
「やはり全員来ているのか」
「その可能性も出てきたかな」
「それにしても、お前が死ななくてよかった。魅了されてそのまま死ぬように命令されなくて、本当によかった」
「……」
 ジェラールはじっとカインを見つめた。
「ありがとう」
 礼を言われるようなことではなかった。だから訂正しようかとも思ったが、結局何も答えなかった。
「エデンの件が気になる。急いで執務室へ戻ろう」
 口にした言葉はそれだけであった。






47.失われた世界

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