「どこからが私で、どこからがあなたなのか、もう判断することもできなくなってしまいました。似ている、というのは同一であることと本質的に近いのです。刻一刻と近づいてくる『いつか』、どこかで必ず会う日が来ます。傷つくこともあるでしょう。傷つけることもあるでしょう。でも、いつも笑顔でいてください。『いつか』会える日のために。会えた日に笑っていられるように。ゆるやかに満ちていく淡い光、小さな銀色の光。月の光がいつも、いつでもあなたの行く道を照らしてくださいますように」
──『ツキノウタ』詠み人知らず
PLUS.71
月の素顔
otherwise
こうして、順調に契約する相手を増やしていったリディア一行であったが、その旅もようやく終着点につこうとしていた。
リディア自身としては、この地でいくらでも契約を結びたいところではあった。だが、時の流れを無視することはできない。つまり、ある程度レベルアップし、自信がついたと判断できた時点で第十六世界フィールディに戻り、仲間たちを助けなければならないのだ。
この異世界はいくつかの地域に別れている。幻獣界を含めた四天使たちのいる地域は異世界の中でもほんの一握りにすぎない。だが、その地域のほとんどの獣と契約を果たした以上、これより先に進むことは規模の拡大を招き、還るタイミングを失うことになる。
ここで戻ることが賢明だとリディアは判断した。バハムートもそれを了承した。
「だが、リディア。最後にお前に会わせておきたい獣がいる」
バハムートはそう言ってリディアが戻りたいと言ったのを止めた。
幻獣界の外側からでは十六の世界へ行くための『接点』がない。幻獣界は弱者を守る場であるとともに、他の世界との『接点』の役割も担っている。
「安心しろ。これから会う相手がお前を元の世界に戻してくれる」
「そういうことでしたら。でも、最後に会う相手というのは、いったい」
「俺はもう予想ついちゃったもんね」
会話に割り込んできたのは、いつものごとくディオニュソスであった。彼は何かというと必ず口をはさみたがる。ジハードも前回の戦いでの借りがあったからか、あまり強くは抵抗しなくなっていた。
「予想?」
「ああ。バハムートの愛しいハニ〜、だろ?」
バハムートの妻。確か以前もそんなことを言っていた。バハムートは苦笑するばかりだ。
「まあ、あんたの奥さんを仲間にするってのは悪くないと思うぜ。いろんな助力を得たいと思うんだったらな。多分今後、リディアにとって一番信頼できる相手になるはずだ」
それは、バハムートより、ミストドラゴンより、ということだろうか。
「もう少し先へ行く。急ぐぞ」
バハムートの声で、一行は再び先へと進んだ。
到着した場所は、幻獣界のような巨大な天体であった。だが幻獣界と違うのは、幻獣界は天体の内部に獣の住む世界があったのに対し、こちらは何もないことだ。
岩だらけの、ごつごつした天体の表面。それはリディアにある景色を思いおこさせた。
「……月」
その呼びかけに反応してか、その天体は緑色に薄く発光した。
『そう。ようやく来てくれましたね、リディア。待っていました』
一行の頭の中に直接声が響く。
そして、天体がみるみるうちに収縮し、一人の女性の姿をとった。
「……お母さん?」
一瞬、過去に別れた母親の姿が思い浮かぶ。が、違った。面影の母親とはまるで似つかない。
だがそのような幻覚をリディアに見せたのは、おそらくはその女性がまとっている雰囲気が母親に似ていたから。
「あら、私があなたの母親に似ているのかしら、リディア?」
美人だった。
確かにディオニュソスが褒めちぎるのも分かる。リディアの目から見てもこれほどの美しさをもった女性はかつて目にしたことがない。まさに美の造形だ。
言葉に出そうものなら、その言葉の方が色褪せる。
それでも表現するのであれば、すらりと伸びた手足に白いきめこまやかな肌。熱が少しも帯びていない、血が通っていないかのような、体中どこをとっても同じ色。絵具を使ったとしても、ここまで同じ色で塗ることはできないだろう。そして高い鼻に細く優しげな目、口元は微笑をたたえ、髪は長い金色で、一本たりとも変にはねていることがなく、腰の辺りで綺麗に長さが統一されている。レース状の白い衣服も、彼女の神秘性を高めるのに貢献している。
目を奪われていた。
ディオニュソスは自分ほどの美人は他にバハムートの妻だけだと言ったが、それがお世辞であることがよく分かった。
この美しさは、余人に真似のできるものではない。
「久しいな。三千年ぶりだ」
「久しぶりね、バハムート。やはりリディアに感謝する日が来たみたいね」
くす、と微笑をもらす。その仕草まで美しい。
「さて……そろそろ本題に入りましょうか」
女性はゆっくりと近づいてきて、リディアの目の前に立った。
近くで見てもまるで美しさは損なわれることがなかった。呼吸をしているのかどうかもあやしい。まさに絵画のような美しさ。
「リディア。あなたの戦いは見させてもらいました。そしてあなたの現在の望みも。あなたの戦いはずっと見ていました。リディア」
「……あなたは、私を見守っていてくださったのですか」
「私は全てを見ています。地上の全ての出来事で私のあずかり知らぬことはありません。私は夜の世界に輝くものですから」
「月……」
「そうです。私は月の化身。十六の世界は全て私とつながっているのです。何故幻獣界が人間世界と『接点』があると思いますか? それは、私がバハムートに力を貸しているからです。人間世界に行きたいと願ったバハムートに、その『接点』を私が与えたためです」
「その世界も今はもうない。三二世界の一つだった場所だ。既に滅んでしまった」
バハムートは感慨深げに言う。
「三二世界が存在していたころからいる獣は多くありません。あなたと契約を結んだほとんどの獣は十六世界になって、しばらくしてからのこと。何しろ何十万年という単位で世界の収縮は起こる。この私でも、伝説の二五六世界の存在は知っていても、見たことはありません。私が見ているのは六四世界の頃からです」
世界は最初、二五六あった。
それが一二八となった。
そして六四となる。
三二となる。
そして現在、十六世界。世界は半分ずつ失われる。
「ここが限界です。私もバハムートも、三二世界の半分が失われるときは、半ば覚悟していました。大量の人命が失われても、世界が失われることで、大量の獣たちが同時に消え逝くことになったとしても。あの三二世界の半分、失われた十六の世界の代表者たちにその力はなかった」
「……失われる世界から代表者は選ばれるということですか」
「いいえ。全ての世界に代表者はいるのです。その条件は一つ。『世界に最も愛されている』ことだけ。ですが、前に滅びたときの代表者の中には、逆に世界の滅びを願う者がいた」
「そんな……」
「それが現実なのです、リディア。十六人の代表者が意思を統一するのは難しかった。でも今度は違う。今度は……既に六人の代表者が意思を統一している。あと二人。最も難しい二人ですが、可能性は前回よりもはるかに高い。そして、残りの二人を説得するのは、あなたの役割なのですよ、リディア」
「はい」
「第十六世界フィールディにはさまざまな役割を果たす人物が集まってきています。『指導者』もいる。『修正者』もいる。『守護者』はいませんが……代表者と変革者が役目を果たすまで、充分に持ちこたえられるでしょう」
分からない言葉が出てくる。だがリディアは尋ね返すことはしなかった。
教えてもらえないものは、今はまだ知ってはならないこと。
幻獣界暮らしが長いリディアはそれをよくわきまえていた。
焦っても仕方がない。少しずつ謎は解き明かされるものなのだ。
「私は、どうすれば」
「あなたはあなたのなさりたいように。でも、その前にやらなければならないことがありますね」
「……」
「分かりませんか。私も『獣』だということですよ」
ジハードとディオニュソスが身構えた。それは、戦う、ということなのだ。
「あなたと戦う……」
「そう。私も獣である以上、召喚士の資質を見極めるために戦わなければなりません。一つ断っておきますが、私は強いですよ。バハムートよりもずっと」
「さすがは姉さん女房だぜ」
ディオニュソスが茶々を入れる。が、既に誰も取り合えるような余裕はなかった。
「リディア……あなたは人間にとって最高位の魔法であるアルテマ、メテオ、フレア、いずれも使いこなせるようになった。四天使だけが持っている究極魔法アポカリプスも使うことができる。魔法使いとしても、そして召喚士としても、過去にないほどの力の持ち主でしょう。ですが、それは完成された強さではありません」
「完成……」
「そう。力は完成されて初めて意義があるのです。あなたはその段階にまだ達していない。魔法を使うことはできても、使いこなせていないのです。魔法に振り回されている、といえばいいでしょうか……」
「分かりやすく言ってやれよ。魔法を一発放っただけで魔法力がなくなってるようならやめた方がいいって」
ディオニュソスが言ってくれたおかげで、リディアもようやく分かった。
前回の戦いを考えれば分かる。ガブリエル戦では連続魔を放っただけで魔法力がつきていた。ミカエル戦でもアポカリプスを一発はなった段階で限界が来た。
それでは、駄目なのだ。
「どうすれば……」
「簡単です。限界を引き伸ばすこと。それができればあなたはマジック・マスターになることができます。ですがそれには多大な精神力が必要になります。私の試練は、その精神に負荷をかけ、それに打ち克つことができるかどうか。……やらない、と言っても聞きませんよ。バハムートが必ずあなたをここに連れてくると言ったのですから。私は、少々あなたに嫉妬しているのです、リディア。バハムートが私のことよりあなたのことを大切に思っているから」
「そんなことは……」
冷たい視線を受けて、バハムートは言葉を封じられた。
「大丈夫です」
リディアは苦笑して答えた。
「私は、強くなるためならどんな試練でも耐えてみせます」
「その理由はなに?」
「理由は、自分が強くなって──」
「見せかけの理由はいりません。私が知りたいのは、あなたは誰に認めてもらいたいのか。それを知りたいのです」
「誰に……?」
「そう。あなたが『命を預けてもいい』と思っている相手は誰なのですか?」
「それは……」
「それが分からないうちは、あなたはこの縛から逃れることはできないでしょう」
す、と女性の右手が上がった。
瞬間、声にならないほどの苦痛がリディアの全身を襲った。
目が見開かれ、声を大にして張り叫ぶ。
が、それは声にならず、ただ激痛だけが全身を駆け巡る。
それなのに金縛りにあったように倒れることもできない。
(あ、あ、あ、あ)
そう、この衝撃には記憶がある。
カインの精神世界。あの、魂を直接揺さぶる衝撃!
精神の『核』に直接響く苦痛。
(私は、負けない)
こんな苦痛は、既にもう経験済みだ。
どんなことがあっても、自分は負けない。
それだけの自信と強さを既に自分は持っている。
それを揺ぎ無いものにするための、これは試練なのだ。
(負けない!)
でも。
誰に、負けないというのだろう?
自分が敗北を味わったのは二度。
最初はカインが自分を仲間と、命を預けられる相手と認めてくれなかったとき。
それは自分の存在価値が、自分そのものではなく単に代表者として、召喚士としてのものでしかなかったということが浮き彫りになったからだ。
二度目はアセルスが支配という方法でエデンを従わせたとき。
それは自分の力が及ばず、自分と対立する方法でエデンを倒したことに対する自分への無力感からだ。そして、支配という方法を使っている女性がブルーという命を預けられる相手を伴っていたということもまた二重の衝撃だった。
自分がほしいもの。
それは揺ぎ無い力と、命を預けられる相手。
この二つなのだ。
負けたくない。
二つとも手に入れたい。
力は既に手に入れつつある。
だが、相手は?
自分が命を預けられる相手は、いったいどこにいる?
ふと。
一人の男性の顔が頭に浮かんだ。
ああ、そうか。
私は、この人を助けたいのだ……。
72.戦場へ
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