月は変わらず、地上にいる者を見つめている。
 月の上に立つ男は、地上から旅立つ者を見つめている。
「どうするつもり?」
 優しい声が響く。
「ふむ。放っておくわけにもいかないだろう。あれは幻獣界の娘だ」
 男は杖を手にしたまま呟く。
「そう。よほどあの子のことを気に入ったのね」
「あれほどの召喚士は二度と現れまい。お前のところにも連れていく」
「そう。なら、あなたとは三千年ぶりに会うことができるのね」
 声は直接頭の中に響いている。
「その子に感謝しなくてはね」
「らしくもない。お前の言葉とは思えん」
「そうかしら? 私はずっとあなたに話し掛けていたわ」
 くす、と笑う声が聞こえる。
「愛しているわ、あなた、バハムート。早く会えることを祈っているわ」












PLUS.64

見えない景色







diva






『接点』から離れる。
 少しずつ、深く、深く落ちていく。
 いつもは心地よいだけのはずのその感覚も、今の彼女にとってはそれすらも、彼女を取り巻くものの全てが不快で不快で仕方がなかった。
 この苦痛から、逃れたい。
 だが、今の自分が何をしたところで、この苦痛から逃れることができないことは明らかだった。
 だから、ここへ戻ってきたのだ。
 緑色の髪の少女は、その不安定な大地に、膝を着いた。
 そこは、幻獣界。幻獣王リヴァイアサンの治める世界であり、幻獣たちの住まう世界。
 この世界と他の十六世界と移動することができる場所は、それぞれの世界に幾つかずつ存在している。それを『接点』と呼ぶ。海が存在する世界であれば、まず間違いなく海底のいずこかにその接点がある。その他にも幾つか『接点』が存在するが、彼女はその全てを知っている。彼女は『特別』だからだ。
 彼女は十六ある世界の全ての『接点』を知るただ一人の人間なのだ。
「リディア」
 薄水色の瞳をした女性が、彼女に声をかける。
「シヴァ」
 リディアは、久しぶりに出会った友人を見て、顔をくしゃくしゃに歪めた。
 そして、彼女に抱きついて、泣いた。
 子供のように。






 シヴァはリディアを家まで連れていき、彼女にしては珍しく温かい紅茶を差し出す。無口な彼女は、こうして相手の気持ちを落ちつかせることには長けているが、話し相手としてはやはり向いていない。リディアの方から何も言わない限り、ふたりはそのままずっとそうして紅茶だけを飲みながらテーブルで向かい合わせに座っていたままであっただろう。
 だが、シヴァはあらかじめ協力者を呼んでいた。
「やっほー。リディア、お帰りっ♪」
 シヴァの家に飛び込んできたのは、金髪碧眼の大人びた女性。少なくとも真面目そうなシヴァやまだ子供っぽさが抜けきれないリディアと比べると格段に。仕種と表情、そして美貌と色気。戦闘の能力は低いものの、面倒見のよさと頭の冴え、いくつもの特殊能力は幻獣界の中でも一目置かれる存在だ。
「セイレーン」
 もうひとりの友人が現れて再び泣きそうになったリディアを、セイレーンは優しく抱きしめる。
「大丈夫よ。もう大丈夫」
 セイレーンの優しい声が心に染み入る。
 リディアにとっては、セイレーンは失った自分の母親のかわりを果してくれた幻獣であり、シヴァは友人であり姉妹でもあった。
 いわば、ふたりはリディアの家族。
 ここは、リディアがもっとも安らぐことのできる場所であった。
「落ちついた?」
 リディアは真っ赤な顔と瞳で、恥ずかしそうに頷いた。
「何があったのか、話してくれるんでしょう?」
 セイレーンは優しく、だが厳しく、それを尋ねた。リディアは頷き、話しはじめた。
 セシルとカイン、ローザの関係。
 カインの死と還魂の法。心を閉ざしたカインの魂に、自分の言葉が届かなかったこと。
 自分にどれだけの力があるのか、分からなくなったこと。
 召喚士として挑んだエデン戦。だが、自分は全くといっていいほどに無力だった。
 何故自分はこんなにも無力なのか。
 何故無力な自分に、世界を救う使命などが与えられているのか。
 そして、リディアはこの幻獣界に戻ってきた。
「なんのために?」
 セイレーンから声をかけられた時、いや、ガーデンを出ると決意したあの時から、既に心は決まっていた。
「強く、なるために」
 そう。
 そのためにこそ、自分は幻獣界へ戻ってきたのだ。
 召喚士としての自分の力量を高めるために。幻獣の本来の力を発揮させることができるほどの力を手に入れるために。
 そして、幻獣王リヴァイアサンや幻獣神バハムートをも凌駕する幻獣を召喚することができるようになるために。
「それって、幻獣界の外側、異界の獣たちを支配下に置く、ということ?」
 それがいかに危険なことであるか、セイレーンもシヴァも当然のことながら分かっている。
 幻獣界というのは、単純に宇宙空間のようなものだ。時間の流れが早いところと遅いところもあるので、正確には四次元空間ということになる。そのような広大な空間、これを『幻界』と呼ぶ。
 この幻界の中で、核となる部分というと語弊があるだろうか、とにかく幻獣王たるリヴァイアサンの影響の及ぶ範囲を、幻獣界という。そして幻獣界とその外側の部分との間には明確な壁が存在する。これを『異壁』と言う。幻獣界の外側とはこの異壁によって完全に遮断されており、その外側である異界とは『幻獣門』を通らない限り出入りはできない。
 分かりやすく説明するならば、宇宙空間にぽつんと存在する地球の表面が『異壁』であり、その内部が幻獣界ということになる。そして幻界とは、宇宙空間そのものだ。
 幻獣界という世界を作っているのは、ひとえに幻獣王たるリヴァイアサンの力による。リヴァイアサンは異界に住む獣たちと互角以上の力を持ちながら、力ない幻獣たちを守るためにこの世界を構築し続けている。この世界を守るために、常時リヴァイアサンの力が使われ続けているため、戦場においてはリヴァイアサンは本来の力の半分も出すことができない。
 この幻獣界の中にいるかぎりは、人間といえども力ない幻獣といえども、リヴァイアサンの保護を受けられることができることになる。
 だが、ここから一歩でも出ると、そこは戦場だ。
 弱者が強者の糧となる無法地帯。
 強者同士は異界のバランスを保つために争いが起こることはないが、弱者は常に強者から狙われる危険を孕んでいる世界。
「リディア、それは」
「分かってる。この間の、ジハードみたいにうまく行くとは思ってない。でも」
 この戦いが始まる直前、リディアはイフリート、シヴァ、タイタン、ラムウを伴って異界、それも幻獣界にすぐ近くに陣どったジハードという獣と戦った。それは幻獣界の領土を拡張するための戦いでもあり、ジハードという脅威を取り込んで幻獣界の力を強化するための戦いでもあった。
 リディアを仲介として、ジハードはリヴァイアサンの下につくことを認めた。確かにジハードは強く、タイタンにいたってはリディアを守るために消滅寸前にまで陥っていたが、それでもぎりぎりで、犠牲者を出さずにジハードを仲間として迎えることができた。
 幻獣といえども感情がないわけではない。仲間に死者が出たなら、ジハードをこの幻獣界に迎えることはできなかったかもしれない。
「それだけじゃないわよ」
 セイレーンは、こと自分たちの安全という点については厳しい。なにしろ、セイレーンが力なき存在であるためだ。確かに身を守る程度のことはできるが、それでもジハード戦に向かったなら、最初の一撃でセイレーンは消滅していただろう。つまりは、その程度の力しかない。
「この間のジハードの時は、幻獣界のすぐ傍にいたからこそ、全員が協力体制を取れた。でも、今回は違う。それは、あんたの我儘。そうでしょう?」
 リディアは黙り込む。その通りだ。自分の身勝手につきあうような幻獣は誰もいないだろう。
 現実世界ならばいいのだ。幻獣たちは召喚士の力によって一時的に力を解放することができるのであって、存在が失われることは万が一にもありえない。
 だが、この幻獣界は要するに幻獣たちの実体が存在する場所だ。ここで幻獣たちが殺されたら、それはまさに彼らの存在が失われることになる。
 安全に暮らせる幻獣界の存在自体を守るためならば、いくらでも彼らは勇敢になれるだろう。だが、一人の我儘のために自分の存在を賭けるような精神の持ち主は、幻獣の中にはいない。
「最初から、そのことは分かってる」
「じゃあ」
「私、一人で行くつもり」
「自殺行為よ!」
 セイレーンは声を荒らげた。当然のことだった。
 召喚士と幻獣との戦いは、常に力の勝負だ。召喚士が幻獣の力を引き出す資質があるかどうかを幻獣は見極めなければならない。そのためには勝負、戦いあるのみだ。
 無論、幻獣が真の力を発揮すれば、人間など一瞬で滅ぼすことができる。だが、幻獣は人間と協力することによって、現実世界に出ることが可能となる。
 何故そこまでして幻獣たちは現実世界を求めるのか。
 それは、この幻界がいうなれば幻の存在でしかない、ということになる。この幻界に住む者たちは、まさにこの幻界においてこそ実体を持つ。だが、それは実体でありながら幻、本来存在しないものであるのだ。
 幻界の獣たちが、自らの存在が幻であるということを認めることはできない。もともと幻の中から生まれた幻獣たち。彼らはただひたすら自分たちが生きる、存在するためにだけ生きている。野性の獣と、そのあたりはさほど変わりはない。
 自分たちが生きているということを確認するために、幻獣たちは現実世界を目指す。
 すなわち幻獣は、この世界においては実体ではあるが幻、現実世界においては幻ではあるが実体だということになる。きわめて複雑であり、言葉の説明だけではリディアにしても完全に理解はできていない。
 ただ、それは本能のようなものだ。生きるために必要な行為である、としか説明がつかない。少なくともそうすることが幻獣たちの本質なのだということになる。
 それを、リディアはアスラから幼少期に説明された。当時のリディアには全く理解のつかないことであったが、今ならばある程度分かるようになってきている。
 幻獣たちは、自分たちが生きていることを確認するために、現実世界に行きたいのだ。
 だからこそ幻獣たちは召喚士を求める。より強い召喚士であればあるほど、自分たちの力をより強く現実世界へ現出させることができる。
 そして話は戻るが、そのための召喚士の資質を見極めるために必要なのが、戦いなのである。
 だが現実世界であればともかく、この世界においてリディアが幻獣と戦うということは、『リディアが』という点でも『幻獣と』という点でも著しくリディアは不利を被る。
 この世界は幻獣たちの世界であり、著しく幻獣の力が増大するということ。
 逆にリディアはこの世界にいる限り、召喚魔法を使うことができない。何故なら幻獣たちはこの世界にこそ実体があるのだから。
 従ってリディアは幻獣と戦うにあたっては黒魔法しか使えないということになる。
 それでも前回は仲間がいたからなんとかなった。だが、今回はどうか。
 仲間もいない、得意な召喚魔法も使えない、相手は現実世界で戦うよりもはるかに強い力を使え、しかもここにいるシヴァやセイレーンなど及びもつかない強者ばかり。
 自殺行為という言葉がまさに相応しい。間違いなく死ぬ。
「分かってる。分かってるけど、他に方法がないの」
 震えながら、声を振り絞る。
 そう、リディア本人にも分かってはいるのだ。自分一人の力では、何もできないことなど。
 それでも強くなるには、命をかける他に方法が思いつかなかった。
「王のところへ行きましょう」
 シヴァが立ち上がって言う。
「シヴァ」
「どちらにせよ、幻獣門は王の許可がなければ開けられない」
 シヴァはここで議論することの無意味さを伝えているにすぎなかったが、セイレーンにしてみるとその物言いは気に入らないようであった。
「あんた、相変わらずね」
「お互いさま」
 それでも仲がいいのだから、このふたりの関係もおかしなものだとリディアは思う。
「王に相談すれば、何かまた違う考えも出るかもしれない」
 シヴァがそう付け加えると、リディアもまた頷いて答えた。
「うん。王のところに行ってみる」
「私も行く」
 冷たい声でシヴァが言う。
「リディアを放っておくことはできないから」
 思わず、涙が零れそうになる。
 いつもは無口で何も言わないのに、どうして必要な時に必要なことをきちんと言ってくれるのだろう。
 リディアは思わず抱きついていた。
「ありがとう、シヴァ」
 シヴァは表情も変えずに、リディアの髪を撫でた。そして、ちらり、とセイレーンを見る。
「はいはい、分かってるわよ。あたしも行きます」
「セイレーン」
「あたしアスラ様苦手なんだけどなー。ま、仕方ないか。コトがコトだもんね」
「ありがとう、セイレーン」
「いいっていいって。別に王のところに行くくらいなら危険は何もないんだから」






65.見せかけの強さ

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